私を維持する力

トラウマ

トラウマとは記憶です。記憶が支えるネガティブな経験です。このトラウマが多ければ多いほどに当然自我は強くなります、トラウマの主人公は「私」だからです。この「私」はトラウマという記憶に支えられているのですがこの「私」は分離感を作り出しその分離感は苦しみを生み出します。非二元の目覚めとは「自分の不在」ですから、、トラウマの保持はこの目覚めの弊害になります。

全自動

トラウマには多くの場合「加害者」が登場します、なぜ?????この加害者は「私」を加害するのか?????これが最も大きなポイントになります。理由を考えます、、しっくるくる考察ができません。ですが全自動の理解がこれを壊します。つまり何が起ころうとも「全自動」なのです。どれほどの残虐な加害があったとしても「全自動」「全反射」です。そこには主体が存在しないのです。

いやいや

ハッキリと意図的に「加害」をしていたという記憶はありますよ。そうならばそうでしょう、、ですがその意図こそが勝手に自動で反射で起こったのです。犯罪レベルの加害であってもそれこそが「全自動」「全反射」だったのです。そこは疑いようのない事実です。このことが腹の底から分かってきますと過去の恨み、辛み、そねみ、妬み、後悔、、全てが崩れてくるのです。

俗に言う「良い人」

生存戦略

頭で考える「良い人」とはただの生存戦略です。好かれることでこの個体を生き伸ばせようとするのです。「嫌われる人」よりも「好かれる人」であった方が生き残りやすい、、、これです。だから高感度を上げよう、、となります。ですがこれをやっていくのは大変、、常に常にアンテナを他人に張って、、相手の要望を取り入れようとします。疲れるんです。

結果的に「良い人」

本当はこれです、、、深刻さが全くなく、、、好かれよう!!!ではなく、、、「愛おしい」この感情ともいえない感情が溢れてきますと「好かれる」ではなく「愛おしい」が動機になっていきます。深刻さをなくしていきますと、、先ず好かれる必要がなくなっていく、、、そして「本当に好かれる必要性が無くなった時」、、「愛おしい」が湧いてきます。

ベクトルを外に向けない

一人ひとりにゴマを擦って、顔色を伺って生きていくのは「重い」人生です。ベクトルを「自分自身」にのみ向けて、、好かれる「自分」を作り上げるのが第二の人生「ちょっと軽い人生」です。最後に他人は勝手に反応し、こっちも勝手に反応する、、、反応が交互に起こっていることに気づく、、つまり「そこには誰もいない」ことに気付いてしまう人生とも呼べない人生が「楽々の人生」です。全く重くないから結果的に「好かれてしまう」「相手を愛おしく感じてしまう」これがゴールです。

慌ただしい思考

静寂

分かっちゃいますと「慌ただしい思考の持ち主」に会っても、、、、全く静寂が壊されることなくその話を聞けます。その話の内容がいかに過激で深刻で刺激的であろうとも、、静寂の中で聞けるのです。慌ただしい会話と静寂がなぜ矛盾なく存在しえるのか?????それはその慌ただしい会話によってこちらのマインドが起こらないからです。

なぜ?????

なぜこちらのマインドが相手のマインドの動きによって動かないのでしょうか?????それは「マインドが何か」に気付いているからです。完全に気付いているからです。マインドとは「何かを指し示すイメージ」です。脳がなければ会話が成り立たないのは脳は言葉をイメージに変換します。マインドとはイメージ起動ツールなのです。で、、相手の会話とはイメージを激しく起動させるわけです。分かってしまうとそのマインドが作り出すイメージが全部嘘勘違いであると分かるのです。だから混乱が起こらないのです。

来年日米両国首相が、、、

「私は政府に通じていて実は来年日米首脳会談でイラクに対して宣戦布告の、、、」という言葉の連打が起こった時「イメージが活性化され、戦争の姿が現れでます、、するとそこの巻き込まれる私の家族も、、、」とこうなります。ですが分かっちゃうと「それ嘘ですよ」となります。何が分かっているのか?????「いまここ」以外何も起こっていないのです、、「何もかもが起こっていない」ことが分かっています。

