悟れない

なぜ

私は悟れません。頑張っているのに悟れないのです。何年間も探求してきましたがどうしても悟れません。このような意見は多いでしょう。私は悟れない、この思考は何でしょうか??この思考は幻です。幻だから気づかれたのです。私は何十年間も探求してきたが悟れない、この思考こそが幻です。幻だから気づかれたのです。悟れないことに悩む自分に気付いています、それに気づけるという事実こそがそれが幻であることを証明します。

悟れない私、悟った私

悟れない私も悟った私も、、同じように気づかれています。つまりその思考は幻です。こんなに一生懸命探求してきたのに、、その思いが今ここで気づかれました。つまりその思考は幻です。ではその思考に気づく主体は何ですか???その主体こそが「気づき」です。真我です。そして悟った私、悟っていない私という感覚は幻として真我から現れでたのです。

悟れないから

私は悟れないからあれをしなくては、もっと良い人間にならなくては、もっと浄化をしなくては、、、その思考が気づかれているならばその思考は幻です。そしてその思考は真我から現れでます。あれ????じゃあ私悟っているのか???その思考は気づかれていますから幻です。そしてそれは真我によって気づかれます。真我からその思考が現れ気づかれたのです。この事実が気づかれない時、悟っていない私問答が起こり続けるのです。

世界

もしも心がなかったら世界は存在できるでしょうか?思考が存在しなかったら世界は存在できますか?日本という言葉を忘れた上状態で日本の将来を憂うことはできますか?老後という言葉を忘れた状態で老後を憂うことはできますか??できません。つまり全ては思考活動だということですか??私の人生は先が重いという思考なしにそう憂うことは不可能です。どこまでいっても思考活動です。

朝から晩まで

実は思考活動が起こり続けるだけなのです。その思考抜きに悩むことはできますか??その思考抜きに憂うことも悲しむこともできません。状況に反応する思考活動に我々は苦しんでいるのです。その状況自体も思考の活動です。だから自由にこう捉えましょう、ということではありません。思考が状況を生み出しそれに思考が反応しているだけですよ、という話です。

真我

事実では真我しか存在しないのです。それ以外の存在は全て嘘です。テーブル、カップ、机、私、、全て存在しません。真我しか存在しないのですから。親戚、従兄弟、兄弟、妻、親友、悪友、、全て存在しません。真我しか存在しないのですから。それらは全て幻です。知覚は間違いなく起こるが幻なのです。知覚が間違いなく起こる幻です。真我以外の存在は全て幻です。

最短最速

悟り

我々は最短最速で悟りに向かっています。どのような経験が起ころうとも最短最速で悟りに向かっていることは事実です。実際には我々は存在しないのですが我々という感覚が起こることもそれには含まれています。悟りが閉じる中でそれも勝手に起こるのです。そしていつか勝手にそれが感覚に過ぎず実体がないことにも気付かされます。

つまり

何一つ自由がありません。何が起ころうとも勝手に起こります。関心が何に向かうかを決めることができる誰かが存在しません。誰かが存在するという感覚が現れてもそれも勝手に現れたのです。二元のストーリーが次々に現れてもそれが勝手に現れるのです。実際には二元の世界が現れたのではなくその感覚が現れます。どこまで行ってもそれは感覚を出ることはありません。

心配

将来に対して心配が起こってもそれも勝手に起こります。恐怖心も不安も憂いも勝手に自然に起こります。そのことが分かってきますと心配が起こった時に「根拠」を探すことがなくなります。なぜ心配なのか??という動きがなくなります。実はこの心配の根拠を探すことで罠に嵌っていたのです。この負のスパイラルが消えます。恐怖心、心配、憂いという感覚は真我からの現れに過ぎないと分かればそれすらも愛おしくなります。なぜならば全て最初から愛だからです。

次元

何次元???

