特別になる必要がない

マリオ

マリオはゲーム中、、いかに自由奔放に、いかにダイナミックに、いかに楽勝にゲームを進行するかに胸躍ります。負けて負けて負け続けた時期から一点次は楽勝楽勝、、超楽勝、、、になっていきます、、そのために何度も何度もゲームに挑戦するのです。そして半端なく強い俺を自覚していくのです。ここで重要なこと、負け続けた時期も勝ち続けた時期も幸福度は実は変わらないということです。

勝ち続けても

勝ち続けても幸福になれないマリオは、、、このやりようのない感情をどうしていいか分かりません。そこで新しいゲームに切り替えるのです。マリオブラザーズからマリオカートに切り替えます。その瞬間、このやり場のない感情を一旦は忘れ新たな気持ちで新しいゲームにチャレンジできるのです。やり場のない気持ちが起こったことなど一切忘れまた新しいゲームに夢中になります。

ですが

本当は本当は分かっているのです、、、勝ち続ける時が来た時、、、飽きる、、、そしてエネルギーの向ける場所がなくなることを。だからどこかでマリオは「悟り」という全く新しいゲームに入るのです。もう新しいゲームに逃げるのは辞めて「悟り」つまりこのやり場のない感情を本当の意味で解消するのだと。

気づく

あらゆること

自身の存在をこの体ではなく全体であるという実感に戻った時、、、あらゆることに気付きやすくなります。まだ自分がこの体であるという勘違い中は「自分ごと」で忙しく周囲に構っていられません。頭の中では常に常に自分にまつわる思考が回り続け思考の住人、夢の住人のままです。ですがそこから脱出し全体としての自覚が生まれると周囲に気づくという現象が起こります。

もはやマリオではない

マリオに夢中になっている時期はマリオ以外には興味が持てません。もしも周囲に興味が湧くとすればマリオ(自分)に利用価値があるか、マリオが比較対照して良い気持ちになれるか、マリオにとって憧れの存在か、、という損得です。ところが自身が任天堂スイッチであるという自覚が起これば、、画面上のキャラは全員が私です。興味はマリオだけではなく全員に注がれるのです。

もっと周りに関心を持って!!!

社会人になったら「もっと周りに関心を持って!!!」このようなスローガンは無駄です。自我にとっての興味とは損得でしかなく、、利用価値が無ければ関心が起こらない、、、ですが自身がマリオではなく任天堂スイッチであるという自覚が起こった時自然と全キャラに興味が出るのです。その興味とは「愛おしさ」であり自我活動での感情とは異なります。

熟睡

ただそれを追い求めて

マリオは次々にステージを上げて全クリしたいのは、、、今が苦しいからです。今が苦しいから何かを達成した暁には幸福があるのでは?????と予想してキャラを全うしていきます。では何と比較して何が苦しいのでしょうか?????苦しいと言い切るのならば何かと比較しなくてはなりません。どの状況と比較して今が苦しいのでしょうか????????熟睡時です、、、熟睡時のノイズのない平安と比べて今が穏やかではないのです。

にも関わらず

熟睡時の平安と比べて苦しいにも関わらずマリオはお金、異性、権力、見た目の安定を手に入れてこれに近づこうとしています。え??????全く見当違いな目標になってませんか??????そうです、、、何かを個人がかき集めて幸福になろうとする動きが「熟睡時の平安」とは全く全く関係がないのです。だからマリオはいつまでももがき苦しむのです。

熟睡時

では一体全体熟睡時の自分とは何なんでしょうか????????意識がない状態です、現象がない状態です。意織+現象がない状態です。これを追い求めているのです、マリオは。いやいや無理じゃん。。。。だって起きればマリオが現れ世界も同時に現れるのですから。ん???????そのマリオ、世界が現れ出る根源、、これが熟睡時の私のことです。つまりいまもここにそいつはいるのです。だからマリオは何も得る必要はなく何にもなる必要がないのです、だってここに熟睡時の根源は在るのですから。

任天堂SWITCH

画面

この世界は任天堂スイッチ(空)が作り出した映像に過ぎません。今ここに映像がしっかりと存在しその映像同士が影響し合っているように映りますが実際には全てスイッチの中で起こっています。それが映像化されていまここにあるのです。だから因果関係というのはトリックです。今ここにあるグラスを投げれば割れるという結果が確実に見えますがそれすらも本当は任天堂スイッチの中で起こっているのです。テレビ画面の中でマリオがクッパを倒すという現象が起こっているように見えようが、、それは全てスイッチの中で起こっています。

