雲と空

空(至福)の中で雲(一過性の幸福)を探すというギャグ

偽りの私(雲)は空(至福)に気づかない

我々(雲)が存在できるのは空(至福)があるからです。空(至福)がなければ雲(我々)が誕生することもありません。我々はこの空(至福)で生まれ最初はこの空(至福)を感じていました。徐々に徐々に自我が形成されこの空(至福)を感じることができなくなり結果この空(至福)の中で空(至福)の代替品(雲)を日々探すという愚かな行為をしているのです。

空(至福)から閉ざした存在『私』

私とはこの空(至福)から完全分離(錯覚)していると思い込む存在です。ゆえに至福に飢え、、私はあらゆる雲(一過性の幸福)を探し回っているのです。ですがこの私が得ることができる雲(一過性の幸福)は雲ゆえに現れては消えていく運命にあるのです。私は何か対象(雲)を探すことが習慣になっているために車、家、マンション、パートナー、地位、名誉、家族、、、と対象を次々に求めは次にいくという道を歩みます。本当はこの雲(対象)が存在する場(空)にこそ至福があることをすっかり忘れてしまったからです。

私が消えれば

結論から言えば私(雲)が消えれば即空(至福)に戻るのです。私とはそもそも存在などせずあると思い込む思考、感覚でしかありませんからないことが証明されれば存続できないのです。私がないことを証明するという前代未聞の行動がこの空で起きた時、、、私が消えるのは間近です。この空に存在している雲は全部が全部現象幻であって実在する存在は皆無なのです。そのことが分かってきますと私(雲)だけが実在するという理屈が無理があることが分かります。

渡す世間は鬼(雲)ばかり

自我(雲)の延命作用

自我はこのドラマでは好んで被害者になろうとします。被害者になるということはこの私は確実に居ることを証明できるからです。医療ミス、金銭トラブル、ストーキング、、、なんでもいいのですが被害者という周囲から間違いなく認められる地位を獲得したいのです。何かを達成して地位を得るよりもはるかに簡単に自己を証明できるのです。自我は幻ゆえに、、その存在を証明してくれることならば何にでもしがみ付くのです。渡る世間は鬼ばかりというドラマがありますが毎週毎週誰かが被害者、加害者になることで自我の存在を明確にしているのです。そしてなぜそこまでしなくてはならないかと言えば自我とは非連続性の存在つまり雲なのです。

時に加害者(雲)、時に被害者(雲)

渡る世間は鬼ばかりでは出演者が上手に交代しながら、、加害者被害者役を繰り返していきます。時に加害者、時に被害者、、と回りに回っていくのです。重要なことは常にどちらかの役をやっていること、、やっていれば自分という存在を証明できるからです。ですがなぜ毎回毎回忙しくそれをやるかと言えば自分を証明し続ける必要があるからです。つまりドラマを引き起こしていないと自分を証明できないということこそが本当は幻想である証拠なのです。

空(本当の自分)以外は全員幻雲

この世界において空以外に絶対的な存在は居ません。空に浮かび上がる現象の全て(人、物、思考、感情)は現れては消えていく幻雲です。本当はそれが分かっているからこそ人はお互いの存在を記憶に留め、、幻ではなく絶対であると相互に錯覚しあっているのです。錯覚共同互助組合です。この動き(雲)が自我(雲)同士で起こるのです。

称賛されるよりも被害者は簡単

大谷翔平のようになれば自我は大大大満足で、、誰も大谷翔平の自我を幻とは思わないでしょう。ですがこれは最大限の努力が必要になり手間がかかるのです、そこで自我は被害者になり簡単に自身の存在を証明するということを学習したのです。あれ???私の存在薄いかも????そうだ被害者になろう!!!です。この動きを見抜いた時被害者になるという自我の動きが止まります。

夢即是空、空即是夢

夜見る夢も雲

毎晩見る夢も完全に雲です、現象です、、夢の中では主人公が現れあらゆるドラマが湧き上がりますが全部が全部雲(現象)です。夢の中では時間(雲)も現れ空間(雲)も現れますよね、そして長時間に渡ってドラマが湧くでしょう、全部が全部雲(現象)です。そして朝目が覚めたその時、、夢(雲)は消え去ります。夢の中の自分(雲)はどこに行ったのでしょうか????消えたんです、だから雲なんです。夢の中で現れた思考も感情も全て雲(現象)です。

この現実も雲

ではこの現実はどうでしょうか???この現実も全部雲です、、この私が発生し、時間が発生し、空間が発生していますよね!全部雲(現象)です。友人も仕事仲間も、親戚も、家族も、、全部雲(現象)です。その中には価値観という雲(現象)も現れその価値観はこのドラマに投影(雲)されます。この現象の全てが雲です。

