生命

動き

我々の本質とは生命であり生命とはすなわち動きです、、、思考とは動きであり感情も動きです、行動も動き、全感覚は動きです、音を捉える動き、味を捉える動き、触れるを捉える動き、熱を捉える動き、言葉を読み込む動き、言葉を発する動き、幻想を視覚化する動き、、これらの動きこそが我々の本質です。この動きなくしてこの世界は一切の存在を維持できません。この世界は幻想ではありますが、、この動きのおかげで、、まるで存在するかのうように感じる(動き)ことができます。

全感情

感情とは完全に動きです、エモーション、、モーションを起こす、、動きです。この世界で動き以外のものを探すのは不可能です。道を歩く時、、地面を感じる動きが起こることで地面、足が登場し、、風を切る動きが起こり、視界が変わる動きが起こります。光を感じる動きが起こり、、時間、空間があるような感覚(動き)が起こります。この世界は生命であり、、その生命とは動きのことです。

気づくという動き

空即是色による「不変の自己」から現象が起こり続け、、それが気づきという動きにあります。この体という幻想とそれ以外の現象(幻)は五感という動きを起こし、、無限の体験を生み出します。空とは無限のことであり、、色とは無限の幻想としての現れです。。。そしてこの無限の現れは認識されなければ、、無限の認識が起こらず、、、空は存在しないことと同じになってしまいます。空とは全部で在るからその中に自身が無限で在るという認識も起こるのです。

勉強ではない

触れる

私たちは「思考がでっち上げた罠」に引っかかって苦しんでします。思考が作り出した「私」思考が作りだした「私の人生」これによって「違和感」が起こり続け、この「違和感」を解消すべく「新たな思考」が起こり続けるという無限地獄に陥っているのです。全部これは思考ですから、、この思考を新しい思考に切り替えるのではなく真実に戻るのです。思考によっておかしくなった状態を思考を抜いて真実に戻るのです。

真実を思考する????

真実とは思考ではありません、価値観ではありません、概念でもありません、イメージでもありません。真実とは思考をはぎ取って残るモノです。真実とは価値観観念概念を剥ぎ取った後に残るモノです。ですから真実を知識として学んでも見つかりません、知識をヒントに確認していくのです。真実とは実在ですから、、真実を見つけることは実は容易なのです。

起こった事実のみ

真実とは起こったこと、これだけです。これだけが真実です。起こったことに意味づけをして意味づけ解釈を真実と勘違いすることで「違和感」が生まれました。例えば雨が降る、、これは事実です。ですは雨が降ったから気分が悪い、、これは真実ではなく、、感想です、、、雨=気分が悪いではなく、、雨が降ることで、、気分が悪いが起こったのです。雨には意味はありません。

離婚

離婚=残念なこと、、、これは事実ではありません。離婚が起こりました、、結果的に残念、、が起こる可能性もあります。結果的に良かった!!!が起こる可能性もある。。。事実とは、、そういうことです。事実に意味は含まれておらず、、そういう意味が結果的につけられるという事実はあります。こうやって事実だけを拾っていきます、、意味が全くついていない事実を事実として拾います。

事実を拾い続けると

事実のみを拾っていきます、事実を事実として。すると、、、なぜか違和感が起こらない。。。違和感が全く起こりません。代わりに安らぎ、平和が起こります。事実には意味は全くないことに気づいていきますと「違和感」が抜け落ちます。そして代わりに安らぎ、安堵、平和が起こるのです。これが悟りです、、事実に意味などつける必要はなかったのです。ただありのままをありのままに感じます。

見抜かれる思考

それでも

真実ではここでは何も起きてはおらず、、ただあるがままの表現だけがあります。そしてにも関わらず思考は起こり、、「この私が居る」というストーリーが起こりはしますが、、、一度でも真実に目覚めますと、、その思考の中身が真実ではないことを見抜きます。私は何かをされた、私は被害者である、私は加害者であるというあらゆる思考の内容は嘘です。真実ではただあるがままの起こりがあるだけです。

