あるがままから解釈の世界へ

あるがまましかないのに

我々はあるがままの世界の中に解釈を持ち込み、あるがままの世界の中に自分、相手、机、時間、空間、仕事、政治、会社、学校と次々の物体を作り上げていきその世界に取り込まれていきます。本当は何もないにも関わらず言葉で作った世界に取り込まれていきます。もちろんこれは自動反応ですからこれに意図を持って抗うことは不可能です。人間は意図を持てないのですから。これは騙し絵と同じ、自身を老女であると信じ込んでいき最終的に老女の存在を絶対的なものになっていきます。

言葉が作り出した解釈の世界

野生動物が生きる世界には分離が存在しません、なぜならば彼らは言葉を所有しないので分別することができないからです、世界の中に孤立した存在を作り出すことができません。人間は言葉であるがままを分断分離していき独立した存在同士の世界に切り替えることができます、ただしこの行為は自動的に起きてしまうがゆえに人間はこの流れに無力です。そして世界には自分しかいない、自分は孤独だ、寂しい、、となっていくのです。完全んな一人芝居ではあるのですがこの流れは自動で起きるので起きた瞬間にその世界に入り込むのです。

解釈の世界にはあるがままはない

解釈の世界にあるがまま、本質の世界は存在しません、あるがままが作り出した解釈の世界に突入したらその中で閉じ込められます、なぜならばあるがまま、本質を探しているのが自分というまた作り出されてしまった幻想だからです。騙し絵の中の老女が若い女性を探し出す旅こそが世に言う探求者です。真実を言えば老女の存在で若い女性を見つけることは不可能なのです。自分という存在ありきではあるがまま、本質を見つけることは不可能です。

自由意志もそれを所有する自分も存在しえない

名前がつけられる前、花も人間も、犬も、猫も、太陽も、地球という独立分離した存在など実在しませんでした。ですが言葉を使って分断分離し錯覚することで実在しているかのうように思い込んでいるだけなのです。ですから当然この自分という存在も実在しません。実在しない自分という存在のままでは苦しいので、、悟りたい覚醒したいとなるわけですが、、自分という存在を認めた状態こそが幻想の世界に閉じこもる行為であるという矛盾には気づけないのです。

完全自動で悟りが起こる

私たちは悟りに関しても完全に諦めてしまって構わないのは、、悟りに至るプロセスの中で自由意志でそこに至ることは不可能だからです。騙し絵の絵に気づく過程において自由意志というのは一切存在しないのです、ですから我々は完全受け身、完全受動の精神でここに至るのをただ待つ以外にないのです。自由意思というのも完全な勘違いですから先ずはこの自由意思を否定することが逆にスタートにすらなるのです。独立分離した「私」が自由意思で悟るという行為こそが究極の勘違い、幻想に閉じ込める行為そのものです。

「自分」が悟るのではなく、、

これはもう騙し絵の世界ですから重要なことは騙し絵の世界の騙しに気づく以外にありません、「私」「自分」は騙し絵の世界の住人なのでここではその存在を一旦横に置いておく必要があります。その上でこの世界がいかに勘違いの世界なのかだけに気づいていきます。すると、、、どこかで、、あれ、、私もいないし、自由意志もない、猫も、花も、海も、空も、、全部独立などまったくしていない、、、と突然の気づきがおきます。これまでずっと悩んでいた「私」など存在していなかった、、という気づきが起きます。そしてこの一連の流れの中にも自由意志は一切存在しないのです。

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