あるがまま

悟りに疲れたら

残念ながら私に出来ることはない

残念ながら悟りにおいてこの「私」が出る幕がありません、もっと早く悟りを開きたい、、誰が????その私が居ないんですよ。そしてそのために何かをコントロールできる私が居ないということの気づきが悟りです。悟りとは私が開くのではなく、、私の中で悟りが開くのです。悟りとは私の中で起こる現象です。私の中で「私」という現象が起こらなくなることが悟りです。私の中で「私」が居ると思っていたらそれが夢だったという気づきが悟りです。

悟りを焦るということは

悟りを焦るということはこの「私」が苦しみから解放されたいという願望があります。それが強すぎると「私」を強化します。強くなりたい強くなりたいと焦るよりも空手練習に染まっちゃった方が早いです。悟りたい悟りたいと強く願うよりも悟りのメッセージに染まっちゃった方が早いです。そしてそこに至る自由意志がないことからそれが起こらないことを引き受けます。積極的な受容です。

あるがまま

悟りのメッセージで最も楽なのがあるがままです、、このあるがままによって後悔というのが起きないんです。なぜ今日悟りの本を読めなかったのか???それが起きただけ、、なぜ今日読破できなかったのか???それが起きただけ。。。起こす自分は存在せず、、本当の自分の中でただ現象だけが起こるのです。進むことも進まないことも全部が全部自分の中で起こるのです。ただそれを受容します。

悲劇から喜劇へ

悲劇は体になりきった状態

この体は絶対に私だ、そしてこの思考も間違いなく私だ、、、この緊張状態、密着状態が、、緊張感と分離感を激しく作るのですが、、、この時人は全てが悲劇になります。面白いことに密着すれば密着するほどにこの私はこの体の動きに完全に振り回されるのです。コントロールしようと思えば思うほどに暴れ馬感覚になるのです。それはそのはず右に行くぞ!!!と意気込んでもそれとは全く関係なく勝手に動くからです。自分自身が全くコントロール不可であることからストレスも激しく、、ゆえにこの状態は悲劇です。

体と距離を置く

この体のやることはもう分からん、体に任せちゃえ!!!やる気があるときはやる気に任せやる気が出ないならばそのやる気に任せる、、風任せ運任せだ!!この諦めがある程度ついてきますと、、、悲劇は喜劇になっていきます。こういう人生じゃなきゃ嫌だ、こういう人生以外は歩みたくない、、という理想は崩れ去り、、体に任せてしまうということです。要は馬(体)の動きに「私」が合わせるという感覚です。もう勝手にしてくれ!!です。

そのそも自由意志も自己も無いじゃないか!!!

そして最後は、、そもそもさー自分も自由意志も見せかけで、、本当はないじゃないか!!です。構造的にありよがないのです。この現象は全て空の影、幻、反映ですから、、独立した何かなんて存在するわけないしい、その何かに自由意志があるなんていうのも錯覚に決まっている、、、です。これが喜劇からの解放です。究極の諦め、、あとは馬の動きをただ観察し、、馬になりきり(あるがまま)生きていくが続きます。もうそここには馬(体)に乗る自分は居ないことが分かっています。

夢(思考)からの脱出

夢は思考が作るのだから

この世界はたった一つのエネルギーでありあるがままです、そこは至福、平和、歓喜の場所です。そこに思考が立ち現れることでその思考があるがままに読み込まれ、、イメージが湧き出てきます、思考通りのイメージです。そのイメージの連続こそが夢です、この夢の中では時間(思考)があり空間(思考)がありと続くのです。この世界(夢)に居るのは苦しく居心地が悪いのです。その中で常に今ここ(あるがまま)に住まう方法があります、それはしっかりとこの体と繋がることです、この体は思考ではないのでいまここにしか存在できないのです。つまりドラマ、ファンタジーに住うことができません。この体は常にあるがままに席を置くのです。