相手は困惑する

相手のイメージはこうです「俺の話を真剣に聞けば誰もが焦る」ところがこちらは全く混乱しない、、、焦らない。話をしっかりと理解をしているが「焦っていない」、、、バカなのか?????トロなのか?????いやしっかりと話を認識しているぞ、、、、、です。そうです、、噛み合わないのです会話が。真実の絶対的理解は「言語を超える」のです。「言語が起こすイメージをイメージに過ぎない」ことと理解する者を焦らせるのは構造上不可能なのです。

マインド(自我)は目覚めない

至極当然のこと

マインド(自我)は目覚めることはできません。マインドが目覚めるってどういう現象なんでしょうか?????マインドですよ、、目覚めるマインド(自我)って、、つまり「目覚めたであろう自我のイメージ」しか起こせないでしょう。そうです、、そして我々はラマナマハルシ、プンジャジ、エックハルトトールの写真を眺めては「これが目覚めたマインド(自我)を所有する人間だ!!!!!」と思うのです。

マインドとは「気づかれる側」

マインドとは現れては消える現象です、、自我(マインド)も現れては消える現象です。この世界の全現象は現れては消えます。そして現れたからには全部が認識されます、気づかれます。だからマインド(自我)も気づかれます。マインド(自我)は100%気づかれるから、、マインド(自我)は存在します、現象として。ですが現象ですから現れては消える幻です。

目覚めるとは

「マインド(自我)が目覚める」というのはイメージです、イメージは現れては消える現象です。幻です。だから自我は目覚めません、、、目覚めた自我(マインド)は常に常にイメージされ認識される側です。本当の目覚めとは、、、「全ては現象であり現れては消える幻で、、マインド(自我)も当然その一つである」という気づきのことです。本当にそのことが分かりますと、、ただただ静寂だけが残ります。

会話

会話が成り立つ理由

会話ってなぜ成り立つのでしょうか?????誰も気にしないですよね?????答えを教えます。お互いに全部分かっているからです、なぜか??????この世界で気づかれない現象は存在しないのです。だから伝える内容がなんであろうと、、全部最初から分かっています。「私はこうこうこう思っています」という内容が指し示すことがなんであろうと、、真実では「全現象が気づかれている」のです。

勘違いの思考だけが現れては消える

人間業界の会話とは「勘違いの交換」です。「私はこう思います、あなたはどうですか????私はこうですかね」はい全部勘違いです。お互いが所有する「勘違いの思考」をただ交換し合っているのが人間業界の会話なのです。そうなんだ!!へーそうんあですか!!!!と勘違いの思考をひたすらに交換し合っているのです。でも面白いことに、、そのことすらも最初から全部分かってもいます。

真実に出会っても

本当は本当はそうなんでしょうね、、、ただ今の自分には理解できません。となります、、、そうです、、本当は分かっているんです、、だって全現象は100%今も気づかれていますから。だが同時にここから湧いてくる「思考の内容」は真実ではなく、、かといってこの思考を止めることができないことも「分かっている」のです。だから「本当は本当はそうなんでしょう」という言葉がでます。

神は至福になりたいなど思っていない

ここは神

ここは神です、神の遊び場です、、この私も当然神です、、この神である私が神ならばなぜ「今この瞬間に」至福になれないのでしょうか?????だって私が神ならば面倒な手続きなど一切辞めて、、、今この瞬間に至福になっちゃえばいいじゃないですか??????苦労と苦悩とか意味不明ですよね?????なぜそんな地獄を経験しないといけないんですか??????

神は至福になどなりたくもない

答え、、それは神は至福などに全く興味がないのです、、、そもそも至福でしかない神にとって至福になる?????ウザ!!!です。至福なんて全く興味ありません!!!!です。だから「私」が死にたくなるほど苦しくても全く全くその解決方法を教えてくれないのです。なんなん?????です。

そもそも

神には意図がありません、、、幸福になりたい、、不幸になりたい、、、苦労したい、、、、何も意図がないのが神です。神の意思????????何もありません。だから今「私」が感じている悲しみ苦しみ嬉しい楽しい、、と神とは何も関係がないのです。神とはずばり「無限」であり、、、そして「無限の現れ」以上です。だから私が生まれて死ぬまでに現れ出る「無限の思考、無限の感情、無限の行動」それが神です。

全部分かっている

なぜ??????

