AI が意識を持つ???

対象

世界にAI が存在するためには世界が最初に存在しなくてはなりません。そして世界が存在するために「私」が眠りの状態から覚めなくてはなりません。つまり世界、AI が存在するためには「私」が存在しなくてはならないのです。そして私はどこから生まれたかと言えば「絶対的意識=スマホ本体」から生まれでた想念、プログラムです。つまり私も世界もAI も絶対的意識に「依存した」現象に過ぎないということです。何かを所有できる「実在」はこの世界には存在できません。なぜならば世界自体が自我のプログラム構造内であり、、その土台こそがスマホであり「絶対的意識」だからです。

ですが、、、

この二元性の世界、、この相対的意識自体は、、私が生まれなければ、、生まれはしません。私抜きに目覚めるという状態がないのですから。という意味では「私」はこの相対的意識の生みの親でもあります。ですがそれに気づくのは全てスマホである絶対的意識ですからこの二元世界は絶対的意識の一側面と言えます。海に風が吹いて現れる波は海であり海の一側面です。波は幻であり、、この二元世界も幻です。絶対的存在「スマホ」の一側面です。

だから、、、

この事実の絶対的理解はスマホ内のディスプレイ映像への関心を無くしていきます。自身が世界の覇者であるスマホと気づき、、なぜスマホ内のエンタメに喜怒哀楽しなくてはならんないのでしょうか???大人がTV ゲームに熱中できなくなるのは、、それがファンタジーであることを知り尽くしているからです。子供はそこにリアリティを感じようが大人は既に無理です。真の大人はこの世界にもはやリアリティを感じません。だってスマホが本体であり自身であり、、ディスプレイ内の映像は、、電流の動きによって起こる現象に過ぎないと気づいているからです。「自我OS」が生み出すこの世界は何が起こっても自我OSの作品に過ぎず、、なぜそこに今から深刻になれるのか???という話です。

真の瞑想

自我OS

真の瞑想とは思考とは何かを探究し、真我として思考に気づくことです。頑張って頑張って思考を思考を使って静かにすることではありません。スマホ内のOSの起動中に、、頑張って動きを少なくしようとすることが瞑想ではなくOSとは何か???画像とは何か???に気づき、、いかにディスプレイ内の動きが激しかろうとも、、所詮はOSの動きに過ぎないと見切ることです。スマホ内をパカっと開けようが何も動いていないという事実に帰るのです。電流の動きによってOSというプログラムが動いているだけであってスマホ自体は何も動きません。そしてあなたはこのスマホであり真我です。

スマホを開けて

スマホをパカっと開けて、、中身を見ながら、、ディスプレイを眺めます。超激しいアクション映画が流れていようとも、、スマホ自体は何も動きがありません。このスマホが真のあなたです。そしてディスプレイに映し出される映像がこの世界、宇宙です。その激しい激しい動きの全てがこの思考であり感情であり世界です。何も本当は動いていないにも関わらずプログラム言語がこの激しい画像を生み出すように、、この世界も「私」というプログラムが私を取り巻くプログラムを構築し、、この世界をドカンと生み出します。それに気づいた時、、ここで大地震が起ころうとも、、静寂でいられます。なぜ????だって事実では何も起こっていないのですから。

そんなの空想だ、、、、

そんなの空想ですよね、、、だって証拠がないじゃないか!!!!!そうですか????あなたはあなた不在の世界に出会ったことがありますか???あなたはあなた不在の夢を見ますか????あなたはあなた不在の熟睡時に「世界」と遭遇できますか???絶対に絶対にないわけです。これを証拠と言わずして逆に何を証拠にすればいいのですか???つまりこの世界とは自我OSが生み出す世界です。自我OSがこの体を同一視すれば粗大な世界を生み出し、精神的体を選べば、、夢が現れます。どちらも自我の選択です。そしてこの動きは自然に勝手に起こってしまうのです。これが自我の自由意志の仕組みです。

サンスカーラ=ストレージ内データ

記憶

スマホの基本設定を開きますと、、ストレージという言葉が出てきます。スマホ内に貯め込める写真などはこのストレージ内になります。だからストレージが足りなくなると、、ストレージを買い足さなくてはならない、、、となります。このストレージ内のあらゆる記憶がサンスカーラ、、過去世などを通じて貯め込んだ記憶です。どんなサンスカーラが存在するかによって、、自我OSの動きが変わっていきます。生み出す世界と記憶は密接に繋がっているのです。

破壊

自我OSを破壊するためにはこのストレージ内の記憶を消さなくてはならず、、それは時間を要します。突然、、竜巻のように偽物の自分が吸い取られた、、というエックハルトトールの証言は、、このサンスカーラを含む自我OSの真我逆流だったと思われます。嘘の記憶は真実に目覚めた瞬間消えていきます。。。あの山には鬼が居て、、、という嘘を吹き込まれた上での山での経験は、、、それが嘘と分かった瞬間消えていきます。

