非二元

真実と概念は違う

私たちが信じているのは概念

ノンデュアリティ、悟り、非二元のメッセンジャーが伝えるのは真実です、真実は概念ではありません、、、言葉という制限されたツールで真実を伝えていくわけです。多くの人が信じているのは概念です、概念は真実ではありませんからこの概念の中に生きていることで苦しみから解放されないのです。もし今自分が苦しいならば概念の世界に居る、ただそれだけです。

真実と観念は違う

真実と観念が異なります、真実は真実です、、観念とはその人が信じている考え方、概念です。それぞれの人はその人の観念を持ち、その観念に影響された幻想の中に生きているのです。この幻想の世界は苦しいので早くここから出たいと本質レベルでは感じているのです。友人が少ないと寂しく、友人が多いと人間関係が複雑で疲れる、、どこまでいってもこの世界は苦しいのです。

お金を得ても人気を得ても苦しいのは観念の世界に居るから

「自分」がこの世界に生きていると思っている間は常に苦しみに襲われます。「自分」がお金を得て、人気を得ていると思っている間は苦しみに襲われ続けます。なぜならばそこは本当の世界ではないからです、そしてそのことを本質では常に感じています。だから人は救いを神に求めるのです。ですが神とは「自分」とは異なった違う場所にいるのではなく今ここ、「この私」すらも含めて神なのです。今見ている世界そのものが神自身のアート、神そのものなのです。

このことをみんなに伝えてあげなくちゃ

真実の少しでも触れた人間は周囲にこれを伝えなくては!!と思うはずです、ですがそれは喜憂、無駄、大きなお世話です。なぜならば「私」も「あの人」も「この人」も全部あるがまま、神のアートですから最初から救われているのです、あるがままのアートが救われないのならばあるがままはあるがままではなくなってしまいます、神のアートが救われないのであれば神は神ではなくなってしまうのです。ですから全員が最初から救われているこれは神の、あるがままのアートなのです。そしてそのことも全員が本質的には分かっています。

朝目覚めた時の気持ちが悪い感覚

起きた瞬間にPCが起動する

あるまがままの世界はあるがままであって、、実は何も存在しません、、、ですが人間は朝起きた瞬間にコンピューターが起動しこのあるがままの世界に独自の世界(言葉)を作り出すのです。その中心には自分が存在し自分以外の世界を生きるのです。これが二元の世界、主体客体の世界です。あるがままは非二元でありあるがままでは自分も存在できません。ですから非二元の世界を発見した自分は存在しないのです。非二元の世界に自分が突如作り出されその瞬間にあるがままも消え去るのです。

「私」の幸福を目指す

朝起きた瞬間にPC(脳)が起動し自分という存在が後天的に作り出されます、そしてこの後天的に作り出された自分が幸福を目指し不幸を避けるというゲームが起こるのです。ですがこの世界(あるがままではない)の中には個人が幸福になれる状況は存在しえないので永遠に彷徨うことになります。なぜならば個人という存在を認めた状態ではあるがまま(絶対至福)には帰れないからです。そしてその道中は自由意志があると思い込んでいるだけ実際には自由意志は存在しないので完全自動システムです。

「自分」が自由意志で幸福を探している気持ちにさせられている

多くの方は自由意志で各個に人間は幸福を探していると思い込んでいますが、、実際には自由意志は存在していないので「自分」という存在が登場し、完全自動でゲームクリアまで様々な経験を積んでいくだけです。受験勉強を頑張ってみよう、就活を頑張ってみよう、会社生活を頑張ってみよう、婚活を頑張ってみようと、、思い込まされ経験だけが積まれていきます。

どんなに不幸そうに見える人が居ても同情は無用

公園でホームレスの方々を見つければ同情が湧いてくるかもしれませんが、、、その流れにおいて本人の自由意志は一切ないのです。完全受動、完全自動でそういう流れになっただけです、この流れから逸脱するチャンスは一切無かったのです。何かの勘違いで、何かの判断ミスで、、ではないのです。だから同情はいらない、、、逆に言えば大成功者に対しても羨望はいらない、、、彼らは自分の意志などではなく勝手にそのような存在にさせられたのです。