起こる現象の全ては100%気づかれます。。100%気づかれるということは、、見かけ上の全員が実は「悟っている」と言えます。なぜならば気づかれない現象はないからです。ではなぜ「悟った」とされる状態と「悟っていない」という状態が起こり得るのでしょうか??????全現象が100%気づかれるならばむしろ「悟りが閉じる」って不可能ではないでしょうか??????

ヒステリック

ヒステリックな私がそこに居ます、、、その私の体を通じた「ヒステリック」は100%気づかれます。100%です。気づかれない現象はゼロですから。ではそこに「無自覚」であることはないのでしょうか????ありますよね。。。ヒステリックになっていることにすら気づけない時あります。でも、、、、真実では100%気づかれています。おかしい、、、何ががおかしい。。。。。実は「ヒステリック」という気づきの後に「それを解消したい」という思考が現れ、それが気づかれ、、、「解消のための思考の連鎖」が起こり続けているのです。その思考の内容がこれです「私はこの不快を解消したい」「この私をこんな不快にしたのは誰だ???」「会社だ、会社のせいだ」「あの社長また残業代けちりやがって」「そもそもなぜこの会社に入ったかといえば親のせいだ」、、、、、、これが続くのです、、、その時「ヒステリック」への気づきは遠いかなたです。

だから

あなたは実は「ヒステリック」の原因追求から思考が連打され、、いつのまにかヒステリックよりも思考の連鎖に意識を奪われ、、「ヒステリックを忘れる」という現象が起こっていたのだ。。。という説明をすれば、、、「分かります!!!!!」となるのです。実は実は全部気づかれています。気づかれていない現象はないのです。「ヒステリック」+「思考の連打」が起こったのです。

つまり

見かけ上の覚者とは、、、、「勘違いの思考が起こらない」ただそれだけです。。能力に違い?????全くありません。「気づく力」何も変わりません。ただ「勘違いの思考」が現れでる体と現れでない体がある。。。そして「勘違いの思考」が現れ出るか現れでないかの違いは「真実」を知り、、、「真実」が腹落ちしているかいないかの違いだけです。

私はこれに気づかない

全自動

ヒステリック、、女性に多い症状の一つですが、、、女性がヒステリックに陥っているその瞬間「ヒステリック」という自覚はゼロです。「当たるもの皆傷つけるその状態」に無自覚です。つまりそのことに気付いてるのは「周囲」だけです。「鈴木さんって頻繁にヒステリックになるよね!!!!」、、、この周囲からの言葉に「え??????私が??????」と初めてそこで気づくのです。すると、、、次のヒステリック状態時「あれ?????もしかして私今機嫌悪いかも?????」が起こります。

誰が気付いた???????

ここ最重要ポイントです。誰ですか?????それに気付いたのは?????「私ですよ!!!!!!」私が「ヒステリック」に気付いたんです。。。。では今まではなぜ気づかなかった??????私はその時かつては何をやっていた???????私は寝ていたのか??????今ヒステリックに気付いた私と、、気付いていなかった私とは何が違うんですか?????今までの私は意識を失っていたんですか??????失っていませんよね???????じゃあ何をしていたんでしょうか?????

私ではない!!!!!!

そうです、、ヒステリックに気付いたのは「私」ではないんです。気づきだけが起こったのです。そしてこれまでの「ヒステリック時」はその気づきがなかったのです。「私」は何にも気づかない、、無意識ですか?????違います。「私」が居ないんです。「ヒステリック」に気づく「私」という存在自体が居ないのです。

そういえば

ヒステリック時、、、、それに気づく「気づき」は最初から実はありました、、、ですが、、それ以上に「思考」に気づきがいっていた「あのやろう」「このやろう」「あいつのせいだ」「こいつのせいだ」です。ヒステリック」という気づきを超える「思考」の気づき、、、、、、だか周囲から「あなた今凄い機嫌悪いよ!!!!」と言われば、、、「あ、、、、ばれた」となります。

