大我

真実を知るものは、、深刻になれない

真実は人を究極なレベルで癒す

本当は何一つ、、、自由意志はなく、、、ただ起こりが起きているだけ、、、この真実が我々を待っています、、この真実に我々は最終的に吸収されます、、、、真実から逃げることは誰もできず、、、、この真実に向かって我々は生きているのです、、、この夢は最後は真実に吸収されるのです。

真実は、、、、一つ

この世界に真実以外のものは存在せず、、、構成要素は真実の一点です、、、この真実が、、、あらゆる形に変化し、、あらゆる体験を引き起こしているだけです、、、ですからこの世界で救済されない人は誰も居ません、、、その人を構成する要素が、、、真実だからです、、、、我々が救済される唯一の方法は、、、そこに気づくことです、、、絶対的体感によってこれに気づくことです、、、

真実は完璧なプロセスで、、ここに至らせる

真実は、、、完璧なプロセスで、、、ここに人を至らせます、、、自我は完璧なタイミングで解体され、、大我にシフトします、、、大我という決まったものはないのですが、、つまり我々は我々という認識が突然シフトします、、、小我は大我に吸収されるのです、、、完璧なタイミングで、、、、我々ができる唯一のことはそれが起きるのを待つことだけです、、、、完璧に起きる自我の解体を待つということしかできません。

自我OSを必要としない体

守るために、、

この体を守るために、、形成された自我OSですが、、、これに頼り切った状態は基本苦しい、、、、体を守ることはできますが、、、、虚しさ、退屈に、、、常に襲われます、、、、なぜか?????この世界の真実を知らないために、、、全くの勘違い生活をしているからです、、、、、この体があって、、その中に自分が居て、、、この世界を生き延びる、、、、というのは勘違いです、、、ですから目指す先にある幸福が、、、全く違う場所にあるのです、、、、

空を見る

空を見る、、この一瞬の体験を、、、、最高に感じるか、、退屈に感じるか、、、ここが全てです、、、幼少期は、、、、空を見るだけで楽しかった、、、、、ですが今は退屈、、、なぜ??????なぜか?????五感が閉じているからです、、、五感が閉じれば、、、、体験が薄くなるのです、、、、唯一の真実、、、体感に、、、、思考が混ざり込み、、、、ありのままの真実に触れられなくなっています。

思考が混ざる????

思考が混ざるとは???つまりこうです、、、、、、考えながら、、、、カレーを食べると、、、、味がしない、、、考えながら、、映画を見ても、、、集中できない、、、、、、全ての経験は無思考になることで、、、感動が生まれます、、、、この逆転現象が起きているのです。。。。五感が鈍ることで、、、思考が周り、、、思考が回ることで、、さらに五感が鈍る、、、、という負のスパイラルに入っているのです。

退屈な世界???

多くの方がニュースを観てホッとするのは、、、、苦しいのは私だけではない、、、と思えるからです、、、だからニュースには、、、、暗いニュースが多いのです、、、、、ホッとできるからです、、、、ですが本当は、、、五感が鈍り、、、、全ての現象を、、、暗く感じる、退屈に感じる、、、、体になっているのです、、、世界をそう感じ取るのではなく、、、その五感こそが世界を作り出すのです、、、この世界は完全な幻想であり、、、、本当は感じることはできないのです、、、

感じることができない????

そうです、、、本当はこの体も、、、この世界も幻想であり、、、、感じる、、、がおかしいのです、、、ですがこの幻想は、、、、感じるために作られた故、、、、、感じることができる、、、、、無限という存在が、、、無限ということを「感じる」ために作られた世界なのです、、、、退屈も至福も感じることができるのです。

退屈を散々味わったならば、、、、

退屈を散々味わったならば、、、、、もう味わう必要はない、、、、、そしてこの体を健康に健康に導くことことで、、、、五感を研ぎ澄ましていくことで、、、自我OSが、、、大我OSにアップグレードされます、、小周天OSが大周天OSにアップグレードされます。

小我とはブレーキ、大我がアクセル

ブレーキを解体する

子供が大人になる過程においては、、、自身を守るという意識がどうしても必要になります、、、財布を持ってお店に入れば、、、財布を盗まれないように、、、「自分の財布」という意識が必要になります、、これが自我形成の目的です。守る、守る、守る、、、、車でいえばこれはブレーキ、、、ブレーキが無くては車は直ぐに壊れるのです。。。。ですがこのブレーキばかりを踏んでいますと、、、車が全く前に進まないという状況になります、、、これが苦しみです、、、、何かをスタートしようとしても、、、ブレーキが直ぐに踏まれていまう、、、人生が退屈の局地になっていきます。

