森羅万象

森羅万象と気づきの意識は一つ

この世界の森羅万象

今目の前に広がる世界、森羅万象はそのまま気づきの意識でもあります。現象として起こると同時に気づきが起きる。現象の起こりとその起こりに気づくが同時に起きるのです。森羅万象の他に気づきの意識があるのではない、、二つは一つです。二元でなく非二元です。今目の前に鳥が現れました、、鳥が現れるという現象は気づかれてことです、現れると同時に気づかれているのです。気づいたのは「私」ではありません、気づきの意識が気づくのです。

目の前に子供が

車の運転中目の前に子供が飛び出してきました、この子供に気づくのは気づきの意識です。私ではありません、、子供自体(現象)がそのまま気づきの意識によって気づかれるのです。子供は現れたが気づかれることはない、、そのような現象は起きないのです。すべての現象は現れたら必ず気づかれるのです、私が知らないところで満開の桜が咲いている、、、そのようなことは絶対に絶対に起きないのです。現象とは気づかれることとセットなのです。

今も地球の裏側では、、、

今も地球の裏側では幼い子供たちがお腹を空かして、、苦しんでいる、、、そのようなことは起き得ないのです。目の前の現象として現れた時に同時に気づかれるのです、気づかれたその瞬間に現象は現象になるのです。でもTVではよく映像で流れていますよ、、その映像だけが現象化し気づかれました。気づかれない現象はない、、本当にこの世界はシンプルです。

ゲーム上は脳が五感を作っているが実際は気づきの意識が気づいている

マリオの脳には五感を作り出す力はない

スーパーマリオが進化して五感の全てを再現したとしてもマリオがその五感を感じているのではありません。感じているのはプレイしている人間ですよね。これは全く人間ゲームも同じで人間の五感はゲーム上脳が作り出していることになっていますが実際には気づきの意識がその場で気づいています。味覚もゲーム上は舌にある組織から脳に繋がってとなっていますが、、、実際には気づきの意識です。

思考に気づくのも気づきの意識

ゲーム上は思考もマリオの脳内で作り出し脳内で感知しているとなっていますが実際には気づきの意識が湧き上がる思考に気づいているだけです。ゲーム上はマリオが思考を作り出したという思考が湧き出しそれを気づきの意識が気づくのです。ゲーム上はマリオの脳が全思考、全行動を作り出したことになっていますが実際には湧き出した思考、行動を気づきの意識が気づきます。この気づきを「私がやった」という感覚が湧きますがそれを気づきの意識が気づきます。

脳が実在しているを証明するのは無理

ゲーム上は全部脳が感知していることになっていますが、、これは全部幻想です。その証拠に脳が実在していると証明するためには視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚が必要になります、ですがこれは脳がやっていることになっています。ですがその脳が本当に実在していることを証明するにはまた視覚、聴覚、味覚、嗅覚が必要になります。五感を使っている人間が脳の存在を証明するのは不可能なのです。

全てを気づきの意識が気づいている

全てを気づきの意識が気づいているとなると時間の存在が必要なくなります。音が鳴ればそのばで音に気づき、風が吹けばその場で風を感じる、何かを食べればその場で味を感じ、思考が湧けばその場で思考を感じる、、全ての現象は湧き出た瞬間に気づきの意識に気づかれています。それをマリオが作り出した、マリオが感じたんだ、、、という感覚が湧き出した時にその場でそれも気づきの意識が気づきます。つまりタイムラグがないのです。原因と結果の法則が成立しなくなってきました。

スーパマリオには時間はあるのか???

スーパーマリオとうゲーム本体には時間という存在をしっかりと埋め込まれてしるのでしょうか???答えはNOです。TIMEという表示が変化するように設定されているだけです。マリオは動くのではなく、、その瞬間瞬間に移り変わる点灯によって動いているように見えているだけ。その点灯の動きに気づく存在がいて初めて時間があるという思考が湧く、、その思考を気づきの意識が気づきます。

森羅万象の動きも同じ

この人間社会、森羅万象も全く同じです、、現象の動きの全てに気づく存在、気づきの意識がいるので、、その変化に常に気づきます、、、気づいた変化をつなぎ合わせた時に時間があるという思考、概念が湧き出し、、それを気づきの意識が気づくのです。猫という現象、、これが変化していく、、その動きの全てに気づくから、、猫が動いている、、という思考が湧き、、その思考に気づきの意識が気づく。。。です。時間も空間も全現象に気づく気づきの意識があるからこそ、、そのような概念が湧き出しそれに気づく気づきの意識があってなりたつのです。