目覚める誰かもいない

目覚めも誰かも幻想

目覚めるためには目覚めるための誰かが必要になるのですがこの誰かは真実の中では存在しません。真実の中では誰も何も存在しえないのです。そして我々は真実そのものですから真実の中では誰かは存在できないのです。よって誰かが目覚めるというのは幻想、ストーリーであって真実ではありません。目覚める誰も存在していなかったという気づきだけが起きるのです。目覚めた後には何も残らないのです。騙し絵で老女だと思っていたら若い女性だったという気づきが起きた時には老女は消えています。真実に気づく個人は存在しえないわけです。

本質とは目覚める誰かが消えた時

本質、真実に気づく個人は存在しえないのです。その個人が存在していなかったという気づきが起きた時に本質があります。その気づきは個人の中で起きえることはなく個人というのが幻想であったという気づきです。個人が目覚めるのではなく本質の中には個人は居なかったという気づきです。これが悟り、覚醒、ノンデュアリティです。

非二元とは

悟りという言葉がこの世から消えていきノンデュアリティ、非二元と呼ばれるようになったのは、、、悟りという言葉には個人が悟るという意味が強く現れてしまうからです。実際には個人が幻想であったというのが悟りですから悟りの主語は個人、自分、自我ではないのです。ノンデュアリティ、非二元とは、、主体客体の世界の終焉のことであり、、この世は私が居て、見える世界があるという二元ではないよという意味です。ですから個人が悟るという二元の表現はそもそも間違っているのです。騙し絵の中の老女が若い女性を見つけるのではありません、老女の存在は消えた時に若い女性が現れるのです。老女が悟って若い女性に気づくのではないのです。個人が悟るのではなく、、個人の存在が幻想であったという気づきが悟りです。気づくのは誰か??誰でもなく気づきがただ起きるのです。

二元が存在するには非二元が必要になる

幻想の存在が成り立つにはそれに気づく非幻想が必要

音の存在に気づくには静寂が必要です。幻想の存在に気づくには非幻想が必要になります。ゆえに我々はこの幻想であり、幻想ではない存在です。幻想がなければ非幻想の存在は全体に気づけませんから、、この2つは一つなのです。幻想と非幻想が全く別の場所にあるのではなく、、この二つは全く同じ場所にある、、そしてその場所が存在しえる場所はありませんから、、、無ということになります。

光の存在に気づくには闇が必要

光の存在に気づくには闇という光が全くない存在が必要になります。闇に光が差し込んだときに、、その光に気づくということが起きるのです。光、闇は二つで一つです。光は闇抜きには存在しえないのです。同時に闇も光の存在が登場して初めて闇に気づくことができます。自分という存在を感じるためには非自分という存在が絶対的に必要であり、、ゆえに非自分は確実に存在し、、自分という幻想も確実に存在するのです。自分という幻想と非自分という絶対的存在は二つで一つなのです。だからこそ自分を消そうとする試みは無駄に終わるのです。

自分が非自分を誕生させる

自分という幻想の存在があるからこそ、、非自分という真我の存在は登場できます。真我しか存在していなければ真我は存在しえないのです。自分という非自分、非真我の誕生によってこの世に非自分、真我が誕生したのです。自分という存在をかんじる時、、非自分、真我の存在を感じることができるのです。これが悟りです

これは情報ではない

情報の前の世界

景色が入れ替わった瞬間、、我々は一瞬ワンネスを見ています、、、何かを食べた瞬間、、我々はワンネスを感じています、、、見る、感じるも、、これも二元の世界でのことであり、、、視界そのもの、味そのものになっているのです、、その次の瞬間には、、、あらゆる物が溢れ出し、誰が何を経験した、、というドラマが湧き出します、、、非二元のメッセージは、、その何もない瞬間、ワンネスそのものの瞬間に誘うメッセージです。

情報は新しいレイアーになる

知識を覚えるその知識がその人の中の新しいレイアーになります、、、全く何もない世界に新しい現象を生み出すレイアーになります、、、悟りとは、、、これが全部レイアーであるという気づきです、、、新しいレイアーを構築することではありません。ですが多くの場合、、悟りのメッセージはその人に新しいレイアーを作ってしまいます。