全部が雲と見抜けたら

全部が全部雲(現象)と見抜けたら、、雲(目標)を追いかけたり雲(後悔)に思い煩うという雲の行動を辞めちゃうチャンスです。雲(偽りの自分)の活動は実は雲(思考感情)を大量発生させる動きなのです。そして本当はこの私(雲)が一番求めているのは雲(目標、一時的な幸福)ではなく空(真のやすらぎ、愛、平和)なのです。ところが偽りの私(雲)として得ることが出来るのはどこまでいっても雲(一過性のもの)しかないのです。この気づきは雲(一過性のもの)への執着が消え失せ空(真の幸福、やすらぎ)にベクトルを変えるチャンスです。

雲(私)の終焉

詐欺師

私とは、、この五感を使って環境に気づき、自由意志を行使してこの体を守っていく存在でした。ところがこの気づきは私のものではなく、、気づきが最初からあったことが証明されました。さらに自由意志とは名ばかりで実は勝手に湧いてきた思考でした。。。この証明から「私」は詐欺師の烙印を押されてしまったのです。そうなるともう私に関心が集まることはありません、芸能界から関心が消えた「ショーン○」さんのように誰も見向きもしなくなるのです「私」に。すると私(雲)は空に自然と再吸収されます。

私(雲)が空に再吸収されると

私が空に再吸収されますと、、、もう私がこの空には漂わなくなります。すると私の人生(雲)も消えていきます。そこからはこの体がただ経験をしていく、、という状態になります。そのまま「私」が抜け落ちるのです。勿論便宜上は私は現れますがそれは全現象に気づく「私」ではなく、、、、名前だけ、、、幼少期の軽い軽い日々が始まるのです。

将来を不安に思うことができない

いまここに全部があって、、私がそれを支える空であることが分かって、、、将来不安とか逆に難しいのです。現象の全存在である私が、、、、老い先が心配で、、、、、とはなりにくい、、、はっきりとこの現象の背景、スクリーン、空であるという自覚が芽生えることで、、、現象(雲)を捕まえようというモチベーションが湧かないのです。そしてこの私が何者かになるという思惑は完全に消えます。期待もなく不安もない、、真の安らぎ(空)が現れるのです。

気づき(雲)の中で現象(雲)は起こる

私(雲)は何にも気づいていませんよ

空がありその中で雲(現象)が生まれた瞬間から気づき(雲)が生まれました。雲(現象)とは実は空の投影であり、、その瞬間気づく(雲)が生まれたのです。この気づきは「我あり、存在、意織」などと呼ばれます。この時点ではまだ偽りの私(雲)は発生していません。この中にこの体(雲)が発生し、、この体の中には自分が居るという思考感覚(雲)が生まれたのです。そしてこの雲が現れることで様々な感情(雲)思考(雲)が発生していくことになります。この一連の流れを人生と呼びます。

私(雲)とは

私とは、、空と雲の発生による気づき(雲)を自分が気づいているという錯覚(雲)を所有する存在(雲)です。私とは壮大な大勘違いをする存在なのです、、、壮大な大勘違いですから、、このストーリーはなかなか辛いのです。気づき(雲)の中で私(雲)が生まれたにも関わらず私(雲)が気づき(雲)を所有するという大錯覚(雲)が生まれてしまったのです。ただし空にとってはどうでもいいこと、、空にとっては全雲(現象)は完璧なのです。

私(雲)がある限り

この空に私(雲)が発生しますと、、同時に苦しみ、痛み(雲)が発生します。そして私のストーリーとは苦しみ(雲)発生システムなのです。このシステムに良否はなくただそのようになっているだけです。ですがこのシステムを俯瞰できるようになりますとこのシステムを続けたいとは思えなくなります。そこでこのシステムの解体が始まるのです。このシステムが起動するにはこのシステムが無意識の中で行われる必要があります。なぜならば「この私が居る」という観念に支えられてこのストーリーは成り立っているからです。主人公不在のストーリーは成立しないのです。

主人公の嘘がバレると

この私が実は嘘だった、、ということが分かりますと、、このドラマは崩壊し始めます。主人公がボヤけたドラマは保持されにくいのです。あなたは主人公がはっきりしない映画を二時間観ることができますか???無理ゲーです。ですからここからこの私ドラマは崩壊していくのです、私ドラマへの執着関心が薄れていくのです。かといってこの体(雲)を雑に扱うということも起きません、ただ偽りの自分(雲)に関心が無くなるだけです。

空(本当の自分)はなぜ雲(偽りの自分)を消さないのか???

