自由意志

最終回答

自由意志も物質も幻

自由意志も物質世界も構造上ありえない、不可能なのは何度もこのブログで解説してきました。構造上不可能なのです。どちらも100%「在る」ように感じる「実感」できます。ですが100%実在しません。これを幻と呼びます、蜃気楼と呼びます。では我々は今後、、この実感できる自由意思とどう付き合えばいいのでしょうか????もしもあなたが仕事で大失敗をしても「自由意思」は存在しないのですからそれはやらされた、、になります。これが真実です。ですが取引先には「自分の全責任です」と伝えます。本音と建前が生まれます。

本音と建前

彼女にとんでもない失言を放ってしまいました、本音では真実では、、「自由意志はないから俺の責任ではない」になります。ですが建前では「全責任は自分にあります」になります。180度違う発言を伝えることができます。真実では本当に本当に私は何一つ失言ができないのです、ですが、、、周囲から見れば、、完全なる失言を放ったのが私です。ここを抑えます。ここ最重要ポイントです。

しょうがない

全部が全部しょうがないになります。超無責任男です、、、超超無責任極まりない人間です。ですがこれが真実なんです、これが事実です。そして周囲には「全責任は私にある」と伝えます、、世間ではこれが常識だからです。そして「周囲のミス」には「全部しょうがない」が本音になります、、ですが建前上叱る、注意する、は必要かもしれない、、そこはケースバイケースです。そのような行動をしていますと周囲から「人格者」と尊ばれるでしょう、だって心では相手を完全に許しているからです。

悟り

真実は「多くの人が思っている常識」と真逆です。だから真実をそのまま伝えればただ争いが起こります。真実を知る側は徹底的に相手に寄り添う優しさが必要になります、そういう意味では責任重大です。そして徹底的に寄り添いながらも「相手」は何かに気づきます、この人は何かを知っている、、となります。そこが真実の拡散の一口になります。ですが真実は決して広めるべきモノではありません、真実によって救うべき人は最初からいないことも既に分かっているからです。だからこれはお遊びです。

自由意志を斬る

バッサリ

我々は100パーセント自由意志を実感しています。コーヒーにするか紅茶にするか100パーセントの実感でどちらかを決めることができます。パンにするかご飯にするか100%の実感でどちらかを選べるのです。ですがにも関わらず「自由意志はない」のです。意味不明ですよね!!!!砂漠の真ん中に水たまりの蜃気楼が100%の実感で確認できます。100%です。ですがないのです。この世界ではこれは十分にありえるわけです。自由意志とはまさにその一つ、100%実感できるが100%実在しないのです。

決める

コーヒーに決めた!!!!この決断を起こすには「脳の活動」が必要です。脳を活動させるには脳細胞の動きが必要になる。脳細胞を動かすには「自分」という存在が必要になる。では自分を動かすにはどんな「存在」が存在するのでしょうか???「自分を動かす存在」です。では「自分を動かす存在」を動かすにはどのような存在が存在するのか????『「自分を動かす存在」を動かす存在』です。では『「自分を動かす存在」を動かす存在』を動かすにはどのような存在は存在するのか???[『「自分を動かす存在」を動かす存在』を動かす存在]です。、、、つまりこの世界では「初動」というのを行える存在は存在しないのです。

自分とは初動を行なっているされてきた幻

そうです、、自分とは「初動を行なっているとされてきた幻」なんです。ですがその存在は存在しえないのです。初動はこの世界では「起こり得ない」わけです。だから自分はいません、構造的に自分って存在できないのです。ただし「本当は何もしていないが便宜上の名前」としての「自分」は存在できます。何もしていないが「名前」として存在する存在です。これなら矛盾がありません。

急に寂しくなりましたけど

「自分っていうのが実は居ない」という説明を受けると急に寂しくなりますが????なぜ????そうです、、なんか拍子抜け、腰砕け、ガックリです。そうすると「コーヒーにする!!!」は誰が決めているんですか?????誰も決めずに「その思考は起こった」のです。因果の連鎖ではなく「ただ起こった」のです。自分で決めたという「実感」は100%起こりますが自由意志は100%「実在」しないのです。

悟り

蜃気楼とは100%実感できるにも関わらず100%実在しない存在です。自由意志は100%実感できるにも関わらず100%実在しない存在です。同じです。つまり幻なのです。そして自由意志が100%実在しないことを悟ってもこれからも100%自由意志を「実感」できます。このことが分かってきますとドミノのように幻想が崩れていきます。「実在」だと信じていた「モノ」が全部ただの「実感」でしかなかったことに気づき始めます。

あなたはどうやって目覚めたんですか????