レイアーをレイアーと見抜く

悟りとは、、、全ての情報がどうやってこのレイアーになりうるかに気づくことです。。。名前を覚えるとそれがこの現象界に出現する、、、この仕組みを理解しますと、、、、もう今までのように目の前の出現に緊張しなくなります。。。だってただの現象に対してイメージを重ねているだけですから。。。この人は有名人なんです!!!と紹介を受けても、、、というイメージがついた人というイメージだという気づきがあります。。これで終わりです。イメージを本質と勘違いし、、そのイメージの中で本質(絶対幸福)を見つけようとする試みが苦しみを生み出します。

究極のリアリティ

幻想を見抜く

これは幻想です、今目の前に広がる世界は幻想です、、このことを理解できますと、、、、幻想に取り込まれなくなっていきます、、、思考はああだこうだと言ってきますが、、、その思考にも取り込まれなくなっていく、、なぜならば解決すべき問題があまりないのです、、、思考の出る幕が無くなっていくわけです、、、昔はよく考えていた老後の心配、将来の心配、日本の行末、、など、、全く心配する要因にならなくなっていくのです。

幻想を幻想と見抜くと、、、

幻想ならば深刻に捉えるべき問題って実はないんです、、、もしも深刻に捉えて解決しなくてはと考えるとすたらばそれはそういう趣味です、、、深刻に捉えて解決しなくちゃというゲームをやっている感じです、、実際には、、ただ幻想が起きているだけです、、、深刻に捉えなくちゃいけない問題など皆無です。

究極のリアリティを生きる

究極のリアリティとは悟ることです、、、幻想の世界を抜け出し、、非二元、真我を再発見することです、、非二元、真我を再発見することでこれが幻想であることを悟ります、深刻さが抜け落ち、この場が神の遊びの場に変わる、、深刻に深刻に世の中を眺める人々を見ると、、おかしくなる感覚、、、皮肉ではなく、、そんな時もあったなという安堵が込み上げてきます。

ノンデュアリティとは自我研究、自我解放

自我のあらゆる幸福探求は失敗に終わる

ノンデュアリティが自我を解放します、、ノンデュアリティが自我に意識が向かなくなること、これが悟りです。ノンデュアリティが自我に意識をフォーカスする時、、苦しみが生まれます。非二元が二元の世界を体験します。そのためのツールが自我です。真我が二元を体験する時に自我に意識を向けます。意識が非二元ではなく二元を経験する時に自我に意識を向けます。これは至福による苦しみ体験です。よってこの経験は苦しいことが完璧なのです。

自我とは苦しいがデフォルト

私は苦しくない、、私は苦しいを全く感じない、、、嘘です。。この私こそが苦しいを生み出すフックだからです。真我が自我に意識を向けることで二元の世界が起こり、苦しみが湧き出すのです。真我は真我のままでは至福そのものであり、、至福を体験できない、、、自我を通じての至福の再発見こそが真我の目的です。だから自我は真我を見つけるまで苦しいのです。真我が自我に成り切り(意識を集中し)苦しみからの解放を湧き出させ至福への渇望が起き、至福を探し出し、、そうだそもそも真我(至福)だったという気づきを得るのです。

世間一般でいう幸福を手にし全く満たされないことを知る

多くの人が羨むような生活を一度でも手にしてみれば直ぐに分かります、、全く満たされないことが、、、ここでの絶望こそが、、、真我への興味が起きます、、そこにしか至福がないことを悟ります。自分が何かを手に入れるでは絶対にそこには到達できない、、獲得ゲームではない、、、至福とは手に入れるのではなく、、自分を落とすこと、至福が至福であったことを思い出すことしかない、、その気づきが起きます。

非二元では混乱する

主体客体

非二元という言葉は分かりやすいようで分かりにくい、、、主体客体の世界、、要は生命現象の中に別々の存在があると信じるか、ないと悟かの話なのです。そうです我々は生命現象に名前を付けるまでは主体客体、「私とあなた」「俺とお前」など一切ない世界に居たのです。これがノンデュアリティー、非二元、悟りです。恐ろしく単純な話です。悟りとはもともと名前がなかったたった一つの世界が広がっているだけ、、に気づくことなのです。