見抜き続ける

真実に目覚める強みとは、、、思考が起こす嘘の内容に惑わされなくなるという点です。思考が表す表現はほとんどが嘘です。。自分は被害者だ、自分は将来大変な目に遭う。自分は老後このままいくと大変だ、、、全嘘なんです。この体の中に自分が居るというこの発想、概念、アイデアは、、、嘘です、、その嘘をベースにした全ストーリーは嘘なんです。だから違和感が抜けないのです。これが落ちます、真実の理解がこれを落とします。

一方

ニュースを見れば、、あらゆる個人の責任者はこれからも問われ続けます。。真実とは真反対の認識に基づく人間の右往左往が起こり続けはします。。。ですがその事実こそが、、真実の重要性を客観的に提示してくれるのです。真実とは真反対の認識に生きれば、、他人は常に愚かな行為を起こし、それを見て自身は怯えて生きていくのです。責任を取らされる人間と責任に覚える人間の2種類しか存在しません。一方真実に目覚めれば、、責任とは無縁です、、全部が全部勝手に起こる現象に過ぎないことに気づくからです。

打開

一般

一般的にはこの環境は「私」んとっては完璧ではとうていなく、、だからこそ少しでも完璧にしようという動きが誰にでも起こります。暑すぎれば涼しくしようが起こり、寒すぎれば暖かくしようが起こる、お腹が空けば充たそうが起こり、学校の成績が悪ければ、、良くしようが起こります。こうして「私」は自我が芽生えた瞬間から、、、外部環境を改善し続けていくのです。

一方

同時にこの外部環境は完全完璧、、空の現れです。無限の自己が現す「幻想」です。これは幻想であり、、完全完璧の現れでしかありません。完全完璧に現れにミスはなく、、、ただ完全完璧の現れに浸ればそれだけで至福です。この完全完璧の中に「自分」を作り出し、、この自分を実在と信じる動きが起こった瞬間からこの世界は不完全不完璧に豹変します。

「私」

私はこの環境で常にトップで在るはずがなく、常に優れていることもなく、、常に成功者であるはずもなく、、常に人格者であるはずもないのです。。そこを不満に思い、、、解消しようという動きが起こり「違和感」が起こり、「違和感を解消しよう」が起こり「違和感」が起こるという負の連鎖が起こります。この動きに気づきます。この負の連鎖に気づきます。

反射

反射しか起こっていない

今日1日この体に起こる動きを観察してみてください、、、実は反射しか起こっていません。何か思いついてどこかに行こう!!が起こる前に、、ソワソワが何かをきっかけに起こっています。話しかけられた時に、、思わずそこに向くという動きが起こり、、相手の言葉を読み取る時に何一つこちらはしていない、、勝手に読み込みが起こったと同時に、、感情が生まれている、、そして反射的に「回答」が起こっています。

最初から最後まで

人を観察すればわかります、、反射しか起こっていません。自動扉が開く、、それに体が自動的に反応する、、、体が動く、、感情が動く、思考が動く、、、、これしか起こっていません。思考感情行動の全ては、、自動扉が開いた瞬間に自動的に起こっっています。電話のベルが鳴る、、、これに体が反応します、、感情が起こります、思考が起こります、行動が起こる。。。

見抜く

反射しか起こっていない、、思考感情行動の反射がただ起こり続けています。これを見抜くのです。そこを見抜くと「リラックス」という動きが起こります。手放し、解放、無責任という動きが起こるんです。これを感じます。体の反応、感情の動き、思考の動きを「自分がやった」という認識の動きが起これば、、「違和感」という感情が起こります。そしてこれを解消しようとする動きが起こります。

