神は神を見た

神は夢を見ていた

当初、神は神を見ていました。これが幼少期です。そこから見た目上の体が嘘を教えられそれを信じるようになった時、夢が現れました。この夢を神が見ている時、苦しみが起こるので、、この苦しみを解消しようとする更なる動きが夢の中で起こります。これが人間活動です。少しでも良い暮らし、少しでも友人は多く、少しでも文化的な暮らしに憧れるのは、、夢を見るのが苦しいからです。

この私が見る夢

この私も当然この夢の中の登場人物です。この登場人物は神が見る夢を「私」が見ているという勘違いをします。というよりもそのような勘違いの思考が起こります。これもまた夢です。神が見る夢を「私」が見ているという勘違い思考が起こっている期間、苦しみが続くのです。神は夢を見ているにも関わらずこの私がこの夢を見ていてその夢は現実と呼ばれるようになります。

夢を夢と見抜く

ですから最初に気づくべきことはこの現実が「夢」だということです。夢だと気づけば「だれ」が見ている???という究極の疑問が起こります。それが神です。夢の中の私は夢を見れません。夢を見るのは夢の外の住人に決まっています。これで「私」はお役御免になるのです。夢の中の私は夢を見ていない私に戻ります。そして急遽「神」が現れるのです。神が「私物語」という夢を見ているという事実に帰るのです。

この夢は何だ???

ではこの夢は何でしょうか???なぜこの夢が神の前に現れるのでしょうか???それはこれが神の鏡に映った姿だからです。神の鏡に映った姿として「これ」が現れたのです。この夢は神が鏡に映った姿です。ですから実際には夢ではありません。そのことに気づくとこの夢は終わりに近づいていきます。

夢の中の夢

夜の夢

夜の夢は夢の中の夢ですか???違います。この体は夢を見ることなどできません。この体は夢の中の現れに過ぎません。ですからただ夢が切り替わるのです。夜の夢は切り替わった夢です。朝が来て夢がこれに変わるのです。そして夜の夢も朝の夢もこの夢は思考によって支えられるのです。思考が消えたらこの夢も消えます。この私ドラマという夢は思考が支えます。そしてこの夢が抜け落ちた時神の投影だけが残るのです。

神の投影では???

神の投影とは夢が抜け落ちた時に残るものです。最初から勿論神の投影です。神の投影の中に夢という現れが起こっていたのです。夢が落ちても当然神の現れは残ります。神が神の現れに気づくとき至福が起こります。神が夢に気づく時そこには苦しみが残るのです。苦しみは夢の中でしか起こりません。夢とは思考が作ります。この思考は無知が生み出すのです。

解放

何からの解放???

解放とは何でしょうか???解放とは何が何から解放されるのでしょうか??結論から言いましょう。解放とは既に解放されていたと気づくことです。つまり最初から解放されるべき存在が存在しなかったという気づきです。もう一度言います。誰も何も縛られてなどいなかったのです。ただ個人という世界とは別個の存在が存在するという確信だけが起こっていたのです。

誰が???

誰がその確信をしたのですか???もしもここで「私」と言えば私は実在になります。私という実在は存在しないのです。私という実在が存在しないにも関わらずそれが存在するという確信だけが起こっていたのです。それこそが夢です。夢の誕生です。夢が起こっていたのです。神から神の投影として夢が起こっていたのです。この夢が見られるとき私が存在します。それが夢です。

神の投影にも関わらず

これは神の投影です。神の投影にも関わらず思考が起こり私が発生し、世界が発生し夢が現れたのです。この夢を注意深く観察すればそのことが分かります。この夢は思考が作り出しています。思考がなかったらこれは夢ではいられないのです。思考が出現し夢になったのです。それまでは何か??神の投影です。神の投影でしかなかったにも関わらず思考が私を生み出し私の夢が始まりました。いつしかその夢は現実と確信され夢が現実と呼ばれるようになります。これがカラクリです。

何かをしなければ

それは夢の中

悟るために何をしたらいいですか????これ愚問です。悟るためにこの夢の中で私は何をしたらいいのでしょうか???悟るために夢の中でこの私が何者かになれたらそのような夢が起こったのです。悟りとはこれが夢であり夢の正体に気づくことです。この夢は何だ???という疑問が起こりこの夢は真我の影だという気づきに至ることです。神の生き写しであることに気づくことです。夢の中の私が何者かになることではないのです。

夢の中の私はではどうすればいい??

