ワクワクとは自己超越

ワクワクすることを結果を期待せずにやる

結果につながらないことは思考はやらせようとしません、全部見返りを考えて行動します。これが思考です。ですがこの状態ですと逆に結果がでないことになります。なぜならば見返りを期待すればするほど思考が強くなり全体とこの個人がん分離するからです。皮肉にも思考を使えば使うほどに全体から分離が進み全体とのバランスが崩れます。結果を期待せずにワクワクすることをすると思考が介在しないため全体との調和が進み、結果が出ます。なぜならば結果とは外部要因でありその外部とは全体だからです。

全体との調和が結果を導く

なぜか上手くいく、なぜかツイテいる、これって結局個人の行動と全体とが調和が取れている状態です。行動を起こす個人の動きが全体と分離しすぎていない状態、、これぞツイている状態でしょう。つまり個人が全体から完全分離していない状態こそが上手くいっている状態なのです。ではどうしたら全体から分離しない行動を取れるか、、これがワクワクです。見返りを期待しないワクワク行動こそが全体と調和が取れた行動になります。

自己超越とはこのこと

ワクワクすることを見返りを求めずに行動するとは、自己超越の状態です。見返りを求める時「自分」という存在が誕生します、なぜならば見返りを受け取るのは紛れもなく「自分」だからです。つまり見返りを求めれば求めるほどに自分が強くなり全体との調和が崩れるわけです。全体と自分を切り離す要素こそが思考であり、思考おフル回転すればするほどに自分が強化されて分離が進みます。

個別体験を積むための機能=エゴ

エゴ、自我は悪者ではない、、

自我、エゴとは個別体験、小さな神体験を積むための機能です。この機能を機能以上に負荷をかけていくとネガティブな反応を起こすようになります。これが人生を苦しめる要員です。とはいえこのエゴ、自我を敵対視すれば人間としての生活ができなくなります。そうではなくこの自我を機能以上に働かせない、これが大切になります。エゴとの調和、自我との調和が整った時にエゴ、自我はまるで無いのでは?という状態になります。これが覚者と呼ばれる人の境地です。今までの自我、エゴとは決別できている状態です。

自我、エゴに余計なことをさせない

自我、エゴが悟りの世界では絶対的に敵対視されてしまうのはこの自我、エゴにあまりに多くの仕事をさせているからです。思考がフル回転、常に作戦を立てる、、全部が全部思考重視、これによってアンバランスを生み出しそのアンバランス分が苦しみを生み出します。人間はエゴ、自我に対し無自覚であるため、、思考フル回転に陥りやすく結果自らバランスを失います。思考する回転は自我全開になりアンバランス全開です。

自我拡大、エゴ拡大に無抵抗

多くの人間は自我拡大、エゴ拡大に無意識です。思考すればするほどに苦しみが生まれますがそこを自覚していません。そのため何か問題があるとすぐに思考をフル回転させ自ら首を締めるのです。そうではなく思考フル回転は自我フル回転であり、、、これこそが苦しみを生み出すことを自覚すべきです。そうすればバランスの取れた自我活動にシフトします。

全ては神の鏡であると考えてみる

神は自身の鏡を沢山設置して小さな神体験を回収する

我々は大きな神の波としても表現できますが鏡としても表現できます。神はあらゆる場所に自身の鏡姿を設置してその鏡姿に独自の体験を経験させました、神が神のままでは経験できないことを鏡を使って行ったということです。全員が神の一側面ということになります。そしてこの鏡姿は独自の体験を積むことができるからこそ多岐に渡る経験を積むことができるのです。

小さな神は神の無限の投影

神は神のままではあらゆる体験、思考、感情を体験することが出来ません。そのため神は自身の鏡を無限に設置することであらゆる姿の神を投影していきました。神の分身を無限に作ったのです。これによって神は神自身を体験するという多岐に渡る経験を享受しました。絶対、無、空には体験したいという意志すらありません、そこから投影された神、ALL THAT IS、全体には自身を知りたいという意志があります。この意志に従って小さな神が出現し今我々のような体を持ってそれを体験しているのです。ですから全感情、全思考、全体験は全て神が望むことです。

