思考=欲望

思考とは欲望

思考とは欲望です。思考はあるけど欲望はない???それはないんです。なぜならば思考とは自我から生み出される産物だからです。自我というプログラム、「I」というプログラムから派生されるプログラムこそが思考です。では自我とは何か???自我とはPCの「電源ON」という感覚、「幸福」という感覚を所有し、、さらに体も所有るのという誤ったプログラムです。PC ではないにも関わらず、、電源ONという感覚、幸福を所有することは絶対にできないのです。にも関わらず、、私が電源ONという感覚、幸福という感覚を所有するのだという誤ったプログラムを作り出したのです。

だから

この幸福所有者「私」はなんとしても幸福になりたいのです。これが欲求です。そのために世界に対象物を次々に生み出し、、、それを食うという活動をします。何かを得た瞬間、、、自我OS活動、自我渇望活動が一旦休止するため、、幸福(PC )がこのディスプレイに、、波及するのです。ですがPCの存在に気づかない自我は、、、次々に新たな獲物を獲得しようと動くのです。これが欲望のメカニズムです。真我はPCは思考しません、思考するのは自我プログラム、無知プログラムだけです。

真我探究

真我探究、PC探究が始まると、、、欲望が燃えていきます。思考が燃えていきます。真我、PCの存在が全く知られていない活動こそが自我活動、自我OS活動ですから、、、真我、PC本体の存在に目覚めた時点でこの思考は消えるのです。そして真我探究、ヴィチャーラを続けることで、、、思考、想念、欲望を根絶していくのです。自我OS活動というウイルス活動を根絶やしにしていきます。

全思考

誰???

全思考は誰のものでしょうか???全思考は紛れもなく「私」のものでしょう。。。もしも朝起きて「私」が現れなかったら、、、思考も湧かないはずです。目覚めて自分という感覚が起こらなかったら、、思考も湧かないはずです。ですから思考は紛れもなく「私のもの」です。つまり思考は私の付属品です。私の延長です。では私とは何ですか???私とは真我と体を同一視することから生まれる「観念」です。もしくは真我と体を媒介するプログラムです。つまりこの私とは完全に存在し得ない存在です。根底に矛盾を抱えた存在です。だからそこから現れる思考の全ては勘違いが支えます。間違っているのです。

世界

世界がいつも問題を抱えるのは、、根底がミスだからです。根底にミスを抱えるから、、世界もいつも問題を抱えています。全思考は勘違いの土台の上に構築されたプログラムです。だから世界はいつも問題だらけなのです。アダムとイブが禁断の果実を食べた???そうです、、、禁断の果実とは「私」のことです。私は矛盾であり、、ゆえに思考も世界も矛盾です。食べても食べても幸福にならないのは、、、矛盾だからです。

世界を食べる

ジニャーニは真実に触れて世界を食べてしまいます。世界を丸ごと食べ尽くします。私はこのリアルな世界のリアルな体という妄想から抜け出して、、この世界の背景に戻ります。世界はこの背景から飛び出した幻想に過ぎないことを見抜き、、世界を私の子供にしてしまうのです。心はこの事実を理解できません。なぜならば心自体が自我の産物だからです。自我の産物である心が、、、自我の根底を否定した内容を理解できるはずがないのです。つまり真実は心で理解できません。真実は心で理解するのではなく、、真実によって心を破壊するのです。

創造

創造とは

創造とは全く新しいもの、今まで存在しなかったものが生み出されることです。そして今宇宙は常に常に新たに創造されていると考えられています。ですが、、、これ妄想です。実際には何一つ創造などされません。なぜ????なぜならば全ては心が生み出す幻影だからです。創造主がまさかの心です。心が創造????つまり心=世界なのです。心の中の側面に過ぎないのです。つまり既に「知っている」ことです。

いやいや

そんなことないですよ!!!今のトランプ政権、AI時代、何もかもが予想外ですよ!!!!違います、それ、、知っていることの組み合わせです。知っていることが掛け算的に組み合わさって、、自称『新しい』になっているだけです。だから残念ながら全部「知っている」ことです。どこまで行っても世界は=心の一部なのです。だからあなたの人生もどう転がろうとも所詮は「知っている人生」です。これが分かると笑ってしまいます。

地獄

そんなこと言ったら夢も希望もないですよ!!!!何が面白くて人生やるんですか?????全部知っていることなら退屈極まりないですよね????そうです、、、そうなんです、、、何もかも手に入れた成功者は好奇心旺盛で人生最高!!!!って叫んでると思います?????いえいえ、、思った通りだった、、、、です。だから最後に分かるとことは、、、やっぱり!!!!です。何もかも得てみて感じることは「やっぱり」です。だって心が全部作ってるんですから。

