役者

自分らしくあるのになぜ努力が必要なのか????

普通に考えれば

自分以外の者になるのは当然努力が必要でしょう、、例えば役者が、、役に成り切るには努力が必要なのは理解できます。ですがなぜ自分が自分になるのに努力が必要なのでしょうか????我々はこの社会に適合しなければ生きていけないと信じています。信じていますからその観念がこの夢に投影されてそのように映ります。ですが実際には何か別の者になる方がエネルギーが必要なのは明白なのでそれは疲れるわけです。役を演じるといことを学習できたのですから次は役を演じないで生きるというプロセスに入ってもいいかもしれません。

ここからは努力はいらない

自我を形成するとは「この体この思考この感情が自分である」を信じそう活動することです。偽りの自己を完全の演じるわけです。これは努力が必要なのです、だってこれは偽りですから。その偽りの姿で、、さらに何者かになろうとするわけです、、政治家、役者、医師、パイロット、スポーツ選手などなど、、、これは非常に疲れますよね。演技にさらに演技を重ねていくわけですから。ですがこれをやることでこの体を守るという仕事をしてきたわけです。この先はではどうするか???まず大前提の「この体この思考この感情が自分である」は概念であって真実ではないことを悟ります。便宜上そう信じて生きてきただけだということ、そうなるとその偽りの自分が次にやる役割は全部偽りです。だから疲れていたことを認めるのです。すると得体の知れない憤り、疲れが吹き飛びます。

分かったところでどうなるの????

この質問が分かっていないのです、、この質問が出る時点で分かっていないのが分かります。そのことが腹の底から理解できますと、、至福歓喜平和が押し寄せてくるんです、、本当の自分が本当の自分でいればいいんですから!!そこに努力はいらないんです、、努力しなくていい状態に帰るんですからこんな安堵感はないんです。もう何かになろうと努力しなくていいんです。やるべきことがあるとすれば本当の自分が誰かを思い出すことだけです。

それでもこの体は残りますよね????

この体が自分じゃないって言われてもこの体は残りますよね?????しっかりと今もこの体はここにありますよ!!!!そうです確実にあります、、今それを認識してますよね?????その認識した存在こそが私です。この体という名前の何かを認識する存在が本当の私です。もうこれからは「この体が私だ」と思わなくていんです。この体を認識するのが私です。この体を通じて認識する全てに気づくのが私です。この体は認識できる現象でしかなくその現象を作り出したのが私です。そして目の前にそびえ立つ木々を作り出したのも私です。私しか居ないんです、、私しか居ないのならば、、、私という概念も最後は消え去ります。

思考では解決はない

人類の歴史が証明している

こう考えれば、、、人生が楽になる、、、という正解があるならば、、、学校の教科書にそれは載るでしょう、、国連の第一条にそれが載るはずです、、、、ですがそんなものはない、、、ノーベル賞受賞者という視座の高さをもってしても、、、、幸福になる方法を人類は発見できていないのです。。。。なぜか?????思考そのものが、、、、虚しさを作り出す真犯人だからです。

言葉を強制的に覚えさせられた、、、

人類を発展させた立役者、、言葉、、、この言葉こそが、、、、人類を同時に虚しい世界に閉じ込めたのです、、、先進国とは、、、言葉で文化を発展させた国ですから、、、虚しいのです、、、、どこまでも虚しいのです、、、、言葉は想像、、虚構の世界を作り出すのです、、、、ここは虚しい世界なのです、、、

体の感度を高める

体の感度を高めますと、、、体験というこの世界唯一の現実、真実を感じることができます、、幻のこの世界で唯一の真実、、それが「感じる」です、、、これ以外は全嘘です、、、この感じるが増えていきます、、感じる密度が上がります、、、感じるが思考を超えます、、、感じる時間が増えます、、、、すると虚ではなく実が増えます、、実(真実)が増えていきます、、、充実が増えます、、、、最後は充実そのものになります。

