実感

知識での理解ではない

「試験勉強で成績を上げるコツは他人に問題を出してもらってそこで何度も確認することです」そう教師から聞いた生徒は「分かりました、やってみます」と回答します、この時の分かりましたは「知識での理解」です。この時点では実感はありません、ですがなんとなしにそれで実感できるかも、という期待は起こります。そして実際に何度も他人から確認してもらいついにそれが実感に変わるのです。

非二元

非二元、悟りのメッセージも最初は「分かりました、やってみます」が起こります、、なるほど、確かにそうかもしれない、、、、です。ではその後の「やってみます!!!!」は何なのか???????本当にそうなっているかの確認です。この世界は実はただ「ここ」だけがあるんです、このメッセージを聞いて実際に確認するんです、本当にそうか、、、すると、、、確かに!!!!が起こります、本当に「ここ」しかないんです。

自分という実感

自分が居るという実感は確かにあるんです、、自分が居る感は確かにあるんです、、、ですがその実感こそがただ「起こって」いるんです、、、コーヒーがそこに存在するように「自分が居る感」が起こっているんです。だから「自分が居る」という思考が起こっているんです。「怒り」が確実に現れてそれが実感されました。だから「怒っている自分が居る」という思考が起こるのです。

このことを実感する

あらゆる感覚が現れては消えていきます。そして全ての感覚に気づく存在がいます。それが空、絶対と呼ばれる存在です。意識が現れては消えていきます。そのことに気づく存在がいます。熟睡時には意識は無意識になります。そして目がされめば意識が現れます、そのことに気づく存在がいます。全感覚、全認識に気づく存在が居るのです。それが空、絶対と呼ばれる存在です。

意識に気づく

究極の抽象度

意識がある、意識がない、、、、、今あなたには意識はありますか??????あります、、と答えれない人は存在しません。今日私は朝起きてから意織がないんです、、そのような人はこの世界には存在しないのです。意識は100%誰でもあるのです、、もしも意識がない人が居ればそれは死んでいる人です。つまり意織=人間の活動です。では????意識があることになぜ人は気づいているんでしょうか????????なぜ意識の存在を誰しもが気づいているのですか???????それは意思に気づくという存在だからです。意識に気づくことができる気づきの存在こそが我々の究極なのです。

意織

意識はどこから生まれたのでしょうか?????意識を作り出したのは何ですか??????人間の体ですよね??????朝起きて意識が芽生えると同時に我々の体も存在します、、、、、体はあるけど意識はない、意識はあるけども体はない、、、夜夢を見ている時、、、意識はあって夢もありますが、、この体は存在しません。つまり意識の中に体も夢も現れ出るのです。ではその意識の存在に気づく存在は何か?????それが絶対、空と呼ばれる、、存在です。

意識の現れに気づく

夜夢を見ている時「意織」は存在します。体は存在していませんが「意織」は存在し、、そのことに気づいています。この気づきが「空」「絶対」に起こるのです。そして意識の中に「夢」「この体」「現実と呼ばれる世界」が起こるのです。つまりこの意識とは空によって気づかれ、、それと同時に意織とは「夢」「この体」「この現実と呼ばれる世界」のことです。

思考の扱い

何も怖くない

思考というのは自然に自然に湧いてきます、その思考内容はその時の勘違い、思い込みに準じた内容でただ湧きます。そこには一切の意味はなく、、ただ思い込みが反映された内容の思考が起こるのです。そしてその思考内容に準じて感情が湧きます、、この流れの中に孤独感、悲壮感、分離感、怒り、恐れあらゆる種類のエネルギーが含まれるのです。重要なポイント、それはこの流れの中に「個人」というのは一切関与していないということです。根源からの自動反応です。

思考内容

思考内容は勘違い、思い込みの強度によってただ起こり続けます。ですから湧いてくる思考内容は、、その反映に過ぎず、、内容を吟味して精査してどう対処するか、、など考える必要がありません。もっと極端に言ってしまえばその思考内容が不快ならば、、ただ勘違いの強度が高いだけだということです。ですから湧いてくる思考内容を熟知しようとするのではなく、、リトマス試験紙のようなものと捉えればそれでいいのです。

ただ勘違いを無くす

今日の思考は不快でキツかったなーと思ったならばその解消を「勘違い解消」に向けます。思考を取り上げてどうこうしようとするのではなく、、、勘違い解消にエネルギーを向けるのです。間違いなくその土台には勘違い思い込みが存在しますから、、、まだ実感できていない事実は何だ???????と思えばいいのです。