では、、、、

最終回答に移ります。世界は所詮は心の一部です。いかにそれを早く悟かです。だから世界の中に幸福はないのです。心が今不幸だからと言って心が生み出した世界の中に幸福があるわけがないのは分かりますか????心の不幸を心の一部(世界)が満たすとでも言いますか???あり得ないことです。今心が満ちていないのだから心が生み出す世界がそれを満たせるわけがないのです。それをいかに早く悟るかです。ないんです、そこに幸福は。世界はあなた「心」を満たせるようにはなっていないのです。

既知(心)しか起こらない

ビックリ

今の時代は半端ないスピードで何も分からないことだらけですよ!!!!AI、ディープラーニング????ついてけるわけないですよ!!!!!!違うんです、、それ全部心が生み出しています。心です。だから知っていることが起こっているんです。例えば、、、宇宙人ってこんな格好で、こんな会話でこんな雰囲気で、、、て教わった時にそれが現れます。幽霊ってこんな場所にあんな姿で、、この時間帯にって教わると現れるのです。それが前世から記憶された知識としてここに今現れるのです。

つまり、、、、

知っていることなんです。何もかも知っていることが現れてきます。だから本当の意味でビックリとかなくていいんです。どうせ知っていることですから。つまり、、、我々は世界を眺めて、、、へー世界ってこんななんだ!!!!って知識として得て、、それが記憶され、、それが世界としてさらに現象化します。心と世界は二人三脚で進むのです。世界って今後超温暖化時代になるらしいよ!!!と教わって記憶するから、、それが起こるのです。全ては、、心と世界の二人三脚です。決まった事実なんてないんです、だって全て心が生み出すのですから。

じゃあ

どうせ心が生み出す世界なら、、関心持たなくていいんでは!????大正解、、なぜ関心が持てるのですか???自身の心が反映された世界に何を未練が湧きます???何の期待をします????あり得ないでしょ。。つまり、、、「世界とは心である」以上、終わりです。そして心が生み出す世界は必ず二元世界です。つまり最初から苦しいことが決まっているんです。なぜそれにわざわざ関心を持つのですか???そっちじゃなくて、、、心が生み出す世界の根源(光)に関心を持ってください。心を通じて世界を生み出す真我(至福)に関心を持つべきです。だってそこは至福でしかない、愛でしかないのですから。

心が生み出す二元世界

断言しますが、、心が生み出す世界は二元世界でありよって苦しみがデフォルトです。これを実在と信じている期間は、、苦しみが当たり前です。残念ながら、、苦しみが消えることがないんです。そうではなく心を世界から真我にシフトします。心の向きを180度変えるのです。すると、、、、そこは太陽のように輝く光であり至福であり愛です。実は世界とは向きを変えてもらうための禁断の果実だったのです。食べても食べても苦しい禁断の果実が「実在世界」です。

無知プログラム

自我プログラム

この世界は自我が生み出すプログラムです。自我によってアウトプットされるプログラムです。そしてこの自我プログラム(心)が生み出す世界を見るのは真我であるPCです。PCが当たり前ですが自我プログラムによって生み出された世界を見ます。ですがその大元の自我はそのことを受け入れるわけにはいきません。なぜならば、、我こそがこの世界の鑑賞者であるというプログラムだからです。体の中に入ってこの世界の全てを鑑賞するのが自我というプログラムになっているのです。つまりPC の存在を完全に無視したプログラムが書かれているのです。つまり自我プログラム=世界とは無知プログラムです。

では、、、、

自我プログラムとはPCの存在を無視できている時のみ稼働するプログラムです。ですがこのPCはどこかで発見されます。当たり前ですね、、ずっとここにあって存在しているのですから。どこにも隠れもしていないのですから、当然です。ですから、、、自我プログラムはどこかで無知プログラムとバレ、、そして無知が叡智に切り替わった瞬間、、、無知プログラム、自我プログラムは崩壊します。つまり世界も崩壊します。実在と思っていた世界が崩壊し、、真実の本性がここに現れるのです。蛇だと勘違いしていたら、、ロープだった、、という話です。蛇が消えてロープが出現します。

リアルだと思っていた現実がゲームだった、、、

グーグルグラスを朝からかけていて、、、完全にこれを現実と信じていた、子供が、、、、グラスを取った瞬間、、、なんだこれゲームじゃん、、、となります。「これ」を現実と思い込んでいたマリオが、、なんだこれゲームやん、、となるのです。現実が消え去って、、ゲームに変わります。世界が消え去って真我の影に変わるのです。ジニャーニとは、、、この現実世界を現実世界とは見ることができません。この現実世界は真我とは何も分離しない真我の影だと分かっています。自我プログラムとはこれを現実と勘違いしている期間のプログラムです。

電源

入ってる???