解放の中で

「あなたはどういう状況で目覚めたんですか??????」という質問が目覚めの中で起こります、そしてそれに対して「私は買い物中に目覚めたんです」という回答が目覚めの中で起こります。「なぜ買い物中に目覚めたんですか????」という質問が目覚めの中で起こり「突然それが起こったんです」という回答が目覚めの中で起こります。「目覚める前と後では一体何が変わるんですか????」が目覚め目の中で起こり、「何もかもが変わります」という回答が目覚めの中で起こります。

最初から

この世界は突然何か変わってしまうなんてことは全くないのです。この世界は最初からこの世界です、、何もかもが完璧なこの世界が目覚めが起こることでさらなる完璧になどなるわけがない。つまりここは最初から完璧(解放、目覚め)であり目覚め後も完璧(解放、目覚め)なのです。そうです目覚めとは最初から完璧な世界しかなくて、、その完璧な世界の中に自分という天涯孤独、無力、非力、弱小な存在が居ると思い込むという考えがただ起こっていた。、このことに気づくことです。

目覚めた後も

この最弱な体、ひ弱な体、そしてその中にこの私が居ると思い込むことはできます、、何度でも。。。ですが同時にそれは事実ではなく「思い込み」であるという揺るがない「気づき」があるのです。この体も間違いなく幻想であり、それ以外も完全に幻想、、そしてこの体の中には「自由意志」を行使する自分が居るという「感覚」が起こり得る、、、という揺るぎない気づきが起こります。

完璧

この体があってこの体の中には自分が実在として居るという思考は真実ではありませんが、、、その思考自体がこの完璧な世界に完璧に存在します、そしてその思考が認識されると「違和感」という苦しい感覚が起こりますがそれもこの完璧な世界に完璧に起こるんです。つまり最初から最後までここは完璧でありこれからも完璧です。ここは最初から最後まで解放でありこれからも解放です。

悟り

目覚めるとは「目覚める実在」が存在するのではなく解放されたこの世界に「目覚めていない」という「感覚」だけがあり、、その「感覚」がこの解放の中で消え去ることです。完璧な世界で「完璧ではない」という「感覚」だけがありその感覚が消え去ることです。解放の中に夢が起こり、、その夢が消え去ることが目覚めと呼ばれます。悟りとは「最初からここは完璧だった」という気づきです。「最初からここは解放だった」という気づきです。

紙一重

真実と真実以外

「悟り」と「悟り以外」は紙一重です。全くハッキリと異なるならばわかりやすい、、究極を言ってしまえば180度異なりますが表面上はさほど変わらないのです。例えば「この体」「100%ある」と感じます。感じます、、ですが100%幻想です。この違いわかりますか????「感じる」は100パーセント、ですが幻想であることも100%です。多くの方はここを乗り越えることができません。感じるんだから「在る」だろ!!!!と言います、、違います、、感じてもないのです、リアル蜃気楼です。

蜃気楼

蜃気楼は「在る」と100%感じれる幻想です。80億人が100%あると感じれる幻想です。この世界はこの100%「ある」と感じれる幻想で成り立っているのです。見える蜃気楼、聞こえる蜃気楼、触れる蜃気楼、味わえる蜃気楼、、嗅げる蜃気楼です。これでどうでしょうか?????分かってもらえそうですか????そうなんです。感じれるから「在る」は嘘です。感じれるだけなんです、この世界は。