放っておけばいいのです。放っておいても大丈夫なことに気づくのです。放っておいても何も問題なくこの体を守っていくことに気づくのです。なぜならば自分は本当は何もしていないからです。これからも何もしないのです。そのことに気づくのです。そして意識を真我に当てます。真我からこの投影、夢と呼ばれるこの投影が起こっていることに気づきます。それだけです。

どうにかしなければならない誰かが居なかった

退職した暁には私は会社のために何をしたらいいですか???この質問が愚問なのは分かりますよね???退職とは会社と縁が切れることです。会社にはもはや属していないのです。自我とは何か???自我とは実は何もしていないにも関わらずこの体の全てを請け負ってきたと信じる確信です。事実では何もしていません。ですから自我が退職しても何も困りません。最初から何もしていなかったのですから。

気づくに気づく

気づきに気づくのは誰???

気づきに気づくのは誰でしょうか???それは気づきです。気づき以外に「気づき」の存在に気づける存在は存在しません。気づきに気づくのは「私」では???私とは思考です、私という感覚は思考です。その感覚は気づかれる側です。「気づく」対象は「気づき」ではない、、という自覚が起こりならば今ここで起こる全ては対象ゆえに気づきではないのです。そうなった時「在る」という感覚が気づかれ続けていることに気づくのです。

「在る」

在るという感覚に気づいています。在るという感覚が気づかれています。在るという感覚は常にあります。この在るに気づく存在こそが「気づき」です。そして熟睡中は「在る」が消えます。在るが消えたのです。この世界と同時に在るも消えます。つまり世界とは「在る」そのものです。気づきは世界が現れると同時に「在る」にも気づきます。「私」という感覚に気づくと同時に「在る」にも気づきます。私も世界も消え去っても「在る」には気づきます。

気づきは普遍

気づきが消え去ることはありません。世界が消えても私が消えてもそれに気づいています。在るが消えても「気づき」は残ります。在るの不在に気づきが気づくのです。何もかもが消え去っても気づきが残ることが気づかれています。全てはここから現れ出ることが気づかれています。そのことが気づかれた時平安が訪れます。そのことが気づかれた時時間の中でもがく自分に関心がなくなります。それが本当の自由です。

夢から覚めるとは??

夢の外

夢から覚めるとは何でしょうか???どういう状態が夢から覚める状態でしょうか??夢から覚めるとは夢の中には自分が居ないと気づくことです。夢とはその中に主人公がカッツリ居るから夢なんです。夢の中に主人公が居ない夢は夢ではありません。ではどうしたら夢のなかから出れるのでしょうか???簡単です。最初から夢の外に存在することを思い出すだけです。

最初から???

そうです。最初から我々は夢の外に存在します。ただそのことを思い出すのです。あらゆる知識、洗脳、記憶によって夢の中に住む住民という確信が起こりその夢が起こっていたんです。ですがそれは全て知識が生み出す催眠です。つまりこうです。今まで信じてきたことは全て嘘です。その嘘が勝手に自然に湧いていたのです。その嘘が勝手に起こり勝手に知覚が起こり勝手に気づかれていたのです。

全部嘘

あらゆる知識が全て嘘だとわかってしまえばもう悩むことができません。将来不安、ご先祖様、世間体、家族間付き合い、社会的地位??全部嘘です。嘘の思考が生み出す知覚に過ぎません。嘘の思考が生み出す知覚を「現実」と我々は読んできたのです。そしてこれらは勝手に浮いてきますからこれを回避する術はないのです。ですが今それが暴かれました。今このシステムの全貌が露わになったのです。

つまり

思考による全知覚は嘘です。嘘の知覚が次々に起こります、それを嘘と自覚していきます。嘘と見抜かれた知覚はやがて姿を消していくのです。お化けの正体を暴かれたお化けはやがて姿を消していきます。UFOの正体を暴かれたUFOはやがて姿を消していきます。ここに現れるのは全てお化けのよなものです。姿を消していく運命にあります。この夢では無駄な夢が消えていくのです。シンプルになります。ハッピーになります。

なぜ悟り本は難しいのか???

なぜ????

なぜ悟りに関する本は難しいのでしょうか??なぜ???それはあなたの夢においてまだその関心が薄いからです。悟りに関心が半信半疑だから難しいのです。あなたの夢がまだ悟りへの具体性を示してくれないのです。それは哲学、科学、未来工学、なんにおいても同じことです。

腹を決めれば

これは夢なんです。腹を決めれば悟りに関するメッセージも具体性を帯びてきます。夢に具体性が伴ってきます。夢が詳細になってきます。ですが同時に過去の確信も具体性を持ってそれを邪魔するでしょう。なぜならば悟りのメッセージの内容と過去の確信は真逆だからです。夢の中でその矛盾が生まれていきます。ですが過去の確信は全て嘘ですから嘘はいずれ暴かれて終わるのです。

