真我と同一化する

幻想じゃない

我々はこれまでこの体、この心、この思考、この感情と同一化してきました。それを自分と教わってきたのです。だから「私はこの体でありこの思考でありこの感情である」という固定観念を構築し、そう生きてきたのです。ですがこれらは全て幻想です。現れて消える存在は全て幻想です。幻想と同一化してきたのです。ところが我々は幻想であるわけがなく、、我々は絶対に消えない存在「実在」なのです。ですからもう幻想を自分とするのは辞めてください。唯一無二の消えない存在「真我」と同一化しなくてはなりません。

どこにある????

そんな唯一無二の消えない存在「真我」はどこにあるんでしょうか???どこに存在しますか???存在するなら教えてくださいよ!!!!それがこの全現象、全幻想に気づく「気づき」です。目の前に視界という幻想が今現れていますよね???その幻想に気づくことができるのは「幻想」ではなく「真我」だけです。ですから今あなたは真我としてこの視界に確実に気づいているのです。

それ

その「気づき」、幻想に気づく気づき、、これとあなたは同一化しなくてはなりません。今まで確実に全幻想に気づいてきた気づきにです。何も努力もせずただ気づき続けてきた「気づき」と同一化してください。その瞬間、この体、思考、感情、、、という幻想との同一化が解除されます。そして幻想との同一化による「苦しみ」が消えるのです。

本当の私は誰???

昔から覚者は「本当の自分は誰だ????」たった一つのこの質問だけで、、、全勘違いが崩壊すると言ってきました。全勘違いとは「カルマ」のことでありこの疑問で全勘違い全カルマから解放されると伝えてきたのです。たった一つの質問「本当の私は誰だ????」です。今その答えをあなたは知ったんです。今あなたは最終回答を手に入れました。

違う

皮算用

何でも手に入れることができる策士が居ます。あざとい行動で全て手に入れていく人間が居ます。ズルい、、、、です。でもズルくて手に入れるなら、、、一回の人生やったもん勝ちでしょ、、、、、となります。しかし、、そうじゃない、、、そもそも「あざとい」ことをなぜ考えてしまうのか????その根底には何があるのか?????恐怖心です。恐れです。恐れがあるから「駆け引き」「取引」の世界に入っていくわけです。その恐れが「問題」を作り出し、、、右往左往します。

一回の人生

一回の人生だから人よりも損な人生は御免だ、、、、これです。ここに尽きます。恐ろしいわけです、、、たった一回の人生を終わらせてしまったら、、、、だからなんとしても損をしないで、、、なるべく高値で自分を売るぞ、、、になります。それが就職では少しでも人気企業に、、、になるし、、、結婚では少しでもハイスペックな相手に!!!になります。価値観の全てが少しでも高値で売ることになります。

最終回答

では最終回答をお伝えします。あなたの人生は一回とかそういう話ではなく、、、それは全て幻想です。今のあなたの人生こそが幻想で、、、その幻想に気づく「気づき」が真のあなたです。だからあなたは死にません、死ねません。だって幻想じゃないんですから幻想だけが消えることができ、、、幻想以外が消えることができません。ですからあなたは消えれないのです。消えることができるのは幻想の方です。

勝ち誇る

皮算用、取引、駆け引きで、、勝ち誇ったところで、、、、、それは全て幻想です。全部が幻想です。ですから、、その幻想がどんな変幻自在に変わっていこうとも、、、、全て最後には消えます。勝ち誇った気持ちも、感情も思考も全て、、、、幻想ですから消えます。それらには「安定」も「平和」も「愛」もありません。なぜならば全て消えるからです。消えてしまう感情、思考に真の平和、愛はないのです。真の幸福、愛、平和とは消えないものです。その消えないものを再発見した時、、、それは外的条件という移り変わるものではないことに気づくのです。

不幸自体がおかしい

至福

熟睡中あなたは至福そのものです。熟睡中世界が消えてこの意識も消えて、、至福そのものに帰ります。熟睡中に苦しんだことがある人は存在しますか????いませんね。そうです。熟睡中というのは本来のあなたそのものであり、、、苦しむことは不可能なのです。これが真我です。この世界が消えた真我です。この世界が消えようともあなたは真我として至福として至るのです。

だがしかし

朝目が覚めます。真我から反映が起こります。至福から至福の反映が起こります。それがこの世界です。ここまではまだ至福しか存在しません。当然です。至福という真我があってその反映、投影がここに現れただけですあら、、至福と至福の影が今ここに現れただけです。しかしながらその影の中にこの体が現れ、、この体を「私」とする思考が現れた瞬間、、、苦しみが起こります。全て影の中での話です。影(世界)の中にこの世界に気づく私がこの体にいるのだ、、、、という思考が影として起こった時、、、苦しみが生まれます。

何ということ????

