考える思考、機能する思考

ラメッシ・バルセカール

ラメッシは考える思考と機能する思考を分けて考えます。考える思考とは勘違いをベースにした思考です。「私は失敗した」「私は成功した」「私はなぜやってしまったのか??」多くの方々はほぼこの思考で埋め尽くされていて最終的には精神病患者状態になります。機能する思考とは事実に基づいた思考です「私という行為者が存在しない」という大前提をベースにした思考です。明日は何の飛行機に乗るべきか?明日は何の仕事を優先するべきか????などです。

多くの時間

多くの時間を人が持て余すと、、「考える思考」に埋め尽くされてしまい最終的には不安障害のようになっていきます。ですからラメッシは、、何かをしなさいと言うのです。何でもいいから自身の生活を自身で賄えるよう努めなさいと言うのです。それを行えば考える思考が出る幕が減り、、機能する思考が現れ出していきます。

退屈だから

退屈だから、、考える思考が現れ出し、、起こした行動にあらゆる判断を行いますが、、全ては勘違いであってその動きは苦しみでしかありません。「自由意志はない」「行為はあっても行為者はない」この事実に向き合った時、、考える思考が湧く余地がなくなります。その時、、機能する思考が現れでて事実に基づく行動だけが起こります。

パニック

肉体精神機構

ラメッシが言う肉体精神機構にパニックが起こる状態とは何でしょうか??????パニックとは起こった状況に対して思考が起こり続け、その思考の認識が起こり続けることで状況認識が起こらなくなることです。例えば慣れないスポーツの試合をする際に、、思考が起こり続ければボールが見えないという状況に簡単になるのです。そのスポーツに慣れている人は思考が湧かないから状況認識を起こせます。

認識は一つ

向き不向きとは、、、思考の渦が起こらない分野が向き、、思考の渦が起こる分野は向きません。状況を認識する余裕がなく、、思考の認識ばかりが起これば、、、苦しいのです。ラメッシはDNAー外部環境に対する反射がどのように起こるかは運命であってそこには誰も立ち会えないと語ります。そしてその通りです。

シンプルになる

ラメッシ・バルセカール

ラメッシ曰く「肉体精神機構」が完全自動反応に過ぎない、、、このことに気づくと、、、その反応に悩むという時間がなくなるため、、生活がシンプルになる、人生がシンプルになり、、、楽になる、ということです。DNA-環境反応に過ぎない、、このことに気づくことで悩むことが出来なくなるのです。自由意志があるという大前提が悩む時間、悩む心を生み出すわけですが、、その動きが消えます。

私が理解したいという動きも消える

私は「悟り」を理解した、私は「全てがただ起こっている」ことを理解した、、、これも完全に勘違いです。だから正しい理解の後、これらの思考も消えます。ラメッシが「誰が構うもんか?!」というタイトルで本を出したのはそのような理由です。そのことに構っている誰かが存在している時点で、、まだそれは悟りではないのです。

肉体精神機構

肉体精神機構は起こります、そしてその肉体精神機構の中で、「私が自由意志で全てを決めている」という思考が起こります。そしてその前提であらゆる思考が次々に現れ出るのです。この流れがこの流れこそが苦しみを生み出すのです。だからそのことに気づき、、その思考の起こりが無くなる時、シンプルに楽になるのです。楽になる誰かが居るのではありません、ただ苦しみが消えるのです。

巻き込まれる

ラメッシ

ラメッシは「巻き込まれる」という言葉を使います。エゴによって巻き込まれる、巻き込まれない、、、、物事の結果は完全にプログラムの入力と出力に過ぎず、、全自動です。全自動であることが事実です。にも関わらずこのコンピューター(肉体精神機構)はああすれば良かった、こうすれば良かったと考えます。この考えはコンピューターの構造上間違っているのです。遺伝子的反応、外部的環境への反応としてアウトプットがされるのであって、、全ては全自動なのです。

全員が異なる

遺伝的要因、外部環境的要因によってこの肉体精神機構は全く異なった反応をするのですから全員が全く異なった反応をするのです。このことが本当の意味で分かると、、、起こった事実、反応に対して「悩む」ということが起こりにくくなります。なぜならば誰も意思でもってその反応を起こしておらず、、、結果は神のみぞ知る、のですから。あとは個人が思い思いの期待をするだけであってその期待に添う時喜び、添わない時悲しむだけなのです。