この体を感じる

エックハルトはこれをインナーボディーと呼びました。常に体を感じる感覚を得ることです、体を通じて今にある感覚を構築するのです。そうすると思考に支配されずに夢に引きずられないということです。思考は夢に意識を導き夢を維持しようとしますが体がそれを阻止します。今という場所の至福を忘れないでいられるのです。今は至福しかありません、思考の世界(過去未来)は分離の世界、ネガティブな感情の世界です。

虚(空想)の世界は空気が薄い

居の世界ドラマの世界夢の世界は、、たった一つのエネルギー(至福)が作り出した世界ではありますがここはネガティブ(分離)の世界ですから苦しいのです、、ここに居住し続けると苦しくなります。ですからいまここに居たい、、、そのためには今ここに絶対に存在するこの体に意識を向けるのです、この体を感じるのです。この体を感じているのは誰でしょうか???本当の私、あるがまま、真我です。思考ではなく体に気づくことでいまここに住うことができます。ここは至福、平和、歓喜の場所です。

老後が心配で心配で

今の苦しみが解っていないのに

いまなぜ苦しいのか?今なぜ不安感があるか??今なぜ不満足感があるのか???そこを理解していないにも関わらずもしくは理解していなからこそ人は自身の将来について不安になります。今ですら不満足なのに老後なんてもっと哀れになるのではないか????独居老人、孤独死、、、怖い怖い。ですがこれらが杞憂に終わるのは、、なぜ今苦しいのか????この答えがないからです。

若い時の焦燥感

若い時、体は自由に動き回り頭もキレる、、、、にも関わらず若い時期はなんか尖っていた、、若い時は常に怒りの感情が、、若い時っていっつも寂しくて、、、、聞いたことありますよね!!!!健康なはずがなぜか精神状態は荒れ荒れで、、、、です。なぜか?????「この体と思考が自分」この思考がより鮮明に描かれるからです、イメージ化されるからです。これによって孤独感分離感も鮮明に上がるということです。なんで若い時はあんなに苦しかったのか???それは偽りの自分という存在をありありとイメージできてしまう、、、、こんなトリックがあります。

頭が良い人ほど、、、

鬱病になるって頭が良い人が多いんです、、、こんなこと聞いたことがある人は多いはずです。思考がそのまま感情を作り出しますから、、その思考が真実から離れれば離れるほどにネガティブな感情が湧きます。ネガティブとは分離のことであり、、分離とは真実では絶対にありえないのでこれはあくまでイメージでしかありません。そのありえないことを頭あ良い人はイメージの中で描き続けることができるのです。結果ネガティブな感情も維持し続けることになります。頭が良い人はあるがままの世界の中に壮大な分離の夢を描くのです。

頭が良い人が真実に気づくと

頭が良い人はたったひとつの統合したエネルギー、至福の世界の中に思考でもって壮大な分離の夢、ファンタジー、幻想を描き、、ネガティブな感情を湧き出させ苦しみ続けます。この事実を頭が良い人が理解しますともう同じ過ちを犯さなくなり、、ベクトルは真実追求に向かうのです。イメージしたドラマが真実とあまりにかけ離れていただけだった、、ならば真実に気づけばいい、、となります。真実が思考の先にある真実に意識が向くのです。この体この思考そこが自分という仮説はあまりにもリアリティがあるために騙され続けてきましたが、、これが偽りであることは明白です。なぜならばネガティブ(分離)な感情がそれを証明しています。

毎週毎週みんなでパーティー

Facebookを見れば、、、毎週毎週パーティー三昧、、そんな方を見ますが、、、これって簡単な理屈、、、「この体この思考こそが自分」という徹底的にネガティブな思考がネガティブな感情を生みますから、、、それを解消するためには多くの人と分かち合って再統合したい、ポジティブな感情を感じたいという欲求です。個人という孤独な存在(イメージ)だからこそ多くの人と分かち合い(統合)、、ポジティブ(統合)の感覚を得体わけです。ですがパーティーが終わればまた一人(イメージ)を強固にしますから毎週パーティーが必要になるのです。