愛おしいしかない

全生命現象に優劣はない

今目の前に広がる全現象は全てあるがままの現れ、森羅万象の現れです、、、この現れに優劣など一切なくあるのは愛おしいさのみです。もしも現象に優劣がつくのならばそれは個人というフィルターを通しているからです。個人の物差しというものを通して見るから現象に優劣、正悪、長短、愛憎が生まれるのです。そしてこの個人という存在は実は実在しないのでそれは幻想です。幻想の物差しを通じて現象を眺めることで愛憎が生まれるのですからこれは圧倒的に損なのです。

戦争を起こす極悪人も愛おしいのか

戦争という幼稚な行為を起こしてしまうのは幼稚園児のようなものです、幼稚園児を愛おしいと思うことはおかしくないはずです。例えば人を殺めてしまうのもテロリストも幼稚園児のようなものですから愛おしいのです。子供が悪口を言い合って争っている姿は愛おしいですよね、大人が幼稚園児のような精神状態で争っているのが戦争です。戦争を肯定しているのではなく起こす動機が幼いということです。

子供の時は嫌な奴だと思っていたが

子供同士の時はおもちゃの取り合いで争い本当に憎たらしいと思っていた友人も大人からみたら愛おしい存在です。これは大人も同じ、戦争を起こす当事者同士にとって悪魔なような存在に見えても一歩上から眺めれば愛おしい存在でしかないのです。逆に言えば愛おしいと思えない存在は個人という幻想のフィルターを通じて見られてしまっています。

猫同士が真剣に争っている

猫が真剣に縄張り争いをしている時、致命傷を与えるような傷を与えることをあるでしょう。ですがこれを人間が眺めば愛おしい争いです、それぞれが真剣に生き抜くために争っているのですから。何がいいたいかと言えば全てが愛おしく見えるということは決して嘘ではなく本当なのです。あるがままの視点で全現象を眺めるそのような気づきが起きます。

不条理は変わらない

「自分」の思い通りにはいかない

この体に居る「自分」、、、この自分の思い通りには全く行きません、、、、全現象は完全オートマチック、非コントロール化に動き続けますから、、、、この「自分」はそこに関して非関与です、、、そういう意味では不条理です、残酷です、、、これをお釈迦様は人生は苦であると説きました、、、、、、、ですがこれは決して暗いことではなく、、、、究極の諦めへの理解です。

そっちに行くと、、、、

自分の思い通り=幸福、、、、この流れに行くと、、、人生は究極的に苦しくなります、、、、諸行無常、森羅万象、、、全動きは、、、、「私」とは全く関係なく動くので、、、、その動きは「私」の思い通りには全て行きません、、、、、ではこの諸行無常の中で「私」はどうしたら幸福になれるのか?????簡単です、、、「私」と関係なく幸福になるのです、、、、、そもそも「私」など存在しませんから、、、、「私」を無視して幸福になればいいのです。

体験だけがある

「私」という存在とは何も関係なく、、、、体験があり続けます、、、五感による感覚があり続けます、、、これが事実です、、、、、この五感が閉じれば、、、退屈になる、、、、、五感が開けば、、、、感動がある、、、、ですから「私」を無視して、、、、、五感を開く、体を開く、を続けていけば、、、、自然と幸福になっていきます。

勘違い、、、、

「私」が幸福にならなければならない、、、、これが多くの方の大勘違いです、、、、、ですが実際には「私」は存在せず、、、、今不幸だと感じているのは、、、、五感が鈍っているからです、、、、感じる力が鈍り、、、、ありのままの現象に感動できなくなっているのです。本来の姿を忘れ去り、、この「私」を姿と勘違いが起きることで、、、、感動から遠ざかっているのです。

悟りを今日から感じる

悟りとは感じるもの

悟りとは頭での理解ではありません、、、思考で理解して、、、それで終わるものではない、、、徹底的な体感です、、、体感ですから五感で感じるもの、、、、今日この瞬間に悟りを少しでも感じたら、、、、次に進める、、、ではどうやって悟りを感じるか????簡単です、、、今この瞬間の満足度が、、悟りの満足度です、、、今、、、こうして部屋を見渡す時の満足度が、、悟りの感度になります。感じるをコントロールすることはできません、、、これが真実です。

寝不足で、、

寝不足が続いている状態で、、、、散歩をする、、、、全く楽しくない、、、なぜならば、、、五感が開いていないから、、、、散歩が気持ちが良い時、、、、五感が間違いなく開いている、、、、ここに注目します、、、散歩が楽しい、、、この状態に体を導きます、、、、散歩だけでも大満足、、、、五感は開き切っています、、、そこまで五感が開いた時に、、真実を受け入れる土台ができます。

全ては全自動で起こる

このメッセージは日常が大変過ぎる人には恐らく届かない、、、、メッセージを飲み込む、、余裕がない、、だから意味がない、、、、体を解して解して緊張を取り除き、、、、幸福度が完全に上がったっ時に、、、、このメッセージが届く、、、、その時、、、、全てが理解できる、、、、自動反応、諸行無常、森羅万象の動きが分かる、、、本当にその通りだ!!!と、、、、それがさらなる五感解放に繋がります。つまり究極の悟りです。

