究極の観察の弱点

松本人志

松本人志の笑いを一言で説明すれば「観察」です。究極の観察力で、、タレントさん長所、短所を言い当てます。聞いている客はまさに!!!と唸るのです。有吉のあだ名芸しかり究極の観察力なくして成り立たないのです。松本人志はそういう意味で最も観察力に秀でた芸人だったと言えます。これを悟りで分析しますと、、彼は観察中、、完全に気づきの意織でいるのです。松本人志ではなく、、気づきの意織に入るわけです。つまり悟っているのです。相手を観察する際に完全に無我に入り観察、気づきの存在に成り切るわけです。

それを有我が奪う

悟った状態、無我の状態の気づきで得た芸能力を松本人志という有我、自我が全取りしようとする動きが起こります、、、俺の才能だ!!!!です、、、だからもっと評価をされるべき、もっと称賛されるべき、もっと持てはやされるべき、、、となるんです。本当は無我に入り気づき意識そのものに入ることで、、得た気づきを、、、自我が、、、、、俺様の手柄だと乗っ取るわけです。この動きに無意識(無我の反対)になると、、、やられます、、人生を壊されるんです。

無我のままでは困る

究極の観察力は究極の無我力が為せる技ですが、、、、そのまま無我でいられたらたまったもんじゃないのです、、、自我が消えてしまいます、、自我が消滅してしまう、、自我が崩壊してしまうわけです。そこでその無我の功績を自我が所有するという動きが強烈になるのです。無我力ゆえの自我力です。強烈に強烈に自我に帰ろうという動きが起こるのです。ここを多くの人は見抜けず自我に翻弄されるのです。

自我の動きに無意識ではやられる

松本人志ほどの観察力をもっていてしても自我の動きには完全にやられてしまいます。自我の逆襲です、、究極の無我の状態での気づきを、、、、自我が強力な力で奪い取り、、自我を維持しようとします。この功績は私の力だ、この功績はもっと評価されるべきだ、、もっともっと、、、、、この声に気づきの意織(本質)が耳を傾けたら大変、、、、恐ろしいほどの渇望が生まれるわけです。松本人志ほどの功績を自我が所有したらどうなるか、、、、恐ろしいことです。

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