光を超えた光

真の光

光があって闇があります。光が当たる時その闇は消えます。光が消えた時に再び闇が現れます。つまり光と闇は同時に両立しません。光と闇の二つが同時に現れることはできません。では、、、光に気づく「光」、闇に気づく「光」の存在はどうでしょうか???この光があるから光は気づかれ、、、闇も気づかれます。真の光の中で双対の光と闇は存在できるのです。我々とはこの真の光のことです。

真の知識

知識がある時、無知は消えます。無知が現れる時、知識は消えます。知識と無知は同時に現れることはできません。ですがその両者を知っている真の知識はどうでしょうか???真の知識なくしてその両者は存在できないわけです。そして我々はその真の知識です。「光と闇」「知識と無知」が現れることができるのは「心」の中だけであり、、、その「心」を超えた光、知識が、、、、心の中のこれらの動きに気づくのです。

真我

真我が最初にあって真我しか存在しません。真我の影がこの真我の中に立ち現れ、、、、自我が現れ、、、心が現れて世界が誕生しました。事実では何一つ分離はないことから、、、世界とは分離が絶対にない存在なのです。双対の世界、二局の世界、二元の世界、、、というのは完全に存在不可能です。その存在不可能なこの世界が出現できたのは、、「心」のお陰以外にありません。そう思う心が出現しただけです。つまりそんな世界は実在しようがないのです。

心ー世界

一切の分離がない真我の中にこの世界が誕生し、心も存在します。分離が一切ないのですから「世界と心」は完全に一つです。そして「自我と心」という分離も確実にないのですから自我=心であり、自我=心=世界なのです。そして最後に真我と自我という分離もあり得ないのですから真我の中に「自我=心=世界」は含まれます。はい、、こうして今、自我は真我に取り込まれ、心も真我に取り込まれ、世界も真我に取り込まれました。

自我と真我の同一化

全てに気づく自我????

まず最初に真我だけがあります。ですからこの幻想世界の気づきは「真我」によって起こります。真我以外に気づきは起こるわけがありません。その上で自我という閃光が真我から湧き上がります。その瞬間、自我が真我の「気づき」と同一化します。そして思考が現れ、、、体が現れ、、その体と自我は同一化します。これがこの世界の成り立ちです。真我の気づきは自我の中に取り込まれ、、真我自体は忘れられた状態です。世界は現れてはいますが、、真我自体が忘れられています。世界という実在だけが存在するといういう勘違いの思考が残るのです。この勘違いの思考、心が世界を映し出し、、それ前提の世界が維持されるのです。

真我はどこに行った????

結論から言えば真我は微動だにせずに在ります。ですが真我が完全に忘れられた状態で自我が体と同一化、心と同一化し、、それ前提の世界を映し出すのです。その世界をこの世と言います。ニルバーナ、、天国とは、、この世とは全く異なった場所に天国が存在するのではなく、、、、この世しか存在しないという思い込みを打破することで真我とその影である世界があるのだという自覚の問題なのです。

真実

真実ではこの世と呼ばれるような実在は存在しません。全て自我の心が映し出す世界に過ぎません。真我は発見された時、、、自我の前提条件が壊れます。自我は実は何も気付いていなかったというオチです。気づきは唯一の実在「真我」のものであり、、その真我は絶対にこの影の世界には存在しないのです。こうして真我の気づきを失った自我は、、、この体を自我と同一化しようとも、、意味をなしません。真我は絶対であり普遍であり永遠です。その真我の気づきが真我に戻された時、、、我々は真我として在ることが可能になるのです。

そして

そしてこの世界にはかつての自我が存在せず、、ただ客体だけが残るのです。真の主体は真我であり、、自我はもはや主体の機能を無くしています。天の王国の誕生です。この世の影響を常に受け続けてきた「私」から、、、何が起こっても全く影響を受けることができない私「真我」へのシフトチェンジです。世界は「私」の影に過ぎず、、影はいかようにも変化しようとも、、影は影です。