イメージが起きなければ

そのまま至福に入る

「この体、この思考が自分だ」この思考が湧き上がりますと、、それは全体に回収され即イメージ化されます。そして「この体、この思考は自分である」というイメージ、幻想、イリュージョンがこの世界に起き上がるのです。自分という言葉は、、世界に完全独立した、完全分離した別個の存在という意味ですから、、それがそのままイメージ化されるのです。この言葉は大変力強い影響を与えます。そしてこれが同時に孤独感を起こすのです。ですが本当はあるがままの世界、たった一つのエネルギーだけの世界が真実です、真実は至福、無分離、非孤独です。言葉が湧き上がる前、、至福でしかなかったのです。

言葉以前の世界

我々は生まれた時、、たった一つの世界に居ました、、、たった一つの世界の住人ではなく、、、たった一つそのものだった、、つまり至福そのものだったのです。。。それが言葉を覚え始め、、、分離したイメージを勝手に築きあげることで、、この至福の世界に、、、孤独という「感情」を作り上げたのです。「今この瞬間に悟れます」というのは真実でそれは至福の上に孤独、虚しさ、悲しさを作り上げているだけだからです。イメージが崩れればそのまま悟り(至福)に入るのです。

「この体この思考が自分」の崩壊

突然自分がなくなり至福に襲われた、、、エックハルトトールはこのような表現で自身の悟りを表現していますがまさにその通りです。「この体この思考こそが自分である」という強いと強い思い込みが、崩壊し、、、このイメージがこの世界に起こらなくなった時、、、そこには至福だけが広がっているのです、いつでも。彼は絵rーとで多くの多くの知識を所有する私というイメージを持っていたに違いなく、、、そのイメージが大きくなり過ぎて、、その重さに耐えられなくなった時、、そのイメージが崩壊しました。。。結果奈落の底に落ちたつもりが至福というセーフティーマットが敷かれていたということでしょう。

「この体この思考は自分」というのは真実ではない

この認識、気づきが、、、本当の私、全体から起こることで、、、強烈なイメージが緩和されます。世界にたった一人、、この体、この思考を所有し立っているというイメージが起きなくなります。これだけで「苦しい」が湧いてこなくなるのです。思考は即座にイメージ化されますからその内容が真実と乖離すればするほどに苦しいのです。本質を学ぶとはまさに強烈な分離からの統合へのプロセスです。

 思考と全体

思考の力

多くの方は思考の力を侮っています。思考とは何でしょうか???例えば「私は世界にたった一人だ」という思考が起こった時には何が起きるか????同時に寂しいという感情が起こります。なぜ起きたのか????「私は世界にたった一人だ」という思考に全体、スクリーン、スペースが気づき、、この言葉を読み込み、、読み込むことでドラマ、イリュージョン、蜃気楼がこの世界に浮かび上がったのです。たった一つのこの世界に「私は世界にたった一人」というイメージが湧きがりました。これによって寂しいという感情も浮かび上がったのです。すると「友人に電話しよう!」という思考が湧き上がり、、それを全体、スクリーンが読み込むことでそのイメージが湧き上がります、、するとまたワクワク!という感情が湧くのです。

ドラマが始まる

思考がこの世界にドラマ、イリュージョン、映画を作り出しているのが分かりますね。文字の連続を読み込んだ全体は、、その文字が指し示すことをイメージ化していきます、、そのイメージは確実に浮かび上がり、、あるがままの世界に誕生するんです、確実に。それに伴い感情も湧き上がりドラマはより重層構造になっていくのです。ですがこのドラマは真実ではありません、真実はたった一つのエネルギーですから。ゆえにこのドラマの世界は居心地が悪く疲れるのです。

人間関係が疲れるのは????