頑張るが、、、、ブレーキから起こる

よし毎日、、ランニングしよう、、、、これがブレーキ(小我)から起こります、、、ブレーキがランニングをするのですから、、、何も何も進んでいる気がしない、、、、そうです、、、、見た目は進んでいても何も起きていない、、、ブレーキですから、、、、、ではアクセルである大我を働かせて、、、、無理です、、、ブレーキがかかってしまっているからです、、、

大我(アクセル)はいつでも踏まれている

アクセルは常に常に踏まれているのです、、、全員がこのアクセルの中にいますから、、、アクセルは実は全開なのです、、、ただブレーキが踏まれてしまっている人が多い、、、だからこのブレーキを剥がすだけでいい、、、ではどうしたらいいか????体の緊張を物理的に解体するのです、、筋肉を解してしまう、、、筋肉という緊張、、収縮したエレルギーを物理的に解放するのです、、これが完全にブレーキです、、ブレーキの物理的現象です、、、この現象をそのままで解放します、、小我というブレーキが効かなくなる、、小我というブレーキが忘れさられる、、、、大我(アクセル)全開になっていきます。

努力には何の意味もないという気づき

努力は報われる

努力は報われる、、この言葉の意味は、、、努力の結果として、、成果を期待する、、、ということになります。。これは決して間違いではありません、、種を撒くから、植物が育つ、、、疑いようがない事実です。。ですが人間がこの言葉を使う時には、、、私が幸せになるために「努力してこういう結果を出そう」という意味が含まれます。。人間とは幸福を追い求める生き物だからです。。ですがこの最終目標幸福という観点からすれば努力は一切関係ない、、ということです。。。なぜならばこの体の中の「私」はこの世界では本当の幸福には至れないからです。

条件付き幸福

この「私」が得ることができる幸福は、、、条件付き幸福のみです、、、良い家、良い奥さん、良き子供、良き会社、、、全部は対象があっての幸福です、、これらは、、対象ゆえに得れる時もあれば離れてしまうこともある、、常に不安定な幸福なのです、、、それゆえ常に「私」は頑張らなくてはならない、、条件を揃え続けるために、、、これが苦しいのです。

条件付き幸福ではない

本当に欲しいのは条件付き幸福ではないはずです、、何もしなくても幸福、、これが欲しいに決まっています、、ではどうしたらこの幸福を手に入れることができるのか???簡単です「私」がイメージ、概念、幻想であることを見抜くことです。。。私などそもそも実態はなく、、生命現象の一部、、、この思考も行動も情も全部が全部生命現象の一部だったということを思い出すのです。。。主語が私から大我、真我に変わり、、、今までの私は言葉で作ったイメージであったことを思い出すのです。

それでも「私」の生活は続くが

それでも見かけ上の「私」の生活は続きます、、、ですがこれが見かけ上であることに気づく、、見かけ上「私」はやっていきますが、、全部が全部真我からの起こり、言動は全部真我からの起こりです。これが見かけ上の「私」にただ起こっているだけ、、、すると私の人生の不安、後悔は吹き飛びます。。この見かけ上の私の人生の不安、後悔が吹き飛んだ時に、、無我、真我としての自分が頻繁に現れ本当の至福を感じます。

お水

このお水はなぜお水の状態を維持できるのか???

目の前にグラスがありその中にお水が入っています、、、このお水はなぜ、、この状態を維持できているのでしょうか??化学記号でいえばH2O、、、この化学記号の原子がなぜ収束した状態を維持できるのか???この力こそが真我の力です、、物質をその状態に維持する力こそが真我なのです、、、、とはいえこのお水もいずれは蒸発して気体になります、、この変化を引き起こす力が真我です。

気体が液体に、液体が個体に、、

気体、液体、個体、、、万物は常に変化を繰り返していきます、、、この動きを起こす力が真我です、、森羅万象、諸行無常、、、常に変化が起こるのですが、、この変化を起こす力こそが真我、大我、本当の自分です、、、つまり今この瞬間も我々は本当の自分の変化の中に居ます、、、そこから逃れられない、、本当の自分から一歩も逃げることができない。。。

諸行無常

諸行無常は分かった、、、では誰がこの諸行無常を起こしているのか???本当の自分です、、この体の中に居ると思っていた小さな自分がこの変化を作り出していたのです、、、大きな自分だったのです、小さな自分は。この大転換、シフトチェンジこそが悟りと呼ばれるものです、、パラダイムシフトです。

全現象を作り出しておいて

じゃあこの体の中の私は今後どうなるのか???