真我は至福でしかありません。その影がここに現れてもそれも至福の影です。ですがその影の中では苦しみという影が起こるのです。我々は今も真我です。ただ真我の影がここに起こり、「苦しみ」という影の動きが起こりました。影の中のこの体を私とする動きが起こりこの私が全世界に気づくのだ、、、という間違った思考が起こった瞬間苦しみが起こるのです。苦しみとは真我の活動ではありません。真我の影の中の活動が苦しみです。そして影の中に苦しみが起こる理由は、、世界を実在とする動きが起こりこの体を実在とする動きが起こり、、全経験はこの私が気づくのだ、、という間違いの思考(影)が起こるが故です。全ては真我の影の中の動きにすぎません。そしてどんな苦しみの動きが起こっても真我は至福のままです。あなた=真我は今も紛れもなく至福です。だから苦しみを生み出す思考が消えた瞬間、、至福だけが残るのです。

私とは誰か??

全ての恐れを取り去る質問

私とは誰か???それるの分かってしまえばこの世の恐れは消え去ります。私がもしもこの幻想の世界、現実と呼ばれる幻想の世界に存在しないと分かってしまえば、、何を守る必要があるのでしょうか???何から何を守る必要があるのでしょうか??つまり、、、この世界に私が存在しないと分かってしまった時点で、、恐れが消えます。

恐れ

問題とはその恐れが、、、問題という幻想に化けたものです。恐れ自体が問題として化けて現れたわけです。だから恐れが消えてしまった人間には問題は起こりません。問題が起こりようがないのです。だからこそ「私とは誰か???」の答えを知る必要があるのです。私とは誰でしょうか????私とは、、世界が消えてもこの体が消えても残る存在です。熟睡時に全ての現象が消えても残る存在です。これらの幻想が全て消え去っても残る存在が真我である我々です。

どこにそれはある????

真我は時空間には存在しません。時空間が消えても残る存在が真我ですから時空間中に存在するわけがないのです。ではどこ????どこに存在するのですか???それは時空を超えた場所です。時空を生み出す場所です。時空が消えても残り再び時空間を生み出す場所に残るのです。時空間は幻想ゆえに幻想には気づけません。幻想に気付けるのは真我である実在だけです。ですからこの時空間に今気づく存在が真我です。真我が無かったら今この幻想は気づかれていないのです。

熟睡中と時間と空間

存在しない

熟睡中、、、時間と空間は存在しますか????存在しませんね。時間も空間もどこを探しても熟睡中は存在しませ。つまり熟睡中は時間と空間が消えるのです。完全に消えています。では時間と空間が存在しないにも関わらずなぜ「あなた」は生き残ったのですか???時間と空間が存在しなくなれば当然「あなた」も消えてしまうはずですよね???なぜあなたは時間と空間が存在しない状態で、、生き残ることに成功したのでしょうか???

つまり

あなたは、、時間と空間に全く左右されない存在なのです。時間と空間がなくても全く関係なく存在できる存在なのです。つまり時間と空間の中にはあなたは存在していません。だから熟睡中、時間と空間が消え去っても、、あなたは何も関係なく生き残っているのです。もっともっと正確に言えば「あなた」が時間と空間の生みの親です。あなたこそが時間と空間の創造主です。起きてから現れる「あなた」は真のあなたが創造した被創造物です。つまり幻想です。時間も空間も100%幻想なのは熟睡中に消えてしまうからです。

では

なぜこの真実を学校や両親は教えてくれないのでしょうか???学校でこれを教えてくれていればもう最初から悟った状態で生きれるというのに。。。。。では答えを言いましょう。。。。あなたはこの世界が実在でこの体も実在でこの体の中の私も実在と信じきってくれたから、、なんだそうじゃなくて「私」こそが創造主だったんだ、、、という気づきに至ることができるのです。この勘違いが無かったら、、、「創造主」とは何かが分からないわけです。創造主ではない経験を生み出さなかったら創造主を自覚的に経験できないのです。そのためにこの勘違いが生まれました。

困難

困難とは???