「Aさんは日曜日何やってる????もし良ければカフェに行かない???」という誘いがBさんから起きました????この言葉はそのまま全体に読み込まれAさんという自分がイメージ化されBさんとカフェをするイメージも同時に起こるのです。これによって嬉しい!面倒!などの感情が浮かぶ上がります。Aさんは湧いてくる感情が楽しい!!!ならばOKと答え、湧いてくる感情が面倒!!!ならばNOと答えるのです。どちらにしてもあるがままの世界に「Aさん」「Bさん」というイメージが湧き上がることでその時点で「孤独」という感情も湧きます、、なぜならばAさんもBさんという分離した存在は錯覚でありそのイメージが孤独を起こすのです。

夢の中に居る

私は確実に夢の住人です、なぜならば私という存在はイメージでしかなく真実ではないからです。私がカフェに行く、、、は言葉が作り出したイメージです。私は生きるために働かなくてはいけない、、この思考はそのイメージをこの世界に浮かび上がらせます。夢をその瞬間に作り出しているのです。これらは全部嘘です。本当の私とはこの空間、スクリーン、スペース、、、言葉を読み込みイメージを瞬時に作り出す存在です。この体、この思考が自分というのはイメージに過ぎません。勝手に自分自身を「ちっぽけなイメージ」に押し込みその時点で苦しみを与えているのです。

思い込みが崩れる=小さな悟り

俺が世界一のボクサー

血気盛んな若者は俺が絶対に世界一喧嘩が強いと思い込み道場破りの感覚でボクシングジムの門を叩くわけです。ところが初日に先輩ボクサーにコテンパンにされて、、、目が覚める、思い込み、観念が瞬時に崩壊します。間違いなく自分が一番強いように見えていたにもか関わらず、、実態はそうじゃなかった、、、です。観念(イメージ)が真実の前で崩壊したのです。

思い込み(観念)って間違ってんじゃん

そうです、思い込み(観念)って間違ってるんです。若い時はイケメンになれたら、美女になれたら、高収入になれたら、大富豪と結婚できたら、、広い家に住めたら、、、、幸福になれると、、、そう見えていたんです(思い込み)思い込むからそう見えるんです。。ところが実際にはそう見えていただけ、、、この世界はそう見えているからと言ってそれを目指してはみたものの、、、全部が思い込みだった、、、ばかりなのです。そうです、、この世界は思い込んだように見えるようになっているんです。そして実際にそうなってみると、、全然違う、、です。

何度も思い込みに裏切られ、、

悟りとは何度も思い込み(観念)に裏切られ裏切られ続け、、、もう思い込み(観念)は十分だ!!!!!となった時に目指すものです。全ての思い込み(観念)を疑い、思い込み(観念)自体を恨み、、思い込み(観念)を自ら崩壊させる、、、これが悟りです。全ての思い込み(観念)が崩れ落ちた時に残るもの、、、それがたった一つのエネルギー、あるがまま、、本当の自分(至福)です。

こうやれば上手くいく

こうやらなければ上手くいかない

これは夢です、完全に夢です。この夢の中で「こうやれば上手くいく」を確信しますと、、その思考、概念、観念がこの夢でそのまま投影しそれが現実であるかのように見えるようになります。逆に言えればこうやらなければ上手くいかない、、、も同時にこの夢の中で投影されていくのです。「都会に行けば上手くいく」この観念が強固になれば「都会に行かなければ上手くいかない」が観念化するのです、そしてこれがこの夢で投影されます。

「都会に行かなければ上手くいかない」が観念化すると

田舎をありのままには見れなくなります、田舎に行くことになればネガティブな感情が湧くようになります。もう田舎が光り輝いてはみえなくなるのです。子供のころは全てが光り輝いていたのが、、観念が投影された世界(夢)を見るようになるのです。その夢はもう輝きを失っています。そして輝きを失わせたのは観念です。

観念に観念を重ねていく

「都会に行けば上手くいく」「高収入を得れば良い生活を送れる」と大人になればなるほどに観念を重ねていきます。これは同時に「都会に行かなければ上手くいかない」「低収入になれば良い生活を送れない」という観念を積み上げていくようになるのです。そしてこの夢でその観念が確実に投影されていきます。本当にそのように見えるようになっていくのです。もうこの世界はありのままで輝く世界ではなくなっていきます、子供の頃に見た世界ではなくなっていきます。