誇大妄想

感じれるから「在る」自由意志を感じれるから「在る」この体は感じれるから「在る」この自分も感じれるから「在る」この私の人生も感じれるから「在る」はい全部蜃気楼、幻、幻想です。そこが本当に本当に腑に落ちますと、、悟りです。全部が幻想で幻だった、、、、感じれるから実在と思っていたけど、、、、そういえば感じれるから幻、蜃気楼、幻想って言うんだった。。。。俺はいったい何をやっていたんだ笑。砂漠の上にはっきりと水たまりが見えるからそれを幻と言っていたじゃないか!!!!!!はっきりと「見える」「触れる」「嗅げる」「聞こえる」「味わえる」からこそ幻と言っていいのです。そしてこれは全部幻です。

幻の認識だけがある

空即是色、、これがひたすらに起こっています。空という「不変の自己」から色という「変の自己」が現れ続け、、認識が起こり続けます。この認識が今我々が起こしている「認識」です。体に気づき、香りに気づき、光に気づき、色に気づく、、この気づきがまさに空から色の現れによって起こります。だから今「気づく」が起こっています。この「気づき」を幻としての「私」がやっている、、というのが人間活動という幻想です。全部幻想です、そして幻想は気づかれます。

能力???

自由意志がないのに???

能力を伸ばしましょう、これからの時代はこんな能力、あんな能力が必要になります。?????ですがですがそれを伸ばすことを決めることができる「自我」が存在しません。何かを決定することができる「決定権者」自我が存在しないのです。自我は「感じる」ことができます、自我の存在は「感じる」ことはできます。ですが構造上「決定権者」にはなり得ないのです。

じゃあどうやって生き延びていけばいいのか????

この体の中に自分の能力を高めることを決める「決定権者」が居ないのならばどうやって生き延びればいいのですか?????大丈夫です。全員が全員そうなんです、だから能力は全部偶然身についたわけです。全能力は偶然です、、だから何も気にせず赴くままに能力を身につけていけばいいのです。何かが足りない何かが必要と嘆くよりも俯瞰する達観するのです。何一つ能動的に身につける必要はない、赴くままに身につけばいいということです。

努力が必要ない?????

というよりも努力するかしないかを決める決定権者「自我」が存在しないのです。自我とは「感じられる」のみの存在です。だから努力も勝手に起こり努力しないも勝手に起こるのです。隣人のお子さんが運動を努力するかしないかを「あなた」が決めることができないように「この体」に起こる努力も「あなた」は決めることができないのです。

悟り

悟りとは「能力」「努力」を否定することではなく、、それを決める「決定権者」はこの世界には居ませんよ、という話です。世の中の「努力」「能力」はまるで自然現象のように誰かに身につくのです、そこには努力も起こるでしょう、、、、ですが「決定権者」は居ないのです。私もあの人みたいな「能力」が欲しい。でもその私は身につけるかどうかの決断を起こせません。そのことを寂しいと捉えるか気楽と捉えるか?????どっちにしても気楽、安堵、愛が湧いてきちゃいます。

お箸を持ち上げる

ただこれだけで

「自由意思」がないことをこの例え話で一瞬で理解できます。「お箸」を持ち上げます、お箸を持ち上げるには持ち上げる「腕」が必要になります。では腕を上げる動きには何が必要になるか???「脳」です。では脳を起動するには何が必要になるか????「電気信号」です。では「電気信号」を動かすには何が必要になるか????「細胞」です。では「細胞」を動かすには?????何は必要になるか??????この世界では「何か」アクションを起こすにはそのアクションを起こす大元が必要になり、その大元の動きを起こすにはさらにその大元の動きが必要になります。「自分」が自由意志を作り出すには、、「自分が自由意志を作り出す」ための動きが必要になるのです。

つまり

「自分」スタートで「何か」アクションを起こすことは構造上ありえないのです。この世界での自分とは「思考」「行動」「感情」を生み出す存在ということになっていますが、、その『「私」が「生み出す」』動きを起こす動きが必要になるのです。つまり「自分」スタートというのは不可能であり、よって「全部を起こす自分」という役割は嘘です。自我とはつまり嘘なんです。「アクションの根源=自我」という大前提は嘘です。自我も嘘ならば自由意志も嘘なのです。

それでも

それでも「自分がお箸を持ち上げた」という実感が湧くのは、、「自分がお箸を持ち上げた」という実感こそが勝手に起こったからです。100%お箸を持ち上げることを決め持ち上げる行為を起こした「自分」は存在しませんが、、、、「私がお箸を持ち上げた」という感覚が起こりそれが認識されるということは起こり得ます。この感覚が勝手に起こることから、、「自我も自由意志もある」という認識が生まれるのです、勝手に。