最終決戦

分かる

「分かった」が起こった時、、その「分かった」を私が所有する動きが起こります。真実を発見した「私」の誕生です。真実とは「私」が居なかったということですが、、この真実をまさかの「私」が所有するのです。この矛盾、パラドックス、、が平気で起こるのですから面白いのです。グルは、、「あなたがたはまだ分かっていない」と信者を集めますが、、「分かっていないあなたがたが実は存在しない」という理解が悟りです。

何も起こっていない

ストーリーの側から見ると、、、実はここでは何も起こっていません。この体を私とする動きが起こり、あの体を「あなた」とする動きが起こり、、話すが起こり、聞くが起こる、、ただそれだけ。。真実ではただその動きがいまここで起こるのみです。何それ????味気ない?????虚無?????そうです、、ストーリー側から見ればそうなります。ですがこれは虚無でもなく虚しいでもなく味気ないでもない、、ただ在るという感覚、平和、愛、安堵が起こります。そこに。

話しかけられれば

そうは言っても話しかけられれば、、「私」という動きが起こり、、「あなた」という動きが起こり、、、ストーリーが始まります。ですがその一方で、これをストーリーと気づく動きが現れます。ストーリーの始まりに気づく動きが起こります。話しかけられれば「反応」が勝手に起こりますから、、それを止めることは不可能です、、ですがこの反射に気づく動きが起こるのです。

繰り返し

いまここで仕事をすればストーリーに引き戻される動きが起こるでしょう、ですが同時にその動きに気づく動きが起こります。これが何度も続きます、、何度も何度もこれが続きます。いまここに戻り、ストーリーに入る、入ると同時に入ったことに気づく動きが起こり、、いまここに戻る。これをやっているうちに、、ストーリーに入るが起こらなくなる、、話しかけられても、、いまこことして反射に気づくが起こります。

今ここ

何が起こっている????

我々が認識している常識と真実は180度違います。我々の認識では「私」がこの外部環境を動き回り、、なんとかしてこの体、私を息生き伸ばすようにしていきますが、、、、真実ではこれだけがあり、、その中を動き回るこの体は存在しません。この体は画像イメージであってこの画像イメージがこの中で動いているように見えます。すると思考が起こり、このイメージを生き伸ばすよう、得するような動きが起こります。ほら!私の体のためにこれをやろう!!という思考が起こり、、感情が起こり、行動が起こります。

何もかも逆

この体と呼ばれる幻は他の幻を認識できるような錯覚が起こるので「この体がある」という思考という幻が起こります。次に「この体を守ろう」という幻の思考が起こり、、「この体には私が居る」という幻の思考が起こります。すると「違和感」という感情が起こり、、この「違和感」解消のために次の幻である「思考」が起こるのです。これが死ぬまで起こります。

見抜く

この動きを見抜くという動きが起こりますと、、この体という幻想、イメージを「私」とする動きが止まります。「私」を守るためのあらゆる思考の動きが止まります。「私」が居て「あなた」がいて「外部環境」があるという勘違いの思考が起こらなくなっていくのです。これが悟りです、そして真実ベースの思考が時おり起こるのみです。

勘違いの終わり

悟りとは「勘違いの動きが止まる」ことです。私が勘違いをするんではありませんよ、私が居るという勘違いの動きが止まるのです。そして私は何かをしなくてはならない、、という違和感解消の動きも止まります。私も、違和感も、違和感解消の動きも起こらない、、これが悟りです。その時真の安らぎ、真の平和、真の愛が現れます。「私」に現れるのではありません、ただ現れるのです。

神は何を望むのか???