全てが幻想です。何も実は存在しません。見える全てが幻想です。その幻想の中でトラブルとか問題とか、、おかしな話なのは分かりますか???幻想のトラブルって意味不明ですよね????向こうに蜃気楼が見えます。その蜃気楼が消えてしまう、、というトラブルが起こります。ですが、、、存在しないのです、実際は。。蜃気楼が蜃気楼と見抜かれた瞬間、トラブルも消えます。つまりトラブルは実在の世界の話です。幻想の世界にトラブルなんてあり得ないのです。

つまり

あなたは実は一度もトラブルなど巻き込まれたことがないのです。全ては幻想ですから実在しないのです。幻想の中でトラブルなど起こり得ないのです。この幻想が破茶滅茶になろうと「幻想」と見抜かれた瞬間それで終わりです。だからあなたはこれまで一回もトラブルに巻き込まれていないし今後もありません。このあなたの体が死に絶えるまで何もトラブルは起こりません。

でも、、、、

電気代の請求書がきて、社会保険料の支払い通知が来て、、、無視すれば電気が止まる、、、、これをトラブルと呼ばずして何をトラブルと?????電気が止まろうと、水道が止まろうと、、、それによってこの体が瀕死の状態になろうとも、、、残念ですが、、、全てが幻想なのです。だから瀕死の状態の体を見て、、、「ヤバい」と思うことができるだけで、、それはその思考が起こってくれなかったら、、トラブルにはなれないのです。

真我

我々は幻想ではないんです。この見える全ての幻想ではありません。我々はこの幻想を生み出す「側」の存在です。だから幻想が消えようとも何も損傷を受けません。幻想とは別次元の存在が「我々」「真我」です。幻想が今存在していると言い切れるのはその幻想に気づく存在が必要であり、、その絶対必要存在が我々真我なのです。ただその我々絶対存在が絶対的に存在し、幻想に気づき続けることができるが故に、、、幻想に実在性(錯覚)を作りだすことに成功したのです。幻想に永続性という錯覚を生み出すことができる理由こそが我々「真我」が永遠の存在だからです。

幻想の連続性

影響しない

今ここにある現実と呼ばれる幻想があります。これは幻想です。幻想とはあるように見えて存在しない存在です。今この瞬間の幻想が次の幻想、つまり次の瞬間に影響を与えると思いますか???今ある幻想が、次に来る幻想に影響を与えれると思いますか???不可能です。だって今ここには幻想しか存在しないのですから。。。次にここに起こる幻想は、、今この幻想が生み出すのではなく、、真我から直接反映されます。つまり、、因果というのは不可能なのです。因果とは、、幻想を組み合わせて後付けで現れた思考のことです。

今因果を表す思考が現れる

因果とは、、幻想を組み合わせて、、浮かび上がる思考のことです。真実では幻想が幻想に影響を与えることは不可能です。現実とは今ここに現れる幻想のことであり、幻想は次の幻想に影響を与えることができません。つまり、、ここに現れでる幻想は毎瞬毎瞬、真我から立ち現れ、、、その幻想を繋げて、、因果という思考が起こるのです。ですがその思考も当然幻想であり、、実在しません。

幻想に連続性などない

毎瞬毎瞬真我から幻想が起こります。その起こった幻想を繋ぎ合わせて「因果」と呼ぶ動きが起こります。それも思考という幻想です。事実ではただ幻想が起こり続け、、それを繋ぎ続ける思考が起こります。幻想と幻想には実在としての繋がりは全くありません。幻想は存在しないのですから、、今ここに起こる幻想は次の瞬間には全て消え去っているのです。全く同じに見える幻想が起こるから、、そこには連続性があるように見えるし感じるだけです。

私にも連続性がない

全ては幻想ですから「自我」という私にも当然連続性は存在しません。私という幻想思考も毎瞬毎瞬ただ真我から立ち現れる幻想に過ぎません。今ここで起こる私は、、次の瞬間に現れる私とは全く関係がないのです。ですが全く同じように現れるからそこには連続性があるように感じます。そのような思考が現れるだけなのです。真我は永遠であり不変です。その真我から現れる全ては一瞬の幻想です。それを繋ぎ合わせて、存在に実在性を持たせているに過ぎません。

束縛という概念の消滅

自由

自由とは何でしょうか????厳密に言えば、、自由ではない状態は存在しません。なぜならば構造上全ては自由だからです。森羅万象の動きを制限することは不可能です。ですから不自由というのは状態として存在しないのです。ですが不自由という概念は存在します。制限されたという概念は存在します。私は不自由だという概念は存在するのです。その概念が自由そのものとして現れるだけです。つまり自由とは「束縛という概念」が消滅することです。ここで言う自由とは「束縛という概念」が消滅することです。