自我自体が不確かなものだから

絶対を探し求める

もしも自我が実在(永遠)する存在ならば自我は体と同一化する必要がありません。自我は心と同一化する必要がありません。絶対的実在はそれそのもので十二分に完成されているのですから何かに依存する必要が最初からないのです。自我は立ち現れた瞬間この体と同一化を図るわけですがその動き自体が自我が実在しない非実在であることの絶対的証拠なのです。自我は体と同一化し、心と同一化し、、、と絶対的存在と思える存在に依存していくのです。

そして

絶対であることをより盤石にするために、、、良い学校を出て、良い会社に入り、良いパートナーを得て、良い家族を作り、、良いコミュニティを形成し、、、と絶対的存在の盤石化に傾倒していくのです。ですがこの行為の根本原因が自我が実在ではないからです。自我が幻想に過ぎない、自我が蜃気楼に過ぎない、、確固たる証拠なのです。

SNS

SNS とは何でしょうか???ネット上の繋がりです。なぜ繋がりたがるの?????なぜならば非実在の自我は、、、実在に見える他人と繋がっていくことで存在を確かなものにしていきたいからです。孤独=地獄なわけです。ですが自我が実在する絶対的存在ならばなぜ他人との繋がりを求めるのか???という話です。インターネットの普及で自我は何をしたのか????多くの他人と繋がって自我が実在しているという錯覚を持ちたいわけです。その行為自体が実在とかけ離れていることに気づかずに。

さてと

多くの友人、多くの財産、多くのコミュニティーを得たにも関わらず全く心が穏やかにならない自我は、、何かがおかしい、、と気づき始めます。全く友人がいなかった時も、、全てを手に入れたこの状況も、、、苦しいのが変わらない、、、あり得ない、、、となるのです。そして自我はその原因探求に入っていくのです。これが真我探求(ヴィチャーラ)です。

自由意志があろうとなかろうと

蜃気楼

自由意志の問題はノンデュアリティのジャンルでは常に話題の種です。ですが分かってきてしまうとそこってあんまりどうでもいいのです。なぜか????なぜならば、、自由意志が発動できるその現場は、、蜃気楼の世界の中での話だからです。眠りの状態では全消えしてしまう世界の中の話です。だから自由意志全開、、何だってできるという感覚の中で自由に動き回ってください。。そして眠りと共に全消えしてください。そして目覚め蜃気楼の世界と一緒に再び現れてください。

自我

自我は構造上絶対的確かなモノにぶら下りたがります。ところがもう全ては蜃気楼の世界だと分かってしまっていますから、、この体もこの心も、、何もかも蜃気楼です。自我の拠り所が一気に軟弱になってしまったわけです。拠り所うとも、、全ては現れては消える蜃気楼であることが明白になってしまいました。自我にとっては大問題です。何一つ実在に寄りかかることができない、、、となります。

ところが

唯一の実在が残されています。世界は蜃気楼に過ぎなかった、、だが、、、蜃気楼の依存先は実在に違いない、、となるのです。自我が蜃気楼の世界に見切りをつけて、、真我の探究に動くようになります。自我がガムシャラに真我を求めるのです。これまでの依存先は現れては消える蜃気楼であり、、喉の潤いを求めて砂漠を渡り歩く鳥のようでした。。どこまで行っても本当の水はなく、、いつも蜃気楼に騙されていた鳥です。ですがもう蜃気楼を蜃気楼と分かってそれを探し歩くのはできません。

唯一の実在を求め

自我が蜃気楼に見切りをつけて、、唯一無二の実在(真我)探求に入ります。これをヴィチャーラと呼びます。自我はベクトルを蜃気楼から実在に向かった瞬間です。その瞬間関心は全て真我に移りますから、、その心が真我のアバター(覚者、聖者、賢者)を生み出すのです。そして彼らの臨在、知識、叡智に触れていくのです。蜃気楼の中には幸福(実在)はないのです。蜃気楼の依存先、真我にのみ幸福は存在します。自我がそこに向かいます。

成功???

何???