大和田菜穂さんについて思うこと

全体がそのまま話をしている

彼女の話す内容を聞いていると、、、全体が全体のまま話をしている感覚を覚えます。人間に成り切ってしまった全体ではなく人間のふりをした全体がただそのまま話をしています。役者はその役に成り切って話をします、、キムタクは毎回その役に成り切って話をするわけですが、、大和田菜穂さんは全体がそのまま役にならずに話をしているような感じです。

全体が全体のままか、、全体が役に成り切っているかの違いだけ

大和田菜穂さんもそれ以外の人も、、、全部全体です、、、その全体が、、役(私)に成り切っているかいないかの違いがあるだけなのです。。。この違いはそれで大きく役に成り切れば、、苦しみが強制的に湧きます、、、役にならずにそのままの姿であれば、、苦しみは湧きません。。。本当にこれだけなのです。ですから大和田菜穂さんからは苦しみを感じない、、、

主語は全員が全体、、、

主語は全体です、、、全体が「〇〇○男」になって人生を生きるか、、、全体がそのまま全体としてただ今を感じるかの違いです。全体が「〇〇○子」になって人生を生きるか、、、、全体がそのまま全体としてただ今を経験するかの違いです。この違いが苦しいか絶対幸福かを決めるのです。。。解脱、悟り、サマディ、ブラフマンとは、、全体が役に没頭していた状態から、、役から降りた状態、全体そのものに返った状態なのです。

怒りが起きた時の観察

怒りはどこから起きたのか?

怒りという感情が湧き上がったときに強く「自分が居る」が湧いてきています。自分が騙された、自分が馬鹿にされた、、、という思考には当然自分が居るがセットになっています。すると怒りという感情が湧いてきます、、これで自分が怒っているという思考が湧いてきます。この思考が怒りが湧くを継続しやすくします。事実では何も起きていません、ただ怒りと思考が湧いただけです。怒る自分と怒りの対象はただのラベル、実在はしません、名前という思考は実在しますが、、

これが分かると真剣に怒れなくなる

怒るには対象が必要ですし、怒る自分も必要になります。何も対象がなく怒る自分も居ないのに怒ることは難しいでしょう。役者さんは「ハイ怒って」と監督から指示が出たら対象の誰かを「想像し」実在するかのようなレベルまで集中します。こうしなければ怒りは絶対に湧いてこないのです。つまり怒るには「対象」が絶対に必要なのです。悟ってしまうとこれができない、、怒るべき「対象」が存在しないことを分かってしまうからです。本当はこの人は実在しないのでは???そう思考しながら怒るのは不可能なのです。

怒るぞ、怒るぞ、、、不可能

今日は絶対に怒ってやる、、、このときに絶対に対象が必要になります。それは政治なのか、ニュースなのか、芸能人なのか、友人なのか、上司なのか、、、、とにかく何かが必要なのです。そして怒るのは「自分」という存在無しでは不可能でしょう、、、二元の世界にどっぷりと浸からなければ不可能なのです。

究極の分離から究極の融合へ

究極の分離とは自立した大人

自立とは自らで立つと書きます。自ら立つ、、、この自らというのがポイントでこれこそが宇宙アートから完全に分裂し分裂した身としてしっかり立つことを意味します。自立とは自我の完璧な分裂でもあるのです。この状態は逞しくはありますが日々不安感、喪失感、恐怖感、欠乏感が湧いてきます。なぜならば宇宙全体からの完全分離は苦しいことだからです、本当は分離していないから。役者が役になり切っている状態はある種全部が偽りの状態、快楽もないもかもが嘘です。

役に入り込みすぎた役者は、、、、

役に入り込みすぎた役者は、、、食事の趣味も、性格も、好きな娯楽、好きな音楽すらも、、、本来の状態を忘れ全く別人格になります。これは全部が全部偽りの状態、、、どこかで無理がくる、、おかしくなる、、、居心地が悪くなっていく、、、、何かがおかしい、、、が常に頭をノックする、、、、、これが完全分離した大人の精神状態です。宇宙全体は完璧なまでに人間になり切った姿、これが自立した大人です。これが究極の分離です。