今現在、これがPCだと思ってみてださい、見える世界がモニター画面です。今、、はっきりと、、電源が入っている感覚がありますか???もしもこのブログを呼んでいるならば、、確実に電源ONの感覚はありますよね???電源OFFという感覚はありますか???もしもあるとしたらそれは電源ONの中以外にありえないことです。ですから確実に電源ONの感覚は揺るぎないはずです。これが「在る」「生」「意識」という感覚のことです。この絶対的電源ONの感覚が在るのだから、、真我は既に存在するのです。私というプログラムは、、この電源ONの感覚を所有しかつこの体の中に住まうという意味不明の存在です。

電源OFF

では、、この電源ONの感覚を電源OFFに今ここで切り替えてください。。。できますか????できませんね。。。なぜならば、、真我がここに在る時に自動的に現れてしまうのが電源ONの感覚だからです。努力して電源ONにしているならば努力を辞めれば電源はOFFになります。ですがこれは努力では全くありません、故に常に常に何の努力もしなくても電源ONのままなのです。真我が真我であることに努力が必要ないからこそ、、、電源ONに努力が必要ないのです。

困った

私というプログラム、自我というプログラムは、、PCの存在がすっかりと忘れ去られている時のみ存在できるプログラムです。なぜならばこの電源ONの感覚の所有者こそ「自我」ということになっていたのですから。だから「私は生きている」と言います。なぜ生きていると言い切れるの???なぜならばこの電源オンの感覚は私のもので、、、そして体もしっかり存在してんじゃん!!!だからです。違うんです。最初にPC の電源オンの感覚があってその後に、、自我というプログラムが発動して奪ったのです。

まずい

この電源ONの感覚が自我ではなくPCのものであるとはっきりと自覚されてしまった時、、、この私も世界も、、、まさかのモニター上の画像に過ぎないことがバレてしまいます。PCにとってはこの世界は紛れもなく画像です、この体も画像です。。。だから私は、、電源ONの所有者でもないし幸福(PC)の所有者でもなかった、、、となるのです。

これまで

これまで不幸だったのは、、PC (至福=電源ON)の存在をすっかりと忘れ、、画面上の私が(至福=電源オン)の所有者であると勘違いしていたからなのです。私が揺るぎないリアルな存在だから世界も揺るぎないリアルな存在であり、、だからこの私を世界から守らなくては!!!!と緊張感バリバリで生きていたのです。

解脱

その前に

解脱とは何でしょうか???解脱とは、、サンサーラ、輪廻転生からの離脱です。ではサンサーラとは何か????実在するこの世界の中を自我が、、何度も生まれ変わることです。では実在とは何か????絶対に消えてなくならない永遠の存在です。???????え????つまり実在する世界、、実在する自我、、というのはこの時点で嘘だということになります。我々が眠りの状態、熟睡の状態の時、、世界も私も存在しないのですから。

つまり

サンサーラの大前提である実在する世界、、というこの前提が今ぶっ壊れてしまいました。最初から実在する世界など存在せず、、よって実在する世界の中の輪廻転生という話も壊れます。すると解脱自体も実在しないということになります。世界は私の心であり、、この体も私の心が生み出します。ですから私の心が生み出したこの世界を私という心が生まれ変わるという心の活動が輪廻転生です。全て心の活動でしかありません。そして私という心はどこから生まれるの???という話ですが、、それは真我ということになります。

唯一無二

唯一無二の存在真我から私という心が生まれ、心が世界を生み出し、、その中をこの私が生まれ変わっていくという心の動きです。真我から見ればそれは実在しない心の動きでしかありません。そして心とは何か???心とは、、真我の影です。解脱とは、、真我の影である心の動きだったのです。この世界(心)から解脱した「私」という心の活動です。つまり、、全て心の活動です。真我の影の動きです。真の解脱とは、、全てが真我の影に過ぎないという自覚のことです。全てが真我の影に過ぎないという自覚は、、影も真我の一部だという自覚であり、、、実在する私など最初からいなかったというオチです。

蛇からロープへ

蛇に見えるロープ

夕方、、、道を歩いていると、、、蛇だ!!!!と驚きます。ビックリして腰を抜かした後、、、注意深く見てみたら「ロープ」だった、、、、これが幻想が実在に変わった瞬間です。蛇は幻想でありロープが実在です。最初、、実在としての蛇が出現します。次に、、蛇がロープだったという気づきが起こり、、蛇がロープに変わります。その瞬間蛇は消え去ってロープが出現します。蛇とロープは同時には絶対に出現しません。蛇は幻想に切り替わり、、、ロープが実在として出現するのです。二つが同時に現れることは絶対にないのです。なぜならば一つしか実在は存在しないのですから。