つまり

どんな嘘を記憶してるのか??など考えるだけ無駄です。。。ただ、、鬼が居ないという真実の言葉に目覚めればいいのです。真実が全ての嘘を木っ端微塵に吹き飛ばすのですから。実を言えば、、どんな記憶が残っているかなど、、誰にも分からないのです。今スマホの写真データを見てください、、絶対に忘れていた写真が出てくるはずです。。。つまり記憶を掘り起こすのではなく(前世療法)、、、真実に記憶を消させるのです。ジニャーナヨーガは現代でこそ生きる教えです。

i phone

i os

アイフォンのOS名をご存知でしょうか???まさにi osです。そしてこの世界を生み出すOSも「自我」「私」「I」です。偶然の一致???世界は全てこの自我が生み出しているのですから、、これもヒントでしょう。もう自我が自我をバラしたくてウズウズしているのかもしれません。もう真我忘却ステージは十分でしょ、、そろそろ、、この仕組みに気づいちゃって、、真我とは何か???に目覚めちゃいましょう、、という話です。

無知な時間だけ

この世界を実在と信じるためには真実を知らないという大前提があるのです。それを教えちゃうのがジニャーナヨーガです。ところが、、、、あまりに日々の生活にてんてこ舞いな状態の時、、、そんなこと聞ける状態じゃない、、、これが多くの一般的意見です。そこで現れたのがこのゲームの中で楽になる方法です。それが呼吸法、マントラ、ハタヨガ、カルマヨーガ、などなどです。難しいことはいいからとにかく実践っしょ!!!です。

だがしかし

滅茶苦茶難解だったジニャーナヨーガも、、、スマホの仕組みを例にしちゃえば簡単すぎる、、つまりコンピューター言語を用いれば、、「そのまま」ということです。「わたし」というプログラムをベースにOSを組み立ててしまえば「私物語が自動展開する」だけです。この世界は私のために作られたのですから当然です。ということで今も「あなた」は「あなたOS」によって作られたあなたの世界であなたをやっていますよね???そのOSの土台『スマホ』があなたであり電源があなたであり電流が高次の力です。

全ての動きは自我OS活動

真我

真我は動きません、真我は不変です。スマホは動きません、スマホは不変です。スマホをパカっと開けて中を見てください、、何一つ動きはありません。ところがディスプレイを見れば、、、千差万別、多様な動きがディスプレイ内では起こります。だから人間は一日何時間もスマホを見ます。ですがスマホは中身のパーツも含め何一つ動きがないのです。ではなぜディスプレイ内は動くのか???それはOSの動きです。OSが動きディスプレイにあらゆる画像を作るのです。

全て同じ

この世界を生み出す真我も何一つ動きません。動きは全て内部のOS の動きです。そのOSは自我OSです。自我が存在しなければこのOSは動きません。その自我も当然実在しません、これは言語、プログラムです。この自我というプログラムに「電流」(高次の力)が流れた時のみ動きが現れ、、ディスプレイ(世界)が立ち現れるのです。この自我は、、この体を同一視し、、それ前提の世界をここに現します。ですが真我(スマホ)は何も動かずにただこの動きに「気づく」のです。

在る

在るという揺るぎない感覚があります。これが真我、スマホの「在る」です。この「在る」を自我(プログラム)は同一視してそれを体とも同一視し、、体が「在る」という感覚を生み出す、、その私、、、というプログラムを作ったのです。これを前提にあらゆる思考(プログラム)を構築しこの世界を今もなお生み出すのです。「在る」のだから「私」が「在る」のであってならばこの体が私に違いない、、という究極の逆算をしてやったわけです。これが自我のベースです。その自我からあらゆるプログラム(思考)が形成されてこの世界が今ここにドカンと鎮座します。ですが、、そうは言っても結局これに気づくのは真我でありスマホです。

つまり

自我はいかに活動を起こそうとも、、スマホ(真我)の中から出ることもできず、、真我(電源)なしには活動すらできないわけです。「在る」の所有者「自我」は実は「在る」から電流を頂いて生きているというお粗末な詐欺師です。スマホ内に現れた「私」というプログラムがこのディスプレイを見ているのだ、、というお粗末な勘違いです。私というプログラムはこの世界形成になくてはならないわけですが、、それに気づくのは「スマホ」「真我」であって、、完全に嘘なのです。ディスプレイ内の存在がディスプレイに気づくのは構造上不可能という当たり前の事実の前に消し去る運命にあるのが自我です。

スマホ

なぜ????