雲(偽りの自分)でいるのが辛いなら

雲(偽りの自分)が存在し続けるのが苦しみならば、、なぜ空(本当の自分)はこの雲(偽りの自分)を消し去らないのでしょうか????雲は全部消える運命にありますよね?????残念ながら、、上空に浮かぶ雲に良い雲悪い雲などないのです、、どれほどの苦しみ(雲)が大発生しようと、、、それも完璧な雲なのです。この世界の雲(出来事)に優劣を付けるのは雲(偽りの自分)です。つまり空(本当の自分)にとっては全て完璧な雲なのです。

完璧を消し去る必要がない

本当のことを言えば空には雲を消し去る力はないのです、、この雲は放置しこの雲は消去、、、そのような取捨選択はあるはずがないのです。空はただそこにあり、、そこから浮かぶ雲に気づくという現象(雲)が起こるだけです。もっと、もっと言えば空には動きは全くないのです、、もしも空に動きがあったら、、時間が発生し空間が発生しと空は時間空間の産物になってしまいます。空は完全無欠、動きはなしです。

この世界は全感情、全思考が漂う(雲)場所

苦しい(雲)は発生できない、辛い(雲)は発生できない、、、だとすればこの空は無限を提供する場所では無くなってしまします。この空(本当の自分)は無限の現れ、無限の現れを提供する場です。ですから苦しい、悲しい、辛い、楽しい、嬉しい、、、全感情(雲)全思考が漂うのです。これが完全な自由です。そしてそれを生み出すきっかけになる偽りの自分(雲)を消し去ることもないのです。

分離感覚を楽しみ統合感覚も楽しむ

この空(本当の自分)ではどこまでも分離感覚(雲)を味わうこともでき一方統合感覚(雲)も味わうことができます。しかしながら偽りの自己(雲)が経験する全ては快楽と苦しみの両極でしかなく、、ここには真の安らぎ(空)は存在しません。そしてそのことは空(本当の自分)から気づきが起きます。偽りの自分(雲)が織りなす快不快の両極では一生真の安らぎ(空)には至れないことを悟り、、そこから空への帰還を求めるようになるのです。そしてこれも雲(現象)として起こるのです。

空(本当の自分)として雲(現象)を楽しむ

この世界の全て

この世界の全て見える全ては雲(現象)です。現れては必ず消えていきます。どのような悲惨な事件(雲)もどれほど盛り上がったイベント(雲)も次々に現れ消えていくのです。この偽りの私(雲)にもあらゆる出来事(雲)が起こり続けますがそれもどれも現れては消えていきます。偽りの私(雲)はこの世界であらゆる経験を積みその経験を自分のものとして捉え価値観(雲)を築いていくのです。この価値観(雲)は空を覆い、、この世界をその価値観(雲)を通じて見るようになるのです。そこには空はなく薄い雲(価値観)の層越しの世界が広がります。

あまりに価値観(雲)が分厚くなると

この価値観があまりに分厚くなっていきますと空は完全に隠れ重い重い暗い世界になります。この時偽りの私(雲)はまさか自身の価値観(雲)が影響を与えているなど全く気づきません。小さな子供時代よりもやけに空が暗いなーぐらいは気づきますがそれが自身の価値観(雲)が影響するなど全く気づけないのです。ですが人生を歩むに従ってこの暗さがましていくことから、、徐々に生き方に自信がなくなっていくのです。

あれ????自分で暗くしていないか????

ある時ふと海外のドキュメンタリー映画などを見ると、、、全く文化的ではない暮らしをしている人々が、、晴れやかな顔で呑気に暮らしています。。その時、、何か違和感を感じるのです。。。あれ???自分が信じる価値観(雲)って本当に自分を幸福にしているのだろうか???です。自分の価値観(雲)を俯瞰する瞬間です、本当の自分(空)から雲を眺める瞬間に戻るのです、ふいに。

自分(雲)を客観的に眺めたのは誰だ????

なんだか自分(雲)の価値観(雲)で自分を不幸にしていないか?????この気づきは偽りの自分(雲)にはできない芸当です。この気づきを可能にするのは空(本当の自分)だけです。この気づきは大きなパラダイムシフトを起こします。自身の価値観(雲)を疑うようになり、、価値観を作り出した自分(雲)をも疑うようになるのです。そうなるともうこの流れを止めることはできません、、徐々に徐々に雲(偽りの自分)ではなく空(本当の自分)として現象(雲)を眺める方向に進みます。

自我(雲)保存の法則

記憶に気を付ける

自我とは本当は存在しないので過去に完全に依存しています。過去がなかったら自我は存在できません。その証拠に記憶喪失になれば自我は消えます。ですから普段一人で過ごしている時、あらゆる記憶が蘇ってくるはずです。これぞ自我(雲)保存の法則です。もしくは将来に関する不安です、、将来こんな風になりかもよという思いは全部この自分に降りかかってくるわけです。過去の記憶、将来への不安を駆使してこの自我保存の法則は機能するのです。

