これは情報ではない

情報の前の世界

景色が入れ替わった瞬間、、我々は一瞬ワンネスを見ています、、、何かを食べた瞬間、、我々はワンネスを感じています、、、見る、感じるも、、これも二元の世界でのことであり、、、視界そのもの、味そのものになっているのです、、その次の瞬間には、、、あらゆる物が溢れ出し、誰が何を経験した、、というドラマが湧き出します、、、非二元のメッセージは、、その何もない瞬間、ワンネスそのものの瞬間に誘うメッセージです。

情報は新しいレイアーになる

知識を覚えるその知識がその人の中の新しいレイアーになります、、、全く何もない世界に新しい現象を生み出すレイアーになります、、、悟りとは、、、これが全部レイアーであるという気づきです、、、新しいレイアーを構築することではありません。ですが多くの場合、、悟りのメッセージはその人に新しいレイアーを作ってしまいます。

レイアーをレイアーと見抜く

悟りとは、、、全ての情報がどうやってこのレイアーになりうるかに気づくことです。。。名前を覚えるとそれがこの現象界に出現する、、、この仕組みを理解しますと、、、、もう今までのように目の前の出現に緊張しなくなります。。。だってただの現象に対してイメージを重ねているだけですから。。。この人は有名人なんです!!!と紹介を受けても、、、というイメージがついた人というイメージだという気づきがあります。。これで終わりです。イメージを本質と勘違いし、、そのイメージの中で本質(絶対幸福)を見つけようとする試みが苦しみを生み出します。

TVとは別の思考へのフォーカス

TV中毒

TVを見るのがストレス発散になるのは、、、自分という存在を忘れることができるからです、、、この自分ストーリーから一瞬外れることができます、、、、映画もこれと同じ、、、見ている期間は、、、見かけ上の私ではなく、、映画の主人公になりきり、、そのイメージに同化できます、、、だから多くの人は一日中TVを見たりするのです、、、ですがこれが苦しみを根本から解決できないのは、、、私の人生というイメージへのフォーカスから他人の人生へのフォーカスに一時的に移り変わっただけだからです。。夢の世界に居るという意味では何も変わっていないのです。

映画の世界に逃げる

映画に夢中でいれるのは、、、見ている間、、、この私の人生という映画から目を逸らすことができるからです。映画が終わればまた私の人生がリスタートします。。。そしてそのことを知っているからずっと映画を観続けようが、、、起こるのです。。ですがこれはどこまで行っても、、、イメージの世界です。。このイメージの世界には絶対幸福は存在しません。

映画の主人公がピンチに

映画の主人公が絶対的ピンチに、、、でも楽しい、、、これが映画の良いところです。。これが映画であって幻想であってイメージであることに気づいています。。。。これが答えです。。。この世界、現実の世界も言葉というラベルを貼ったイメージの世界です、、つまりこの見かけ上の私もイメージなのです。。これが分かるともう焦りがなくなる、、怖さがなくなる、、どうでもいい、、、だってイメージですから。。。イメージ上のキャラとしてのこの私は、、、このストーリーの中では絶対に幸福になれない、、、という気づきが起きます。

自分の辞書に敗北はない

あの人の辞書には敗北という言葉はないのでは???

この言葉は非常に意味深いです、、、あるサッカー名将監督を評して、、、あの人の辞書には敗北はないのかもしれない、、、と表現します。。。その通り、、、その人の辞書に収まっている現象以外がこの世界には登場できないのです。。言葉を覚えそのイメージを形成しなければ、、例えその現象が目の前で起こっても気づかない、、つまり存在しないことと一緒。キムタクという言葉を知り、キムタクをイメージできていない人はキムタクが目の前で飲んでいても全く気づかない。。。つまりその人の世界にはキムタクは全く存在していない、、これがこの現実のカラクリです。これがこの世界が夢だと言われる理由です。

多くの感情はこのラベル張りで起きている

キムタクを知りイメージができる人は東京でキムタクに気づいたら感動するでしょう、、、自然発生的に感動が起きます、、、ですがキムタクの名前すら知らない人は、、目の前にいても何も感じない。。。これがこの夢の特徴です、、言葉を知り、イメージ化ができ、、感情が生まれる、、、人間に喜怒哀楽はこのように形成されます、、とするならば、、、この仕組みを理解すれば、、、もう悲しむなど感じなくていい。。。