解放すらない

最初から解放

解放という言葉が意味するのは閉じ込められた世界が先ずはあってそこから解放された世界が起こるということです。ですが解放前に閉じ込められた世界という別世界は存在しません、世界とはただ一つ、、ただ空即是色があるだけです。ゆえに解放前と解放後という別世界はないのです。では解放とは何なんでしょうか?????解放とはただ一つ、、、思い込みの思考が消え去る、、だけです。

自我

自我というこの世界とは個別分離した存在がある、、、、という発想、それが自我です。この自我という概念、想念、エネルギーが消え去る時、、、ここにはただあるがままの世界が広がります。最初からあるがまましかないのですがその表現に「自我」という表現があったのです。世界の仕組みが分かった時「自我」なんてものは実は存在しないことが分かります。これが解放です。

何があってもいい

強烈な強烈な自分という感覚があってもいいんです、強烈な強烈なあなたという感覚があってもいいんです。それがあるがままのアート、表現としてただ現れ出たのですから。そしてそれをなぜ認識できてきたのか????なぜそのアートが認識されてきたのか??????あるがままの表現だからこそ現れそしてそのままに認識されてきたのです。解放の中にそのアートが現れそして消えるのです。

神しかいない

時間空間??????

この世界には神しか存在しません、神の中で思考感情五感が起こっているだけです。では神しか存在しないこの世界に時間って存在できますか????空間って存在できますか???????時間も間違いなく神のアートであり、空間も間違いなく神の現れです。神しか存在しないのならば時間って存在しようがないのです。空間って存在しようがないのです。

マリオはジャンプと歩くを同時にはできない

当たり前ですよね、、、当たり前過ぎるんですがなぜでしょうか?????それは、、、神はたった一つしか存在しないからその表現であるマリオもジャンプ、ダッシュのどちらかの一択しかできないのです。つまりこの瞬間、一つの動きだけが起こるのです。それをつなぎ合わせて時間があるという思考が起こります。ですがその思考も今たった一つの思考としてここに起こるのです。その事実こそが神しか存在しない証拠です。

時間を感じる??????

今日は朝から晩まで時間を感じ続けていました、、、、、、いやいや嘘ですよね?????????時間を感じるのは時計を見た瞬間、、、あ、、、何分過ぎてる、、、、って瞬間感じるんです。時間を感じながらトイレ、シャワー、仕事、通勤、会話、、、無理無理です。。。。時間を感じるのもこの一瞬のみです、、つまり時間があるという思考が今まさに起こった瞬間感じるのです。それこそが神の表現です。時間があるという思考が神の顕現として起こるのみです。

特別になる必要がない

マリオ

マリオはゲーム中、、いかに自由奔放に、いかにダイナミックに、いかに楽勝にゲームを進行するかに胸躍ります。負けて負けて負け続けた時期から一点次は楽勝楽勝、、超楽勝、、、になっていきます、、そのために何度も何度もゲームに挑戦するのです。そして半端なく強い俺を自覚していくのです。ここで重要なこと、負け続けた時期も勝ち続けた時期も幸福度は実は変わらないということです。

勝ち続けても

勝ち続けても幸福になれないマリオは、、、このやりようのない感情をどうしていいか分かりません。そこで新しいゲームに切り替えるのです。マリオブラザーズからマリオカートに切り替えます。その瞬間、このやり場のない感情を一旦は忘れ新たな気持ちで新しいゲームにチャレンジできるのです。やり場のない気持ちが起こったことなど一切忘れまた新しいゲームに夢中になります。

ですが

本当は本当は分かっているのです、、、勝ち続ける時が来た時、、、飽きる、、、そしてエネルギーの向ける場所がなくなることを。だからどこかでマリオは「悟り」という全く新しいゲームに入るのです。もう新しいゲームに逃げるのは辞めて「悟り」つまりこのやり場のない感情を本当の意味で解消するのだと。

気づく

あらゆること

自身の存在をこの体ではなく全体であるという実感に戻った時、、、あらゆることに気付きやすくなります。まだ自分がこの体であるという勘違い中は「自分ごと」で忙しく周囲に構っていられません。頭の中では常に常に自分にまつわる思考が回り続け思考の住人、夢の住人のままです。ですがそこから脱出し全体としての自覚が生まれると周囲に気づくという現象が起こります。

もはやマリオではない

マリオに夢中になっている時期はマリオ以外には興味が持てません。もしも周囲に興味が湧くとすればマリオ(自分)に利用価値があるか、マリオが比較対照して良い気持ちになれるか、マリオにとって憧れの存在か、、という損得です。ところが自身が任天堂スイッチであるという自覚が起これば、、画面上のキャラは全員が私です。興味はマリオだけではなく全員に注がれるのです。

もっと周りに関心を持って!!!