分かったとて

そのことが分かったとてこの肉体精神機構から起こるアウトプットをコントロールできることは一切なく、、唯一できることはアウトプットに悩む、妬む、悲しむ、という巻き込まれが無くなることしかありません。なぜそれが無くなるのか????それはアウトプットが完全自動であるという完璧な理解が起こった時、、、結果に悩むということが実質できないからです。

エックハルト・トール

大いなる存在

エックハルトトールの教えの特徴は「偽物の思考」に気づく、、これです。止むことのない思考を自分と捉えることで、この回転思考の中にひたすらに居続ける状態、、、これが苦しみの根源と説きます。電車で独り言を言っている精神異常者と頭の中で独り言が止まらない人と何が違うのか???????何も変わらない。つまり我々はほぼ全員が精神異常者であると彼は説きます。

思考の罠

彼の教えの特徴は思考が作り出す「エゴ」このエゴシステムの特徴を徹底的に詳細に書き連ねることです。エゴはこういう時このような反応をする、、、これです。「エゴ」とは機械反応であり、、こういう状況ではこういう反応をし、、人間関係のトラブルを作り続けるというシステムです。そしてなぜエゴはそのような反応をするのか????そこに迫ります。

防衛反応

エゴとは防衛反応です。状況に対してこの体を守るよう機械反応を起こします。エゴがいかにこの体を守るために機械反応を続けそれに成功したとしてもそこから「苦しみ」が消えることはありません。なぜならばそのエゴ反応こそが苦しみを作り出す大元だからです。とはいえこのエゴ反応は機械反応ですからこれを意図的に止める方法はなく、、唯一できる方法は「このエゴ反応」に自覚的であることです。するとそこに隙間が現れその隙から平安が訪れます。

意識とエゴ

ラメッシ・バルセカール

全ては意識です、、全部が意識、、、そうなるとエゴは何ですか???????エゴとはこの世界とは分離した自己意識のことです、、、ところが全てが意識ならばエゴは全体とは分離した何かであることは構造上不可能です。そうです、、つまりエゴとは嘘です。この世界は全て意識ですから分離した何かは存在しないのです。つまりエゴ、自分とは勘違いです。

肉体精神機構

ラメッシはこの体、そして思考を含めて肉体精神機構と言います。この体はこの世界とは分離した存在であるという認識は起こりますが、、その思考は構造的に間違っています。この世界は意識が作り出した現実であり、非現実です。この世界に現れ出る肉体も、、視界が作り出した映像に過ぎず、触覚が作りだした幻に過ぎないのです。

WHO CARES?!

ラメッシ・バルセカール

意識以外は存在しない、、それが彼の教えの特徴の一つです。「意識」は100%あります、意識の存在を疑うことはできません、、、そして「その意識と対象」という分離が100%存在しないのですから意識と対象物という分離はないのです。全ての対象物は意識です。その証拠に対象物の認識は、、認識そのもののみです。五感という認識以外に対象物を認識する術はないのです。

対象物が在ると信じる方法

なぜこのコーヒーカップが在ると思えるのですか??????だって触れるし、見れるますから、、、つまり五感を使ってそれがあると思うことが出来ているのです。逆に言えば五感がなければそのコーヒーカップは存在しません、、その存在が五感が支えているのです。つまり意識がそれを支えているのです。だから意識と対象物があるのではなく「意識」しか存在しないのです。

その意識すらも

その意識すらも「絶対」から起こる現象に過ぎません。熟睡寺には「意識」は消えてなくなりますが我々の存在が消えるわけではありません。つまり意識すらも根源「絶対」から湧きでる現象に過ぎないのです。その意識は根源である「絶対」から影が現れた瞬間に起こります。「絶対」の中には自らを「絶対である」と認識する部分が含まれていて、、その認識がまさにこの「意識」です。移り変わるこの無限の影こそが絶対が絶対である証拠です。

絶対

マハラジの教え

ニサルガダッタ・マハラジの教えの特徴はなんと言っても「絶対」でしょう、、、我々は「絶対」の存在でありいまここに「私が在る」という観念が起こるのは、、その影がここに起こっているからだ、、ということです。目覚めた時「私が在る」という思考は現れ、、熟睡すれば「私が在る」という思考が消えます。この「私が在る」という思考が消える時、、残されたものそれが「絶対」です。全思考の活動が消えますがそれでもそこには何かが確実に残るのです。それが「絶対」です。