夢からの脱出

子供の頃に見ていた世界があるがままの世界ならば、、大人が見る世界は観念が投影された夢です。世界からはすっかり輝きがなくなりドライで暗い世界(夢)が広がります。そうさせたのは自身の観念です。だけど思考なしに、観念なしに生きるなんて不可能だよね?????が本音のはず。子供の時みたいに何も考えずに無邪気に生きるのも不可能なのです、、、そこで何が必要になるか????超観念です、観念を超えるのです。観念を超えた視点で、、観念を方便として使うのです。

超観念、超自己、自己超越、超常識

観念、自己、常識を持つことで我々は生きていることができます。それにも関わらず今更全部捨てるなんて不可能です。そうではなく全てを超えていきます、観念、自己、常識をさらに大きな視点から眺めていくのです。観念、自己、常識から縛られることなく、、方便として使いこなしていく。。これが悟り、解放、解脱の本質です。

言葉とはあるがままを切り裂く

言葉自体が幻想発明機

言葉とはあるがままの世界の中からある部位を切り取りその部位をあるがままから切り取る道具です。あるがままの中でコップと唱えればコップと呼ばれる形状が切り取られるのです。本当はあるがままにコップという部位を切り取ることは実質不可能にも関わらずそれを便宜上やるのです。あるがままという一つのエネルギーの中からあらゆる部位が切り取られていきます、言葉によって。

言葉によって切り取られた部位だらけ

この世界は言葉によって切る取られた部位ばかりです、この体も「からだ」という言葉によってあるがままから切り取られました。さらに「自分」という言葉によってこの体の中に自分という存在が居るという想像までされるようになりました。これによって「自分は〇〇をした」というファンタジーまで生まれたのです。これは解釈、意味でしかなく真実とは全く異なります。

解釈が勝手に動き出す

自分という言葉を作り出した人類は「自分が〇〇した」「自分が〇〇を発した」と解釈を重ねていきました。解釈だけが何重にもなって積み重なっていったのです。本当はそれは言葉が切り取った解釈でしかなく真実は全く異なります。真実は常にたった一つのエネルギーのみ、、です。真実とは全く異なった場所で解釈だけが起こり続けその意味をなぞるが起きているのです、そしてそれは疲れます。真実とは全く関係ないからです。

あらゆるノンデュアリティスピーカーが必要な理由

エゴは最短距離では解体されない

エゴ、自我は、、、最短距離では解体されません。そんなに甘くはない、、何年もかけて育てあげた自我が簡単に消え去ってしまうほど甘くはないのです。そこで大切になるのが各スピーカーの方々です。あらゆる角度から真実を説いてくれます。経験しかないですよね!!と担当直入に説明する方、、ストーリーの方向から自我に完全に寄り添って説明してくれる人、、スピリチュアルな分野から、、悟りに導く方、自我の特性を詳細に描き自我を俯瞰していく方、エネルギーワークから解放に導く方、、、あげればキリがありません。なぜか???それはこの世界があるがまま、無限の存在の表現の場所だからです。

真実ほど面白いことはない

私は真実がどうなっているのかを探求するのが大好きです。真実ってどんな映画、アニメ、SFよりも面白いのです。人間はこの真実を知らずに自分たちが信じていることに振り回されて生きています、勘違いしながら生きているんです、これって最高に面白いコントです。勘違いは時に生命を落とすほどの悲劇まで作るのですから作り物の映画よりはるかに面白い、リアリティーショーです。

このリアル映画を解明したい

釈迦が伝えるメッセージを本屋で立ち読みした時に私はようやく辿り着いたと確信をえました、幼少期からなんとなく疑問に思っていたことが氷解したのです、、これだ!!!と確信しました。私ではない何かがこれだ!!と叫んだのです。そこから既に20年の歳月が流れています。今も私は私というストーリーを毎日歩んでいますがその当時のような重いストーリーでは全くなくなっている、この事実が真実への探求を起こし続けます。