だから

科学者はこのテレビ画面の中で因果関係を一生懸命一生懸命考察しますが、、残念ながら画面上はただのスイッチ内部の投影に過ぎないのです。そして画面の中からスイッチ本体を探すことは不可能です。画面上の科学者は結局は何も分からないのです。見た目上の覚者はこれを感覚として理解するのです。画面上のどこかにスイッチがあるのではなくこの意織の先にそれを発見します。

どんな映像も

この現実と呼ばれる世界で何が起ころうともスイッチは何一つダメージがなくただあります。時間空間が画面上に現れ出ようとも何も関係なくスイッチはただあるのです。もしもこの世界にスイッチしかないのならば時間も空間も存在しません、、ただTV画面が起こった時にのみそれは概念として起こります。「時間ってあるよね」「空間ってあるよね」という概念だけが時間、空間という存在を立ち上げますが本当はスイッチしかありません。

意識は無意識に依存する

意識が在る理由

意識は常に常にあります、熟睡時以外に意織がないという状況は一切ありません。ではこの意織なで存在できるのでしょうか?なぜ意識があることを認識できているのでしょうか?意識があることに疑いを持たないでいれる理由はなんですか?「意識」は「意織」に気づくことはできません、なぜならば意織そのものは自身の存在にだけは気づけないからです。では何が「意織」に気づいているのでしょうか????「無意識」です。無意識しか「意織」の存在を認識できないのです。

絶対

意識を意織たらしめている存在こそが「絶対」つまり「無意織」です。無意織ですがこの存在なくして「意織」は存在しえない、、意識があるという自覚は起こりようがないのです。意識こそが絶対の存在を証明するのです。意識こそが無意識である絶対の存在を露わにします。意識は常に常にある、、つまり無意識である絶対も常に常に在るのです、いまここに。

自我を刺激する映像の数々

両親

両親がこれだけ生活を犠牲にしてまで育ててくれたのだから期待を裏切るような進路には進んではならない、、、このように考えている学生は多いでしょう。優しい学生ほどこうなるでしょう、ですがこれ自我をくすぐるトリックです。自我はストーリー上この人は裏切れないというキャラによって大きく人生を振り回されていくのです。ですが残念ながらのそのキャラは映像に過ぎないのです。そうですマリオの前に現れでたクッパに過ぎないのです。クッパの動向にマリオが大きく大きく作用されるように両親も最大のクッパになりえるのです。

ラ王を追い求めるケンシロウ

ケンシロウが人生をかけてラ王を追い求めたようにこの人生ストーリーではあるキャラに多大な影響を受けて多くに時間をそこに費やすというストーリーが起こったりします。ですが実際にはラ王は存在せずケンシロウの前に現れでた時にだけ現れる画像に過ぎないのです。どこかにラ王は居るはずだと探しているその時ラ王は存在しません。そして追い求めるケンシロウも実は存在しないという大オチです。

なぜ??????

理由なんて全くないのです、ただこの人間の体に育った脳はこの体を安全に維持するためにストーリーをでっち上げ行き抜くことを最優先する思考を上げ続けます。その思考を信じれば親の期待を裏切らないという思考が起こり親との関係を保持することでこの体の維持を図るのです。

見抜く

悟りとは何か????を考えるのではなく、、思考が何か???を見抜くのが悟りです。言葉が真実を歪め言葉を信じることでマイストーリが出来上がりこの体の保持に全てが注がれていきます。そこには不快感が常にあって不快の中で体の保持だけが進んでいくのです。まさかこの体の中に自分が居ないなんて思えるはずがなくただこれが続きます。

100円ショップも高級ショップも

存在の現れ

個人は常にもっともっと良いものが欲しいと願います。私はもっと良い物に囲まれたら幸福になるに違いないと考えます。ですが実際には100円ショップの商品も高級ショップの商品も同じ存在の現れです。原材料は全く同じです、さらにそこに囲まれているとされる自分(思考)も存在の現れです。どこに行っても存在しかそこにはなくそのことが分かると、、、ただ静寂が起こります。もう私は良いものに囲まれなくても良いのです。だってどこに行っても存在以外がないのですから。

安物に囲まれた私

「安物に囲まれた私」という思考が存在から現れでた時だけ悲壮感が起こります。この悲壮感が現れることで「安物」を避けようとする動きが起こります。ですがその動きこそが不快感を起こすのです。安いものは気分が上がらない、高級品は気分が上がる????では原始人がタイムスリップしてそこに着いた際に本当にそこには差が生まれるのでしょうか????生まれませんね、つまりは思考がそうさせているのです。