とはいえ

これが夢とは思えないような現象が次々に起こるでしょう。それは親族の死かもしれない、貯金を奪われる、家が全焼する、大震災が起こる、何でも起こるでしょう。その現象はこれは夢じゃなくて現実だ!!!という確信の残党です。ここで残党が頑張らなくてはこの確信は木っ端微塵に消し去るのですからそれは必至です。ということでこの戦いは最後の戦争です。辛い戦いになるかもしれません。ですが所詮は夢です。それが分かれば大したことはないのです。

今ここにある危機

幼児

幼児はここで戦争が起こっても怯えることができません。なぜならば何が起こっているかわからないからです。怯えるためには知識が必要なのです。アメリカ軍という知識、日本軍という知識、ミサイルという知識、爆弾という知識がなくては怯えることができません。将来という知識がなかったら未来に怯えることもできないのです。

過去を憂い未来を憂う

過去を憂い未来を憂うためには知識が必要なのです。人間は80歳ぐらいまでは生きるという知識がなかったら未来を不安には思えません。年金問題を憂うためには寿命という知識が必要です。人間という知識も必要です。医療という知識が必要です。これらの知識が勝手に勝手に湧いてくるから未来を憂うことができるのです。

知識を埋め込めば勝手に悩む

子供にこれらの知識を埋め込めば彼らは勝手に将来を悩むようになります。自動で完璧に自然に。つまり彼らには悩むしか道はないのです。では解決方法はあるのか???あります。真理を知ることです。言葉が何をしているかを完璧に理解するのです。その時未来を憂うことがいかに馬鹿げているかに気づきます。これは夢なんです。未来を具体的に憂えばその通りになるだけです。「世界はこうなっている」という確信がその人の世界です。

今が十分ではない

私の宿命

私の確立とは同時に今が十分ではないという感覚の確立です。私の存在こそが今が十分ではないという感覚を作るのです。自我が確立するとは「目標なのの発生」なのです。今でいいわけはない、もっと、もっと、もっとの確立です。この感覚が苦しいから早くこのもっとを達成してしまって終わらせたいわけです。ですがこのもっとを達成するのは自分です。結果もっともっとを達成したところでそこには自分が残ります。その自分が更なるもっとを作ります。負のサイクルとはこのことです。

ニンジン

人参を食べれば馬は大きくなります。その馬はもっと大きな人参が必要になります。そして食べます。するとその馬はもっと大きな人参を求めます。これが自我の肥大化です。人参を食べれば食べるほどに馬は大きく肥え太り求める人参も大きくなっていくのです。

いつまでやる????

いつまでこの人参食い放題をやるのでしょうか???食べれば食べれほどに馬も自我も大きくなって存在感を高めます。その馬はより大きな人参でなければ満足できません。小さい人参では満足できないことは既に知っているからです。これを終わらせるにはどうしたらいいのでしょうか???「自分とは誰か??」ここに気づく以外にありません。自分とは本当は誰なのか???です。自分とはこの体の所有者私ではないという気づき以外にこのラットレースから逃れる術はありません。

連続で起こる知覚

何もしていないのに

ここから渋谷駅に行くとき、、あらゆる知覚が起こります。あらゆるです。マック、吉野家、改札、ポスター、階段、電車、渋谷行き、、、、あらゆる知覚が起こります。これが勝手に起こります。この知覚を自由意志で起こした自覚はありますか???絶対にないはずです。絶対です。つまりこういうことです。知覚を生み出す思考は全て全自動なのです。

では???

そして知覚と知覚の合間に起こる「マック行こかな」これが起こった時「自分が思考した」と思考するのです。このおかしさが分かりますか??全知覚が全自動で起こっています。にも関わらず「マック行こう」これだけが自由意志で起こったという思考が起こります。この思考は完全に勘違いです。マックに行こうも当然自動で起こるのです。

とんでもない勘違い

渋谷駅に着くまでの全ての知覚が全自動で起こります。そして駅について「マックに行こう」という思考が起こった時、それは自由意志で起こしたのだという感覚が起こります。おかしくないですか???不可能です。絶対的に不可能です。そこまでのパスの全ては全自動、そして最後のシュート「マックに行こう」だけは自由意志????なわけがないのです。絶対的に全自動です。

自分がやっているという知覚

自分が決めているのだという感覚も起こりそれが気づかれたとき、そうなります。ただそれだけなのです。ただそれが起こったのです。自分が決めたんだという感覚が起こりそれが気づかれます。ただそれが起こりました。渋谷駅の知覚も改札の知覚も勝手に起こりただ気づかれたのです。何も変わりません。このことの気づきが起こった時、何かが変わります。