究極の分離に疲れたら究極の融合を目指す

究極の分離は周囲からは讃えられるでしょう、素晴らしい、責任感がある、真面目だ、、、ですが実際には本人は苦しい、どこかで違和感を感じています。もしも完全なる分離体験に疲れたら、、、究極の融合体験を目指すべきです。究極の融合体験とはこれまでバラバラに分離してきた情報を再び融合していくことです。情報を整理していくのです。バラバラに散らばった机の中をカテゴライズして整理していくことで頭の中が整理されていきます。頭の中が整理されていくということはこの見える世界が整理されていくことになります。そうなるとどうなるか見える世界が融合していくのです。見える世界が融合されていき見える世界に活気が再び戻ってくるのです。そして究極の融合とは何か?ご想像通り悟りです、要はこの分離して見せてきた世界が実はたった一つのエネルギーだったといういう理解、気づきです。

舞台監督が役者欠席で代行している

舞台監督が急遽役者に、、、

舞台監督が自身が制作している舞台で、、、急遽主役が欠場を、、、その時に困った舞台監督は主役を代役することになりました。自身が舞台監督をやっていながら主役もやるという監督兼主役です。これをやっているのが人間です。人間は実は舞台監督が代行でやっているのです。我々は完全に主演のみだと思っています、ですが本当は舞台監督兼務なのです。というよりも舞台監督が本来の職業です。ということで我々人間は主役を頑張りすぎてすっかり自身が舞台監督であったことを忘れています。

主役になり切っているとしたら優秀な監督

主役になり切れているとしたら我々は完璧の優秀な監督でしょう、なぜならば本当は監督ですから主役に成り切る方が難しいのです。にも関わらずしっかりと主役になり切っているとしたら憑依体質、役者としても優秀です。この舞台ではまずは役になり切らなくては舞台進行が進まないのです。主役に成り切るからこそこの舞台での喜怒哀楽を真剣に演じ切れるというわけです。

でも最後は自分が監督であったことを思い出す

いくらこの主役に成り切り完全に役と同一化が成功したとしても、、、本当は監督ですからどこかでそれを思い出すことになります。本当は監督であるのが真実で今は仮初の姿です。仮初の姿で居続けるのは辛いものです。主役としてあらゆる舞台公演を成功させ続けても何かしっくりこない、、このしっくりこない理由こそがこれです。大舞台の主役を張り続けても、、、何か違う、、、この違和感、、、、これが人間が抱え続ける苦悩なのです。

覚者とは映画のバラシ監督

映画の途中で「バラシます」と言っている人

映画業界では「バラシ」と言って完成した撮影用セットを解体する時に使う言葉があります。撮影が終わったら当然この撮影セットは必要なくなりますからこれを解体する必要があるからです。バラシ、、、撮影中の役者さんからすれば完全に役に入りきりその舞台で演技に興じていれば、、いきなり舞台がバラされてしまうと変な気分になるはずです。この「自分」という存在が舞台がバラされていくことで同時に無くなっていきます。この自分は舞台、セットあってこその話、、、セットが解体されていくのに役に没頭したままというのは先ず不可能でしょう。覚者と呼ばれる人々はこのバラシ監督です。本当は名前なんてないんですよ、全部後付けで名前を決めてみんなで覚えてさもそれが実在しているかのようにみんなで共通認識しているだけなんです、、こんな言葉でバラシを行います。当然その中の映画に出演中の人々は何を言っているんだ?という話です。なぜならば見えている世界に本当は名前もなく何もないならばこの「私」も居なくなることになってしまうからです。

