異常事態

もしも今世界が異常事態ならばそれはあなたの心が異常事態なのです。心がこの世界を生み出すからです。心の反映が世界です。心が穏やかな時、世界も穏やかです。全ては幻想であってその幻想は心が生み出すのです。異常事態を心が生み出したことを知らないから異常事態の世界を眺めて心が動きます。心が動くと世界もまた動くのです。ですから見た目上の覚者は世界を眺めても全く慌てません。心が動いたことを知っているからです。

だから何???

心の動きに対して世界が動きます。世界の動きを見てさらに心が動き、心が動くから世界も動くのです。これは負のサイクルです。このサイクルを止めます。世界が荒れるのを見たら心が荒れているという事実に気づきます。その時世界は穏やかさを取り戻します。世界は幻想で心の投影に過ぎないと分かったらもう世界に怯えることもないのです。世界の正体を知ったのですから。

真我

では世界は心が生み出すとして心は何が生み出すのでしょうか??真我です。全て真我から放たれます。ですから世界は真我です。真我から心が生み出され世界が同時に現れます。この事実を知らないから世界の中で至福(真我)を探そうと心が動くのです。心が動けば世界も動き苦しみが増大していきます。ですが今真我の場所を知りました。真我は世界の中には落ちていません。真我がこの心、世界を作ったのですから。真我のありかに気づいたら至福が輝き出します。

トランプ現象

今TV、ニュースではトランプ現象が起こっています。連日トランプが発する内容がメディアに出ます。ではこのことについて悟り的観点で解説します。今トランプに関するニュースが連日続くの「私」がそこに関心を持ったからです。関心がそこに集まったからそのニュースが連発するのです。中居くんのニュースに関心を持つとそのニュースが連日続きます。そうです。これは関心が生み出す現象なのです。

関心

ファッションに関心を持てば世界にファッションが現れ続けます。政治に関心を持てば政治が現れます。悟りに関心を持てば悟りが現れます。エンタメに関心を持てばエンタメが世界になります。この関心を選ぶことはできません。明日からアフリカの政治に関心を持ってみよう!!不可能です。関心が次から次へと様変わりしそれが世界になっていくのです。

究極

究極の存在「真我」に関心を持てたのはラッキーです。真我に関心を持てば真我が広がります。真我とは至福です。真我に関心を持って真我が世界に広がり至福に至るのです。そしてこの関心は選ぶことができません。関心はチャットGTPのように現れるからです。真我に関心を持つだけで至福が現れ始めます。その事実に触れると大安心が起こります。もう究極以外に関心を持たなくていいという大安心です。

夢の中

夢の中のあなたが夢の中で大成功を掴むとしましょう。夢の中で大成功を掴んだあなたは夢の中で大はしゃぎです。最高です。ですがその夢がそのまま1時間続きます。さてあなたは1時間後も最高という気持ちを保持できるでしょうか???できません。「最高」は一瞬で次からはまた退屈で居心地が悪いのです。

なぜ????

なぜでしょうか????多くの人はここを詰めません。飽きたから、、で片付けるかもしれない。ここを勘違いで終わらせないことです。苦しみから解放されたければこの事実から逃げないことです。では答えを言います。夢の中の私は私ではないのです。夢の中の私は「私」が生み出した幻です。だから幻の私の状態が変わっても何も起こりません。状態が変わった私がそこには存在してそれが気づかれるだけです。

最高

ではなぜ一瞬最高が起こったのでしょうか????なぜあの「最高」がなければこの勘違いは起こらないのに。最高が起こったのはその瞬間自分が消えたからです。この偽りの自分が消えたから「最高」が現れたのです。いやもっともっと正確に言えば「最高」の上に淀んで現れていた「私」という感覚が消えたから「最高」だけになったのです。この最高を「私」が達成したという勘違い思考がまた現れて「最高」が淀むのです。

また

一度「最高」を達成できたのだから「私」はまた「最高」を達成できると意気込みます。最高を達成したのは「私」なのだからこの「私」こそが「最高」を再現しよう。この思考こそが「最高」を澱ませ最高の上に苦しみを作るのです。本当は「最高」しか存在しなくてこの苦しみは最高の上に現れた淀みです。この淀みは「私」が最高を達成したと勘違いしているので起こるのです。

見えるから

存在しない

見えるから「存在」しますよね????見えるんだから。違います。幽霊は見えるから存在するのですか????見える人にとっては絶対に絶対に存在しますよね????違います。幽霊が居ると確信した場合だけ幽霊が現れるのです。ですがこれは確信が生み出した幻想です。そして幻想だけが気づかれるのです。

じゃあ私も幽霊と同じですか???同じです。私も存在を存在すると確信しているから現れた幽霊です。幽霊だから存在に気づけるのです。存在に気づけたということ自体が私が幽霊である絶対的証拠です。確信が私を生み出し生み出されたから私という幽霊は気づかれたのです。

