ビッグバン

ビッグバン

ビッグバンは起きていない

この宇宙はビッグバンが弾け、、、そのまま拡大し今に至る。これが宇宙の誕生ストーリーです。ですが残念ながらそれは空想、妄想、ドラマです。実際にはこれは夢ですから決まった宇宙の誕生などありえません。こういう経緯で、なんてドラマはないのです。本当はいまここに夢が広がっているだけです。コレは夢ですからビッグバンもブラックホールも全部夢の中のドラマです。

ビッグバンが弾ける前は???

ビッグバンが弾けてこの宇宙が誕生したのならばでは弾ける前はどうなのか????何もない、、となります。ですが本当は時間など存在しないので弾けるも弾けないもないのです。今ここ以外何も起きていない、以上です。コレは夢ですから起きていないことは起きていないのです。今起きることが全て、夢とはそのようなものです。

夢の中の時間

夢の中って時間はあります、あるように感じることができるのが夢です。A地点からB地点にまで歩けばその間に時間が進んだように感じますね、夢の中で。ですがこれは感じているだけであって時間という確実な何かがあるんではなく時間を感じているだけです。そして時間が進むテンポは変幻自在に動くので決まった何かはないのです。それがこの夢の中の時間です。

時間が早く過ぎた、時間を長く感じる

時間というのが早く感じたり遅く感じたりするのはそもそも時間というのがないからです、、あくまでも時間があるように感じるものであって、、本当はこの夢はその瞬間瞬間に移り変わっているだけです。それ以上も以下もないのです。毎晩見る夢も時間はあるようなないような、、変幻自在なようにこの夢も全く同じです。ビッグバンが起きたかどうかという議論が無毛なのはこの夢で過去に遡って本当に起きたかどうかという理論自体が破綻しているからです。私が昨日みた夢で始まりはビッグバンは起きたのだろうか????という話です。

スイッチ

スイッチを押したのは誰だ?

前回の「スタバに行こう!」の続きの話、この思考感情をスイッチを使って説明しましょう。このスタバに行こうという思考感情を生み出したのが「自分」ならば自分がそのようなスイッチを脳内で選んで押したとしましょう。自分がその脳内スイッチを押したのだと。ではその「スイッチを押す」という動きを作り出した動きが必要になります。突発的にそのスイッチが自然現象として押されてしまったのでは「自分」の存在は無くなってしまいます。ですからその「スイッチ1を押す」ためのスイッチ2を押したのも「自分」のはずです。

スイッチ2を押すためには

スイッチ2を押すためにはスイッチ3が必要になり、そのスイッチ3を押すにはスイッチ4が必要になるのです。こうして我々は遡ってエンドレスにスイッチを押し続けなくてはなくなりその起源はビッグバンに行き着くのです。つまりこの体の中に居ることになっている「自分」は「スタバに行こう」に介入できないのです。こうして自分が「スタバに行こう」と思いついた、、という理論はやはり破綻します。この物理次元では何かを宇宙空間に湧き出させのは「自分」ではできませんから自由意志を所有する「自分」という存在は理論破綻するのです。

自分が居ない

自由意志を所有する自分が居ないのならば、、今までのコミュニケーションは破綻します。自分がやりました、あなたがやりました、友人がやりました、、全部嘘です、、、その体、あの体、あの人の体を通じてその行為、その思考、その感情が湧いただけ、、、全自動システムで起こり続けているのです。これが事実です。これが真実です。世界は完全自動システムで運営されていてそれはこの人間も例外ではないのです。

ニュースを見れば、、

不倫をあの人がやった、万引きをあの芸能人が、不正受理をあの政治家が、、、全部自然現象、全自動システムで起こっています、、、その行動、感情、思考がただその体を通じて起こっただけ、、、これが事実です。ではそうなった時我々は今後どうやって生きていったらいいのか???簡単です、、これからも全自動システムで起こり続けることを認めるだけです、、、これまでもそうだったのですからこれからもそうだということです。それを認めた時にこの世界は軽くなります。

