中身

鏡があります。鏡があるということは鏡の中には何かしらの映像が存在します。ですがその映像は、、あなた無くして存在するでしょうか???鏡の中に映し出される映像は、、間違いなく、、あなたの存在が存在している時限定で現れるのです。部屋に大きな大きな鏡があるとしましょう、あなたの部屋にですよ。あなたが仕事で外に出かけている期間、、、その鏡は、、何を映し出していますか????答えを言いましょう、、何も映し出してはいません、、なぜならば鏡を見る「存在」が存在しないからです。

つまり

鏡の中の映像は「あなた」の付属品です。あなたなしには存在できません。この事実を我々は忘れているのです。では、、、この世界、現実が、、、、鏡に映った映像だとしたら、、、あなたが存在する時、、、この世界、この鏡に映った世界は100%現れます。だから、、、、生まれて死ぬまで我々は確実に映し出される映像を知覚し続けます。なぜか???なぜならば鏡を見る存在が永久不滅の真我だからです。だからこそ100%目覚めれば、、世界がここに現れるのです。

あまりにも

あまりにもあまりにも当たり前に世界が現れてしまうから、、、我々は世界がガチでリアルで、、実在と信じ切っています。違います、、、見る存在が半端なく実在だから、、、鏡には常に常に映像が現れてしまうのです。この世界が現れてしまう理由は見る存在が100%リアルだからです。そのリアルは体ではありませんよ、、、その存在がリアル過ぎるから、、この体も100%現れてしまうのです。

だから

だからあなたは目覚めてこの世界、この体が存在することを「当たり前」と思ってはダメなんです。見る存在がそれほどまでに半端なくリアル過ぎるから、、、この世界が現れてしまうことを受け入れてください。。。。。神が神ゆえに消え去ることができないからこそ、、、、朝という目覚めが100%起こってしまうのです。この世界が当たり前のように立ち現れてしまうこと、、この事実こそが、、、神の証明です。真我の存在を証明するのです。

苦しんでいる人、それも私

他人

他人が苦しんでいる姿を見た時、、、救ってあげなくてはならないのか???違います。それも私です。私だと思うのではなくその存在も私です。だから、、自分自身が苦しんでいる姿としてそこに在るのです。そのことが分かることが「愛」です。楽しそうにしている人、悲しそうにしている人、、その全てが私自身です。「私が在る」という感覚の中以外で悲しんでいる人を発見できますか???絶対に絶対にできません。つまり全ては「私が在る」の中に現れた、、現象に過ぎないのです。つまり全て「私は在る」です。「私がない」の中に、、、喜怒哀楽の人々を発見できはしないのです。

他人

生まれたばかりの時、、、あなたの世界に他人など一切存在しなかったはずです。物心がつくようになってから「他人」が誕生したのです。つまりこれは概念の遊びです。本当は全て「私は在る」という感覚の中に立ち現れる概念です。「私は在る」の外に何一つ現れることができないのだから、、、全ての対象物は「私が在る」に完全依存し、、存在できます。そんな対象は実在と呼べますか???呼べるわけがないのです。実在は対象物ではなくむしろ「私は在る」の方であり、、、実はこの「私は在る」すらも現れては消えるのだから実在ではありません。「私が在る」有無に関わらず絶対に失われない存在だけが実在です。

記憶に使われる

多くの人

多くの人は、、記憶によって使われています。見るもの全てが記憶の産物であり、、その記憶が作り出した産物に無知なため、、それを「リアル」と感じ、、そのリアルな対象の中で翻弄されているのが我々です。ですが、、実際にはこれらは幻想であり、、記憶によってリアルと感じさせられているだけなのです。記憶の牢獄に閉じ込められているのです。これがアジニャーニです。ジニャーニは、、この仕組みを見抜き、、もう既に、、記憶の牢獄からは出ています。実在の私が記憶が作り出した世界に存在することは絶対になくゆえに、、記憶の世界から脱出するのです。