悟りとは何次元のことでしょうか???真我は何次元に存在するのですか???何次元か知覚できてしまったら真我は幻です。神が五次元に存在するのですか???もしも神を五次元として感じているならばその神は幻です。知覚、認識できてしまう神、真我は幻なのです。

何次元からの使者

このUFOは次元が異なる場所から現れました。そのUFOを知覚できてしまったのならばそのUFOは幻です。現れてしまった存在は全て幻であり幻だから気づくことができるのです。金星から現れたのです。時空を超えてUFOが登場したのです、それに気づけてしまったならばそれは幻なのです。

陰謀論

地球には地下組織が存在していて秘密裏に活動している、、その存在に気づけてしまったらその存在は幻です。その思考も陰謀論も気付かれたならばそれは幻です。では何が真実なのか???真実はそれが幻だということ、幻は気づきである真我から現れでては消えるということ、です。その意見に振り回される私も幻です。つまり気付かれる対象は全て幻でありそれは気づきから現れます。気づきは何が出現しても気づきます。そのことに気づきが起こった時何が出現しても気にならない、という感覚が起こります。

真我

真我でないもの

真我でないものは存在するのでしょうか?存在しません。真我とはそれ以外が存在しない存在だからです。つまり今このブログを書いているこの視界も真我です。この思考も真我です。この感覚も真我です。真我以外の何かは存在しないのです。そしてそれは確実に気づかれています。二元の感覚こそが真我から現れ気づかれるのです。

この音楽良いな

この音楽良いなという感覚が今現れているならばそれが真我から真我の現れとして現れたのです。この音楽知ってる!という感覚が真我から現れ真我によって気づかれます。この事実に気づきが起こった時「世知辛い日本の状況」という思考が現れてもそれも真我から真我の現れとして現れたに過ぎないという真実に気づきます。

その思考が起こらなかったら

その思考が起こらなかったら「世知辛い日本」という感覚を持つことはできません。将来が暗い日本、混迷の日本、先が見えない私の人生、これらの発想は当然起こりようがないのです。たまたま真我からその思考が起こったからそれを感じているに過ぎないのです。全員が先の見えない日本を憂うのは当たり前だと思っているとしたら大間違いです。ただその思考が真我の現れによって現れ気づかれたに過ぎないのです。

嘘の声

今目の前

今目に前にカップがあってテーブルがあってペンがあって、、これ嘘の声です。全て真我の影です。真我の影にも関わらずカップ、テーブル、ペンがしっかりと存在しているように見えます。影とは実在しないから影なんです、にも関わらずカップ、テーブル、ペンはしっかりと実在しているように見えます。この動きが嘘です。ですがこの嘘の動きはなくてはならないのです。なぜならばこの影は真我の影だからです。真我とは無限であり真我の影は無限の現れでなくてはならないのです。

存在しているように見えていい

だから目の前にはあらゆるモノが存在するように見えていいし、聞こえていい、味わえていいのです。この影は無限の現れでなくてはならなずだからこそ五感をフルに活用した存在感が起こります。そしてこれらは蜃気楼と同じで実体がないために在るように「見えて、聞こえて、味わえて、触れれて、嗅げて」終わりです。これらが何かに影響を与えることも不可能です。実在しないのですから。在るように感じられるだけの存在です。

存在は気づかれる

「見えて、聞こえて、味わえて、嗅げて、触れれる」だけの存在は同時に必ず気づかれます。この現れは必ず気づかれるのです。気づかれない現れは存在しません。私が現れのごく一部に気付いているのではありません。現れは必ず全て気づかれるのです。つまり我々は全てに気づく存在であり現れそのものでもあります。世界とは私に一部気づかれる存在なのではなく気づかれる現れが世界です。そしてそれは気づきから現れ続けます。

脳が、、、

脳とは気づきの内容である

人間は脳が進化してこの脳が仮想現実を作るのだ!!!違います。脳は気づかれる内容です。気づきと気づきの内容が存在します。その内容に脳は含まれます。MRIの検査をすれば脳波が今こうなっているという検査結果を見ることができます。ですがその内容こそが気づきの「内容」です。現象界の全ては気づきの内容、気づかれる内容です。この内容の全ては気づきの側面です。

気づきの内容は。。。

気づきの内容は「こういうメカニズムで作られた」という理屈は必要ありません。気づきから直接「内容」として現れるのですから。UFOという気づきの内容が太平洋に現れでた時「どういう経由でどういう科学で????」という理由は必要ないのです。気づきからUFOは直接現れるのですから。幽霊が実家で現れた時も同じです。どういうメカニズムで、どういう理由で????は必要ないのです。