ただ終わる

本来は自由そのものです。自由でない状態など存在しないのです。私はとんでもなく不自由だ、、、というのはその概念がただ自由の中に起こっただけです。不自由とは概念でしかありません。全てが幻想でしかない中で不自由な「実在」というのは存在しないし、存在できないのです。ですから「私は不自由だ」というのは実在の話ではなく、、ただそのような思考が起こっただけです。幻想思考が起こっただけです。

覚者

覚者と呼ばれる幻想が現れるのは、、その覚者という幻想の背景に、、不自由だ、、、、という思考が現れていないだけなのです。全てが幻想であるという自覚が芽生えた時、、、不自由になることができる実在が存在しないことにも気づきます。だから「私は不自由だ」という思考が起こらないわけです。私はこの体という幻想の中には居ないわけで、、、私とはこの全幻想の生みの親であるあることが自覚されます。その時、、、私は不自由だという概念、思考が幻想として起こりません。そしてそれが起こったとしてもそれも自由の表現であることが分かっています。

体験が変わる

気づきに気づくと

これまでは自我が全経験の主体でした。全経験に気づくのは自我とされてきたのです。ところが、、、その経験の主体である「気づき」はこの体の中であるはずがなく、、この「気づき」はこの体どころかこの世界の外で起こっているという「気づき」がこの意識の中で起こります。その瞬間、自我は自我の座を降り、自我は消滅します。経験の主体というとんでない「重役」を担っていた自我が実は嘘だったという気づきがこの意識の中で起こるのです。これは革命です。

革命後

経験が変わってしまいます。自我の経験が、、自我なしの経験に変わります。自我の経験が真我から湧き出る「経験」そのものに変わってしまうのです。その瞬間、、、、経験の趣が変わります。経験が経験そのものになるのです。経験の乗っ取りが終わるのです。経験がそのまま鮮明に経験として起こるのです。経験が今の現れに変わります。経験が真我の現れとして起こります。これがあるがままです。

最終ゴール

真我に気付こうとも、、経験自体は真我からエンドレスに起こり続けます。この五感が途切れることはありません。ですが同時に自我による乗っ取りが消えます。経験が経験そのものに変わってしまうのです。経験が誰かの経験ではなく経験そのものに変わります。この瞬間「苦しみ」が起こります。経験が自我の乗っ取りに合わなければ苦しみがないのです。恐怖がありません。経験だけが起こり続ける時、、真の平安が訪れます。

不老不死の薬

王様

世界を制覇した王様が最後に求めるもの、、それが不老不死です。エゴは何もかも手に入れようと活動します。まずはこの地域を制覇しろ、、この地域が制覇できたらばこの国を制覇しろ、、この国が制覇できたならばアジアを、、アジアを制覇したならば大陸を、、大陸を制覇できならば、、地球全体を、、エゴの欲求には歯止めがありません。そして世界全土を制覇した王はこの地位を永遠のものにしようと「不老不死」を手に入れようとします。さて、、、、このエゴの動き、、、大変面白いわけです。実はエゴが手に入れようとする全ては「私が最初から持っている全て」なのです。

うそーん。。。。

え????最初から持ってる????何それ?????ですが事実です。あなたが最初から持っている全てを「エゴであるあなた」がそれを手に入れようとしているのです。何それ????意味ないじゃん。。。。そうです。意味は全くないのです。真の私が持っている全てをエゴの私が手に入れようとするストーリーです。不老不死?????????本当の私は生まれも死にもしない生死を超えた存在です。だから最初から不老不死です。それをエゴの私は手に入れたいと願うのです。全宇宙を手に入れたい????そもそもこの宇宙は真の私の中に生まれた子供です。最初から私のものです。だからエゴの私は手に入れたいのです。

真の私になりたい「エゴの私」

エゴの私の活動とは、、、真の私になりたい活動です。真の私が最初から持っている全てをエゴの私は手に入れたいわけです。そしてエゴの私すらも実は真の私の子供でしかない、、つまりエゴの私の活動の全ては真の私の子供です。エゴの私は生きている間中、、少しでも大きく大きく自身をしていきたい、、、ですがそれは最初から真の私の全てが子供です。だから実は何も手に入れてもいない、、、真の自分の子供に過ぎないのですから。

エゴの私が真の私に再吸収される

悟りとは、、エゴの私が真の私に再吸収されてしまうことです。真の私から現れでたエゴの私は、、、、、最終的に真の私に吸収されます。真の私の元に戻るのです。それまでは一生懸命一生懸命、、、エゴの私は大きく、大きく成長しようとします。全てを手に入れようとしたエゴは、、最終的に真の自分自身、全てを所有する私に吸収されて終わります。「なんだ、最初から私は全て持っていたんだ」という遺言を残して再吸収されて終わります。