記憶を使う

記憶が生み出した世界から脱出した「私」は、、それでもこの記憶が生み出した世界を観賞者として体験します。この世界を記憶が生み出した映画として楽しむのです。スーパーマリオの世界をリアルと勘違いし、、ノコノコ、クッパとリアルに戦っていたマリオが、、、画面から抜け出た瞬間、、次は記憶を使ってマリオゲームを楽しみます。もうここには、、記憶に閉じ込められた「私」は存在しません。私は記憶から自由です。

高次の光

あなた

あなたは高次の光です。高次の光ですから光はこの光を見ることはできません。そのため、、、この光(未知)を何かに当て込んで、、反射した姿を見ることでこの高次の光の神秘を確認しようとする動きが起こりました。その何かとは埃のようなものです。その埃が、、この高次の光によって照らされ、、画像が起こるのです。我々が今見ているこの世界とはまさにそれです。高次の光が、、埃を照らし、、、そこに映る映像が起こるのです。

何が写る???

埃を照らす光があなたであって、、埃に当たって反射した映像はあなたではありません。当然埃に当たって起こり反射もあなたの一部ではありますが、、そこに映し出された「実在」は実在ではあり得ず、、、光(未知)が既知としてそこに起こるだけです。

将来

将来現れる反射も今この光の中に既に含まれています。この光(真我)の中に今それが含まれていなければ将来にそれが映し出されることもありません。ですから将来とは今(光)に既に含まれてしまっているのです。今ここ(光)に既に含まれている将来は将来とは本来言うことはできません。ですから、、、過去も未来も現在も、、何もかも光(真我)の中に含まれていた現象に過ぎないのです。

高次は低次に向かって一つ

あらゆる対象物

この世界にはあらゆる対象物が知覚できます。知覚できるということはそのあらゆる対象物を知覚できる「存在」が存在するのです。対象物を低次とするならば高次の一つが存在するのです。それが「私は在る」という感覚です。この「私が在る」が現れた瞬間あらゆる対象物が立ち現れ世界が誕生します。たった一つの「私は在る」から無限の現れ、低次の現れが高次の「私は在る」から立ち現れるのです。こうなっています、全てはこの仕組みです。

次に

「私は在る」という感覚が立ち現れていることにあなたは気づくことができます。あなたは「私が在る」という感覚が起こっていることを否定できないはずです。熟睡時には「私は在る」という感覚を発見できることはできません。そしてそのことをあなたは「知って」います。「私は在る」の不在に気づいています。ならば、、、、、「私は在る」という感覚の上に高次の存在が存在することを知っているのです。その存在は高次ゆえにたった一つです。無限の「私は在る」の上にたった一つの「純粋な気づき」が存在するのです。

「純粋な気づき」

あなたはこの「純粋な気づき」を知覚することができません。なぜでしょうか???つまりこの「純粋な気づき」の上に高次の存在がもはや存在しないからです。純粋な気づきを知覚できる高次の存在は存在しないのです。だからあなたは最上級の限界の至上の存在です。もはやあなたを知覚できる神々は存在しません。あなたは天上天下唯我独尊です。あなたは無限大の無限の可能性です。「私は在る」は無限に誕生します。その中で無限の世界が現れます。あなたはそれを生み出す「無限大の無限であり可能性」です。

その証拠に

誰一人、、その「無限大の無限の可能性」であるあなたに向かって話しかけてきません。他に誰か存在するならばそれに向かって話しかけれるはずです。その知覚が起こらない決定的理由は「それ」しか存在しないからです。だから知覚されないのです。純粋な気づきはゆえに知覚できません。純粋な気づきはただ「在る」のです。そこから無限の「私が在る」が生まれ、、多様な世界が生み出されます。今あなたが世界を見渡しているならば「私が在る」を生み出しそこから生み出される世界を鑑賞しています。

幸福の湖

水面の月光

我々は幸福の湖です。湖は幸福で満ちています。その水面に月光が照らします。水面に光の現れが起こります。これがこの世界です。まさかのこの世界は幸福の湖に浮かんだ月光のことだったのです。ですから、、、この月光が消えた時(熟睡中)至福しか残りません。湖だけがあるからです。ですが夢見の状態が始まり、、月光が水面に輝きます。これで再び苦しみが起こるのです。