成功とは何でしょうか???成功とは間違いなく、、個別の価値観によるものです。経済的成功、名誉的成功、安定的成功、、、成功は個人の数だけ存在します。ですが多くの場合その成功はこの外的世界においての、、何かであるはずです。外的世界においての個人の何かが成功に関わるはずです。ジニャーナ・ヨーガでは、、、それは全て無視します。なぜならばその成功の全ては自我に属すものだからです。自我に属す成功の全ては苦しみです。自我が生み出す成功は自我の中に含まれていてその全ては新たな苦しみを生み出すのです。

つまり

この世界がリアルであるという勘違いの中での成功は、、結果的に苦しみの外には出ることができません。私が存在するという実感の中での成功は苦しみの外には出れないのです。事実ではその成功はあなたの中に起こった出来事なのです。あなたの外側で起こったのではなく、あなたの内側で起こったに過ぎないのです。真の成功とはこの真実に目覚めることです。なぜあなたの内側で成功が起こったと証明できるのか????簡単です、、その成功の全ては「あなた=思考」には気づくことが本当はできないのですから。

スクリーン

スクリーン無くして映画は成立しません。ですが我々は映画に夢中になればスクリーンの存在を忘れます。この人生映画も全く同じです。自我が現れこの映画は始まります。ですがこの映画に気づくことができるのはスクリーン(真我)だけです。自我は映画の創造主でありますが、、これを鑑賞できるのはスクリーンである真我だけです。自我は立ち現れて気づかれる存在であって、、自我は自我に気づくことができないのです。だから自我の成功ストーリーも自我には気づくことができないのです。

このこと

このことが分かってきますと事実では何も起こっていないことが分かってきます。スクリーンには何も出来事が起こり得ないのです。自我の自作自演映画の中でだけ成功があります。ですがそれに気づくのは「真我」であって自我ではありません。この真実への気づきがない時のみ、、自我は、、次々に何かを成し遂げていくでしょう。ですが自我がいかに何かを成し遂げてもそれは虚像の世界での話であり、、事実では何も起こってはいないのです。

目覚めても眠りの中に在れ

幸福=眠り

熟睡中の表情を思い浮かべてください。熟睡中に苦悶の表情をする人を見たことがありますか???熟睡とは=至福なのです。だからこそ熟睡中は幸福なのです。では、、目覚めるとどうなるか???途端に苦しくなります。途端に孤独感、悲壮感、責任感、などが襲ってきます。つまり人間の苦しみとは目覚め、夢見前提ということになります。ならばなぜ目覚めるのか???という話ですが、、、それもvasanaの力で勝手に目覚め、勝手に夢見になるのです。

つまり

根本的な理屈としては、、、目覚めても眠りの状態で存在できればいいわけです。眠った状態で目覚めるとも言えます。?????????何をいうとんじゃ!!!!!という話ですよね・・・・。そうです。理解不能、意味不明です。ですが、、、それが出来るのです。出来る?????出来ます。ではその詳細を伝えましょう。。。朝目覚めた時、、、なぜ苦しいかと言えば、、、、実在の世界、実在の私が存在すると信じたからです。この世界もこの私も実在と信じたから苦しいわけです。あなたはなぜ戦争映画を超リラックスしながら観れるのですか????なぜならば映画の中身は実在しないことを知っているからです。

さあ答えが見えてきた

つまりはこういうことです。実在の世界、私が登場しない限り、、、、苦しみは起こり得ないということです。この映画が実在と思っているうちは絶対に苦しいわけです。ですが間違いなくこれが幻想である、蜃気楼であると実感できてしまった瞬間、苦しみは消えてなくなります。つまり熟睡の中で、、幻想がただ流れるのです。そして夢見の状態にシフトしても、、、ああ、、幻想が始まったと眠りの中で気づくのです。実在は何一つ登場しません。実在が何一つ登場せずに実在としてただ気づくのです。

さあ

あなたはこれで一日中眠りの状態です。目覚めても、、実在しない幻想が始まるだけです。実在しない世界、実在しない私の幻影ムービーが始まるのです。では本当にこの世界は実在しないのか????という問題が起こります。このブログでも何度も説明しています。眠りの状態で消えるこの世界は幻影以外にあり得ないのです。眠ったら消えてしまう世界は蜃気楼以外にあり得ないのです。だから目覚めて現れたとて、、、幻想、蜃気楼が再び登場したに決まっています。

一日中

一日中幻想、蜃気楼の中に居る気分はいかがですか????退屈ですか????それがそうじゃないんです。この幻想や蜃気楼はそう実感できた時、奇跡に見えます。右を見れば新しい世界が現れ、左を見れば新しい世界が現れます。見上げれば高層ビルがドカンと現れます。これのどこが退屈ですか????半端なく奇跡じゃないですか????これを実在と勘違いした状態が苦しみであり、、これを幻想と見抜けた状態が眠って目覚める状態です。

全ては完璧??