あなたの世界でスマホやグーグルグラス、A I が登場しているのならば、、それは確実に真我実現のヒントとして立ち現れています。全ての現象は自我OSによって生み出されるのですから、、自我OSの許可なく何一つ現象化は不可能です。つまり真我実現のための多大なヒントはまさかの自我OSから起こっているのです。なぜ???自我がなぜ自我の嘘を暴くようなヒントをこの世界に生み出すの????なぜって「自我」は暴かれるために登場するのですから。。。当たり前です。

自我

自我というプログラムが発生しないとしてどうやってあなたは自身の存在がこのスマホと気づくのですか????スマホがスマホの存在に気づくためには先ずはスマホではない「アプリ」などを「この存在」と勘違いする必要がどうしたってあるのです。そう勘違いしなくてはこの「存在」が何かの明確な探究が起こり得ないわけです。ディスプレイに現れたこの体を先ずは「存在」「幸福」と勘違いすることでこのディスプレイ上の世界の中を彷徨います。

そして

この世界、ディスプレイ内の、、、、中では一切一切、、、、満たされないことが分かった時、、、自我OSが、、、世界ではなくその源探索に動くのです。これがローカヴィチャーラからアートマヴィチャーラへのシフトです。現代がたまたま真我実現に向くのではありません。あなたの自我OSこそがそのヒントを世界に生み出し、、気づきのチャンスを与えているのです。スマホ(真我)の自我OSがスマホ発見に乗り出しているのです。

私は真我だ

真我から???

「私は神だ」「私はブラフマンだ」「私は真我だ」と真我はいうでしょうか???絶対に絶対に言わないわけです。真我とは不動です。私は真我だと曰う真我は不動ではないわけです。ですからその真我は間違いなく思考の動き、自我OSの動きです。その私とはつまり自我です。真我の他に「私は真我だと曰う存在」の二者が登場しました。。。はて???困ったことに。。。。ということで、、私は真我だという、、感覚は、、、嘘です。そこを注意してください。

では真の真我は???

真の真我は何を言うのか????何も言いません、、、ただ至福で在るだけです。ただ気づきであるだけです。その時他人に伝えるべき内容もないわけです。なぜならば全てが真我だからです。真我以外が存在しないのです。スマホの中のディスプレイの動きが全て真我の動きであるように、、何もかもが真我を土台にした真我の動きです。その動きの中で「私は真我だ」という自我の動きが起こります。そしてそのことに真我として気づくのです。絶対的意識=気づき=真我=スマホです。

スマホの中の動き

スマホの中の動きは自我OSによって起動されます。「私」という自我が立ち現れ、、、「存在」というスマホの感覚を同一視します、これもプログラムの動きです。そのまま体が立ち現れ、それとも同一視します。これが自我OSの動きとして起こるのです。ですが既に「私」はスマホであってその中に現れる動きではいことは明白です。ゆえに自我OSの中に現れる思考は全て嘘です。そして嘘をベースにしたこの世界も、、、嘘をベースにした世界に過ぎず、、それは映像の域を出ません。この3D映像世界(ディスプレイ)の中以外で、、この嘘を曰う存在は存在できないのです。なぜならばこの世界(ディスプレイ)内だけが自我OSのホームだからです。

ローカヴィチャーラ(世界探究)

真我探究(アートマヴィチャーラ)

あなたの世界の登場人物の99%は世界探究者でしょう。ローカヴィチャーラ、、、世界を探究し、私の幸福を求めていきます。YOUTUBEを見れば、、政治、経済、スポーツ、エンタメ、、、なんでもござれです。その目的は「私の幸福」です。世界の中でいかに私は幸福になるか、、、ローカヴィチャーラを実践します。ですがこれでは絶対に絶対に幸福になれないのです。なぜか????世界とは自我OS(固定観念)によって映し出された映像世界に過ぎないのですから。。世界を探究する(自我OS=心)こそが新しい世界を創造するに過ぎません。

だから

だからあなたは世界の中で幸福にはなれません。世界の中心に「私」というプログラムが最初にあってそこから派生するプログラムこそが世界です。世界の中心で愛を叫ぼうがなんだろうが、、最初からそうなんです。世界を支えているのがまさかの「自分=無知」です。つまり世界自体が無知で形成されています。その中でなぜ幸福になれるのでしょうか???

つまり

我々は最初からスマホ(至福)であってそこから逃れることは絶対にありません。ですが自我というプログラムが作りだす世界(ディスプレイの中)の体を同一視し、、、この体を通じて幸福になろうとするわけですが、、この世界はスマホの中の映像に過ぎず、、そこには幸福がないのです。スマホはスマホであって、、映像はその一部に過ぎず、さらに体も微細部の映像です。この体の中に幸福(スマホ本体)があると勘違いして自我OSによって粗大な世界を生み出し幸福を探すというトンチンカンな行為が(カルマ)と呼ばれるわけです。