社会人になったら「もっと周りに関心を持って!!!」このようなスローガンは無駄です。自我にとっての興味とは損得でしかなく、、利用価値が無ければ関心が起こらない、、、ですが自身がマリオではなく任天堂スイッチであるという自覚が起こった時自然と全キャラに興味が出るのです。その興味とは「愛おしさ」であり自我活動での感情とは異なります。

熟睡

ただそれを追い求めて

マリオは次々にステージを上げて全クリしたいのは、、、今が苦しいからです。今が苦しいから何かを達成した暁には幸福があるのでは?????と予想してキャラを全うしていきます。では何と比較して何が苦しいのでしょうか?????苦しいと言い切るのならば何かと比較しなくてはなりません。どの状況と比較して今が苦しいのでしょうか????????熟睡時です、、、熟睡時のノイズのない平安と比べて今が穏やかではないのです。

にも関わらず

熟睡時の平安と比べて苦しいにも関わらずマリオはお金、異性、権力、見た目の安定を手に入れてこれに近づこうとしています。え??????全く見当違いな目標になってませんか??????そうです、、、何かを個人がかき集めて幸福になろうとする動きが「熟睡時の平安」とは全く全く関係がないのです。だからマリオはいつまでももがき苦しむのです。

熟睡時

では一体全体熟睡時の自分とは何なんでしょうか????????意識がない状態です、現象がない状態です。意織+現象がない状態です。これを追い求めているのです、マリオは。いやいや無理じゃん。。。。だって起きればマリオが現れ世界も同時に現れるのですから。ん???????そのマリオ、世界が現れ出る根源、、これが熟睡時の私のことです。つまりいまもここにそいつはいるのです。だからマリオは何も得る必要はなく何にもなる必要がないのです、だってここに熟睡時の根源は在るのですから。

任天堂SWITCH

画面

この世界は任天堂スイッチ(空)が作り出した映像に過ぎません。今ここに映像がしっかりと存在しその映像同士が影響し合っているように映りますが実際には全てスイッチの中で起こっています。それが映像化されていまここにあるのです。だから因果関係というのはトリックです。今ここにあるグラスを投げれば割れるという結果が確実に見えますがそれすらも本当は任天堂スイッチの中で起こっているのです。テレビ画面の中でマリオがクッパを倒すという現象が起こっているように見えようが、、それは全てスイッチの中で起こっています。

だから

科学者はこのテレビ画面の中で因果関係を一生懸命一生懸命考察しますが、、残念ながら画面上はただのスイッチ内部の投影に過ぎないのです。そして画面の中からスイッチ本体を探すことは不可能です。画面上の科学者は結局は何も分からないのです。見た目上の覚者はこれを感覚として理解するのです。画面上のどこかにスイッチがあるのではなくこの意織の先にそれを発見します。

どんな映像も

この現実と呼ばれる世界で何が起ころうともスイッチは何一つダメージがなくただあります。時間空間が画面上に現れ出ようとも何も関係なくスイッチはただあるのです。もしもこの世界にスイッチしかないのならば時間も空間も存在しません、、ただTV画面が起こった時にのみそれは概念として起こります。「時間ってあるよね」「空間ってあるよね」という概念だけが時間、空間という存在を立ち上げますが本当はスイッチしかありません。

意識は無意識に依存する

意識が在る理由

意識は常に常にあります、熟睡時以外に意織がないという状況は一切ありません。ではこの意織なで存在できるのでしょうか?なぜ意識があることを認識できているのでしょうか?意識があることに疑いを持たないでいれる理由はなんですか?「意識」は「意織」に気づくことはできません、なぜならば意織そのものは自身の存在にだけは気づけないからです。では何が「意織」に気づいているのでしょうか????「無意識」です。無意識しか「意織」の存在を認識できないのです。

絶対

意識を意織たらしめている存在こそが「絶対」つまり「無意織」です。無意織ですがこの存在なくして「意織」は存在しえない、、意識があるという自覚は起こりようがないのです。意識こそが絶対の存在を証明するのです。意識こそが無意識である絶対の存在を露わにします。意識は常に常にある、、つまり無意識である絶対も常に常に在るのです、いまここに。