一億年の化学反応に意見を言う無意味さ

そのあなたの行動には一億年の歴史がある

今日朝カフェに行くという行動が見かけ上の「私」に起きました、、、この行動には、、「私」が生まれる一億年前からの化学反応、縁起がそこに隠れています、、、、昨日飲み過ぎました、、その行動の裏には一億年前からの化学反応、縁起が隠れています、、、、さてこ行動を反省するために、、、一億年前からの化学反応をほじくり返しますか???という話です。

究極を言えば宇宙の始まりに至る

昨日頭に来た、、、この感情の裏には一億年前からの化学反応が関係します、、いったいどこから始まったのか、それは宇宙のスタート、ビッグバンからです。。そしてビッグバンは、、空から生まれました、、空の影です、、つまり我々は空なのです。空の影が誕生し、、今もその影だけがここにあります、、、この影の中に「私」という存在がいるイメージを作ればそのイメージの誕生は、、ビッグバンがスタートになります、、ビッグバンは空の影ですから、、我々の行動、感情、思考の全ては空の影です。色の観察、現象の観察、夢の観察は、、空が自分であるという観察まで遡ります。

今日から一週間家に篭るぞ

今日から一週間家に篭ろう、、、そう決意しても99%の人は、、途中で部屋を出てしまうでしょう。。。なぜか???それはそのような衝動が起きてしまうからです、、、ビッグバンから始まった化学反応の連続で、、、、これを止めることができる個人(イメージ)は存在しません。個人(イメージ)も化学反応の起こりに過ぎず、、個人というイメージどころか、、全イメージは起こりに関与できません。イメージ自体が起こりに過ぎないからです。

「在る」という感覚はどこから湧くのか?

空、絶対から

この世界で確実に存在する「在る」という絶対感覚、、この感覚は何をしていても存在します、、この現象の回の全ての動きに気づく存在「在る」という感覚です、、ではこの感覚はどこから生まれたのでしょうか。。この感覚こそが、、空、絶対という場所から生まれました、、「在る」という感覚を生み出す存在がある、、このことでしか空、絶対を感じることはできません。この空、絶対を感じることこそが究極の感覚、色即是空を感じることになります。

「在る」を生み出す存在としての自覚

空という絶対の場所、全てはここからスタートします、、ビッグバンを生み出した根源、この根源に我々の滑っては在ります、、、この場所に感覚を覚えることは最終段階、究極です。。空即是色を感じれる段階です。色即是空は、、この在るという存在を自覚することから気づきが起きます、在るが全部を起こし、それに気づいている、、、、その「在る」を生み出す存在、、「空」「絶対」という場所、、

これが分かったから何なんだ??

この質問が出ている時点で分かっていないんです、、ここに気づくのは絶対幸福、至福、静寂に気づくということ、、もう何も求めないということ、、、我々が現実の世界で探し求めていたのは全部これらの代替品であったという気づきが起きます。万物を生み出す存在が本当の私ならば、、この物理世界であらゆる種類の幸福を探すのは当たり前。この気づきが起きます、、、

絶対から生まれた「我在り」

絶対から「我在り」が出現した

宇宙が出現したその瞬間、「我在り」という感覚が生まれました。宇宙は絶対、無、空からビッグバンを起こして出現したわけですがその時に「我在り」という感覚が生まれました。私たちが今感じているこの「在る」という紛れもない感覚はこの時から永遠にあります。というよりも「自分」以外には時間は存在しないので「我あり」がただ在るだけです。その中に自分が誕生し、時間が生まれました。これは全部錯覚です。

「我あり」の中で神羅万象が動く

我ありの感覚の中で神羅万象が動いていきます。森羅万象は我ありの中で起こります、そして森羅万象は我ありそのものです。そしてそれを生み出したのが絶対、空、無ということになります。覚者とはこの絶対、空、無の存在に気づいてしまった人たちです。我ありの根源、色の根源、神羅万象の根源、ビッグバンの根源です。今私たちの目の前には宇宙現象が広がります、それを支えて居るのが我ありです。我ありの中であらゆる現象が起こり続けています。その中に「自分」が居るが起こり、自分と自分以外が在るという認識が後付けで起こります。