幼児はみんな知っている

名前を覚える前の子供は全員知っています、というか悟りの中にいます、というか悟りしかありません。なぜならば名前がない世界に居るのですから、そしてそこには自分が居るという発想もないのです。これが悟りです。こんな簡単なことなのか???そうです悟りとはこんな簡単なことなのです。悟りを難しく「考える」のは難しく考えないと簡単に見つかってしまうからです。

悟り、覚醒、一瞥体験、覚者

スピリチュアル用語では様々な言葉が使用されますがこれらは全部事実を逆に難しくするのです。こういった言葉を使うことで思考は悟りをどこか遠くの場所に押し込めようとするのです。幼児は全員が悟っていて全く難しいことではない、難しい言葉を覚えて悟りを奥深くに押し込んできただけです。そもそも名前のない世界に生まれた我々はいつでも元の世界に帰れるに決まっています、名前を思い出す前の一瞬は常に根元悟りが広がっておりその事実に触れるかだけです。思考が湧いてきたらそれによってドラマに入っていることを思い出すのです。この繰り返しで人は悟りに戻ります。

完全な知、経験、感情の先に気づき

先ずは知ること

非二元、悟りに関して重要なこと、それは究極の目的に目覚めることです。これによって究極のエネルギーが入り込んできます、ですがこれだけでは究極の気づきには至りません。重要なことはそれをこの体を通じて体験していくことです。究極の世界を体を通じて感じていくことです、何かに集中することで無我を知る、体の感覚に集中することで無我に入る、あらゆる体験の中から究極に触れていくことです。

無我に入ると歓喜が襲ってくる

無我に入ることに慣れていくと、、歓喜、平和、安堵が襲ってきます。その状態こそが目指すべき究極の場所であることを体、感情を通じて分かってきます。その場所はホームであり、神であり、大いなる一つであることを肌感覚で感じていきます。自身が小さな神で小さな神体験を今はやっているだけ、その事実を体験を通じて感じていくことが出来ます。

究極の気づき

先ずは知識として大いなる存在の世界を理解しそこから体を使ってそこに近づいていきます。そしていかに長い時間をその場所で過ごせるかをやっていきます。小さな神体験での大きな神への帰還を自主的に行っていきます。体は徐々に大きな神に馴染んでいきます。すると大きな神の方から小さな神に近づいてきます。これが究極の気づきです。打ち震えるような感動、感嘆、衝動を覚えるようになると究極の気づきは早いです。

幻想に触れると重くなり、真実に触れると軽くなる

真実は軽い

今が重い時、、、今苦しい時に多く方はどうしたらいいだろと考えます、考え続けます、、、するとどうでしょう、、どんどん重くなっていきます。これはなぜか??思考の世界に入り込んだからです、酸欠の世界に入り込んだからです、「非二元」欠の世界、「神」欠の世界に入り込んだからです。「大いなる一つ」欠の世界に入り込んだからです。真実欠の世界です。真我欠の世界です。ワンネス欠の世界です。さすがに理解できたでしょうか?笑そうです、、、思考の世界というのは、、、、楽な世界からガンガンに遠ざかる世界ということです。

五感に集中していく

今が苦しい、、、そうしたら真実が足りていないのです、こう考えます。真実が足りない??そうです、今が足りないのです。体に意識を向けるのです、運動したり、食事をしたり、友人とおしゃべりしたり、、、、五感の活動に専念します。体はいつでも今にありますから体に意識を向ければ真実が押し寄せてきます。幻想の世界がぶっ飛ぶのです。運動を習慣化する、全ての作業を無心になって取り込む、思考を放置する、、、とにかく思考と距離を置く生活に切り替えるのです。幻想、分離を徹底的に排除していくのです。

反復に集中する

多くの方は自身のタスク処理に思考を使ってしまいます。どうやったら効率良くできるか、どうしたら無駄なくやれるか???タスクに思考を入れてしまい苦しみます。そうではなく単純に反復反復で処理していきます。一切の思考を排して思考の介在を抜くのです。1日に何度も取り組んで反復でタスクを処理していきます。最後までやり切る、、思考はこんなことを言ってきますが無視です。ガン無視です。思考は思考を使わせようと必死です、そこを反復で処理していきます。公文式です。これで全ての作業を思考抜きで行えます、五感のみで行えます。無我、無心、非二元が押し寄せてきます。