「人間こう生きるべき」の嘘

人生とはその人の思考が作り出した世界のこと

全員が全く違う世界を生きています。我々はそれぞれの視界を持ちそれぞれの価値観の中で生きています。価値観というのは全く目に見えないモノですが実際にはその価値観は確実に見える世界を変えます。これはイリュージョン、物質そのものを変えるというよりもどこに価値を置くかで目に入る情報が確実に変わってきてしまうことを意味します。このブログでも何度も説明していますが渋谷駅で知り合いが居た時、その人以外が視界から完全に外れます。一年ぶりに渋谷駅で知り合いを見つけた際にその瞬間その知り合いにフォーカスが集中しそれ以外の人々が視界から外れます。これが価値観です、価値観とは何にフォーカスし何を視界から外すかに繋がります。

見ている世界が違うのだからこう生きた方がいいという絶対的価値観はあり得ない

価値観はその人の見える世界を変えるということは世の中に住む人全員が全く違う世界を生きているということになります。そうなればもう何が正解な生き方かは決めようがないということになります。ですから世界中に数多ある宗教が統一されないのはこのためです。どう生きるかという壮大なテーマを提示しても全員が違う世界を生きている以上応用が効かないわけです。では人間はどうしたら至福に至れるのか?ということになりますがそれこそがこのブログの主軸、人間が人間のままでは至福には至れないということになります。人間という仕組み、構造を理解しない限り至福には戻れないということです。

どのように人間というもの自我が形成されたかを理解すれば簡単

人間が人間として至福に至ろうとするからこの世は苦しい迷路のようなものになります。そうではなくそもそも自分とは何か?ここに迫れば答えは見えてきます。初期設定の「自分」こそが苦しみ、悲しみ、孤独、退屈を生み出しているわけですからこの生み出し、負の感情生産を止める以外に苦しみから逃れる方法はあるわけないのです。人間が人間として幸福になるために24時間365日フル回転で活動しても無駄なのです。この体・思考・感情を自分であると勘違いすることからこの苦しみは始まりました。疑いようのない、、この在るという感覚を、、、体、思考、感情と同一視することで人間自我活動はスタートします。ですが本当は「在る」という感覚以外は全部後付けです。目の前にる体、思考、感情をひっくるめて自分だと宣誓した時からこの自分ストーリーはスタートしますが人間以外誰もこの事実を応援していません。人間が勝手にこの体、思考、感情を含めて「自分」と宣誓しただけなのです。これを既成事実として人間同士だけがこれを疑わず生きています。この後付けした「自分」こそが負の感情の生みの親、生産者です。

負の感情を「自分」が生み出しているとしてではどうするか?

負の感情を生み出しているのが自分だとしてではどうしたら人生は幸福になるのか?という疑問が湧いてきます。簡単です、自分を辞めればいいのです。???意味不明ですね。でもこれは意味不明ではないのです、後付けで自分をこしらえたのですからこしらえる前の状態に戻せばいいのです。人は何かに集中すると自分を忘れます、後付けでこしらえた自分がいなくなります。自分というアイデアへのフォーカスを辞めて他の対象にフォーカスをすれば当たり前ですが自分はいなくなります。自分というのは体・思考・感情を自分とする思考です、これを外すにはである他に意識を完全集中すればいいのです。この状態を無我と呼びます。1日の中でこの時間を意識的に何度も行うのです。何か作業をする時にあえて集中するのです、どの作業に打ち込む時も集中を絶対的にするのです。「集中できないことは最初からやらない」ぐらいの覚悟でもいいぐらいです。こうすることで1日に何度も無我の状態を作り出すことができ「自分」を意識的に消し去ることができます。これによって負の感情は湧かなくなっていきます。そして無我の状態がより無我の状態を作り出しやすくしていきます。

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