トンチンカンな行動

我々がやるべきことはトンチンカンな行動を辞めてしまい、、私とは誰か????を追求する、、、それだけでいいのです。スマホで在る我々は最初から幸福であり何も必要としないのです。たまたま自我というプログラムが立ち上がり、、OSを生み出し世界を作ったのです。この自我OS世界自体は、、、なくてはならない代物なんですが、、その誕生理由は同時に不幸を生み出すのです。だからもうこの仕組みに気づいて、、スマホ(真我)である自覚を誕生させましょう。。スマホは画像によって幸福にしてもらう必要が全くないのです。画像にはそんな力はありません。スマホ(真我)は何一つ与えられなくても最初から至福なのですから。

自我OSの休止=眠り

眠っても駄目

眠っている最中に真実に目覚め、、真我実現に!!!そうはなりません。なぜならば眠りとは自我OSの破壊ではなく休止だからです。自我OSは休止し、、目覚めと共に現れ世界を映し出します。我々が求めているのは自我OSの破壊であって休止ではありません。その破壊のためにあらゆる方法が存在するわけです。では自我OSとは何なのか???それは実在しない言葉(プログラム)です。言葉は探しても見つかりません、つまりこれは実在しないのです。この実在しない言葉(プログラム)を破壊しない限り、、、真の真我実現には至らないということです。

私とは何か????

自我OSを破壊する最高の言葉(プログラム)が「私とは何か???」です。これが最大であり最高のマントラ(音)です。私とは何か???と思考して見てください、、私とは世界でもなく、体でもなく、、感覚でもなく、、、五感でもなく、、思考でもなく、、自我OSでもなく、、、全てに気づく気づき=スマホです。この気づきによって「体=私」というプログラム、そしてそれを取り巻くプログラムが解体していきます。自我OSの解体作業です。解体されていく自我OSによって画面上に映し出される世界もまた変わっていくのは当たり前のことです。

世界を探究するのではなく

これまで我々はこの世界を探究してきました(ローカヴィチャーラ)、、、ですが世界を探究してもそれは自我OSが作り出し映像に過ぎず、、そこを探究しても現れるのは新たな画像に過ぎません。そうではなく世界とは何か???心とは何か???何が源なのか????という真我(スマホ)に関心を向けなくてはならないのです。(アートマヴィチャーラ)。関心が世界から真我に移った時、、、もう画面の中で彷徨い歩くことは終わります。世界は自我OSの作品に過ぎず、作品の中には幸福は存在しないのです。私(スマホ)こそが幸福であって、、、なぜ画像の中にそれを探さなくてはならないのでしょうか???

スマホ

自我OS

自我という存在なくしてOS(心)は存在せず、、よって自我は心(OS)の根幹です。その心(OS)が生み出す映像がスマホのディスプレイに映ります。スマホの電源は(真我)であり、それは「存在」であり「愛」であり至福です。映像には時間も空間もあらゆる現象が起こります。ですがそれらは自我OS(心)がなくては一切起こることがない幻想です。そしてその動きの元には(電源)が必要であり高次の力(電流)なくして動きもしません。だから自由意志という感覚が自我OS(心)によって起ころうともそれは高次の力(電流)以外の何ものでもないのです。

あなたは今生きていますか???

生きているという感覚は存在(スマホ)において起こります。この感覚は思考では在りません。存在しているという感覚を思考で否定できないのです。いや、俺は生きていないかも????という思考が起こることに気づかなければ、、その思うことすら不可能なのです。ですから我々は確実にこのスマホ(存在)であり、、、画面の中で主体客体の物語をやっていようともそれはこの存在の感覚に支えられたに過ぎないのです。思考はあらゆる多様性をもちますが、、その多様性は自我OSに支えられるため、、、思考で悟ることは不可能なのです。

自我 OSの停止

真の静寂とは、、思考とは何か???に気づくことです。思考とは何か????これは自我OS(心)の起動のことであり、、、この自我OSはスマホ(基盤)という存在から湧いて出てきたものです。OSがアップデートしようがダウンデートしようがスマホには全く関係がないように、、OSとは固定観念のように、、この世界を動かす土台です。このディスプレイ上で何が起ころうとも、、スマホ(存在)は微動だにしません。動くの自我OSに支えられたものだけです、それがこの目覚めの状態、夢見の状態のことです。

世界(ディスプレイの映像)にまだ関心あるの???

この仕組みが分かって、、まだディスプレイの動きに関心がありますか???心と心の織りなす世界にまだ関心が湧くのですか???自我OSが生み出す世界にまだ関心あります????自我自体が、、このディスプレイ上の体を(真我=スマホ)と勘違させる代物(私)ですよ。その私を土台にした、、この世界(ディスプレイ映像)は全て嘘です。この体はディスプレイ上の立体映像に過ぎず、、五感もこのディスプレイ上の現れに過ぎず、、存在というこの感覚はスマホのものです。生きている(電源=スマホ)もディスプレイ上のものではありません。