この現象界のバラシは簡単

この現象界のバラシは簡単です、、、名前が後付けで人間は名前を暗記するとそれがさも実在するように見る力があるということを説明するだけです。人間の特殊能力、現象に名前を付けさらにそれを記憶することができる。この特殊能力ゆえに人間はこの現象界にあらゆる物体、人物が居るかのように思えるのです。覚者はこれを解説していくバラシ監督です。最終的には役に飲めりこんでいる人間に「ということであなたも居ない」と言い放ちます。セットが実は作り物であるように、、あなたも役になり切っているだけですと。これで解散となります。私主人公の映画が。

「バラシ」が終わって深刻さが抜けたら映画と分かった上での人生がある

この映画、自分主人公映画は「バラシ」が終わって何にもなくなった後に再び映画と分かった上で映画を組み立てるということができます。全部分かった、確かにこれは映画で本当はセットも他の役者もいなく、自分もいない、、、それは分かったからまたこの映画を楽しみたい、、、ということです。そうなるともうこの劇中で深刻になることも落ち込むことも驚くこともできない、、、ですが今度は役を演じているという大自覚の元何かしらをやりたいという衝動が生まれてきます。映画だと分かっているからこその衝動があります。

坂本龍馬の行動は自己超越

「自分ごと」がない

坂本龍馬の行動は自己超越を上手く表現しています。彼は「自分」の損得を完全に超越して行動を取り続けていきました。もしも彼が「自分の損得」にこだわっていたらあのような偉業は達成できなかったはずです。自我とは損得でしか動けません、この自我を超越しなければ損得を超えた行動を取れないのです。彼は日本という国が海外の列強国に狙われていると危機感を感じ国のために行動を続けていた結果「自己」「自我」「自分」が消えてなくなりました。自我は放置しておくと消えてなくなります、なぜならば実在しないからです。そうなるともう全てを「自分ごと」にできなくなります。

無我が行動している

自分ごとがない人の行動とは自分がいない人の行動です、自己超越した行動、宇宙全体の行動の現れです。そこには体や思考、感情はありますがそれを「自分のもの」とする感覚が抜け落ちています。そんなことは出来るわけがない、、いや出来るのです、、、優秀な役者さんは演技中「自分」を完全に忘れています、なぜそんなことが出来るのか?それは元々「自分」はいないからです。「自分」がいるという思い込みはあります。坂本龍馬は国ためにと動いていたら「自分」という思い込みが完全に外れ「無我」「大いなる存在」になってしまっていた、、こんなところでしょうか。

「自分ごと」がない人は気持ちがいい

「自分ごと」に溢れている人は苦しい、、自分こそが苦しみを湧き出す根源ですからこれが強化されればされるほどに苦しみが湧いてきます。ですがこの「自分ごと」が抜け落ちている人は気持ちがいい、、苦しみを携えていないからです。これは人畜無害とは違います、本当に本人の中から苦しみが湧いていないのです。なぜならば苦しみを湧き出させる「自分」が抜け落ちているからです。「自分」という思い込みが壊滅状態にあります。

10人の子供を育てるお母さんは自我が皆無

戦後の日本では一人の女性が五人、六人と子供を育てていましたが、、その当時の母親には自我が欠落していたはずです。朝起きて寝るまで子育てに追われ「自分」に構っている時間など皆無だったはず。「自我」は構ってもらえない、注目されていないと自然消滅してしまいます。なぜならば本当はそんなモノはないからです。この体、思考、感情を「自分のもの」と思い込む認識があるだけです。この認識が吹っ飛べば誰でも自己超越に入ります。この世界が認識する自己が居ないならば全体、全宇宙、大いなる一つ、神ということになります。「自分」をうっかり忘れた神になります。

眠るに入るから目覚めがある

思考との同一化は眠りに入ること

目覚め体験、覚醒体験、気づきの一瞥、、、、悟りを開く時にこの言葉を使うということからも我々は通常眠っている状態に似ています。起きているのに眠っている???意味がわかりません。要はこういうことです、気づきの意識、目覚めの意識がこの思考と一体化、同一化している状態は役に入り込んでしまった役者のように本来の自分を忘れてしまっている状態なのです。起きているけど、、寝て夢を見ているような状態なのです。夢を見ていることを気づいている気づきの意識はハッキリとありますがハッキリと寝ている状態なのです。ですからこの同一化に気づくということは目覚めると表現するのです。