何も望んではいない

神は何を望みこの世界を誕生させたのか?????何も望んではいません。神が何かを望むということは神には何かが足りないというとになりますは神は最初から全知全能です、、、全てを知っているのですから今から何かを知る必要はないのです。何かを知るためにこの世界を作ったとしたら神は全知全能ではなくなってしまいます。そして神が何かを手に入れるためにこの世界を作ったのならば、、神は全能でもないくなってしまうのです。

無限の存在

神は無限の存在であり最初から無限です、、、この世界は無限の存在の神が、、自身が無限であることを鏡に写った自身ん姿を見て、、、認識します。空は無限であることを自覚しない存在であり、、神とは空の一部であって無限であることを自覚する無限の存在です。無限であることを自覚するのですから、、最初から無限なのです。ですから我々が今見る世界とは無限の現れです。

常に新しいが

今目の前に広がる世界は完全にフレッシュであり、、これからもそうです。そこで起こる体験は完全にフレッシュであり、、これからもそうです。新しい体験をするためにこの世界はあるのか????いやいや神は最初から無限の存在であり神が知らない世界はありません。そうではなく無限の表れの再確認です。神を鏡に写すとそうなるということです。

求める

悟り、お金、地位、名誉

人間は求めます、、求め続けます、悟り、覚醒、目覚め、お金、地位、名誉、結婚、パートナー、家族、マイホーム、マイカー、学歴、、、、、、求めるのが人間の性です。この求める何かは全部「家に帰りたいという衝動の代替物」です。だから求めていいのです。そしてこの個人が何かを求め続ける限り、、家には帰れません。そこに気づきます。個人をやっているから「苦しくて」家に帰りたくなるのです。

何もしていない

個人とはとんでもない代物で、実は何もしていないのです。自動反応、自動反射で全思考、全行動、全感情がただ起きては消えているのですが、、、この全てを自分がやっているという思考が起こりそれが定着したのが自我です。ですから自我とは裸の王様、、何もしていないにも関わらず全部やっていると勘違いする存在「自我」です。この存在の登場によって「違和感」が常に起こり、、この「違和感」を消し去るための思考感情行動こそが「求める」という動きです。

達成

「自我」はあらゆるものを違和感解消のために手に入れ、達成していきます。物、地位、名誉、お金、称賛などなど。ところがこれによって、、、自信をつけていきます。。自我という存在に尾びれ背びれが付いていき、、大きく大きく成長します(錯覚として)これによって益々違和感が大きくなり得なくてはいけない対象(代替品)が大きくなっていくのです。ギャンブル中毒者が、、、少しの勝利では満足しなくなる、、アル中が少しのお酒では満足しなくなる、、全く同じ現象です。

気づく

全く満足できないどころか対象が徐々に徐々に大きくなっていくことから、、もうこの先には満足がおき得ない、、という気づきが突然起こります。このまま満足に向かって歩いても満足は起きない、、、という気づきです。そこで照準を悟りに向けるのです。悟りとは自我の終焉です、自我の実態を暴き自我に執着できなくなる流れです。自我とは実は何もしておらず、、そのことを暴くのです。

完璧の勘違い

自ら

この世界をもしも自分が作っていると想像してみましょう。太陽、雲、空、ビル、マンション、車、、、、、もしももしも自分が作っていると思ったらとんでもないことです。太陽が出てると思ったら月だった、、、車に乗っていると思ったら、、自転車だった、、、雲がでていると思ったら生物だった、、、が起こらない。。生まれてこの方とんでも現象が全くないのです。これを退屈と捉えるか完璧と捉えるかです。

実際

実際のところ我々の本質は空『不変の自己』です。つまりここから全現象が起こっています、、この現象にはとんでも現象が起きないのです、なぜ??????完璧だからです。そのことに皆気づいていません。毎日毎日完璧な太陽が昇っていることに気づいていない。温暖化と言って大騒ぎする前に、、、毎日毎日地球が自転してういることに気づきましょう。それだけでとんでもないことです。

この私

この体の中の私だけが「ジャッジ、審判、判断」を下し、、この環境に優劣良否成否をつけます。この私にとってどうかを考えるのは、、この自我エゴだけです。これだけがこの完璧な環境に文句をつけて、、、不機嫌になります。この私とは完全に不幸依存症でしょう、、不幸の種を探し回る不幸依存症です。そこに気づきます、、実は何にもしていない自我がジャッジをつけて、、文句を言い続けているのです。