自我は画期的なシステム

自我とはこの体、思考、感情を自分とするシステム、メカニズム、プログラムです。覚者はこれを苦の根源と呼びます、勿論その通りです。ですがこれがあるから神は小さな神体験ができるのです。もしも我々に自我が形成されていなければ小さな神体験ができなくなります。神がこの現象界を作り出した意味がなくなってしまいます。自我を残念な存在として敵視するのではなく肯定し受け入れていくことで自我との楽しい共存を意識できます。

神が完璧ならばこの生命現象も完璧

神=生命現象

神は完璧です、神とは絶対、無、空の反映、影、意識を所有する全存在です。我ありです。この存在が完璧なのは予想がつくでしょう、となれば、、、神=生命現象、つまり我々の目の前の姿ですから、、、この目の前の生命現象は完璧であるということになります。いやそんなことはない、、ニュースを観ればあらゆる事件、犯罪、冤罪、戦争が今もどこかで起こっているではないか???家計は逼迫し、健康状態も悪い、、、何が一体完璧なのか???となります。ではどちらが正しいのか???答えは簡単、それでも目の前の生命現象は完璧です。つまり完璧ではないという我々の認識こそが何かがおかしいのです。何かを認識できていないのです、目の前の生命現象が歪んで見えているということになります。でなければ神は不完璧という結論になるからです。

目の前の生命現象が歪んで見えるという事実だけがある

今目の前の生命現象、現実が不完璧に見えるならばそれは紛れもない事実です。ですが事実はいつでも神ですから完璧なのです。事実、現実は神ですから完璧です。完璧に見えていないという事実も完璧なのです。そうなると今後の課題が見えてきます。完璧に見えないこの世界を完璧に見えるように認識を変えるということです。かと言って「私」の観念を変えてもそれは起きないでしょう、なぜならば観念とはこの世界をいかに分離するかという世界だからです。分離した世界に完璧はありません、完璧とは分離が完全に解消され統合された世界、たった一つのエネルギーがたった一つのエネルギーとして存在する世界です。

神はいつも完璧、完璧でないのは人間の観念

人間は太鼓の昔から、、自身の思考を進化させてきました、、科学技術、テクノロジー、歴史、言語学、、、あらゆるジャンルで学問を進化させてきたのが人類です。これによって人間は自身の思考に絶対的価値を見出し一見便利で快適な生活を享受しました。ですがこの思考偏重主義は危険な要素をはらんでいます。人間は自身が培った価値観が反映された世界に生きていることを知らないのです。当たり前ですが自身にとって最都合が良い価値観を採用し生きていますがこれがそのまま目の前の現実(神)に投影されているのです。そして映る世界に向かって不平不満を並べるのが事実です。神=不平不満に陥っています。

客観的な観察は不可能

我々が小さな神である証拠

我々は小さな神です、大きな神が全体ならば人間は小さな神です。小さな神はなぜ神なのか???それはこの人間活動を行うためのステージ、この世界は我々の脳が作り出しているからです。脳が??そうです、我々は間違いなくこの世界を脳で体感しています。見える世界は脳内で観察でき、触れるものは+触覚、香るものは+嗅覚、味わえるものは+味覚ということになります。ということは脳内でこの世界はいかようにもコントロールできるということです。そしてこの世界は人の数だけ存在するというミクロコスモスが量産されます。それを回収するのがマクロコスモス、大きな神です。

小さな神は分離の方法がカスタマイズ

我々は全く同じ世界を生きているつもりでいますが実は全く違う世界を生きています。それはこの脳内の分離がカスタマイズだからです。たった一つのエネルギー神に本来決まった形態はあるわけがなく、、このたった一個のエネルギーは人の数だけ変化します。それは脳内の解釈が違うからです。動物は動物で全く違う視界が広がりますし、人間も人種によって見える色彩が違うはずです。

