腕全体であったという気づき後もひたすらに思考は湧く

指ではなくなっても思考は続く

腕から完全独立したと錯覚した指も途中でこれは錯覚で本当は腕全体でしかなかったという気づきが起こります。これによって指の完全独立錯覚は消え失せるわけですが、、、それでも思考は湧いてきます。この思考の湧き出しをまた腕全体が掴みとってしまうとまた腕全体の中に指という独立国家が誕生します。ですから気づき後の後も思考の湧き出しには注意が必要です。私自身無我の状態を意識的に作れるようになった後もその成果を我がモノにしようとする思考の取り込みに何度も負けてきました。

無我に入るとは腕全体になっているということ

悟りという決まった形式というのは当たり前ですがあるわけではなく、、意識的に無我に入れることが悟りと私はしています。思考に乗っ取られ、思考に振り回されている状態が悟りが閉じている状態、、、思考の湧き出しに意識的になりいつでも無我の状態をキープできることが悟りを開いた状態です。友人と話をする際には当たり前ですが相手はこの私に話しかけてきますから、、、私という独立国家を演じなくてはなりません。ですが会話が終わればまた独立国家「私」から無我に戻ります。指から腕全体に戻るのです。そんなことは可能なのか???という話ですが「私」というのが思考でありそれを維持する方が大変なのです。

無我は虚しい???

自我ベースで生きている人は、、無我なんて虚しいのでは???と思うはずです。ですがこれはおかしな感覚で指という独立国家として生きるのと、、腕全体として生きるのとどちらが虚しいか??という話です。本当は独立していないにも関わらず指という独立国家があると信じ込んで生きていく方が虚しいのです。腕全体よりも指の方が、、、快適で安心で楽しい、、、というのは幻想です。

(Visited 5 times, 1 visits today)