何が??

真我は実は完璧なんです。真我に問題など起こりようがありません。なぜか???真我は不動であって不変であってたった一つのエネルギーしか存在しないのですから。ですから問題を起こしたくても問題を起こせる構造ではないわけです。では我々の世界はどうか???と言えば問題だらけだ、、、と言いたくなるでしょう。人口爆発、気温上昇、合成麻薬フェンタニル、各地での戦争、、、、あげたらキリがない?????なんで????だって真我しか存在しなくてそれ以外の存在がないのならば問題はどこで起こるのですか???

そんな場所はない

世界中には無限の問題が存在するとしましょう、、あなたの中では間違いなくそうでしょう。。。では、、、その問題が起こる場所はどこですか????断言しますが真我以外には何も存在しないのです。そして真我は構造上問題は起こることができないのです。だとしたらですよ、、、、、問題があるというのが間違いだということが分かりますか?そうです、問題は存在したくても存在できないのです。未だかつて問題は起こったことがないのです、、、起こることができる場所が存在しないのですから。

蜃気楼

唯一問題が起こることができるとしたらですよ、、、、、蜃気楼しかあり得ません。蜃気楼上、、問題が大爆発したしかあり得ないのです。蜃気楼とは在ると100%感じるが実際には「ない」存在です。これしかあり得ないのです。蜃気楼では無限の問題が起こっていい、、なぜならば実際には存在しないのですから。。。これが真我の中に含まれている場合に限って、、、問題が絶対に起こり得ない真我に問題が起こることは可能になるのです。

つまり、、、

100%問題が在るように感じるのですね、、、、ならばそれはそういう蜃気楼の世界が100%存在したのです。100%存在しているように見えるが絶対に存在しない存在、蜃気楼が、、この世界として現れているのです。だから問題を感じることができているのです。つまり蜃気楼以外では何も問題は起こっていないというのが真実です。故に覚者は何が起こっても気にしない、、という言葉を発します。体にとっては大問題は続出しても、、真我にとっては存在しないのです。真我の自覚が芽生えた時、、全ての問題が蜃気楼の中の出来事であることが自覚されます。

世界平和

どうしたら???

世界はいつになったら平和が訪れるのか???この混沌とした世界に平和って訪れるのですかね???温暖化で地球は人間が住めない星にでもなるのでしょうか??全く全く分かりません。ですが唯一分かっていることがあります。それは、世界はあなたの心の中に存在するということです。このことだけは100%分かっているのです。ちょっとちょっと、、、心の中に大都会の高層ビルが収まるわけないじゃないですか!!!!六本木ヒルズが心の中にどう収まるのですか???この質問はあなたが世界の中に存在すると信じているから出るのです。

世界は夜消える

蜃気楼の定義を教えてください。蜃気楼とは「在る」と100%感じることができるが実際には「ない」存在そのことです。砂漠の「水」はまさにそれです。全員が「水」があるぞ!!!!と感じるにも関わらず、、実際にはないわけです。この世界も間違いなく100%在るように感じます。ですが実際には眠りの時間、、「ない」ではないですか!!!!眠った状態で「世界の実在」を証明して見せてください。。。そんなことお安い御用です。睡眠時に心拍数をスマホでチェックすれば100%睡眠時の数値が現れます。紛れもなくこの体が睡眠中も存在していた100%の証拠です。。。。

いいえ

それでは全く全く睡眠時の体の証明にはならないのですよ。。。なぜならばその数値の確認ができているのは目覚めた状態でしか起こり得ないからです。熟睡時に世界が存在するとあなたがその瞬間に気づかない限り、、その証明にはならないのです。目覚めと共に心拍数データも現れるのであって睡眠時には心拍数を確認できていません。目覚めこそがそのデータを作り上げたのです。あなたの心が生み出した世界で熟睡中の人間は現れるでしょう。ですがそれもあなたの作り出した世界の中でのことに過ぎません。