小さい神の分離体験を収集する大きな神

人間は小さな神であり、人間は独自の世界を生きていきます。この独自の世界の体験を大きな神は全部回収します。人間とは大きな神の収集対象なのです。その証拠に「我あり」という永遠に変わらない感覚を所有すると思いますがこれは大きな神との共有です。この感覚は人間の思考では絶対にありません。全く変わらないこの感覚、「我あり」に基づき小さい神はあらゆる体験を積み重ねそれが大きな神に収集されていきます。

完全な知、経験、感情の先に気づき

先ずは知ること

非二元、悟りに関して重要なこと、それは究極の目的に目覚めることです。これによって究極のエネルギーが入り込んできます、ですがこれだけでは究極の気づきには至りません。重要なことはそれをこの体を通じて体験していくことです。究極の世界を体を通じて感じていくことです、何かに集中することで無我を知る、体の感覚に集中することで無我に入る、あらゆる体験の中から究極に触れていくことです。

無我に入ると歓喜が襲ってくる

無我に入ることに慣れていくと、、歓喜、平和、安堵が襲ってきます。その状態こそが目指すべき究極の場所であることを体、感情を通じて分かってきます。その場所はホームであり、神であり、大いなる一つであることを肌感覚で感じていきます。自身が小さな神で小さな神体験を今はやっているだけ、その事実を体験を通じて感じていくことが出来ます。

究極の気づき

先ずは知識として大いなる存在の世界を理解しそこから体を使ってそこに近づいていきます。そしていかに長い時間をその場所で過ごせるかをやっていきます。小さな神体験での大きな神への帰還を自主的に行っていきます。体は徐々に大きな神に馴染んでいきます。すると大きな神の方から小さな神に近づいてきます。これが究極の気づきです。打ち震えるような感動、感嘆、衝動を覚えるようになると究極の気づきは早いです。

量子物理学は観察者が結果に影響することを解いた

観察者の価値観が結果に影響する

量子力学はこの世界を物理学の視点で紐解きました。観察者が結果に影響を与えるというものです。当たり前ですがこの世界は観察者の脳内で観察されます、脳内はこの大いなる一つ、全体を分離錯覚させる機能です。観察者の価値観がこの一つなるエネルギーを分離して見せているのです。観察者の心理的影響を物理実験が影響を受けないわけがないのです。

人間とは神のミクロ体験

人間生活、人間人生は、、神のミクロ体験です。大きな神が全体だとすれば小さな神は人間です。小さな神はこの脳内に世界を作り出しました、大なる一つ(神)を人間が眺めると、、人間の価値観が如実に影響する世界が誕生します。人間の価値観に準じた分離の世界が目の前に広がるのです。この体験を大きな神はやってみたかったのです。小さな神は独自の世界をクリエイトしその世界の中で大冒険します。

小さな神は冒険に疲れると大きな神に再吸収される

小さな神は大冒険をこの世界で続けていくわけですが、、、本当の大冒険は自身が実は大きな神だったという気づきです。小さな神として活動を続けてきましたが、、実は大きな神こそが自分だった、、そしてこの広がる世界こそが自分だったという発見が起こります。まさかの自分の中を動き回っていたという大落ち、ギャグ、ジョークをしていたことに驚愕します。

海と小波の関係

波は神の人間体験

波は神の人間体験です、波は海の一部です、これが神です。波は独自の意識を獲得し日々波として生きています。ですが本当は全部海からのうねりです、思考も感情も行動も海からのうねりですが、、波は独自の意識を獲得したと錯覚し日々波体験を行います。波体験は如何せんサイズが小さい故に困難を伴います、ですがサイズが小さいからこそ自由気ままにこの大海を動き回れるという特典が付きます。小さいからこそこの小さい立場での視点で大海を遊び尽くせるわけです。魚と一緒に動き回ったり、太平洋から大西洋に移動してみたり、北極付近に遠征したりです。