「我あり」は「我あり」に気づく

自分の解消、解脱、解放とは「我あり」がこの感覚は「自分」ではなかったという気づきです。夢の中で主人公は自分そのものではないという気づきが起こるのと同じです。主人公はあくまで夢の登場人物であり自分とは夢そのものであった、、これが「我あり」の「我あり」で在ることの気づきです。自分などそもそもなく「我あり」の中でそれが起こっていただけなのです。ですがそれを仕掛けたのは我ありです、見かけ上。

目覚めとはビッグバンの個人的経験

個人が弾ける

ビッグバンとはたった一つなるエネルギーが弾けこの宇宙全体を構築することです。なぜビッグバンが弾けたか、それは絶対、無、空の投影、存在の再認識です。個人が目覚めるのも同じこと、個人という枠が壊れ全体の再認識が突如として起こることです。小さなビッグバンと言っていいでしょう。再認識とは個人がなくなった時に全体だったという気づきです、神の偉大さ、全体の偉大さの再認識のことになります。ビッグバンとは無、絶対が、絶対のままでは絶対の偉大さに気づけないということ始まりました。

自分の爆発

自分という存在があるからこそあらゆる体験を積むことができます、個人という小っぽけな存在であるからこそこの宇宙の大きさを確認できます。これが全体の全体確認です、全体は全体のままでは全体の大きさを経験できません、そこで個人という小さな存在を作り出し全体の大きさを体験するという試みです。ですがこの個人という存在を維持したままでは居心地の悪さ、退屈感、違和感を解消することはできません、そこで個人の爆発です、、個人が実はいなかったという気づきそれを起こします。すると全体は全体に戻るということを経験するのです。

絶対が弾ける

絶対が弾けたのがビッグバンです。絶対は絶対そのものですがそれでは絶対の偉大さを経験できない、、そこでビッグバンが弾け絶対の投影が始まりました。ビッグバンが弾けることでそこにはあらゆる生命現象が起こりそれを気づきの意識が気づきます。絶対の多様性を気づきの意識が認識します。その延長線上が人間です、人間は独自の進化を遂げこのビッグバンが作り出した世界の中にさらに世界を作り出すという発明を起こしました。これによって人間はこの宇宙全体の中にさらに世界を作り出したのです。人間が夢の中の住人と呼ばれる所以です。

カフェで聞こえてくる会話が作り話???

個別人間の世界

たった一つのエネルギーが爆発し、、ビッグバンを起こしこの世界を作り出しました。本当の宇宙は我々が見ている世界とは全く異なりたった一つのエネルギーがただ漂っている、、漂流している、渦巻いている、世界です。一個一個独立した存在が集結した世界では確実になく、それはたった一つのエネルギーが爆発を起こした世界が真実だからです。人間がこの世界を独自の視覚、脳で眺めますから人間独自の世界に変化して見えます。これが宇宙の真実、個別人間の世界です。

カフェに行くと聞こえてくる会話

そんな個別錯覚人間がカフェに行けば周囲からはあらゆる会話が聞こえてきます、そしてその「話し声」を聞けば独立した人格を持った分離した存在が思い思いの会話をしていると錯覚します。絶対的にそう見えるし聞こえます。ですがたった一つのエネルギーが爆発してこの世界を漂っているのになぜ完全分離司した人格、個性の人間がそこに居るのか??という話です。事実だけを伝えればそれは錯覚、幻想です。人間の脳がそう見せ、聞こえさせているのです。

幻想の世界、作り話が悪いわけではない

幻想の世界は悪い世界だ、神の悪趣味だ、幻想の世界に住む人間は正気の沙汰ではない、、そんなことを言いたいわけではありません。事実としてそれが幻想でありそこを事実として認めると、、、途端に深刻さが消えていきます。全ての会話が全く意味のない、、雑談に聞こえてきます。真剣なビジネスの話をしている周囲すらも面白く感じます。そして人間とは凄い進化、凄い錯覚の世界を築き上げるその脅威に感嘆します。