自身は空であるという概念

自身は本当は雲ではなく空である、、それを概念で理解したところで、、過去の記憶、将来への不安が押し寄せ、、この自我(雲)を圧倒的に保持しようとする動きが起こります。考えてみてください、もしも街のチンピラに絡まれたり、盗難にあったり、誰かに裏切られたり、そのような事件があれば自我を絶対に意織するはずです。ところがそのような事件は実際には起きないので、、過去の記憶を利用したり将来の不安を利用するのです。こうして自我(雲)保存の法則が動くのです。

山に篭るのは合理的

かつては悟りを開くには山に篭って、、というイメージがありますがこれは当然と言えば当然なのです。なぜならば知人や家族とのコミュニケーションはどうしても自我を意織せざるをえないからです。友人知人はこの体の中に自我が居る前提で話を進めますからこちらもそれを意織しながらの会話になります。自我の嘘を見破りたいのに自我をイメージしながら会話をしなくてはいけません。山に篭れば敵は記憶のみですから、、自我の嘘を見破るには効果的です。

現代は

現代は山に籠らなくても書籍やYOUTUBE、ブログと様々なメディアを通じて悟りに関するメッセージを得ることが出来ますから昔に比べてはるかに悟りを開きやすい時代です。悟りとはこの偽りの自分を見抜く作業であり覚者は偽りの自分ではなく全体、空からのメッセージを直接届けてくれます。見かけ上は人間の体(雲)ですがそのメッセージは空から起こっています。

記憶の全ては雲(自我)を再生させる

ある記憶が、、、

記憶ってなんでしょうか???間違いなくその記憶には自分という存在がいて、、この自分の存在を確実なものにします。あの時自分はあんなこと言ったなー、こんなこと言ったなー、、、友人同士で集まればあの時のお前はあんなバカなことしたぞ!!!お前こそ酷かったぞ!!!、、、この中には確実に自分という存在が登場するのです、、これによって自我はやっぱり俺は存在する!!!という感覚を覚えます。

一人でいると、、、

一人で居るときは相手がこの自我の存在を認めてくれないですから、、自身で自我を維持しなくてはなりません。そのため過去の強烈な後悔、過去の強烈な怒りドラマなどを再現するのです。するとそこには自分が必ず登場し、そしてさらに感情も起こるのでリアリティがあるわけです。暇になると苦しくなるのは、、強烈に嫌な記憶が蘇り強制的に自我保存の法則は働くからです。

自我保存の法則を完全に頭に入れる

自我を保持するための動きを自我保存の法則と称せば、、、実はこの法則はそれほど複雑ではないことに気づきます。将来への不安、過去への後悔、憎むべき相手とのドラマ、愛すべき人とのドラマ、つまり感情が伴うドラマを思い出しもしくは妄想して、、自我を登場させるのです。関心が行くだろうドラマでなければ入り込めませんから、、その時その時一番感情が入るドラマが湧き上がっていきます。これによって自我は絶対的に保持されるのです。

空だという認識が時間と空間を消し去る

雲ではなく空ならば

もしも私の本質が雲ではなく空であるという認識に切り替わりますと、、もう時間という概念は消え去ります。なぜならば空は一ミリたりとも微動だにしない存在であり、、時間がもしもあったとしても全く同じ状態が続くだけになるからです。その状態で時間という概念は消え去るわけです。さらに空間という概念も消え去ります。なぜならば雲は変幻自在に移り変わるので雲の大きさに応じて毎瞬ごとに空の大きさも変わるわけです。空間という一定の大きさという概念は空の前では崩れ去るのです。

徐々に起こるパラダイムシフト

私たちはあまりに長い期間この体この思考を自分自身と捉えてきたがゆえに、、このパラダイムシフトは簡単には起きません。常に記憶からあらゆる事件やストーリー過去の友人等との人間関係が思考として湧いてきてこの私を保持しようとします。記憶が自我の保持に強力にことを起こすのです。何かを思い出した瞬間、それは間違いなくこの私と誰かのストーリーであり再びドラマに引きずり込まれるわけです。過去とはこの自我の絶対的存在肯定です。

ああやられた、こうやられた

特に被害にあったという感覚は自我を強烈に再生させます、悔しかった、むかついた、怒り、後悔の感情は、、自分の存在を思い出させるのは効果的でしょう。だからこそあらゆる悔しい記憶が起こり自我の存在を強烈にアピールするのです。この手口に気づきましょう、気づけばそこに引きずり込まれなくなっていきます。