波はあらゆる体験を積み最終的に大海に吸収される

波はあらゆる体験を繰り返し多くの経験を積みました、波としての成功体験失敗体験を積み重ねていきました。あらゆる欲求を満たしていき最終的に気づきます、「自分」って本当は誰なんだろう???これが波の究極の質問です。波としてこれまで生きてきたが、、本当に波は波なのだろうかと、、、その時ふと自身が実は海であったことを思い出します。散々動き回ってきたこのフィールドこそが自身であったという気づきが訪れます。

生命の全記憶があるDNAが、思考の中で生きることに矛盾がある

細胞の一つ一つに全記憶がある

我々の細胞の中にあるDNAには生命の全記憶が蓄積されています。全部を知っているそのDNAを我々はこの体の中に所有しています。全記憶があるにも関わらず我々は完全なる無知として生きています。そしてこの体、思考、感情を自分自身であると錯覚して生きるという大いなる矛盾を抱えた生命なのです。全記憶を持った細胞を寄せ集めてこの体は出来ますが思考はこの体、思考、感情だけが自分自身であると錯覚しています。ダイアモンドで構築された宝石にも関わらず思考が私はガラスだと思い込んでいるような状態です。思考がいくら我輩はガラスであると信じてもダイアモンドであるという事実は変わらないので矛盾を抱えます。これが人間の苦しさです。

人間として生きる意味

では人間として生きる意味は何なのか??大きな神が居るならば、人間とは小さな神です。小さな神として我が人生を生きていきます、この人生では自身で決める(錯覚)という自由がありそれを行使していきます。この小さな体での小さな神体験です。神は人間を進化させることでここまで進化しました。この小さな体を使って独自の世界を作り出していきます。価値観がそのまま見える世界になります、そして経験がまたさらなる価値観を作りそれが見える世界に反映します。これを大きな神はやってみたかったということになります。そして本当は大きな神と小さな神には境目は一切なく、、全部が神です。

小さな神は至福には至れない

小さな神には問題点があります、それは小さな神は小さな神のままでは絶対に至福には至れないということです。永遠の幸福を得ることは出来ません、この体、思考、感情を自分と定義している間は、、ですから小さな神の大冒険は最終的に大きな神に吸収されることで決着を迎えるのです。小さな神としてあらゆる経験を積むと大きな神に再吸収されます、それは死ぬ時かもしれません、もしくは生きながらかもしれません。

夢を見ている自分の不在

何かに夢中になる時、自分はいない

本当に自分っていつも感じているのでしょうか?そんなことは全くありません、日常生活の多くは自分は不在しています。料理を作り時に本当に自分はいるだろうか???いないはずです。料理を作る自分っている意味がないんですよね。自分なんて必要ないんです、ほとんどの場面で。ですがあらゆる物事が起きた後に自分が突然現れて自分にとってこれって良かったのか?自分にとってこれは有りか???と突然出しゃばってきます、、そしてこの出しゃばりが苦しみを生み出すのです。

自分なんて実はほとんど居ない

自分というのが居るという大前提で多くの方は過ごしていますが、、、自分を常に意識してなんて物事を進めることは不可能です。むしろ思考が湧いてきた時に自分を思い出しているはずです。時間が腐る程余っている人ほどに自分は頻繁に出現するでしょう、そしてそれに自分は安心します。ですがその状況こそが苦しい時間だったりすることを本質は分かっています。だが自分を消え失せることも苦しい、、自分を永続させたい、でも苦しい。

自分なんて存在しなくても全部うまくいく

自分という存在を意識しなくても物事は全部うまくいきます、むしろ自分という存在を忘れている方が上手くいきます。ですがそれでは自分が納得しない、、自分は消えてなくなってしまします。なんとかしてこの自分が価値があることを証明したいのですがそこを主張すれば主張するほどに苦しくなります。でも自分を捨て去るなんて冗談じゃない、、これが人生のパラドックスです。でもはっきりといえば自分など消えて無くなれば全部うまくいきし楽で楽しいのです。この自分というアイデアは自分ゲームを味わうために誕生した概念でしかないのですから。