苦しみ

この世界には苦しみが満ちています。それはこの体を「私」と定義したした瞬間に起こります。この世界も体も湖からの景色です。ですがこの私はこの体(月光)から、、、この世界(月光)を見ているのだ、、という思考を起こします。その思考も月光の一部です。ですからこの概念は完全に間違っています。月光(体、世界)は湖から見られるだけであって、、それ以外の景色は存在しません。幸福の湖からの景色以外は存在しないのです。

ですから

この苦しみとは湖から見える景色を、体の所有者「私」が見ているという勘違いから生まれます。私すらも水面の表れですから湖によって気づかれるのです。湖以外に水面の表れに気づき存在はないのです。ですから、、何一つこの幸福(湖)は幸福を損なったことなど一度もなく、、ただ揺れ動く水面の光の中で、、苦しみが現れ、悲しみが現れするのです。このことに気づいた時、、不幸こそが不自然な状態であることに気づきます。不幸こそが、、、異常な状態です。

SNS

なぜ????

なぜ人は「いいね!」をこうも求めるのか???なぜSNSで、、、反応を求めてしまうのか???答えを言いましょう。。。「私」を完全確定したいからです。「私」の存在を完全証明したいのです。だから、、フォロワー数を気にします。何十万人の登録数のある「私」が存在しないわけがない、、、です。ですがここで一つの盲点があります。そこまで存在を認めてもらおうとする動きこそが「私」が本当は存在しない決定的な証拠ではないですか。。。。

回答

「マリオ」のぬいぐるみをゲットした子供は、、、クッパも買わないと、、、不安になる?????なりません。マリオの存在が決定的に確かだから、、、、クッパのぬいぐるみは必要ないのです。「私」はそうはいかない、、「私」には友人A、友人B、彼氏A、両親A、、、が必要です。ないと不安になる。。。。。。。これこそが「私」が決定的に存在しない証拠です。

存在しないのに

「存在」とは消えて無くならないものです。存在とは永久不滅のものです。存在とは未来永劫不変のものです。その存在は間違いなく私ではないわけです。ですが私はなんとかしてその「存在」に近づこうとする、、、これが人間活動、自我ゲームです。ですが今私がその「存在」ではない時点でいつかその「存在」にはなれないことは明らかです。なぜならば今「私」がその存在でない時点で、、存在の条件から外れています。

では真の存在ではない私とは何でしょうか???それは心です、思考です。「存在」でもあり、、体でもあるという心が「私」です。つまり私は真の存在、唯一無二の存在ではあり得ないのです。だから私は、、、SNS で存在を証明しようと努力します。真の存在は永久不滅で不変であり、、証明してもらう必要が全くないのです。そしてこの認めてもらいたがる「私」を体験しているのが「真の存在」です。私がフォロワーゼロであろうとも全く何も気にせずにその私を体験するのが「存在」です。

互助組合の基本ルール

本当のこと

互助組合にはルールがあります。それは、、本当のことは言ってはいけない、、ということです。本当のことは言ってはいけない、、その理由は、、、「真犯人は個人」だからです。全恐怖心、全不快感情、全苦しみの真犯人は「個人」だからです。だから、、、そこを言っちゃあ駄目ですよ、、その話題はタブーで、、、、、世間話でここまで誤魔化してきたんだからこれからもそれで行きましょう、、となります。

猛者

ですがこの互助組合に合わせていくのがもう十分、、もう飽き飽き、、、、という猛者が現れます。もういいでしょ、、、です。その猛者はこの恐怖心の真の原因に迫っていきます。結局のところ何をしたってこの恐怖心は消えないのだから、、原因は絶対に他にあるはずだ、、、という気づきです。空気を読まないこの追求が真実を露わにします。その猛者にとって個人こそが恐怖心の生みの親という真実のメッセージは「面白い」となるのです。

恐怖を直視する

雑談

雑談、ゴシップ、世間話、、、これらの会話の中心には「恐れ」があります。政治が、、経済が、、気候変動が、、、です。恐れを雑談で、、、誤魔化します。毎日毎日、、、雑談する中で、、この恐怖心を見て見ぬふりをします。この恐怖心とは何だ????と直視する代わりに、、、雑談の中で、、ストーリーの中で、、、恐怖心の原因を先延ばしするのです。苦しみとは何か???ここに直視する代わりに、、雑談、ストーリーの中でこれを回避するのです。直視からの延命措置、避難措置です。

