救うべき人は誰もいない

全ては開放性の表現

この世界は開放性による開放性のための開放性のドラマです。このドラマに個人というのが居るように見えるのは非開放性という自我を見かけの上で作ることに成功したからです。ですが実際には開放性の中で起きるドラマですから真の非開放性は存在できないのです。そしてそのドラマに出てくる見かけ上(非開放性)の人々は開放性の上に立つ見かけ上非開放性の人々です。このドラマでは見かけ上非開放性に映る人物しか出演はなくよってその本質は全員が開放性の中に居るのです。

私(非開放性)を含め最終的な運命は全員が決まっている

この舞台は開放性の舞台です、、その舞台の中で非開放に見える存在が現れました、それが私あなた、、その他大勢の人々です。私そして彼らは見かけ上非開放性ですがこの開放性の世界の中に真の非開放性は存在できません。よってこれは全て見かけ上、錯覚に過ぎません。ですから救うべき人は実際におらず、、何も問題がないのがこの開放性の世界の特徴です。勿論ドラマ上は救うべき姿に一見見えますが、それはそう見えるだけ、そう感じるだけです。

かといって

かといって目の前に車に轢かれそうな子供が居れば助けるでしょう、、それで勿論問題はありません。ですが不幸にして助けることができなくても、、それはこの開放性の中のドラマでしかないことに気づかなくてはなりません。非解放に見える全てのキャラクターは実は開放性でしかなくつまり最初から救われているのです。

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