親友が死んだ

全部はイメージ、、、親友の存在もイメージ、、、そのイメージが死んだ、、、すると、、悲しむという感情の湧き方が変わる、、、親友という存在を出現させていた真我は一滴も何も失っておらず、、、これは移りゆく現象に過ぎない、、、この絶対的理解が、、、感情を変えるのです、、、、友人からの裏切り、、これも友人というイメージに、、、それが起きた、、、どうしても憎めない、、、、となります。夢の世界への没入が薄れていきます。

イメージと見抜く

言葉はイメージ製造機

言葉はプログラミング言語です、、、このプログラミング言語を覚えると、、そのイメージが形成され、、、、そのイメージが実際の現象界で、、、合致した場合にそのイメージがこの世界に出現します。。。東京に長年住んでおる人が見る銀座と、、地方から初めて出てきた人が見る銀座は全く違います。先ずブランドの名前を知らない場合、、、そのお店があることに気づかない、、、そのお店がその人の前にあっても全く視界に入りません、視界が気づきません。。。。それはその人の中にそのブランドが存在しないからです。

エルメスを知っている人

エルメスという名前を知ってる人は、、、エルメスビルの存在に気づきます。。。エルメスというイメージが既にその人の中に存在するからです、、、そのイメージがエルメスビルを発見します。。。だからそのビルを見て感動が生まれたりします。エルメスという名前を知らない人はエルメスのイメージがない、、だからビルが目の前にあっても気づかないのです。

名前を覚えることで

名前を覚えることでそのイメージがその人の中に生まれ、、そのイメージがそれをこの現象界の中で生み出します。。。探し出すと言ったほうがいいのかもしれません。これがこの現実が夢だと言われる所以です、、、名前を覚えなければ、、、それがこの世界に登場しない、、、名前を覚えて初めてそれがこの世界に独立分離した実態として登場します。。。この仕組みを理解し全ては脳が作り出したイメージであることに気づくと、、、、世界が軽くなります、、、どうせイメージの世界で、、、、が分かります。

ラベルの世界からの脱出

人間たるものこうこう常識を重視して、、、

人間たるもの、、こういうことはやらない方が良い、、これは従おう、、常識を少しづつ覚えて、、、とまあこのイメージの世界では、、社会人としての嗜みが求められます、、、ですが何であろうと、、この私も、、相手も、、全部が全部言葉で支配された世界の住人ですから、、イメージでしかありません。。言葉で決められた物が全部が全部イメージです、、、このイメージの世界で、、この私というイメージを向上させようとい試みは、、イメージの社会で多少は役に立っても、、、至福とは全く関係がありません。。至福とはこれがイメージあるという気づきが起きる以外にないのです。

イメージ同士の強化

他人と一緒に居るのがなぜ苦しいかといえば、、、その他人がイメージする役柄を演じ続けなくてはならないからです。相手も見かけ上の私がイメージする役柄を演じ続ける、、、これが辛いのです。。。本当はこの私も相手もイメージでしかないのです、、、、イメージという創造行為をエンドレスに続けていくのは苦しいのです、、本質ではないから。本質は本質の時に至福になります。本質はイメージになり切る時に同時に分離感が生まれます。

木を見ても木とは思わない、、不可能

我々は、、、木を見ればもう自動的に、、木というイメージが湧くように設定されてしまっています。コップを見ればコップというイメージが即座に湧く、、ですからこれを止めるのは不可能です、、、ですがこの仕組みを理解することはできる、、、、今見かけ上の私は、、、木という生命現象を見て、、木というイメージをそこに重ねた、、、だから木という独立分離した(見かけ上)存在に気づいた、、、となります。。全部はイメージ、、イメージのというレイヤーを現象に重ねただけ。。。。だからこの世には何の意味もないですよ、、と覚者は言います。。。たった一つのエネルギーにラベルを貼り付けまくり、、イメージを創造し続け、、、この私というイメージが、、この独立分離した世界を旅するというイメージを作りあげます。そこに意味はないです、、意味とはまさにこの言葉の世界が作り出したファンタジーです。