悟り

この世界は本当に面白いのです。小学生でも理解できてしまう「自我」の嘘を80億人全員が信じて今暮らしています。法律の全ては「自由意思ありきで制定」されています。社会の人間関係の全ては「自由意思」が前提になっているのです。ところが構造上は100%アクションを起こす「自分」は存在できません。この認識の勘違いを改めることができる時人生が180度変わります。責める自分も居ないし相手も居ない、、反省すべき自分も居なければ相手もいない「加害者」「被害者」がこの世界から消えます。

自由意思と物質世界

崩れる

犯罪行為か過失かの違いは「自由意思」です。故意であった場合、、、犯罪となり、、故意でなかった場合は過失です、つまり事故です。この二つはとんでもなく大きな分かれ道です。この人間業界は「自由意思がある」という認識を採用していますが実はこの仕組みは不可能です。不可能にも関わらずなぜ「自由意思がある」を共通認識にできるかと言えば「自由意志があると思える」からです。構造上不可能だろうと「ある」と全人類が認識できるから採用しているのです。ですが構造上は不可能なのです。

幻想

幻想とはあるように100%感じることができるが実際には100%ないものです。自由意志とは100%あるように見えるが100%実際にはないものです、つまり幻想です。物質世界も100%あるように感じることができるが100%実際にはないもの、つまり幻想なのです。この認識の上で人間社会を生きるとどうなるか?????「楽」です。周囲は人間業界の常識「自由意志と物質世界」を信じて生きていますが、、悟り人はそれが真実ではないことを分かって人間業界に合わせます。

パニック

人間の恐怖というのは結局のところ、、、「人を信用できない」ところにあります。いつ会社が潰れてしまうのかわからない、いつクライアントから受注が途切れるかわからない、いつ奥さんから離婚を申し出されるか分からない、、いつ子供が家を出てってしまうか分からない、、、なぜならば人間は常には信用できる存在ではないから。。ところが悟り人は「そもそも自由意志がない」ことを知っていますから信用とか信用できないとかの域では生きていないのです。だからパニックがない。

悟り

悟りとは「人間業界に歯向かって生きる」ことでは全くありません。人間が信じることが実は嘘であることを分かって合わせることです。自由意志も物質世界も100%存在しないが「存在している」という雰囲気で生きることです。その時こちらには余裕があります、パニックにならない、パニックになれない余裕があるのです。多くの方は本当はもしかして「自由意志も物質世界もないのかも」と思いながら「自由意思と物質世界」を信じて生きています。悟り人は「本当は自由意思も物質世界もない」と分かって「自由意志と物質世界」ありきで生きます。

構造上不可能

自由意思、物質世界

自由意思と物質世界は構造上成立不可能です。この二つは絶対に成立不可能なのです。にも関わらず100パーセントあるようの感じることができる世界、それがこの現実と呼ばれる二元性の世界です。絶対に絶対に成立不可能だが、、実際にあるように感じれる世界です。砂漠の上の水たまりは100パーセント存在不可能です、ですがあるように100%見える、それが蜃気楼です。

自由意思

自由意志がなぜ構造上成立不可能かと言えば、、マックに行こう!!!という思考を起こすことができるとすれば、、そのマックに行こう!という思考を起こすための原因が必要になります。何もないところから急に「マックに行こう!!」が生まれていないとするのならば。すると、、その原因は脳内細胞としましょう。ではその脳内細胞を起動させた原因が必要になります。もしも脳内細胞が突然起こったのならば「自由意思」ではなくなってしまいます。そこでこの原因は何だ???となり、、それは脳脊髄液だ!!!となれば、、、その動きを起こした原因は何だ???となります。この世界では「そうだマックに行こう!!」という自由意志を起こすには無限の原因が必要になってしまうのです。

悟り

悟りとは「人間業界でどのような常識を採用していようとも」真実に戻ることです。自由意思、物質世界はこの人間業界では「常識」です。ですが真実では絶対にこれは存在しません。絶対に存在しないことを実感して「人間業界の常識」に寄り添います。その時とんでもない余裕が生まれます、ムキにならない余裕が生まれます。深刻にならない余裕が生まれるのです。「故意に車をぶつけられたように見えた事故現場」で、、、相手への怒りが半減します、その故意は自由意志ではないのです。