偽物を偽物と理解する

この世界が現れ出る時「私は在る」という思考も起こります。これが第一のマーヤー、ムーラマーヤーです。第一の幻想です。その中に第二の幻想が現れでます、それが「この体は私で在る」という思考です、、これが偽物なのです、、それを見抜きます。偽物を偽物と見抜くのです。これを彼は子供ー原理(child-principle)と呼びます。

世界は幻

朝目覚めた時に起こるこの世界は幻です、、その瞬間「私は在る」という思考も現れますがこれも幻影です。「絶対」以外は全て幻であり、、、その認識はこの「絶対」から起こるのです。二つの観照段階があり、、存在がこの全ての顕現を観照し、、、この存在の観照が、、、絶対から起こります。そしてこの存在と顕現には分離はなく、、さらに存在と絶対にも分離はありません。よって絶対、存在、顕現には分離がないのです。つまりそれらは全てであり一つなのです。

二元に気づくには非二元が必要

この世界

この世界には私が居てあなたが居る、、、、あなたに気づいているのは「私」である、、、これを二元の世界と言いますがこれが成り立つには、、、非二元の世界が必要になります。二元の世界がそこにあることに気づくにはそうではない世界(非二元)の世界が必要になるのです。これは「青だ」と気づくには非青の世界が必要になります。つまり「この世界は二元の世界です」と認識するには非二元の世界が必要になるのです。

だから一元とは言わない

そうなんです、、この世界は圧倒的に二元の世界と認識できるから、、、本当はその裏には非二元(一元)の世界があるのです。この世界を二元の世界と認識するのはこの二元の世界の住人「私」ではなく非二元の世界です。よって認識者「私」とは非二元なのです。つまり認識者「私」はこの二元の世界には間違っても存在しません。

にも関わらず

我々はこの二元の世界に気づきながらもこの体の中の「私」がそれに気づき生きていると勘違いしています。よって分離感、孤独感、無力感が起こります。これは勘違いです。その勘違いにはこの孤独で分離したこの体が全ても五感を認識し生き抜いているというストーリーを起こすのです。よってそのままにその思考は認識され、、その感情を味わっているのです。これが釈迦が説く「苦」です。

誰が悟るのか??????

存在からただ「私の不在」の気づきが起こる

実は自我とは悟るための必要悪です、、、本当は悪など存在しませんがあえてそう言います。自我=悟りための必要悪です。。。幼稚園児に悟りを伝えても恐らく「実感」としての悟りは起こらないでしょう。なぜならば自我が形成されていないがゆえに「苦しみ」がないからです。よって「苦しみ」という完全完璧な実感からの悟りという実感誘導が難しくなります。

ところが

大人は自我が完全完璧に形成されており、、ゆえに「苦しみ」を実感できます。この苦しみという実感が「悟り」発見のナビゲーターなのです。悟りを追い求める動機とはこの苦しみの解消であり、、この苦しみがなければ、、、悟りへの衝動もない。。。。よって苦しみは悟りへの必要悪なんです。苦しみは悟りへの必要善でもあります。

苦しもを解き明かすと

苦しみを解き明かしますと、、、、そこには自我というメカニズムのプロセスが見えてきます。苦しみという圧倒的実感の影に自我という苦しみ製造機の影が見えるのです。この影を鮮明に見つめていきますと、、、、自我が正体を露わにするのです。動物には苦しみがなく、、、人間にだけ苦しみがあるのは間違いなく、、自我の存在があります。その自我とは何なのか?????に迫るには圧倒的実感としての「苦しみ」が必要なのです。この苦しみがなぜ起こるかを実感として分かる時、、、それはつまり悟りです。

苦しみの解体に自分は必要ない

1+1=2を理解するのに「自分」って全く必要ないんです。苦しみのメカニズムを理解するのに「自分」って全く必要ありません。つまり悟るのに「自分」って要らないのです。苦しみのメカニズムに迫る時、、まさに自分という概念が現れでてきます、、、自分が現れるのではなく自分という概念が現れでます。自分という概念は苦しみ解明には必要ですが、、その発見に「自分」が必要ないのです。もっと言えばその発見のプロセスにおいて自分とは実体ではなく、概念に過ぎなかったという気づきが起こります。これぞ悟りです。