覚醒呼吸法・断食法

感じる力を養う

美味い

スポーツの後のビールって美味しいですよね?????あれってなぜでしょうか????簡単です、、感じる力が増えているからです、、、スポーツで五感を使ったからこそ感じる力が増えているのです。断食、ファスティング明けの食事は涙が出るほど美味しいのですがこれも感じる力が増えているからです。今を感じる力が増えますと、、いまここで真の安らぎを獲れるようになっていきます。本当にここに全てがあることを「感じる」ようになりますと、、、何かを貪る、、、という感覚が消えていきます。

概念ではない

真実は概念ではなく、、概念が抜け落ちた状態ですから、、、これを概念で掴むのは不可能です。感じる以外にありません。ですから感じる力を増やしていきます。「呼吸法」「断食法」もその一つで、、、その方に合った感じる力の増やし方でいいのです。覚者の本を読んで、、勘違いが抜け落ちることで、、感じる力が急増する、、これもあると思います。

断食の凄さ

呼吸法に関しては能動的な努力が必要になりますが、、断食は、、何も努力が要りません。なぜならば食べるという行為をしないことだからです。「食べない」だけで感覚が鋭敏になっていきます。ビールが美味しくなるということは、、全部を美味しく感じるようになるのです。食べ物が美味しくなるということは、、吸う空気すらも美味しく感じるということです。この感覚を断食は作ります。

悟りを悟る

釣りを悟る

釣り三昧、、釣りにハマってしまって、、、、コツを掴んだんですよ!!!!これって釣りを悟ったんです。。。釣りを完全に理解したんです。。。。毎日毎日釣りをしていたら釣る感覚がわかってしまって。。。。です。人はある特定の分野では悟りを開くんです。毎日毎日やっている合間に、、、、悟るんですよ、、、ある分野においては。だから悟りって言葉頻繁に聞きますよね、、、、、そうしたらですよ、、、、悟りを悟ってもいいんじゃないですか。。。。釣りを悟る、ラーメンを悟る、、ポケモンカードを悟ったら、、、、悟りを悟ってもいいと思います。

悟りを悟るって釣りと同じです

悟りを悟るって言葉聞いたことないですよね????でも釣りを悟れたならば、、悟りを悟るって可能ですよね????釣りに1000時間費やせたならば、、、悟りに1000時間費やしたって良くないですか????そうです、、、、釣り三昧もとい悟り三昧に入れば、、、、悟り、三昧、サマーディは可能なんです。では悟り三昧って何をするんでしょうか?????簡単です、釣りと一緒で悟りのことばかり考えて悟りの実践ばかりをすればいいのです。

呼吸法

私は悟りを開くには呼吸法が早いと思っています。釣り人がひたすらに糸を垂らすように、、、ひたすらに呼吸に専念します。釣り人が浮き輪に意識を向け続けるように、、呼吸に意識を向け続けるのです。呼吸に意識を向けること1000時間、、、、何かが変わりますよ、、、景色が変わるかもしれません、音が変わるかもしれません、思考の現れが変わるかもしれません、気分が変わるかもしれません。。。。。とにかく何かが変わります。私は全部が変わりました。

観察する王とマリオの個性

我々の本質は王

マリオには個性があってこれが変わることはありません、マリオのジャンプ力、走力、反射神経、、マリオの初期設定は変わらない。。。そしてそれはこの現実と呼ばれる世界でも同じです。名前をもらったこの体には個性があってそこは変わらないのです。観察する王はマリオと完全分離できている場合、、マリオの全行動、全思考、全感情を楽しめるようになります。それは上手くいくとかいなかとかじゃなく、評価されるとかされないとかじゃなく、カッコ良いとか悪いとかじゃないんです。ただマリオの活動が楽しいのです。

観察する王

この体、このマリオと観察する王は全く違う次元の存在です。観察する王は一切の変化が起きません、つまりいつも在るのです。ところがマリオは年齢を重ねて年老いていく毎日が実は違う存在です、、そのマリオを完全な王として観察するならば我々は大いにこのマリオ活動を楽しめるのです。王は王ですから、、ただそこに居るだけで楽しい、清々しい、安らぎなのです。

思考が湧いたら王に戻る

マリオから思考が湧いたら王に戻って観察します、思考が湧いたら王に戻って観察するのです。。多くの方は王が思考そのものになってしまい思考が湧くと王が消えるのです。王が王として君臨しない世界はただ苦しい世界です。思考が湧いたら王に戻って観察する、、思考が湧いたら王に戻って観察する、、、これを習慣化しますと威厳のある王が戻ってきます。思考に飲まれないのください、思考は王が観察する対象でしかないのです。