それを調べると、、

そしてそれを調べればそれらしき理由が気づきから直接さらに現れます。あのUFOは金星から現れたようだ、あの幽霊は5代前の祖父のようだ、、とそれっぽい理由を伴って現れます。しかしそれも気づきから直接現れるのです。それに意味はありますか???詮索する意味はありますか???現象も現象の現れた理由も気づきから全て直接現れるに過ぎないのです。

気づきと気づきの内容

この二つ

世界とは何か???世界とは気づきと気づきの内容、この二つのことです。これだけです。これ以外を探しても何も出てきません。目を閉じてみてください。何か音がしますね、何か思考が起こりますね、、これが気づきの内容です。そしてそのことが気づかれています。つまり気づきの内容と気づきの二つしか存在しません。映画を二時間見続けます。映画の内容が見られ続けています。これが気づきの内容です。そしてそれが気づかれ続けます。

これしかない

頭が壊れるぐらいに悩むとしましょう。考え続けます。これが気づきの内容です。そしてそれが気づかれます。誰が頭が壊れるぐらいに悩んだのですか???「私です」という思考も気づきの内容です。つまり気づかれる内容、と気づき以外が登場できません。そして気づきと気づきの内容は相反するのではなくこれらは違った側面です。

熟睡中

では熟睡中はどうなのか???熟睡中は「気づき」のみがあって気づきの内容が不在の状態です。気づきのみです。気づきの内容が不在でも気づきが消えてなくなることはありません。そして夢見の状態の時、気づきから気づきの内容が現れでるのです。つまり気づきの内容とは気づきに所属するのです。そして気づきの内容は気づきなのです。

物欲

限りがない

物欲には限りがありません。スニーカーマニアはスニーカーを集めれば集めるほどに新しいスニーカーを手に入れたくなります。カーマニアも同じです。時計マニアも同じです。ある時、この衝動には終わりがないと気づくその時までこれは続きます。物は何か自分の人生を輝かせてくれる可能性があるように感じます。ですがそれこそが自我がこの苦しみから逃れるために思いつく思考なのです。

あれを手に入れたら輝かしい日々に

という思考が起こります。この思考が起こるから「ワクワク」しそれを成し遂げるために一生懸命になれます。この行為自体が実は自我という感覚を忘れるための逃避行動です。何かを手に入れるための行動自体が自我を忘れるための動きなのです。そして何かを得たところで絶対的に満たされることがないからまた次のアイテムを求めます。ところがこの、なぜ???これだけ請い願ったアイテムを手に入れても満足に至れないのか???という疑問は湧きません。ここが不思議なところです。

そこには関心が向かない

新しいアイテムには次々に関心が向くにも関わらず「なぜ???満たされないのか???」という疑問は起こりません。関心が向いてしまったのだからそれでいいいのだ、とばかりに次々に関心が次に向かうのです。何年間も恋焦がれて手に入れたにも関わらず手に入れてしまったら次にまた関心が向かってしまう、ここには一切疑問を持たずに次に向かいます。

人生の意義

目覚めること

人生に意義はあるのでしょうか??あります。それは人生の意義とは目覚めていない状態に至りそこから目覚めることです。目覚めていない時、関心の全ては目に見える全てに行きます。目に映る全てをどうにかコントロールできれば上手くいくような気がするのです。ところが実際にはいかにコントロールできても全く満たされない、違和感が続きます。

だが

ですがこの状態、目覚めていない状態が存在しなければそこから「目覚める」という経験も起こりません。ですから目覚めていない状況は必然なのです。先ずは目覚めていない状況があってそこから目覚めるに至るのです。これが人生の意義です。だから目覚めていない状況を悲観する必要は全くありません。この状況は必然的に起こるのです。

自然に

目覚めていない状況が最初にあって次に目覚めの状態に至ります。ここには自由意思はありません。自然に目覚めが閉じ、自然に目覚めに至るのです。自然に悟りは閉じ、自然に悟りは開くのです。そこには個人は一切関与できません。個人という感覚も自然に勝手に起こり勝手に消えます。個人という意味も勝手に起こり勝手に消えます。