それじゃ無理

シーソーゲーム

体の感覚を鋭敏にしていきますと、、、幸福度が上がっていきます、、、思考で考える概念よりも、、感覚が優位になっていくからです、、、感覚とは真実との接点であり、、、真実をダイレクトに感じる力が増えるのです、、例えば悩み事をしている時、、、料理の味がまずくなります、、、味を感じにくくなります、、悩み事が無い時、、、料理の味が美味しくなります、、、、体の感覚を鋭敏にするとは、、、真実との接点を増やすことなのです。ですがここで得た幸福度をさらに増やしていくと、、、自我が消滅してしまうので自我OSは、、、ここでマッタをかけます。。。全ての功績を自我が成し遂げた、、自我がもっと評価されるべき、、、と思考を起こします。

これだけは見抜けない

評価をされたい、、この欲望を自我OSは使います、、、もっと評価されてしかるべきだ、、、、これぞ自我OSシステムの罠、、、、せっかく体を鋭敏にし、、、幸福度を高めていったのに、、、その功績を自我が握り締めることで、、、幸福度が高い自分を成立させます、、、、自我の正念場です、、、ここで見抜きます、、この功績を握り締めようとする働き、動きこそが、、、これまで苦しみを起こしてきたのだと、、、、この最後の戦いで自我の正体が明るみにでるのです。

自我OSを追い込む

自我OSを追い込みます、、自我の働きを丸裸にします、、、自我の動きは丸裸にされると機能できなくなります、、、、マジシャンのトリックを裸にします、、自我は実は存在しないため、、、経験を「私」がやったとだという思考で、、騙し続けているのです、、、体の感覚を鋭敏にすると、、、真我に直に触れることができるため、、経験が鮮明になり、、、真我そのものに吸収されていきます、、、この動きを止めるが、、、それをやったのは「私」だという思考です、、、もっと評価されるべき!!!という思考が湧いて、、、そこに意識がフォーカスすると、、、また思考に取り込むことができます、意識を。

最後の作戦

自我システムとは、、、意識を思考にフォーカスさせますから、、、あの手この手の思考を湧き出し、、意識がそこに食いつくかを確認するのです、、、全く思考にフォーカスしなくなると、、、この自我OS防御システムは、、パワーを失い、、、消滅に追い込まれます、、、「もっと評価されるべき」「もっと良い暮らしをしていていいべき」「もっと、もっと、もっと」が現れ、、意識に訴えかけてきます、、、、この全ての作戦を見抜ききり、、、思考に全くフォーカスをしない時、、、突然自我OSシステムは崩れ、、、森羅万象、万物を動かすOSにシフトチェンジします。大周天、サマディ、太極、自然無為、悟りなどと言います。

委ねる

本当の美しさとは

本当の美しさとは、、委ね切った動きです、、全体に、森羅万象に委ね切った動きこそが美しい動きなのです、、そこには計算がなく皮算用がなく、、動きに任せる動きが起こります、、、自我は計算に継ぐ計算、皮算用に次ぐ皮算用、小賢しさに次ぐ小賢しさ、、これしかない、、、全く美しくない、、、

委ねるには

委ねるには、、、真実を知ることです、、、真実に照準を定め、、真実を手放さないことです、、ギュッと握って、、、手放さない、、、そこにしか至福、静寂、平和がないことを悟ることです、、、この現実社会が100パーセント実在しないのは分かっているのです、、「モノがある」という感覚は100%錯覚なのは分かっているのです、、、なぜならば、、、理屈上ありえないから。

だとすれば

私など絶対に居ないことはわかり切っているのです、、だとすればこの全てが自分でしかない、、そこにしか可能性はない、、その感覚でこの世界を見渡します、、「在る」という感覚が間違いなくあり、、この感覚だけが真実、、、それ以外は全て錯覚、、エネルギーの現れに過ぎないことを悟ります、、その時にこの世界は完全無欠であることに気づきます、、、何も問題など起きたことがなく、、、これからも起きないことが分かります。

元「私」、現神

私を卒業します

元モーニング娘。元SMAP、、元乃木坂46、、、芸能人の多くはグループを脱退した後に、、そのような名称になります、、、元私、元自分、元我、、、、私は、、、私を辞めると元私としての活動になります、、、元私とは誰なのか、、、神です、、、、私とは、、神の動きの一部である人間という現象に、、、付けた名称、、概念、アイデアです、、、本当は神、森羅万象、諸行無常、真我の動きしかこの世には存在しません、、、