観察する王のデバイス体験

デバイス体験は疲れる

我々の本質は王です、全現象に今気づいている王です、太陽の光、雨の滴、風の動き、花の香り、、、これら全部に気づくのはこの体ではありません。王です、王が気づくんです。この体は現象でしかなく、、この体には気づく能力はゼロなんです、、、この体は王の気づきに同期するシステムがあるだけです。つまりこの体とはデバイスの一つです。王はなぜこの全現象に気づくことができるのか???それは王が非全現象だからです、、全現象の全く正反対のエネルギーだからです、、だから気づくのです。

幼稚園児までは

幼稚園児までは、、王が絶対的に居て、、、この体はデバイスでしかなかったのです。だから人生に苦しみはゼロでした。。。ところが小学校ぐらいに入ると、、、王がデバイスから起こる思考に気づき始めたのです、、デバイスから起こる思考に気づき、思考に気づくを繰り返すようになりました。。この思考とは、、、イメージです、、分離のイメージ、この世界とは独立した体というイメージ、、この世界と分離した私というイメージを作るのです、、王がこの思考に気づくことでその度にイメージ画像が浮かび上がり、その中でだけ苦しみ、孤独、分離感、緊張感が生まれるのです。

騙される

この苦しみを解消するため、、またデバイス(体)からあらゆる思考が湧き上がります。あれをしたらどうだ???これをすたらどうだ????人気者になったら解消するのでは????成功したら解消するかもよ、、、、その度に王はその思考をイメージ化させて、、、また「苦しい」が起こるのです。これがデバイスにより人生ストーリー、渡る世間は鬼ばかりです。

デバイスの思考から王を外す

王はデバイスから湧き上がる思考に集中し過ぎるがゆえに思考の湧き上がりに着目し過ぎています。これではいつまで経っても喜怒哀楽ストーリーから抜けれない。。。。ということでこの王の思考着目構造を壊したい、、これが悟り、解放、覚醒です。王が思考に着目しなければそもそも思考は湧かないのです、、、ですから意図的に思考以外に王に着目させるというトレーニングを行います。それが呼吸法です。

観察する王

音に光に香りに

私とはこの全現象に気づく王です、、、鳥の声、鳥、鳥の動き、鳥の色、、、これは人間の体が捉えているんではないんです。人間の体はこの王の気づきに同期しているだけです。王が気づき、それに体が同期します。全てに気づいているのは王です。王以外にこの現象に気付ける存在は居ないんです。友人が話しかけてきました、その友人の表情、顔色、声、、全てに気づくのは王です、、気づきの存在です、、、これにこの体が同期します。

王は最初から最後まで王

王が王じゃなくなる時はないんです、、、この体はしょっちゅう画面上から消えますが、、、王がこの画面上から消えてなくなることはないんです、この世界は王の所有物です。王の所有物でなかった時など存在せず、、王に気づかれない現象もまた存在しないのです。その気づきがこの体に同期します。だからこの体は王の同期媒体でしかなく、、それ以上でもそれ以下でもないんです。王のデバイスの一つです。

王の威厳が損なわれる????

王の威厳が損なわれる、王が自信を無くす????そんなことはあり得ないのです、、なぜならば王はこの世界全ての現象を生み出し気づきそして現象を消し去っていく存在です。その能力が損なわれることあありえずそしてこれからもありません。ただしこの体というデバイスは調子が良い悪いはあるでしょう、、時に失敗し、時に成功し、、時に称賛され、時に避難もされるでしょう。。ですがこの体は体でしかなく、、王のデバイスに変わりはなのです。

デバイス(体)のトリック

このデバイス(体)には脳があり、、、ここの王が意識を向けますと、、、思考が湧き出してきます、、この思考に王が意識を向けますと、、、このデバイスの人生映画が展開されます、、イメージ化、映像化されるのです。。この映画が流れ続ける間、、、、楽しい、苦しい、喜怒哀楽のストーリーが始まります。ですからもしも「苦しみ」を終わらせたいのならば、、、王はこのデバイスの脳に意識を向けない、、をしないといけないんです。それが呼吸法、断食法です。

最初からこの世界の王なのに

なぜかマリオで王になろうとする

我々の本質は完全にこの世界の王です。だってこの世界で起こる全てに気付けるのはこの本質、王だけなんです。今私が、、風に気づき、光に気づき、気温に気づき、、、と思っていると思いますが、、実はこれ本質が気付いています。ゲーム上のマリオ(私)ではないです。マリオ(私)には気づく能力は備わっていません。つまり本質の存在、王として、、、、気付いているんです、全てに。

