探求はどこから生まれているのか?

探求も根源からの現れ

探求したいという欲求はどこから生まれているのでしょうか、仏教を極めたい、神道を極めたい、茶道を極めたい、趣味を極めたい、、なぜ人は何かを極めたいのでしょうか。。。答えは簡単、今に満足できないからです。今が不満足だから何かを究めたいという欲求が生み出されるのです、根源から。自分という感覚は欲求不満生臓器です、自分という全体から分離した感覚を作り出すことで不足感を生み出しそれを埋めたいという欲求が根源から湧き出します。その欲求こそが何かを究めたいという探求になるのです。

探究心が強い、根源を知っている証拠

根源に深く触れたことがある人は再びそこに戻りたいという欲求が強くなります、それが探究心です。何かを究めたらあの感覚に触れることができるのでは、あの感覚に戻れるのでは、、これが探求を始めます。全体は分離感覚を作り分離ゆえの孤独感、悲壮感、不足感を味わうことに成功しました、全体感覚を垣間見ることで全体への帰還意識を強く強く覚えるのです。

気づきが後戻りすることはない

良い音楽に触れてその感覚がなくなることがないように、素晴らしい芸術に触れてその良さを忘れることがないように、気づきとは後戻りすることがありません。探究心というものが衰えることがないのは、一度全体、根源に触れた人間は根源への欲求が衰えることがないのです。それを忘れるということができないからです。ということで今探究心が強いならばそれが衰えるということはなくその事実こそが悟りに触れてきた証拠になります。

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