思考の嵐から

最初から「気づき」しかありません。。。。。。「ヒステリックに気づかない時」、、、「思考の嵐」という気づきだけがありました。。。次に「ヒステリック」に気づきが起こり、、、「ヒステリック」が「思考の連鎖」を起こすという気づきが起こり、、、「思考の連鎖時にヒステリックに気づく」が起こります。すると「思考の連鎖」が終わり、、「ヒステリック」だけになる。なぜならば思考の連鎖は無駄だからです。「ヒステリック」だから「犯人探しの思考」が起こることに気づくのです。

何も問題がない

全部が全部上手くいっていなくても

会社で上司に騙され、会社を首になり、家族も離散し、住む場所も失い、、ギャンブルで負けて、、借金を作り、、アル中になって最近朝から飲んでいます。。。全部が全部崩壊し生きるか死ぬかの域です。何も問題はありません、、世間的には大アリですが、、何も問題は起こっていません。なぜならばその行動の全ては勝手に勝手に起こったのですから。この事実を理解した人間は何かを問題視するということが構造上出来なくなります。

本当の不安

本当に不安というのは「世間で言う人生のどん底」に落ちた時に、、自分を責める他人から非難される、、、ここを気にしているのです。俺が築いてきた全てとは「信用信頼他人からの評価自己評価」です。これが崩れるのを恐れているのです。後指指されるような人生だけは起こりたくはないのです。だがしかし構造上「コントロールが無理」だと分かった瞬間、「どうでもいい」に変わります。というよりも「どうでもいい」しか感情が湧かなくなるのです構造上。

騒ぎ立てる周囲が可愛く見える

明日から会社辞めて旅に出ます、、、突然そう宣言すれば、、家族、上司、仲間は一斉に「正気じゃない」と大騒ぎするでしょう。気が狂った、、と大騒ぎします。でも分かっちゃうとこの反応が面白い、、、予想通りすぎる、、分かりやす過ぎる、、、です。そうです、、そのまんまです。。。つまり多くの方が常識に従っていきている理由は「周囲からの反応」を恐れているのです。自他共に「コントロール能力がない人間」と判断されるのが怖いのです。真実では「コントロール出来る誰かは居ない」です。だから上記の判断自体が「大勘違い」なのです。

逆ドミノ

全て逆

多くの方(本当は居ない)は今の価値観の延長線上に幸せがあると信じています。価値観のアップデート、考え方のアップデートの先に幸福があると信じていますが、、、、逆です。最後は大ドンデン返しが待っています。マリオは最初はプレイするだけで楽しかった、、だが徐々に徐々にプレイそのものではなくステージのアップに関心がシフトしていく、、、プレイのコントロール能力、コインの数、、数字、結果を楽しむようになっていく、、違う、、結果しか満足させてくれるものが無くなっていく。ところが最後、、このゲームそのものの舞台裏が完全に理解できた時、気づけた時、、、全く違う感情ともいえない感情が湧いてきます。それが真の安らぎです。

マリオのプレイ結果じゃなかった

勘違いしていたのです、、マリオが結果を出すことが幸福になれることだと信じていたんです。ですが違った、、マリオが結果を出した時だけ結果を出さなくてはというプレッシャーから解放されて偽りの安堵をしていただけだった。本当の安堵は、、そもそもマリオは結果を出さずとも、、、これがゲームであることにさえ気づければ、、、それで安堵が起こることに気づくことです。

だがしかし

マリオのプレイが始まって、、マリオが徐々コントロール能力が高まっていく途中から、、ゲームの裏側、舞台裏に興味が湧くって不自然なんです。サッカーに夢中になる子供が、、(プレイ以外の)裏技に目覚めるのって不自然なんです。だから徹底的にプレイに集中し切ることが超自然、、全く何も問題はありません。プレイに全集中している間に自然と裏技、舞台裏に関心がシフトし、、、最後は全カラクリに気づくのです。

悟り本

悟り本とは「裏技特集」です。悟り本とはゲーム製作秘話です。この内容に興味を持つのはマリオゲーム完全クリア後が普通、通常でしょう。一応クリアしたけど、、、この先何度も同じことやってもしょうがないし、、、舞台裏を知りたいな、、、、が起こった時、、、理解が起こるのが普通です。もしくは極度のストレスで、、、マリオゲームを作り出す勘違いの思考が突然落ちる、、思考を維持する記憶が落ちる、、この時分かっちゃいます。