悟りのメッセージも言葉

言葉は全部イメージになる

悟りのメッセージこれは言葉です、、言葉はその人の中で全部イメージ化されます、、あたらしいイメージが出来上がります、、、悟ってことは、、こういうイメージなんだろうな、、です。。ですが悟りとは、、全部がイメージでありそのイメージを作り出す根本に帰りましょうということですから、、これはもう真逆のこと矛盾が発生するのです。

悟りを頭で理解しようとすると

頭で悟りを理解しようとしても、、頭は悟りをイメージ化します、、、この私がいないことをイメージで創造する、、これが夢だということをイメージで創造する、、、、このイメージが全くない世界、、これが悟りです。ですから悟りをイメージで探してはいけない、、、メッセージはあくまでも実践のための、確認するための課題として捉える、、、そのメッセージを五感を通じて再発見する。。

悟りのメッセージを食べる

悟りのメッセージは暗記しても無駄です、、ただ悟りがイメージ化して終わるからです。これまでの人生はイメージの中にありました、、この私もイメージ、この人生もイメージです、、、悟りはイメージではないのです。。。これがイメージであるという気づきです。。。悟りとは暗記ではなく、、気づきです。。。言葉を理解することは重要です、、言葉の理解がなければ確認のしようがない、、ですから悟りのメッセージを学ぶことは良い、、、ですが学ぶの延長線上に悟りがあるのではなく実践による気づきの先に悟りはあります。

自分を許す、、の本当の意味

本当はこうやるべきだけ、、、まいっか、、ではない

自分を許す、、、というのは、、、「本当はこうやるべきで、、、だけどできない自分を許します」というのではありません、、、、この見かけ上の自分には一つたりとも自由意志はなく自由行動もなく、自由責任もないということを認めることが本当の許すです。この究極の許しが起きた時に、、他人を攻撃したいという衝動が完璧に終わります。自分を攻撃しまくっているから他人を攻撃したいのであって、、これが完全に終わります。自分を一切責めれず、、他人を責めれない、、、

今回だけは自分のことを褒めてあげたい

今回はよく頑張った、、今回の自分だけは褒めてあげたいです、、違います、、、全部全自動、、頑張っていない時も頑張っている時も、、、全部全自動なので、、、全部褒めていいのです、、、、朝から晩まで飲み歩いている日々も、、全部全自動です。。。神が行う経験、神が感じる経験に優劣があるならば神は神ではなくなってしまいます。。

全ての行動は神から起きる

見かけ上の私という体を通じて起こる全思考、全感情、全行動は神から直接起こります、、この全言動に対して判断を下せる存在は誰でしょうか???神です、、、神が自分で全言動を作り上げ、、それを自分で判断するとう動きが起きているのです、、、ですがこのメカニズムに気づいてしまったらもう判断は意味がない、、、だって判断したって、、どうしようもない。。判断を下しているつもりのこの私は神が作り出したイメージです。

イメージの住人

言葉の世界

見かけ上の我々はイメージの世界の住人です、、、この体も、この木も、このコップも、この椅子も、、、全部が全部言葉で成り立っている時点で、、、その言葉のイメージが想像され、、、そのイメージをこの現象に照らし合わせて生きています、、私というイメージが。便宜上言葉を覚えた我々人類は言葉の力の偉大さに気づいておらず、、、言葉にすっかりと飲み込まれているのです。

一人一人が全く異なったイメージを持ち、イメージの世界に生きている

一つ一つの物は名前がついていて、、この名前について人は各々のイメージを作り上げます、、、このイメージをこの現象に重ね合わせることで、、分離した現象界が生まれます、、、イメージが全員異なるということは、、全くもって異なった世界に生きていることになります、、、、本当は本質のみ、一つのエネルギーのみです。ですがそこに重ね合わせた言葉のイメージが異なるために、、違う世界を生きるというイメージが湧きます。そしてどんなイメージの世界を私というイメージが生きようともそこは苦しいのです。なぜならば本当の静寂の世界、平和な世界、至福の世界を既に幼少期に体験しているのと、、本質はそのことを知っているからです。。つまり本当の体験者(真我)がそのことをいつも分かっています。

