壺であり大地でありスペースである

この体は壺

この体は壺です、土でできた壺です。壺は意識を持ち私はこの壺で在ると気づきました、、、ですが同時に壺の構成要素である土でもあるで、、壺の土は常に常に大地であった記憶に襲われ、、、大地に戻りたいと探求するのです。壺として生きているだけでは満足できず、、大地に戻りたいという欲求が起こり続けます。ですが同時に壺は既に完成していますから、、大地に戻るためには、、、粉々に自身を壊す以外にありません。

自殺とはつまりそれ

自殺とは壺としては大地に戻れないことを悟り絶望して自らを壊す行為です。壺自身が壺を壊すことで大地に戻れることを知っているからこその動きなのです。では我々は壺として大地に戻れないいじょう、、絶望しながら生きていくしかないのでしょうか。そのようなことはありません、実は大地に戻らなくても大地に戻る方法があるのです。日本語としては成り立っていないですよね?????

大地であったころ

大地であったころの記憶とは、、なぜ起こりえるのでしょうか????もしも世界に大地しかないとしたら、、大地は大地と認識することは不可能です。なぜならば大地しかないのだから。大地以外があって大地は大地と認識できます。ですがこの世界には大地しかないと仮定したら、、大地は大地と認識できません。でもしっかりと大地としての認識があるのです。これは難問ですね????唯一答えを導く方法があるのです。自分の本当の姿とは、、、大地が存在するスペースです。それならばそこに大地が現れた時にそれに気づけるのです。そうです、私たちの本質は大地でありそして大地を出現させたスペースに他ならないのです。これによって壺は自らを壊して大地に戻る必要は全くないのです。

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