自我は無我を感じることができない

自我は無我を感じることができないから苦しむ

目の前に心穏やかな至福に満ちた老人がいてその人が最高の師であるにも関わらず、多くの若者はその老人には見向きもせずモノ、ファッション、ゲーム、SNSに走っていきます。なぜ目の前に至福な存在がいるのに自我丸出しの若者はそこには興味を持てないのでしょうか?それは自我は無我を感じることができないからです。自我には目の前の至福な老人が理解できないのです、なぜ至福なのかを全くわからない、、、思考には至福を感じることができません。だから思考が求めるモノ、自我が求めるモノは常にピントがずれているのです。思考や自我、エゴが求めるモノは常に形あるモノなのです。それは自我には無我(安堵、平和、愛)を感じることができないからです。

むしろ失うことでの気づきが多い

大切な車を事故で失った若者は最初大いに苦しむはずです、自分のアイデンティーティーであった大好きな車を事故で失った若者はショックでしばらくは眠れなくなるかもしれません。ですが1ヶ月、2ヶ月もすればそのショックもなくなり今までの精神状態に戻ります。車を失ったという事実は変わらないにも関わらずなぜショックが癒えたのでしょうか?車を自我の一部として所有し自我が大きくなっていると感じるのが錯覚だからです。そもそもが錯覚で自我が大きくなっていただけのこと、車を失うことで実は本質は何も失っていないのです。むしろそれによって自我が小さくなったならばその分無我が大きくなるということです。

失って見たら実は平気だったという気づき

私は大学進学に失敗し一年間の浪人を経験しました、それまでは学校に順調に行っていたので学校に行っていないということ、同級生との足並みから外れることに怖さを持っていました。ですが実際に浪人を経験してみると非常に居心地がいい。ドロップアウトすることがこれほど肩の荷が降りるとは全く思っていませんでした。キャリアに傷がつくということを恐れ続けていた感情は一体どこから来ていたのだろう?自我の策略です。自我は順調にキャリアを積まなくては大変なことになると脅し続けていたわけです。ここが私にとっての最初に気づき、自我が恐れていたことを真に受ける必要はないということでした。

倒産、闘病、投獄、、、この三つを経験した成功者は多い

倒産、闘病、投獄、、、これらは現代社会においての地獄、全部を失う状態です。この状態を経験した人間がそこから成功するのが多いというのは理解できます。人間の自我が最も恐る状態を経験した人は、、、実はその状態でも何も失っていないことに気づきます。全自信、全信頼、全人間関係を失っても実は平気だということに気付いてしまうのです。失うと大変になるのが実は自我の策略でこれを失っても本質(無我)は何も失っていないのです。無我とは何もないということ、、、この状態が歓喜、平和、愛なのです。

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