存在以外

ない

いまここには存在以外が存在しません。いまここには存在以外が存在する余地がありません。いまここには存在だけがあって存在の表現だけがただあります。ですから「わたし」も「あなた」も存在以外では絶対になくつまりこれも存在の表現です。つまり我々は生まれて死ぬまで存在であり続け存在の中の何かではなくただ存在なのです。死んでも存在なのですから死ぬとはつまり概念に過ぎないのです。

ストーリー

存在の中にストーリーは起こりますがそのストーリーも存在の現れに過ぎません。そういう意味では存在からストーリーが存在として起こりストーリーが消えても存在が残ります。つまり存在以外であることがないのです。最初から存在であり最後まで存在です。存在がただ在るのみですからそこには空間も時間も存在せず、、空間がある時間があるという思考が存在の現れとして起こるだけです。

自我には全く面白くない

自我にとってはこの話は全く面白くないでしょう。何の目的のなくなってしまいます。だって最初から最後まで存在しか存在しないのならばそこでの自我の活動は意味がないということになります。存在は存在以外にはなれずよって存在は存在のままです。その中に自我という存在の現れが現れようとも存在は存在です。自我が何かを達しようとする動きも存在であり存在の中でただそれが起こるのです。得るものは何もなく失うものも何もないのです。

土台から崩す

ルールが苦悩を生む

働かなくてはいけない、裏切ってもいけない、家族大切にしなくてはいけない、年に一度は挨拶しないといけない、、、、全部全部この世界に苦しみをもたらす「ルール」です。宇宙にはルールは存在せず、よってルールは苦しみを生じます。ですがこのルールがどう実際に苦しみを作り出しているかを細かく吟味し修正するのは不可能です。どのようなルールがプログラムされているかすら分からないのですから。

事実を知る

このルールの土台には「無知」があります。真実ではない思い込みがここには隠されています。この土台を崩します。土台が崩れればルールも壊れるのです。なぜならばルールを適用することが構造上出来なくなるからです。ではそのルールを根本から崩す事実をお伝えします。それが全ては存在であるということです。全てです。存在しか存在しません、、、、存在以外の何かは存在しないのです。私、あなた、テーブル、コップ、全て存在しません。

わたし

私も存在しないのですか?????存在以外は何も存在しません、、、、私は存在が作り出した感覚、言葉でしかありません。原材料は存在です。コップもテーブルも全て原材料は存在ですから、、本当は存在なのです。もしも「わたし」「あなた」「コップ」が存在しているように見えたとしたら、、そう見えるという経験を存在が作り出したのです。

つまり

つまりこの世界はどこまでいっても存在しか存在せずその中であらゆるドラマが存在を通じて作り出されているだけなのです。だからここは夢であり、、この夢も存在のアートです。そのことが明確に分かってきますと、、「深刻に捉える」という「存在のアート」が起こらなくなっていきます。だって何も起こっていないことが分っちゃうからです。深刻に捉えるというアートが起こるには、、これが夢ではなく現実だという誤認が必要になるからです。

何が起こってもいい

個人は何が起こっても大丈夫にはなりません、個人はいつだって不安不安不安です。だから状況に常に変動されます。ですが実際には全状況は神のアートであり、それに翻弄される個人がいるというのも神の思考アートです。だから実は何も起こっていないのです。見かけ上の倒産という状況が神アートとして起こり、、それに翻弄される私という思考が神アートとして起こります。騒ぐ家族という神アートが起こり、山のような請求書だけが届き続けるという神アートが起こるのです。この全ては神が起こしたアートです。

神か知らんが

神が知らんが倒産という事実、追い込まれる自分が居るという事実は何も変わらず、、だからなんだ?????って話じゃないですか!!!!!!違うんです、、、、倒産という状況に見せる神アートが起こり、、それに翻弄される自分が居るという神アートが起こっているのです。本当は何も起こっていないにも関わらず起こっているように見えているというのがこの神アートの偉大さです。だって今も神しかここには存在しないのです、それ以外は何も存在しないのに「倒産」って事実はないんです。「神」という事実以外には何も起こっていないのが真実です。

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つまり何も起こっていないにも関わらず常に常に目の前には「倒産」のような事態がアートとして実感できるのがこの世界なのです。それが分かってしまったら、、、拍子抜け、、なんです。本当は「神」しか存在しないここで、、「倒産」というファンタジーを感じれているのが事実なんです。だから対処すべき自分なんて居ないし、困り果てた自分も本当は居ないんです。勘違いに勘違いを重ねて「困った」が神アートとして起こっているのです。