目覚める誰かもいない

目覚めも誰かも幻想

目覚めるためには目覚めるための誰かが必要になるのですがこの誰かは真実の中では存在しません。真実の中では誰も何も存在しえないのです。そして我々は真実そのものですから真実の中では誰かは存在できないのです。よって誰かが目覚めるというのは幻想、ストーリーであって真実ではありません。目覚める誰も存在していなかったという気づきだけが起きるのです。目覚めた後には何も残らないのです。騙し絵で老女だと思っていたら若い女性だったという気づきが起きた時には老女は消えています。真実に気づく個人は存在しえないわけです。

本質とは目覚める誰かが消えた時

本質、真実に気づく個人は存在しえないのです。その個人が存在していなかったという気づきが起きた時に本質があります。その気づきは個人の中で起きえることはなく個人というのが幻想であったという気づきです。個人が目覚めるのではなく本質の中には個人は居なかったという気づきです。これが悟り、覚醒、ノンデュアリティです。

非二元とは

悟りという言葉がこの世から消えていきノンデュアリティ、非二元と呼ばれるようになったのは、、、悟りという言葉には個人が悟るという意味が強く現れてしまうからです。実際には個人が幻想であったというのが悟りですから悟りの主語は個人、自分、自我ではないのです。ノンデュアリティ、非二元とは、、主体客体の世界の終焉のことであり、、この世は私が居て、見える世界があるという二元ではないよという意味です。ですから個人が悟るという二元の表現はそもそも間違っているのです。騙し絵の中の老女が若い女性を見つけるのではありません、老女の存在は消えた時に若い女性が現れるのです。老女が悟って若い女性に気づくのではないのです。個人が悟るのではなく、、個人の存在が幻想であったという気づきが悟りです。気づくのは誰か??誰でもなく気づきがただ起きるのです。

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