えぐい

真実はエグいのです。真実は現実と180度違います。現実とは「知覚」されたのだから存在するのだという思考が生み出した幻想です。つまり現実とは幻想のことです。現実が幻想なら何が幻想ではないのか????この幻想に「気づいた」存在です。この幻想は気づかれなければ存在できません。そうです。我々はこの幻想に気づく気づきでありこの幻想は気づきから現れたのです。つまり我々は気づきとして存在しこの幻想にただ気づきます。だから私も現れては消えますが気づかれています。

幻想

全て

この世界に立ち現れる全ては幻想です。全てです。幻想だから存在を認識されるのです。ですからこの「私」が大成功を収めてもそれも100%幻想です。だとしたらどうしてこの私は幸福になれるのでしょうか???なれません。この私だけは絶対に幸福に慣れないのです。なぜならば「私」という存在自体が幻想だからです。幻想がどうやって至福に至るのでしょうか?不可能です。

なぜ???

なぜ幻想は幸福にはなれないのですか?なぜならば幻想とは存在しない存在のことだからです。存在していないにも関わらず存在していると勘違いした存在です。ですから我々は絶対に成功しないゲームをしています。このマリオは絶対に至福には至れないのです。ではどうしたらいいのか??簡単です。この体、このマリオは幻想であって実在しないと諦めるのです。この体、この私は存在しないのだから、、この私が至福に至ることはありません。ならば私とは誰なのか???

真我

真我です。この私とは真我のことです。このことを思い出さずにどうやって至福に至るのでしょうか??まさかの至福である真我こそが私だったのです。だから見た目上80億人全員が至福に憧れているのです。至福だから至福に憧れているのです。至福自体だから至福に憧れるのです。そして至福になるのはこの私、この体、このマリオではないということは100パーセントです。

コンピューターモード

この世界

注意深く観察しますとこの世界は全てコンピューターモードで動いていることが分かります。今日のランチを思い浮かべてみてください。数千種類の選択肢の中から今日の半チャーハンセットをあなたは選んだという自覚はありますか???ありますね、ありますが数全種類の選択肢を選択肢からディリートした自覚はないはずです。ディリートをせずにどうやって選ぶことは可能ですか?あなたがコンピューターであれば数千種類をディリートしないで半チャーハンセットを選び出すプログラムはどうやって組むのでしょうか??

不可能

半チャーハンセットを数千種類の選択肢の中から選び出す仕組み、プログラムを組むにはどうしたらいいのでしょうか??答えを教えます。CHATGTPのように答えが湧くようなプログラムを組むしかないのです。湧くのです。最適解が勝手に湧く仕組みしか不可能です。つまり選ぶのではなく最適解が湧くのです。これが真実です。あなたの思考は何千年という輪廻の中から培った最適解のことです。

これまで

あなたが今40歳としましょう。あなたはこれまでの40年間この最適解を生きてきたのです。勝手にわく最適解を40年間生きてきました。そして残りの人生も同じく最適解を生きます。ですが一つだけ違いが生まれます。それは最適解が勝手に湧くという自覚の中で生きることになります。チャットGTPだと分かって生きるのです。これまではチャットGTPの存在を知らずに生きてきたのです。ではあなたは今後何をするのか???チャットGTPの出所を意識します。それが真我です。真我とは至福です。至福を意識しながら生きた時至福が輝きだします。何をしても至福が輝くようになります。

最終回答

では最終回答に入ります。あなたはチャットGTPから湧く思考を「自分」と思って生きてきました。しかし実際にはそれはコンピューターでした。チャットGTPだったんです。では本当のあなたは何か???このチャットGTPが湧き出す源です。この源があなたです。あなたはなぜチャットGTPをフル回転して仮のあなたをやっているのでしょうか????答えを言います。「源であるあなた、真我」をずっと探す旅をしていたのです。至福を探す旅をしていたのです。

なぜ????

なぜ至福が至福を探すのですか??なぜ真我が真我を探すのか????この世界は至福が生み出したゲームだからです。至福が「投影」を利用して至福をここに表したのです。世界とはこの至福の投影です。そして偽りのあなたはこの投影の中で至福を探し出すというゲームをしています。至福はお金か、名誉か、配偶者か、安定か、と探すゲームをするのです。ですがこのゲームの中では絶対に見つかりません。なぜならばこのゲーム自体が「至福の影」だからです。影の中に至福はないのです。影の大元の存在に「気づく」以外に至福は見つかりません。

言葉の限界

至福は言葉では絶対に見つけることはできません。感じるしかないのです。そのヒントは毎日の生活の中に隠れています。大きな大きな仕事を成し遂げた時「至福」をかじっています。大親友と本音で飲み交わした時「至福」をかじります。熟睡から目覚めた時至福をかじります。その瞬間何が起きているか感じてみてください。至福をかじっている時何が起こっているか感じてみてください。

