全く魅力のないメッセージ

絶望の終わり

自我とは分離感です、自我=分離感です。この枠からは絶対に絶対に自我は抜け出ることができません。自我が向かうところ分離感しかないのです。ですから自我は絶望的な存在なのです、そしてそのことを自我の向こうの何かは気づいています。ですから覚者は自我の終焉以外にこの苦しみを終わらせることはできないと断言するのです。ですがこのメッセージは自我を維持しようとする動きにとっては全くもって魅力のないメッセージなのです。何かを埋めれば何かを足せば、何かに気づけば、、いずれ私は幸福になれると信じて何十年間も走ってきた自我にとって、、、自我の消滅ほど不快なメッセージはないのです。

何かが幸福になるのではない

この世界にある何かは全部現象です、ですからその何かは幸福になるということは不可能なのです。今回の何かとはこの自分ですがこの自分もご多分に漏れず、、現象です、、つまり現れては消える幻想です、幻です。幻は幻ゆえに幸福になるということは不可能なのです。これが自我が絶望的な存在である理由です。自我という現象自体は完璧です、現象は完璧の表現であり自我は完璧なのです。ですが至福という観点から言えば自我は絶望的なのです。

絶望的な存在を終わらせるしかない

もしも出来ることがあるとすればそれは自我(絶望的存在)を終わらせることです、絶望的存在が終われば何が残るか、、、真の安心感、真の安らぎ、真の喜びです。自我とは引き換えにこれを手に入れるしか方法はないのです。自我とは引き換えに????誰が自我とは引き換えに真の安らぎを手に入れるのか????誰が自我とは引き換えに真の喜びを手に入れるのか????それは真の安らぎ、真の喜び、大いなる存在そのものです。

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