自我を刺激する映像の数々

両親

両親がこれだけ生活を犠牲にしてまで育ててくれたのだから期待を裏切るような進路には進んではならない、、、このように考えている学生は多いでしょう。優しい学生ほどこうなるでしょう、ですがこれ自我をくすぐるトリックです。自我はストーリー上この人は裏切れないというキャラによって大きく人生を振り回されていくのです。ですが残念ながらのそのキャラは映像に過ぎないのです。そうですマリオの前に現れでたクッパに過ぎないのです。クッパの動向にマリオが大きく大きく作用されるように両親も最大のクッパになりえるのです。

ラ王を追い求めるケンシロウ

ケンシロウが人生をかけてラ王を追い求めたようにこの人生ストーリーではあるキャラに多大な影響を受けて多くに時間をそこに費やすというストーリーが起こったりします。ですが実際にはラ王は存在せずケンシロウの前に現れでた時にだけ現れる画像に過ぎないのです。どこかにラ王は居るはずだと探しているその時ラ王は存在しません。そして追い求めるケンシロウも実は存在しないという大オチです。

なぜ??????

理由なんて全くないのです、ただこの人間の体に育った脳はこの体を安全に維持するためにストーリーをでっち上げ行き抜くことを最優先する思考を上げ続けます。その思考を信じれば親の期待を裏切らないという思考が起こり親との関係を保持することでこの体の維持を図るのです。

見抜く

悟りとは何か????を考えるのではなく、、思考が何か???を見抜くのが悟りです。言葉が真実を歪め言葉を信じることでマイストーリが出来上がりこの体の保持に全てが注がれていきます。そこには不快感が常にあって不快の中で体の保持だけが進んでいくのです。まさかこの体の中に自分が居ないなんて思えるはずがなくただこれが続きます。

100円ショップも高級ショップも

存在の現れ

個人は常にもっともっと良いものが欲しいと願います。私はもっと良い物に囲まれたら幸福になるに違いないと考えます。ですが実際には100円ショップの商品も高級ショップの商品も同じ存在の現れです。原材料は全く同じです、さらにそこに囲まれているとされる自分(思考)も存在の現れです。どこに行っても存在しかそこにはなくそのことが分かると、、、ただ静寂が起こります。もう私は良いものに囲まれなくても良いのです。だってどこに行っても存在以外がないのですから。

安物に囲まれた私

「安物に囲まれた私」という思考が存在から現れでた時だけ悲壮感が起こります。この悲壮感が現れることで「安物」を避けようとする動きが起こります。ですがその動きこそが不快感を起こすのです。安いものは気分が上がらない、高級品は気分が上がる????では原始人がタイムスリップしてそこに着いた際に本当にそこには差が生まれるのでしょうか????生まれませんね、つまりは思考がそうさせているのです。

存在以外

ない

いまここには存在以外が存在しません。いまここには存在以外が存在する余地がありません。いまここには存在だけがあって存在の表現だけがただあります。ですから「わたし」も「あなた」も存在以外では絶対になくつまりこれも存在の表現です。つまり我々は生まれて死ぬまで存在であり続け存在の中の何かではなくただ存在なのです。死んでも存在なのですから死ぬとはつまり概念に過ぎないのです。

ストーリー

存在の中にストーリーは起こりますがそのストーリーも存在の現れに過ぎません。そういう意味では存在からストーリーが存在として起こりストーリーが消えても存在が残ります。つまり存在以外であることがないのです。最初から存在であり最後まで存在です。存在がただ在るのみですからそこには空間も時間も存在せず、、空間がある時間があるという思考が存在の現れとして起こるだけです。

自我には全く面白くない

自我にとってはこの話は全く面白くないでしょう。何の目的のなくなってしまいます。だって最初から最後まで存在しか存在しないのならばそこでの自我の活動は意味がないということになります。存在は存在以外にはなれずよって存在は存在のままです。その中に自我という存在の現れが現れようとも存在は存在です。自我が何かを達しようとする動きも存在であり存在の中でただそれが起こるのです。得るものは何もなく失うものも何もないのです。

土台から崩す

ルールが苦悩を生む

働かなくてはいけない、裏切ってもいけない、家族大切にしなくてはいけない、年に一度は挨拶しないといけない、、、、全部全部この世界に苦しみをもたらす「ルール」です。宇宙にはルールは存在せず、よってルールは苦しみを生じます。ですがこのルールがどう実際に苦しみを作り出しているかを細かく吟味し修正するのは不可能です。どのようなルールがプログラムされているかすら分からないのですから。