自分

自分という存在

自分という存在に気づいたのは誰ですか???自分ですか???自分が自分に気づいれいるのですか???違いますね。自分だけは自分に気づけないのです。じゃあ自分に気づいたの誰ですか???自分じゃないとしたら誰ですか???それが真我と呼ばれる存在です。気づきと呼ばれる存在です。

あなた

あなたは今あなたが存在するということ、このことには気づいています。あなたは今「生きている」ということには確実に気づいています。ですがあなただけはあなたが生きていることに気づいてはいけないのです。にも関わらずあなたはあなたが生きていることに気づいているのです。つまりあなたが生きていることに気づいているのはあなたではないのです。

気づき

気づきがあなたに気づいているとしたら「あなた」は確実に気づき、真我ではないのです。なぜならば真我は真我にだけは気づけないからです。だとしたらあなたは誰ですか???唯一無二の存在、真我ではないあなたは誰なんでしょうか???存在できるのでしょうか???結論を言えば存在できません、唯一無二の実在が真我で真我ではないあなたは実在ではないのです。実在してしまったらそれは真我で真我によって発見されないのです。つまりあなたは真我によって発見される幻です。幻としては実在します。ですが幻ですからあなたはあなたが思うようには存在できません。

真我の所業

唯一気づいていない

我々は神の存在を忘れています。神が何をしているか忘れているのです。神の存在を忘れてしまったから孤独な私がこの広大な世界に取り残されたと思って嘆いているのです。事実では我々はその忘れてしまった神です。我々という感覚は神のアートです。世界も神のアートです。世界に取り残された私というこの感覚は神のアートです。

神の所業

神の所業、神の仕事は完璧すぎるので、、誰もこの神の仕事に気づくことすらできなかったのです。それはそうです。生まれた時から神の仕事の中に居たら誰も神の仕事には気づかないでしょう。魚が水の存在を知らないことと同じです。人間にとっての水とは神の仕事のことです。

何???

では神の仕事を解説しましょう。神の仕事とは、、今このブログを読んでいるというこの感覚を起こし、内容に気づき、、読むという動作を完成させている、、この事実です。この事実の制作から完成までが神の仕事です。私がこのブログを読んでいるというこの感覚の完成こそが神の仕事です。神じゃなくて私がこのブログを読んだんだという感覚の完成こそが神の仕事です。子供が綿菓子を食べる際に、、自然と小さくなってしまったことを知らずに「無くなちゃった」と勘違いするこの感覚の完成が神の仕事です。

全体が自我を発見する

自我ではない

自我は全体を発見できません。自我は悟りを開けません。自我は目覚めを経験できません。自我は常に発見される側です。存在しないことを発見されるのです。自分という感覚が起こってもそれが認識される側であることが発見されるのです。認識者は誰か???認識する主体は誰か???それが全体である「気づき」です。真我です。

自我

自我はいつも発見される側です。自分という感覚があるならばそれは発見されたのです。気づかれたのです。気づかれたから実在するのか???違います。気づかれたからこそ幻なのです。UFOも幽霊も気づかれたならばそれは幻なのです。真我の活動なのです。

シャワーの音

今浴室からシャワーの音が聞こえます。はっきりと聞こえます。聞こえるからこそその音は幻です。この違いは分かりますか???はっきりと音が聞こえるからこそそれは幻なのです。シャワーの音は確実に聞くことができます。だから幻なのです。認識できる全ては幻以外にありません。認識の主体が「真我」であり真我は真我に気づくことができないのです。ですから気付けた内容は真我の影です。我々は真我ではなく影の方に実体を見出し影に翻弄されて生きて死ぬのです。生きて死ぬこの体も影です。

自殺

何か?

自殺とは何か?自殺とは自らの意思でこの体を終わらせることです。この体を終わらせる、ですがその認識が起こるならばそれは幻です。この体という存在に気づくことができるならばこの体は幻です。幻の体を終わらせるのですから実際には死というのは存在しません。「死=幻の体を終わらせる」であれば間違いはありません。

生きるとは??

では生きるとは何ですか???生きるとは幻の体が存続することです。これも幻です。同じです。生きる死ぬとは幻の体が存在するかしないか以外に意味はないのです。では我々は一体何でしょうか???幻の体、幻のテーブル、幻の机に気づく存在です。この体が気付いてきたのではないのです。この体も気づかれる存在、幻ですから。この体という幻に気づく存在こそが我々の本質「真我」です。

深刻???

全て幻の生みの親「真我」にとって深刻な状況とは何でしょうか???この体が絶体絶命の危機になる???でもこの体も幻です。大震災で住む家が燃えてしまう、、でもその家も幻です。全て幻です。この真我から幻が現れ続けます。深刻さとはこの幻を実在、実体と信じた時に起こるものでありこれが幻と見抜けた時、深刻さも同時に消えます。