全現象を作り出している存在こそが本当の私、真我なのは分かった、、、では今後この体の中の私は一体全体どうやって生きていけばいいのか?????何も変わりません、、、これまでも本当の自分が全部が全部思考、感情、行動を起こしてきたのですから、、、、これからも全部が全部本当の自分がそれを起こすのです。

事実の再認識が起こる

悟りとは事実の再認識が起こることです、、どこで起こるのか???全体、本当の自分の中でそれが起きるのです、、、全部自分がやっていたという究極の気づきが、、、突然起きるのです。。。そしてこれからもこの体の小我はそれを踏まえた上で言動が起き続けます、、、ただし大我、真我の存在がはっきりと気づかれてしまった後に小我は頻繁には現れ得ない、、、大我、真我の中で全部自分がやっていたという気づきが起きた以上、、小我が今までのようにこの体をコントロールしているという動きは起きにくい、、、という話です。

今も動く、、全体の動き

今も必ず何かが起きています、、、冷蔵庫の音、風の音、、日の光、、全部が全部この私が起こし、経験、感覚を作り出しています、、、、全部です、、、、小我は、、、、この真我の中で、、、何をでしゃばれるのか????解決しなきゃいけない問題は、、、この私が全部作り出しています、、、本当にそれは問題なのか???友人から先週罵られた、、、その経験、友人、全部をこの私が起こしました、、、これは問題と言っていいのか???疑問です。

目の前の荒れくれた老人

その荒れくれを作ったのは自分だ

目の前に荒れまくり、怒りまくりの老人がいます、、、その老人をそうたらしめているのは誰でしょうか、、、本当の自分、真我、大我です、、、その老人を出現させ、、その行動を起こすエネルギーはどこから出ているのか、、本当の自分、真我です、、、そこを完全理解できる時に老人に対する感想が変わります、、、ただの生命現象に変わります、、

逆に興奮する

多くの方は荒れくれた老人を見れば、、目を伏せるでしょう、、見たくないものを見てしまった、、、違うんです、、その状況、存在を作り出したのは本当の自分なんです、、、逆に面白い、、、興味深い、、、絶対的理解が進むと湧いてくる感情は間違いなく変わります。全てを自分ごとに捉える、、、どころじゃない、、自分こそがその動きを作り出しているのです、、、当事者意識どころじゃない。。。

目の前の犬

散歩している犬がいます、、その犬を犬たらしめ、、犬を動かすその存在こそが自分です、、それをこの私が見て「可愛い」が湧きます、、この動き、この感情の動き、経験を作り出す存在こそが自分です。。。だから何なのか?????違うんです、、本当にそうだとして、、、今後この体の中の私は、、、同じ反応で居れるでしょうか???居れません、、、、なぜならば、、、今までは全部が全部他人事でしたから。

自分を理解してくれる人を求めて

自分を分かってもらうために

この自分、体の中の自分は実際は居ませんから、、、自我は本能的に自分を認識してくれる人、認めてくれる人を求め続けます、、、実際には居ないのですから、、非常に苦しい、、だからこそ自分を認めてくれる存在は圧倒的に重要になります、、、自我は常に常に自分を構ってくれる人を求め続けます、、、

この人は私を分かってくれる、、、

最大の自我生存戦略は自分を徹底的に理解してくれる人の存在です、、、この人が居れば、、、自我は一生生存できる、、、だからこそ、、、その相手を大切にします、、、自我は自身の存在を認めてもらうことでホッとします、、、ところが、、、本当の自分は自我ではありませんからそれでも苦しいは解放されない、、、自我は生存できるが苦しいは解消されない、、、これが争いの火種になります。

争いが絶えない

自我は自分を認めてくれる人がどうしても必要、しかし自我を自分だと勘違いしたままでは苦しいが終わらない、、、このジレンマに苦しみ続けます、、、だからこそ悟りが重要になります、、自分はこの体の中ではなく全体、大我であるという再認識が起きない限り、、この苦しみは終わらない、、、この苦しいを相手のせいにして相手を責め立てたりまします。だから争いが終わらない、、、