事実を知る

このルールの土台には「無知」があります。真実ではない思い込みがここには隠されています。この土台を崩します。土台が崩れればルールも壊れるのです。なぜならばルールを適用することが構造上出来なくなるからです。ではそのルールを根本から崩す事実をお伝えします。それが全ては存在であるということです。全てです。存在しか存在しません、、、、存在以外の何かは存在しないのです。私、あなた、テーブル、コップ、全て存在しません。

わたし

私も存在しないのですか?????存在以外は何も存在しません、、、、私は存在が作り出した感覚、言葉でしかありません。原材料は存在です。コップもテーブルも全て原材料は存在ですから、、本当は存在なのです。もしも「わたし」「あなた」「コップ」が存在しているように見えたとしたら、、そう見えるという経験を存在が作り出したのです。

つまり

つまりこの世界はどこまでいっても存在しか存在せずその中であらゆるドラマが存在を通じて作り出されているだけなのです。だからここは夢であり、、この夢も存在のアートです。そのことが明確に分かってきますと、、「深刻に捉える」という「存在のアート」が起こらなくなっていきます。だって何も起こっていないことが分っちゃうからです。深刻に捉えるというアートが起こるには、、これが夢ではなく現実だという誤認が必要になるからです。

何が起こってもいい

個人は何が起こっても大丈夫にはなりません、個人はいつだって不安不安不安です。だから状況に常に変動されます。ですが実際には全状況は神のアートであり、それに翻弄される個人がいるというのも神の思考アートです。だから実は何も起こっていないのです。見かけ上の倒産という状況が神アートとして起こり、、それに翻弄される私という思考が神アートとして起こります。騒ぐ家族という神アートが起こり、山のような請求書だけが届き続けるという神アートが起こるのです。この全ては神が起こしたアートです。

神か知らんが

神が知らんが倒産という事実、追い込まれる自分が居るという事実は何も変わらず、、だからなんだ?????って話じゃないですか!!!!!!違うんです、、、、倒産という状況に見せる神アートが起こり、、それに翻弄される自分が居るという神アートが起こっているのです。本当は何も起こっていないにも関わらず起こっているように見えているというのがこの神アートの偉大さです。だって今も神しかここには存在しないのです、それ以外は何も存在しないのに「倒産」って事実はないんです。「神」という事実以外には何も起こっていないのが真実です。

?????????

つまり何も起こっていないにも関わらず常に常に目の前には「倒産」のような事態がアートとして実感できるのがこの世界なのです。それが分かってしまったら、、、拍子抜け、、なんです。本当は「神」しか存在しないここで、、「倒産」というファンタジーを感じれているのが事実なんです。だから対処すべき自分なんて居ないし、困り果てた自分も本当は居ないんです。勘違いに勘違いを重ねて「困った」が神アートとして起こっているのです。

「自分が居る」という神思考

私は居るよ

今もここには「私が居る」という確固たる感覚がありますが、、その感覚こそが神のアートです。強烈に寂しい時そこには「私」を感じますがそれこそが神の神による神のアートです。孤独、苦しみ、疎外感、分離感、焦燥感、全てが神のアートです。その全ては神が作り出した神の表現です。だからどこを見渡しても「私」は存在せず、、、どこを見渡しても神しか居ません。究極の孤独のど真ん中で、、「私」を探しても神しか出てきません。神しか存在しなと分かった時、、ん???????孤独ってなんだ??????という気づきが起こるのです。

絶望

お金を失い、職を失い、家族を失い、全部を失ったその時湧いてくる感情「絶望」この絶望の感情も神のアートです。「何もかも失った自分」という思考、、、これも神のアートです。全部を失い、、何も残っていない状況、、これも神のアートです。神のアートとは神そのものであり、、、つまり全ては今神です。全部を失った状況、、という神があって、、、、「何もかも失った自分」という神の思考があります。つまり神しかないのです。

全てを手に入れても

全てを手に入れても全てを失っても神しか存在しないのです。。。。。。ん?????????何これ??????状況が変わり続けていると信じてきたけど、、、結局神しか存在してないじゃん!!!神しか存在していないのに俺は何をやっているんだろう????????という思考という神が現れた時、、、、「思考の嵐が止む」という状況「神」が現れます。本当に本当に神しか起こっておらず、、だから分離もなく、、神のみです。

神しか居ない

誰もいない

いまここには神しか居ません、音が聞こえる時、、それが神のアートです、寂しい時それが神のアートです、友人との会話、、それが神のアートです。神が変幻自在に形を変え全体験を形成します。そこには私もあなたも皆無であって全部が神です。「財布忘れた!」という思考という神が現れ、「辛い」という神の感情が現れ、「交番に行く」神の行動が現れます。どこにも私、財布という神とは分離した何かはないのです。