何時間喋っても

何時間ゴシップに明け暮れても、、恐怖心そのものが消えることは絶対にありません。なぜならば、、ストーリーの中に解消方法はないからです。ストーリー自体が恐怖心の生みの親なのですから。そのことに気づき始めると、、、ストーリーへの逃避ではなく、、、恐れとは何か???という真の追求にシフトします。ズバリ恐れとは、、、個人が誕生したという勘違いそのものから生まれます。個人という体験者がここに存在するという勘違いこそが、、それです。体験者が体の中に「ガツンと」入り込んだという勘違いが、、入り込んだ外の世界もリアル化され、、、個人VS 世界の構造を生み出すのです。体験があまりにもリアルだから、、体験者個人もあまりにもリアルに感じ、、世界もリアルに感じるのです。

本当は、、、

本当は体験だけがリアルであり、、、体験の個人化は嘘です。個人以外の世界も嘘です。この嘘を信じる動きこそが恐怖です。だからこの恐怖心は、、嘘を信じる動きが原因であり、、よってゴシップの中でこの恐怖心が消えることはあり得ないのです。ですが人はこの恐怖心と向き合うことはしません。なぜならば、、、恐怖心の生みの親は自分自身であり、、恐怖心と直に向き合うとは、、自分自身の死を意味するからです。だからこそ、、恐怖心の真の犯人を発見したくないからこそ、、ゴシップに逃げるのです。

人間関係

人間関係とは、、、真犯人である個人の犯罪を直視しないための、、、集団逃避行動です。私もあなたのストーリーを保証するから、、あなたも私のストーリーを保証してちょうだい、、という互助組合です。お互いにお互いの自我をしっかりと保証しあって行こうよ!!!です。恐怖心はあるけどさ、、、それはお互いが話を聞き合って解決しよう!!です。ですがその個人個人の存在こそが恐怖心の生みの親であることはどこかでは分かっています。だからこそ、、、私もその話題は口にしないからあなたもその点よろしくね、、です。

真の体験者

真我

全ての現象の体験者は「私」ではなく真我です。「私」は体験者にはなり得ません。なぜならば、、私こそが体験される側だからです。「私」が体験されるのです。だから私は何も体験できません。周囲の人間全員の自我は何も体験できません。何一つ体験は起こり得ません。全体験は真我の体験です。そういう意味では「体験」という言葉自体が矛盾を抱えています。ですが周囲を見渡せば「体験者ー私」で溢れかえっているでしょう。誰が今回の旅行体験者?????私です!!!が当たり前なのです。

じゃあじゃあ

「私」はじゃあ何をやっとんのですか???私の役割は何ですか????私が体験者じゃないのだとしたら何なんですか???存在意義ないじゃないですか!!!!!となります。そうです、、存在意義は全くないのです。だって体験してないんですから。。。ですがコミュニケーションにおいて名前は必要です、人格には名前があったほうが便利です。だから名前はあっていいんです。ですがその名前が指し示す体、人格、私は体験者ではありません。

では、、、、

今日この瞬間から体験者「わたし」は完全にお役御免になり、、体験者「真我」が思い出されました。体験者真我はではどこでこの全てを体験しているのか????この幻想の世界の外で体験者真我はこれを体験します。だから真我は体の中に住んでいません。真我の影がこの世界ですから、、影の中に真我は入り込んでしまったら影は消えてしまうのです。真我が影を見ます、真我が影を感じます。真我がこの個人ストーリーを体験します。

感情

このことが分かろうとも、、、感情は起こり続けます。何もなかったかのように怒りが起こるでしょう。。それを体験者真我として味わい尽くします。個人ではなく真の体験者真我としてこれを味わい尽くすのです。それは感情をストーリーに逃げることを避けます。三倍返しだ!!!!というストーリーへの逃避とは違います。これは真我があるがままに感情を感じるという全く違う展開が起こるのです。その瞬間次のストーリーに感情が逃げることなくここで感情が消化されていくのです。寂しい、、、だから友人をいっぱい作って、、、、じゃなく、、、寂しいを真我として味わい尽くすのです!!!