ドッグパーク

微笑ましい

ドッグパーク、ドッグランに行きますと、、みんな人間が笑顔でワンちゃんたちの様子を眺めています。どの犬も愛おしく感じるため、、そこには競争がありません。みんな楽しそう、、犬には俺の方が優れている、俺の方が愛されている、俺の方が高い価値が付いている、、という自我は希薄なため、、人間はただただその様子ジャレ合う様子を楽しめれます。

人間社会

では会社に行って、、あらゆる人間が集まって仕事をする場所で、、あの笑顔は起こるでしょうか????残念ながら人間は「優劣」「善悪」「良否」を勝手につけて、、この「自分」をそのレースに押し込めます。そして「自分」が上位に位置する時喜び、下位に甘んじれば悲しむのです。この「自分」には自由意志があり周囲の人間にも自由意志がありその自由意思をいかに上手に使っているかで判断判断を繰り返すのです。

ない

本当は本当は自由意志などないのです。だから実は人間も犬と全く同じです。あり得るのは「自由意思」があるという思い込み、これだけです。これだけが犬と人間の違いなのです。つまり自由意志がないという点は全く同じ、、「自由意志がある」という思い込みも「自由意志」ではなく勝手に起こっているのです。それが分かった時職場がドッグランになります。だって一人も自由意志なく動いているし、自由意志なく思考し、自由意志なく感情を味わい、自由意志なく動いているのです。

悟り

悟りとは犬も人間も実は全く同じであることに気づくことです。犬は無邪気だが人間は邪気の塊である、、ではないんです。犬にも自由意志がないように人間にも全く自由意志がないのです。つまり完全自動運転、自動反射、、微笑ましい、可愛い存在なんです。そのことが分かった時ここが天国になります。自我にとっては天国では断じてありません、そうではなく「自我」というものが勘違いの可愛い存在と見抜けるのです。

自分と仲良くする

自分を上手くやる

多くの方は「自分を上手くやろう」とします。自分をこの環境の中で上手くやっていかそうとします。ですがこの試みは常に試行錯誤、常に競争、常に優劣、常に四苦八苦です。周囲は皆ライバルになり人生をかけた競争を生きることになります。上手く行っている時と上手く行っていない時は半々ありそのどちらかを行ったり来たりするのです。これが死ぬまで続きます。

自分と仲良くする

自分と仲良くする、、自分と仲良くする「存在」とは誰ですか????そうです「自分」と仲良くする「存在」存在と称することができない誰かが本当の自分です。この存在としてこの見かけ上の体の「自分」と仲良くします。どうやって??????どうしたら「自分」と仲良くできるんですか????簡単です「自分」を見抜くのです。この偽りの「自分」とは何も自由意志も持たず何も自由感情を持たず何も自由行動を持たない完全なピエロです。このピエロが周囲から称賛されれば飛び跳ねて喜び非難されれば小さく小さく落ち込みます。とてもとても可愛いピエロです。

周囲

「偽りの自分」の存在を見抜けるようになりますと、、まさかの「周囲の人間」も見抜けるようになります。自由意志がなく自由感情もない自由行動もないこの存在を「自分」と称して生きています。そして称賛されれば飛び跳ねて喜び非難されればガッツリ落ち込みます。そんなピエロのような存在が愛おしいのです。何も実はしていないのに「喜び」「悲しむ」のです。最高に面白いわけです。

悟り

悟りとは「自分をコントロール」しようとする無理ゲーを無理ゲーと見抜くことです。自分とは何一つコントロールできない「ピエロ」であることを見抜きます。そして周囲も完全なピエロです。その時、、、一人もピエロとしては成功者も存在せず失敗者も存在しない、、、なぜならばピエロは常に常にこの勘違いによって不安で不安でしょうがないからです。そこを見抜きます、勘違いという大土台の上で安泰は絶対に絶対に起こり得ないわけですから。そこに気づくと全員が全員愛おしく感じます。これが悟りです。