徹底的に「私」を外して生きてみる

徹底的に「私」を外して生きてみてください、、、、何にも問題なく過ごせます、、、バーに行っても、、、この私が存在しないかのように振る舞ってみてください、、、、誰からも声をかけられなくても気にしない、、、「私」はアイデアでしかないのですから、、全く問題がありません、、、、

私が馬鹿にされた、私が軽く扱われた

アイデアでしかない「私」が馬鹿にされると人は怒ります、、、ですが私はアイデアであって本当は実在しない、、、脳は「私」が馬鹿にされると、、、この体にとってマイナスと捉え、、、怒るという感情を生み出します、、、もっと大切に扱われるべきだと、、、ですが体にとって不利益がなければ本当はどうでもいいことです。

脳が作り出したトリック

最初に実在なし

なぜ人類はこんな簡単に脳に騙されてしまっているのか???最初に「私」という実在があって、、そこに「私」「我」「俺」「I」「自分」という名称を付けたのではない、、、、最初は何もなかった、、、そこに言葉を覚え、、、そういうイメージが存在するかのように、、、動いていただけ、、つまり元々は、、無かった、、、その動きに対し、、、「私」「我」「俺」「自分」を当て込んだ、、、、いつの間にか、、「私」「我」「俺」「自分」が存在しているという前提の行動が生まれ始めた、、、

「私」が実在している前提の思考、感情が生まれた

いつの間にか、、「私」「我」「自分」が実在している前提の思考、感情、行動が生まれ始めました、、この「私」が有利になるような思考、感情、行動が生まれる、、、、脳はこの体を安全に維持運行するために、、私を発明し、、、この体の責任者に仕立て上げたのです、、、、脳は「私」という概念を生み出し、、、この「私」がさも居るようにしむけ、、、この体、私の二つを維持するように仕向けたのです、、進化のプロセスでただそれが起きました。。。

食べれるならば、、「私」は要らない

体を維持管理するために発明された「私」という概念、アイデア、思考は、、、食べていけるならば、、もう必要がない、、、むしろ、、、この「私」ありきの思考、感情、行動は、、、うざい、、、不必要、、、となります。。。実際に、、食べていけているにも関わらず。。。「私」がもっと評価を受けるために、、高級車を求め、高級マンションを求め、高級時計を求め、高級異性を求める、、、、そのためにあらゆる犠牲を払ってでも。。。。時間の無駄、、、、

「私」を卒業し、、、神として生きる

私とはこの体を安全に維持運営するための机上のシステム、アイデア、概念ですから、、もしもそれが達成し、、さらに俯瞰できるならば、、、もう必要がなくなります、、、そして脳はそれを受け入れます、、なぜならば脳はこの体を維持運行できればそれでいい、、、もっと安全な方法があるならばそれを受け入れます。「私」の卒業です、、、万物は全てたった一つのエネルギーの移り変わり、諸行無常、森羅万象であり、、その中の活動の一部に「私」というラベルを貼りました、、、その「私」というラベルは森羅万象の動きに合わせて動くので、、、今度は[「私」が居るという思考]が起き、、、その前提の思考、感情、行動が起きるようになったのです、、「私」というラベルを剥がしてしまっても森羅万象は動き続けますから、、、元「私」は動き続けます、、、ただし「私」ありきの思考、感情、行動は徐々に減っていきます、、、

動くな

自我の動きを止めろ

この私、イメージの私、概念の私はこの物語の世界で、夢の世界で、概念の世界で、、、、動き廻ります、、、そのままでは苦しいからです、そのままでは不足感、渇望感、孤独感が襲ってきますから、、、何かを求めます、、、その何かは「私」には実は分かっていないのですがそれでも求めずにはいられません。これがこの世界に生きることが苦しみをさらに生み出します。悟れば分かります、、この求める動きこそが苦しみを終わらせないことを、、、、ですから覚者は言う「動くな」と、、、、

動いたって無駄

いったい何年間動き続ければ気が済むのか、、、自我に任せて動き続け、、、本当の幸福を得たことはあるのか???という話です。ないはず、、、この地上で横に動き回っても、、思考を動かし続けても絶対に至らない幸福を手に入れるためには、、、先ずは理解することです、、、動いても手に入らないことを。そして今この場所、、、ここに全生命エネルギー、森羅万象の動きがあり、、、それに気づく存在が居る、、この両極の存在が私です。

この夢の動きこそ

この夢、幻想の動きこそが私です、、この夢、幻想の動きを支える場所こそ私です、、、この見かけ上の「私」を生み出す存在こそ私です、、全思考、全感情、全行動を生み出す存在こそ私です、、、全動きが在るから動きのスペースの存在(空)が現れ、、スペース(空)が在るから現象(色)が現れます、、色と空は一つであり、、、それが私です。ここに気づくためには先ずは見かけ上の「私」の動きを止める必要があります、エゴ、自我、自己意識と呼ばれる存在の動きを止めます。