眠るに入るから目覚めがある

思考との同一化は眠りに入ること

目覚め体験、覚醒体験、気づきの一瞥、、、、悟りを開く時にこの言葉を使うということからも我々は通常眠っている状態に似ています。起きているのに眠っている???意味がわかりません。要はこういうことです、気づきの意識、目覚めの意識がこの思考と一体化、同一化している状態は役に入り込んでしまった役者のように本来の自分を忘れてしまっている状態なのです。起きているけど、、寝て夢を見ているような状態なのです。夢を見ていることを気づいている気づきの意識はハッキリとありますがハッキリと寝ている状態なのです。ですからこの同一化に気づくということは目覚めると表現するのです。

目から鱗が落ちる

目から鱗が落ちるって全く自分では予期できません。いつのまにか勝手にそれが起きます。これと目覚めは全く一緒、夢を見ている時にこれって夢ではないか?という急激な気づきが起きます。この目覚めを誘発する行為こそが無我に入ることです。全作業、全行為に対して集中してことにあたることでいつでもどこでも無我に入る癖を付けていきます。これは起きている状態を最初に経験してしまう方法です。起きている、目覚めた状態が分からなければそこに意識的に入ることができません。思考の雑音に関しても意識的になることです、思考の雑音を意識して観察することで雑音が無くなります。この状態が無我です。これを毎日意識的に行うことで眠った状態で目覚めた状態を日々疑似体験できるようになります。

昔の覚者が山に篭ってそれを成し遂げた理由

昔は悟りを開くというと山に篭ってというのが通説でした、、、人間は俗世間に居るとどうしても情報に溢れ人間関係に縛られ思考のフル回転を制御できなくなります。それを避けるために意識的に人を避け、無我に入りに行ったのだと思います。今の世の中でそんなことをすれば社会復帰するのもままならなくなってしまいますから先ずは全行為に集中する、思考の雑音に意識的になる、、、これらから無我体験をするのがいいかと思います。毎日無我体験をしていると無我が強烈に目覚めたくなっていき自我を叩き起こします。

(Visited 4 times, 1 visits today)