自由意思と物質世界

崩れる

犯罪行為か過失かの違いは「自由意思」です。故意であった場合、、、犯罪となり、、故意でなかった場合は過失です、つまり事故です。この二つはとんでもなく大きな分かれ道です。この人間業界は「自由意思がある」という認識を採用していますが実はこの仕組みは不可能です。不可能にも関わらずなぜ「自由意思がある」を共通認識にできるかと言えば「自由意志があると思える」からです。構造上不可能だろうと「ある」と全人類が認識できるから採用しているのです。ですが構造上は不可能なのです。

幻想

幻想とはあるように100%感じることができるが実際には100%ないものです。自由意志とは100%あるように見えるが100%実際にはないものです、つまり幻想です。物質世界も100%あるように感じることができるが100%実際にはないもの、つまり幻想なのです。この認識の上で人間社会を生きるとどうなるか?????「楽」です。周囲は人間業界の常識「自由意志と物質世界」を信じて生きていますが、、悟り人はそれが真実ではないことを分かって人間業界に合わせます。

パニック

人間の恐怖というのは結局のところ、、、「人を信用できない」ところにあります。いつ会社が潰れてしまうのかわからない、いつクライアントから受注が途切れるかわからない、いつ奥さんから離婚を申し出されるか分からない、、いつ子供が家を出てってしまうか分からない、、、なぜならば人間は常には信用できる存在ではないから。。ところが悟り人は「そもそも自由意志がない」ことを知っていますから信用とか信用できないとかの域では生きていないのです。だからパニックがない。

悟り

悟りとは「人間業界に歯向かって生きる」ことでは全くありません。人間が信じることが実は嘘であることを分かって合わせることです。自由意志も物質世界も100%存在しないが「存在している」という雰囲気で生きることです。その時こちらには余裕があります、パニックにならない、パニックになれない余裕があるのです。多くの方は本当はもしかして「自由意志も物質世界もないのかも」と思いながら「自由意思と物質世界」を信じて生きています。悟り人は「本当は自由意思も物質世界もない」と分かって「自由意志と物質世界」ありきで生きます。

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