たった一つのエネルギーがビッグバンを起こす

ビッグバンの大元はたった一つのエネルギー

我々の勘違いが絶対的なのは、、住んでいる世界、この宇宙はたった一つのエネルギーがビッグバンを起こし、、この変幻自在の世界をカタチ作っているという事実です。たった一つのエネルギーが爆発してこれだけの色彩ある世界を構築していますが大元が一つである以上、多に見える世界は絶対に幻想です。そしてあらゆる人格を持った他者も私と何も変わらないという事実があります。なぜならばたった一つのエネルギーが爆発してこのようになっているからです。ですがその事実を口にする人が少ないのは奇妙です。

錯覚の共通認識がこの世界を作る

事実だけを説明すればたった一つのエネルギーが爆発を起こしてこの宇宙ができたのですから、、全部同じエネルギーで形成されています、自分他人などの境界線はおろか、植物、動物、鉱物の間にも境界線などあろうはずがありません。あるとすればそう見ることができるように進化しただけです、人間が。そして苦しむことも、悲しむことも、楽しむこともできるのはこの分離錯覚している世界を人間が分離した存在として生きることができていだけです。事実はどこまで行ってもたった一つのエネルギーしか存在していません。

私の思考もあなたの思考も全く同じエネルギーでできている

思考もビッグバンが弾けて起きていますからこれも全く同じエネルギーの一つです。そのエネルギーが変幻自在にバイブレーションを変えているだけです。ということは私の思考もあなたの思考も全部同じエネルギーです。私の思考、あなたの思考という境界線などあるはずがなく、、自分と他人など存在するわけないのです。たった一つのエネルギーが織りなす究極のアートです。何もかもがアートであってそこから出ることなどできません。

視点が変わるだけ

PCとしてアプリ操作するかアプリとしてアプリを操作するか

我々はPC内のアプリとしてアプリを操作しているつもりになっている存在です。アプリがいきなりPC内で自由意志を持ち勝手に動き回りあらゆる体験をする(つもり)存在です。ですが実際にはアプリはアプリ単独で動けるわけがなくPCの機能に依存しているのは間違いありません、なぜならばアプリはPCの中のプログラム言語に過ぎないからです。アプリを紐解けば全部が全部プログマム言語でできています。そしてそのアプリに「私が全動作を行っている」という勘違い機能が付加されただけです。それが自分という意思を持ったアプリであり我々「人間」の真の姿です。

アプリは言語をインストールしていく

アプリはPC内で様々な経験をしていくわけですがその度に価値観が変わり、か情報も増えていきます。アプリ内のプログラム言語が増えかつ書き換わっていきます。これによりアプリから眺める全体(PC)の姿は確実に変化していきます。なぜならばアプリが見る世界とはプログラム言語で解釈された世界だからです。アプリとはプログラム言語のことでありそれが書き換わっているにも関わらず見える世界が同じということは絶対にありません。

自我=言語

つまり自我とはプログラム言語です。我々が覚える単語は全てプログラム言語なのです。そして我々が見ている世界はその言語、プログラム言語で形成された価値観(プログラムの集合)で眺められ解釈されています。真実を見ているつもりになっていますが実は全部が全部プログラム言語の解釈が加わっています。ポケモンGOというアプリがあります、、道を歩く際に スマホ越しに見ると、、、道の中にモンスターが出現します。実際は普通の道ですがそこにモンスターが登場します。これを我々はデフォルトでやっているのです。

アプリ独自からPCからのアプリへ

当たり前の話ですがPC内のアプリがPCの機能を使わずにアプリ単独で動けるわけがなくPCのOSから全ての機能でアプリは作動します。アプリを動かしているのはPCです。人間は悟りを開くと自身が実はPCだったという気づきが起こります。なぜならばアプリを起動させているのは事実としてPCだからです、何も不思議なことではありません。自分自身が独立分離した存在だという思い込みが(プログラム言語)そうさせていたことに気づきます。