この世界

この世界が実在として君臨する時、真我は確実に隠れています。真我は忘れ去られていなくてはなりません。これはマストです。世界が実在として君臨するには真我という実在は発見されてはいけないのです。では、、、もしも真我が発見されたら世界はどうなるか????実在としての世界は消えてなくなり幻想になります。影です。真我が発見された瞬間、実在は真我のみになり、、世界は真我の影になります。真我が生み出す夢に変わるのです。実在としての世界、実在としての真我、、この二つは絶対に両立しません。

この私

この私が実在するためには真我が発見されてはいけません。真我が発見されてしまった瞬間この私は幻想になっってしまうからです。実在の私と実在の真我は絶対に両立しないのです。そして事実として真我のみが実在でありそれは今ここで発見されます。するとその瞬間、この世界もこの私も幻想、影になります。実在の座から退き、、影、幻想になるのです。そしてそれが事実です。世界が既に影であることが暴かれてしまった以上、、世界に君臨する私も当然影です。世界も影で私も影ならば全て影、蜃気楼です。

世界も私も

世界も私も真我の影って、、なんか強烈に虚しくないですか?????とんでもない、、真我が真我に気づいた瞬間、、至福そのものです。真我=至福であり、、虚無とは全くの正反対です。世界、私が実在と思う心こそが、、苦しみを生み出していたのですから。その苦しみが消え去るのです。実在としての世界、実在としての私が消え去った時、、実在の苦しみもまた消えるのです。影を影と自覚して苦しみなど起こりようがありません。影を実在と信じる動きが起こった時のみ苦しみは起こるのです。

現象は過去

過去の産物

世界は心が生み出します。心は私が生み出します。私が心を生み出し心が世界を生み出します。心とは知っていることです。知っていることが世界を生み出すのですから、、つまり世界とは過去です。何を言っているか分かりますか???心という知っていることが世界を生み出すのですから世界とは既に知っていることなのです。我々は知っていることを見て「世界」と呼んでいるのです。??????何それ???ですよね????

夢見

夢で考えれば至って簡単なことです。私の夢に、、あなたの友人が出ることはないのです。あなたの夢に私の友人が出ることもないのです。夢とは心が生み出すのですから登場人物とは知っている人の組み合わせです。完全なオリジナル登場人物は登場できないのです。それはこの現実と呼ばれる夢も同じこと、、、心の中で作り出した登場人物しか登場できません。だから神様が現れたって、、それは記憶の組み合わせです。宇宙人も記憶の組み合わせです。

では、、、、

我々は心が作り上げたこの世界で幸福になれることは絶対にありません。心が生み出した事物によって幸福を掴むことは不可能です。だって心は、、自我の産物、、自我とは、、不幸を作りだす原告です。原告が生み出す心でどうやって幸福になれるのですか???構造上不可能です。真の幸福は自我、心、心が生み出す世界が全焼して残ったものです。蛇と間違えられていたロープ、、蛇が全焼した時ロープが蘇ります。自我が生み出した世界が全焼した時、、、真我の影が蘇るのです。つまり真我が真我として蘇るのです。全てが真我になります。

vasanaの根絶

何度も現れるエゴ

真実に触れても全く理解できない動き、これがvasanaです。過去世から溜め込んできた癖です。右でお箸を持つ訓練をしてもどうしても左で食べてしまう。夜九時には寝ないと明日起きれないのに、、どうしても夜更かししてしまう、、これ癖です。この癖が真実を曇らせます。この癖が真実に目覚めようとする動きを防ぐのです。こうして、、なぜ私は真我実現できないのか???と悩むのです。それがvasanaです。だから真我実現できないと悩まないでください。ただvasanaがあるのだ、、と気づきvasanaを燃やして根絶していくのです。

興味が持てない

多くのケースにおいては真我実現に興味すら持てません。そんな難しい話私には理解不能、こうなります。そういう方にこそハタヨーガ、クンダリニーヨーガ、マントラ、瞑想、呼吸法(プラーナーヤーマ)などがあります。全ては二元ストーリー、相対的意識の中で、行われる行です。呼吸を制御し、心を制御する。集中力を高めて心を強くする、、、全ては、、、真我探究に向かうための準備体操です。心が強く強くなっていき、vasanaが弱まっていくと最終的に真我探究に心が向かいます。

真我探究を邪魔しないvasana

ジニャーナヨーガでは真我探究を邪魔するvasana、真我探究を邪魔しないvasanaの二種類があると教えます。真我探究をさせてくれない場合はあらゆるテクニックに頼るべきです。もしも真我探究をvasanaが邪魔しないのであれば、、、ただそこに向かうのみです。準備ができています。ただ楽しんで真我探究に向かうのです。恐れが消えていくことで現実はより穏やかになっていきます。道中の景色が輝いていきます。