目から鱗が落ちる

目から鱗が落ちるって全く自分では予期できません。いつのまにか勝手にそれが起きます。これと目覚めは全く一緒、夢を見ている時にこれって夢ではないか?という急激な気づきが起きます。この目覚めを誘発する行為こそが無我に入ることです。全作業、全行為に対して集中してことにあたることでいつでもどこでも無我に入る癖を付けていきます。これは起きている状態を最初に経験してしまう方法です。起きている、目覚めた状態が分からなければそこに意識的に入ることができません。思考の雑音に関しても意識的になることです、思考の雑音を意識して観察することで雑音が無くなります。この状態が無我です。これを毎日意識的に行うことで眠った状態で目覚めた状態を日々疑似体験できるようになります。

昔の覚者が山に篭ってそれを成し遂げた理由

昔は悟りを開くというと山に篭ってというのが通説でした、、、人間は俗世間に居るとどうしても情報に溢れ人間関係に縛られ思考のフル回転を制御できなくなります。それを避けるために意識的に人を避け、無我に入りに行ったのだと思います。今の世の中でそんなことをすれば社会復帰するのもままならなくなってしまいますから先ずは全行為に集中する、思考の雑音に意識的になる、、、これらから無我体験をするのがいいかと思います。毎日無我体験をしていると無我が強烈に目覚めたくなっていき自我を叩き起こします。

覚醒法とは反復

あえて反復に全て持ち込む

私が推奨する覚醒方法は反復です。どのような作業、タスクも反復活動で片付けていきます。例えば私はこのブログ発信を反復で発信しています。一つのブログにかける時間は5分間です。それ以上の時間をかけることはありません。ブログを書こうと決めたら五分間で片づけます。これを1日の中で何度もやります、気が向いた時にブログを書く、ただこれを繰り返していきます。結果に拘らず生活の一部にしていきます。するとブログを書いているときは無思考、無心、からの無我に入ります。書いている時が至福状態になります。ブログを書いている瞬間が至福、歓喜、安堵に入ります。結果が出る前からその状態を手に入れることができるのです。

公文式は日本が誇る禅勉強法

公文について詳細はわかりませんが公文での勉強方法は反復が基本になっています。何度も似たようなレベルの問題を解き続けます、無心、無思考、無我の状態になるまで解き続けます。すると不思議いつまにか自身の学習レベルが上がっている。九九を覚えていたらいつの間にか割算に進んでいる、この期間に思考が入り込む余地はありません。先生の授業すらありません。私は公文式とは禅、書道、花道を取り入れた日本発勉強法と読んでいます。無心、無我、無思考状態はそのまま歓喜、安堵、平和です。勉強中にそのゾーン、変性意識状態に入れます。

仕事、家事、体力作り、全てを反復に持ち込む

よく考えてから動く、効率を考えてから動く、結末を考えてから動く、、、我々はいつの間にか思考を使ってから動くことを学びます。いかに効率よく、手際良く、無駄なく動くか。無思考で動く人間を知恵が足りないと呼んで卑下します。勿論思考は重要です、人類発展の立役者です。ですがそれでは至福、歓喜、平和には至れません。何を達成するかを決めたらそこからは全て反復作業で達成していきます。あえてどんなに遠回りでも反復を駆使します。反復で達成できないことなら「やらない」こう決めてもいいでしょう。ある成功者の言葉で感銘を受けた言葉があります「毎日できないことは最初からやらない」これは痺れました。週一のゴルフ、週一のテニス、週一の楽器勉強、週一の自己啓発セミナー、週一の掃除、、、、これらを辞めます。反復で至福に入れることのみで1日を構築していきます。