最終的にはPCの中でアプリが起動していただけという気づき

アプリを動かしているのは機能的にはPCです。それは事実です。アプリはプログラム言語でしかなく機能のほとんどをPCに依存しています。人間も全く同じで人間独自で生きていると思い込まされています、本当はあらゆる機能を全体に依存しているのです。ですがその事実を気づかないようにプログラム言語が働いています。そして本当のことを言えばPCが自主的にアプリを起動させているのではなく操作するのが人間であるように、、、この人間を動かしているのは全体ですが(機能的には)全体が意思を持ってこの人間を操作しているのではなくただその動きが全体を通じて起こっているだけです。人間ー全体ー(操作する人)がいるわけではなく、、、、人間ー全体ー空という感じです。空からビッグバンが起こり、、その起こりを通じて人間はその中で起動しています。全てはビッグバンのごとく空からの爆発で起こっています。

空からの爆発=ビッグバン

ビッグバンとは宇宙の起源、爆発です。どこからこの爆発が起きたのか??空、THE ONE、絶対、無ということになります。ここからの爆発によってこの宇宙、色の世界、現象界、全体が起こりました、、、その延長線上で生命が生まれ、植物が生まれ、動物が生まれ、人間が生まれ、、、と進化は続いていきます。そしてその延長線上で人間は言語、記憶能力を身に付け、、人間が居る世界すらも作り出したのです。ポケモンGOの世界(現象界に独自の視点を加える)、人間GOの世界です。

「私は在る」は空からの反映

我々は空の影の世界を生きる

ゼロ、無、空、絶対、、、この究極の存在の影が色の世界です。色の世界は「私が在る」という絶対的な感覚があります。我々も人間活動をやっていますがその大前提にこの「私は在る」が確実にあります。この揺るぎない感覚こそがゼロ、無、空、絶対の影である色、神、大いなる一つの感覚です。その中にさらに人間が在るという感覚が芽生え我々は人間活動をしているのです。

指の動きが人間

腕全体を神としましょう、すると人間とは指の動きぐらいの感覚です。指が独自に意識を持ち「私は自分」という感覚を所有しました。これが自我です。思考です。本当は指の動きですから全くもって自由意志はありません、腕の先としてコントロールされているだけです、ですが指は「自分」で動かしていると錯覚を起こします。で絶対的な自由意識はどこから来ているのか???厳密に言えば自由意志はどこにもないでしょう。神すらも絶対の影ですから影に意志は作りようがないのです。究極的にはただ動き、思考が起こっているだけということになります。それが影の宿命です。

集団意識、オーバーソウル

人間が指だとしたら手のひら全体は何になるのか??これが集団意識、オーバーソウルと呼称されるような存在です、ですがここにも自由意志は存在しません、これも腕の一部でしかないからです。ただしこの手のひら全体の起こりは在るでしょう。日本人の特製、民族の特製、有色人種の特製、、、などです。

神、ビッグバン、大いなる一つ

宇宙が発生した際にビッグバンが弾けたということになりますがここに個別意識はあるでしょうか。。恐らくないはずです、、、ただ爆発があった、、、これが神の本質です、大いなる一つの本質です。これが絶対、空の影、反映です。ですから実はどこにも自由意志はない、、ただ空からの反映、、そしてそこからの起こりがある、ということになります。我々はそんな中で腕(神)の中の指としてそこに自覚をもって、錯覚を持って生きています。

指から腕を見ている

人間が見る世界は指に目がついて腕(全体)を見ている感覚です。指は思考に支配されていますからありのままを見ることができません、思考というフィルターを通じて腕(全体)を眺めます。そして指がこの腕の中を動き回ることで空間と時間が発生しました、これが時空間幻想です。本当は腕の動きがあるだけでありそこには時間も空間もありません。指に自我が芽生えたので指が動き回るために時間、空間が生まれました。指の動きとは何も関係なく、指の意志とは何も関係なく腕は動き続いけますから指にとって都合の良い世界(腕)など作られるはずがないのです。もしもあるならば指の存在、指の動きは実は腕の一部であったという気づき、諦めしかありません。そして指が思考というフィルターを通さずにこの腕を見ることで全体の一部に戻ります、これが悟りです。