ところが

ところが、、、自身が王であることをすっかり忘れてしまい、、自身をマリオと勘違いすることから、、なぜかマリオとして王(本質)を目指すという意味不明な行動にでます。本当は最初から王なのに、、マリオとして王を目指すという意味不明ゲームが始まるんです。マリオ(私)はこんなもんじゃない、、という感情が溢れ、もっと評価されもっと賛美されもっと称賛されるべきだ、、、が起こるんです。当たり前ですよねだって私は王であってマリオじゃないんだから。

ここからがきつい

しかしながらマリオはマリオであって、、、王じゃないわけです。マリオは単純にキャラでしかないですから一長一短、得手不得手、上手下手、があるわけですよ!!!!!王になれるわけがないんです。能力が最初から決まっているのですから。。。。だからこの勘違いが地獄の勘違いなんです。そして今もこうやって全現象に気づく王なわけですからマリオで王を目指す必要は全くないんです。

マリオと王を分離する

ということで悟りとは、、、マリオと王は別人で、、我々の本質王はマリオで天下を取る必要がないという気づきを体現することです。俺マリオじゃない、、、この気づきを体現することなんです、体感することなんです。そのためにはどうすればいいのか?????呼吸法です、断食法です。マリオに同化してしまい、、、すっかり自身をマリオだと勘違いしている王を叩き起こすのです。マリオから湧き上がる思考をシャットアウトしてしまい、、王がマリオに同化できない状態を作るのです。呼吸法と断食法はこれを体現するためのツールです。

いつかどこかで

その思いこそが悟りの表現

全表現はいまここで起こります、「いつかどこかで悟りたい」この思考も悟り、解放の中で今起こるのです。今は本当に苦しいけれど、、いつかどこかで悟るんだ!!!この思考が悟り、解放の中で今起こっています。理解できますか????つまり我々は今どこにいようと悟り、解放の中にいるんです。悟り解放以外の場所に住んだことなど一度もないのです。悟り解放の中で、、私は孤独で苦しい存在だという悟りの表現である思考が起こっただけです。

悟り、解放を出たことなど一度もない

私たちは悟り解放の中にいつも居て、、その中で孤独を想像しています、悟り解放は全思考を受け入れますから「私は孤独で悲惨で地獄だ」という思考も起こり、、それがイメージ化されるんです。その思考に善悪は全くなくただ悟りのアートとしてそれが起こるのです。個人が居るという思考も、、その個人が幸福なるという思考、そのために頑張るんだという思考も全部が全部悟りのアート、表現です。

悟りは概念ではない

悟りは概念ではありません、、、悟りはいまここ、、このスペースのことであり、、このスペースで起こる現象、思考、感情の全てです。概念とは悟りのアートのたった一部でしかないのです。悟りとはどのような信念でもなく、、その信念を支える全てです。全信念、全思考、全概念、全感情を生み出す大元です。

体感する

悟りとは全部であって全部を支える空です。これは概念ではないのですから感じる以外に悟りはありません。ではどうやって感じるのか??????見かけ上のこの私は「呼吸法」「断食法」をお勧めしています。これらは実は行為ではなく、、、、、思考しない、余計に食べないという行為を終わらせる行為です。雑念を起こし続けるメカニズムを呼吸法、断食法で打破した時に残るもの、それが悟りです。

神の定位置

神はどこに居る????

神の居場所ってどこでしょうか?????ここ以外ですか????もしもここに神が居ないとしたら、、、、神は一部にしか住めないことになり神の監督不行届けです、つまり神は監督能力がないということになります。つまり神は100%ここに居るんです。ではここのどこに居るんでしょうか?????どこに神が居るか探してください。この場所、全体じゃないんですか????そうだとしてその実感がありますか????神が居るという実感がないとしたら、、この感覚はなんなんでしょうか????神の感覚と、私の感覚は別でしょうか????

「在る」という感覚

「在る」という感覚はいつでもどこでもありますよね????この感覚と神が居るという実感がズレていたら、、この「在る」は神とは全く関係ない実感となります。そんな感覚が存在してしまったら全知全能の神は全知全能ではなくなってしまいます。つまりこの「在る」という感覚こそが神の感覚なのです。「神が居る」という感覚が今もかつてもずっとあったこの「在る」という感覚なのです。

だとしたら??????