見つかった

その後「見つかった」という神の状況が現れ、「嬉しい」という神の感情が現れ、、「今日は散々な日だったなー」という神の思考が現れます。この全てが神ですから神と神の間には隙間はなく何一つ分離はなく経験には隙間もなく、、神神神神神が続きます。だから時間は存在せず空間も存在しないのです。「時間があるじゃん」「空間があるよね」という神の思考が起こりますがそれも神です。

経験という神

注意深く注意深く観察すれえばここには経験しかありません。見るという経験、味わうという経験、聞くという経験、触れるという経験、香るという経験、思考するという経験、、感じるという経験、、これしか起こっていません。そしてその経験が全て神ならば、、、神神神神神が起こっているだけ、、、、神には分離はありませんから、、、、神しか起こっていないのです。起こるという言葉には分離が含まれますから、、起こるもない、、神しかない、、、、だからここはワンネスです。

ルール

責任を取らなくてはならない

「大人とは自身の行動に責任を取らなくてはならない」このようなルールを持てば、、それは大勘違いですから、、そのルールによっによって苦しみます。「大人とは自身の行動に責任を持たなくてはならない」というルールを支える概念とは「大人は自由意志を行使できそれを緻密にコントーロールできるのだ、だから判断を間違った場合は責任を取ることができる」です。ところが事実では全ては自然現象であってただその行動は起こります、、そしてそ行動は自然現象だって主体である個人は存在しないのです。だからこのルールを支える概念は嘘でありよってこのルールとは嘘の上に乗った「思考」に過ぎないのです。

1000のルール

1000のマイルールを持てばその1000のマイルールによって苦しみ続けます。そのルールを支える概念は間違っており間違った概念の上に乗った「思考」は常に事実の前に打ち落とされていきます。事実に気づくその時まで苦しみは起こり続けるのです。そういう意味ではここは完全完璧な場所です。人間がなぜルールを持つのか????それは人間には自由意志がありその自由意志を縛るためにルールを作るのです。ですが真実では自由意志がないのです。

ワンネスとワンネスの会話

いまここ

いまここでワンネスとワンネスの会話が起こっています、これ以外の会話はありません。個性的な個人同士の会話も実はワンネス同士の会話です。個人が居ないのになぜ会話が起こるのでしょうか????そこには全く意味はないのです、、ここは無限が投影として現れ出る場所などです。無限の存在の顕現は無限の多様性であるのです。嫌味を言う女性が私の目の前に現れでてもそれもワンネスの表現です。そこには「思い込み」を露わにするワンネスの顕現が投影されます。

観念が書き換えられていく

子供が大人に成長する際、あらゆる言葉概念を学んでいきます。世界はこうなっているという概念を学んでいくのです。すると世界はその概念を通じて現れでてくるので、、「やっぱりそうだ!!」という認識が起こっていきます。現れ出るワンネスが概念によって認識され、、「やっぱりそうだ!!」が起こるのです。ですがその概念は勘違いであり、、ただ勘違いを強化します。

やっぱりそうだ!!!!ではない

先ずは概念観念が先にありその通りに現象が認識されます。観念が書き変われば現象も書き変わるのです。だから現れ出る現象を見て「やっぱりそうだ!!!」は事実ではありません。観念通りに現象が認識されたのです。今ここで現れ出る認識とはそのようにさせる観念の存在を露わにします。ただそれだけです、何が今目の前で起ころうともただ観念通りの現れが起こっているのだという事実に戻った時、静寂が起こります。

誰もいない

後悔

あの時あの人にあんなことを言わなければ、、、、、、、こういう後悔ってありますよね。。。ですがですが残念ながら、、、あの人も存在せず言った私も存在しません、、、全ては存在であり存在の中に個別の誰かは100パーセント存在しないのです。ですから個人に見えるあの人と個人に見える私が存在するだけ、以上です。よって傷ついたあの人は存在せず傷つけた私も存在しないのです。そういう出来事が起こったという勘違い、思い込みだけがここに存在するのです。

参った

誰も彼も居ないのならば、、じゃあ私はこれからどうやって人とコミュニケーションを取ればいいんですか????????意味不明なんですけど!!!!!!コミュニケーションガンガン取れますよ、ガンガン取ってください、、、、、ただそこには本当は誰もいないという事実だけがあります。コミュニケーションがガンガン行われますが実際には誰も居ないのです。

居ないにも関わらず

チャットGTP同士を横に置けば無限に会話は続きます。今行われているのはそれです。反射はいつでも起こるのです。そこには誰も居ないにも関わらず反射が起こるのです。そしてそれが今までひたすらに行われてきたのです。そしてこれからも反射が起こり続けます。その中には誰もいないという認識の中で会話という反射が起こり続けるのです。