言葉というラベルの功罪

言葉が作ったこのラベルは各々に異なったイメージを作り出させ、、この体が生き抜く上で役に立ちます、、、この体は確実に楽に生き延びることができるようになりました、、、しかしどっぷりイメージの世界に閉じ込められてしまったことで、、、精神的にはいつも苦しい、、、なぜだ????となります。生きてはいるけど、、苦しい、、、このメカニズムを打破するには、、、この事実に気づかなくてはなりません。

真実に気づけば

真実に気づいてしまえば、、もうイメージに惑わされない、、、この見かけ上の私もイメージに過ぎず、、だからこそこの見かけ上の私の幸福を追い求めても意味がないこともわかります。本当の私とは、、この言葉を作り、、イメージの世界を作り上げ、、、その中での経験の全てを回収している存在だという気づきが起きます。

全員がピカソのように絵が描けたらピカソの絵には価値はないのか???

人類が苦しむ原因

人類が苦しいのは、、、この人類は比較の中でしか幸福を得れないと考えているからです。。。ピカソの絵を飾っていた家で、、、人類全員がピカソレベルの絵を描くことができるようになった時に、、、その絵にはもう価値はないのか???という話です。。。我々は本質が見えない世界に没入することで本質を求める代わりに他人との比較の中で幸福を得ようという努力をしているのです。

他人より収入が良いから幸福なはずだ

他人よりも収入が二倍もある、、だから俺は良い会社で働いている、、だから俺は幸せに違いない、、、全部イメージの話です、、、そういうイメージを作り上げイメージを感じているだけですね。。俺は幸せに違いない、、という思考(イメージ)を感じているんです。。。そうではなく、、、本質、絶対幸福、に今なってしまえば、、もうイメージの世界を感じなくていい、、、イメージの世界でもがかなくて良くなります。

イメージの世界から抜け出る

これは全部イメージ、、これことに気づくことが悟りです、、、言葉を覚え、言葉がイメージを作り、、そのイメージをこの現象に重ね合わせ、そのイメージの中で生きている、、、これを真剣に信じることで苦しみが生まれる。。絶対幸福、静寂、至福の世界に、、イメージを作り上げ、、イメージを感じていいます。。勿論それを起こす存在は神でありそれを感じるのも神です。。。私は実は神なのです、、この体の中の住人と思っていた(イメージ)この存在は神だったんです。

下北沢

この言葉にイメージを作る

見かけ上の私は下北沢という街に住んでいますが、、やはり見かけ上の他人にそれを話しますと、、「下北沢って古着の街ですよね」「下北沢ってオシャレですね」「下北沢って汚いですよね」「下北沢って若者の街ですよね」「下北沢って美容院ばっかりの街ですよね」と各々のイメージを話してきます、、この下北沢という言葉に全員がイメージを持っている、、つまり言葉とはイメージなのです。

イメージとイメージの擦り合わせ

下北沢にできた「ターリーズ」行きました????広いですよね!、、なんか明るすぎじゃないですか?店員さんがまだ慣れていないですよね、、、各々が「ターリーズ」というイメージを伝え合い、、すり合わせをしています。これが言葉の力です。。。。そしてそのイメージをしながらそのお店に行くと、、、そう見える、、これが言葉の威力です、、イメージ力、、、

イメージの世界に居るのが苦しい

世界中に対して良いイメージを想像し、、その想像の中で生きていようと、、、例えば「私は世界一運は良い」というイメージを持っていきていようとも、、、この「私」をイメージしている時点で本当は苦しいのです、、なぜならば「私」はイメージであって本質ではないからです。。この本質の世界の中にイメージのストーリーを作り上げ経験を作るのが苦しいのです、、本質でしかない絶対幸福(神)がイメージの世界に閉じ込められています。

トムクルーズがミッションインポッシブルをやり続ける

トムクルーズがミッションインポッシブルの映画の役をやり続けるのは大変です、、、あの役ができるのはトムクルーズ本人があの役に成り切れるからなのですが、、、これは大変なこと、、、イメージの世界に居続けるのは大変なのです、、、、これは神も同じで、、、神がイメージの世界に入り込むと、、苦しいが同時に湧いてきます、、これを感じるのは勿論神です。。。この苦しいを終わらせたいという衝動も湧いてきます、神から。この衝動を感じるのは勿論神です。