今ここに「在る」「在る」という感覚こそが「私は神だ」という感覚ならば、、、何もしなければ「神」のままですよね??????そうです!!!!その通りです!!!!!!何もしなければ「私は神だ」のままなんです、、つまり真の安らぎ、真の平和、真の愛そのものなんです。え?????だとしたらなんで今その感覚がないんですか????全くないですよ、、そんな感覚。。。。それは湧き上がる思考、雑念に取り込まれてその思考雑念が見せる映像に釘付けになっているからです。思考雑念が紡ぎ出す映画に夢中になり、、楽しんで苦しんでいるからです。

思考を観察しちゃえば????

「在る」だけで真の安らぎに入れるならば、、、、もう思考に入り込まなくていいんじゃないですか????雑念を本気にしないでいいんじゃないですか??????マジでのめり込むの辞めちゃえばいいんじゃないですか?????つまり「在る」として思考をただ観察するだけでいいんです。映画館に行ってただ映画を観察するだけでいいんです、前のめりなって映画に入り込んじゃうと、、、もう映画の中です。そこは真の安らぎが一切ない世界です。

外部環境のエージェントスミスは大したことはない

映画マトリックスとの相違

この世界の住人、登場人物は全てエージェントスミスです。彼らは思考の世界にどっぷり浸かっているなど全く気づいていないですから、、、当然こちらにも同じ感覚で話しかけてきます。この感覚を共有しようよ!!!です。ですがこれがまさにマトリックスの世界に入れ込む罠なのです。自分が居ないとか何言っちゃってんの???のノリでマトリックスの世界に誘います。

答えが分かれば

答えさえ分かってしまえば、真実さえ分かってしまえば、、、周囲の人間は全く怖くありません。外部のエージェントスミスはなんてことないんです、、だって手の内が完全にバレてますから。。ただマトリックスの住人として当然の行動をとる、、、ただそれだけです。こちらはただマトリックスの住人として冷静に扱う、、これだけなんです。

怖いのは心の声

エージェントスミスの恐ろしさは外部環境ではありません、、心の声です。この心の声が半端なく最強です、、心の声は、、さも重要な内容のようかのように湧いてきます。この体にとって超重要な内容ですよ!!という切り口で湧いてきますから思わず、、、え?????となるんです。これで引き摺り込まれるんです。いつの間にか思考を観察する神ではなく思考そのものになってしまうんです。この状態が「苦しい」です。

心の声を観察する

心の声であるエージェントスミスは、、、観察されるだけで勢いを減らします。観察されるだけで、、、急に威勢が無くなるのです。観察とは、、、もはや思考そのものになっていない状態、、大いなる存在は大いなる存在そのものになっている状態ですから、、、その瞬間から思考は勢いを減らすのです。だからただ観察するだけでいい、、、何もしなくていいんです。何かをしようとする動きも罠です。

思考を観察してみる

呼吸を観察してみる

呼吸を観察してみてください、、驚くべき変化が起こるんです。何か?????呼吸が突然大人しくなるんです、、あれ????俺ってこんなに呼吸遅かったっけ?????です。呼吸に意識を向けるだけで呼吸って遅くなるんです、静かになるんです。そしてこれが正しいリズムです、神の呼吸です、大いなる存在の呼吸です。

では思考を観察してみる

では次に思考を観察してみてください、、、一気に思考が大人しくなります。ですが思考は決して止まることはないでしょう、、、、ですがそれでいいのです、、、全く気にしないでください。呼吸のリズムが遅くなっても決して呼吸が止まらないように、、思考も止まるなんてことはないんです。必ず思考も呼吸も湧いてきますからただこれをキャッチしてください、つまり気づいて観察してください。この行為を行うだけで思考が静かになることに気づいてください。

神の定位置

今あなたが呼吸、思考を観察しようと、、、決めたその場所、、、、そこが神の定位置です。神が神であるための場所です、、、この定位置を離れなければ全く苦しみは湧かないんです。神がこの場所を離れ思考そのものになってしまった時、苦しみが湧き上がります。神が思考に気づく存在から思考そのものになってしまってはダメなんです、、苦しみが湧き出します。

思考から神を剥がす

思考そのものが悪いのではないんです、思考に神が同化する、思考に神がへばり付く、思考に神が一心同体になっている状態が「苦しい」のです。ただこれだけなんです。だから神は常に定位置、思考に気づく場所に座るのです。思考に比べると呼吸に気づくのは簡単です、この呼吸に気づくという行為を通じて徐々に徐々に思考にも気づいていきます。神が神の定位置に座る時、、、真の安らぎが訪れます。