そして

この事実が完全に腹落ちしていきますと、、、「私なんでこんなに深刻に考えてたんだろう???」という真の安心感が芽生えてきます。「私なんで子供の行く末にここまで深刻になってたんだろう???」となるのです。あなたのお子さんはあなたの心の中でしか存在できないのです。にも関わらず「私が居なくなった後の世界が心配で心配で、、、、」と嘆くのです。生存中は自分の人生を嘆き、、死ぬ前には残された家族の将来を憂うわけです。

終わり

全て終わらせちゃってください。全て心が生み出す想像の産物です。世界はあなたの心の中にしか存在できない蜃気楼です。なぜ蜃気楼の心配をするのですか???なぜ蜃気楼の状態に頭を悩ませ続けるのですか???あなたは目覚めた後に夢の中身について心配しますか????あなたはこの世界が眠ったら消えてしまう蜃気楼にも関わらずなぜ関心を持てるのですか????

学問

学問とは

学問とはこの宇宙の仕組みを言葉で理解していくことです。科学とは細かく細かく物質を精査していき、、根本原理を理解することです。ですが残念ながらそれで何が分かるかと言えば、、、、科学は永遠に終わることがないということです。コンピューターの進歩は目覚ましくそこには無限の可能性を感じますが、、まさに進化は無限なのです。科学はこれで終わりました、、にはならないのです。なぜか????宇宙の創造主がこの「心」だからです。

え?????

この心が宇宙を生み出している????そうです。だから「宇宙はこうなっている」と心が決めれば、、宇宙はその通りになっていくのです。世界ってこうだよね、、、という思い込みが世界を作るのです。ではなぜ世界は心に拠って生み出されるのか???それは真我が真我自体を見るためです。真我が真我とは何か???を確認するために心が生み出されその心によって世界が生み出されています。だから心が宇宙の果てを見てみたいと動けば、宇宙は限りなく果てしない宇宙を生み出すのです。真我(無限)が真我(無限)に気づく瞬間です。

だがしかし

宇宙は無限であり、粒子は限界なく微小な存在を証明していきます。大きさにも限界がなく小ささにも限界が発見されないのは、、この宇宙は心が生み出しているからです。科学者はこのことを知った時、、研究を辞めてしまうかもしれません。天文学者はこのことを知った時、、研究を辞めてしまうかもしれません。ですがその両者の活動もあなたの心の活動に過ぎません。

努力

真我実現

真我実現に努力は必要でしょうか???結論から言えば必要です。vasanaという内的傾向、心的傾向があってこの傾向は、、外的世界に反応します。お金を貯めなきゃ、人付き合いを上手くしなきゃ、人から好かれなきゃ、見た目をこうしなきゃ、、、あらゆる思い込みがあります。サンスカーラという世の中に対する印象が最初にあってそのことで起こる動きがヴァーサナ(vasana)です。これは慣性の法則のように癖としてその人に埋め込まれています。この慣性の法則を断ち切るには同じく、、反復による真我実現への動きが必要になります。

内面に向かう

この体を自分と信じ込んでいる時、、この世界から私を守らなきゃ、この体を守らなきゃ、、という強迫観念が生まれます。一回の人生を絶対に失敗するわけにはいかない、、それが強迫観念になります。この脅迫観念はそのまま「世界」になります。恐ろしい有象無象の世界です。餓鬼畜生の世界です。この体が自分ではなく魂こそが自分なのだ、、、この自覚は、、強迫観念を緩ませます。魂が自分ならば一回の人生失敗したっていいやないけ、、です。この瞬間強迫観念が緩み、世界にゆとりが生まれるのです。心=世界ですから、、サンスカーラ、ヴァーサナが消えれば、、世界がそのまま変わるのです。

世界への対応

世界への反応がヴァーサナとして起こり、、その動きがさらに世界を変えます。世界と私のラリーが続きます。ですがこんなことをやっていてもいつまで経っても幸福にはなれない、、、この気づきが起こるのです。外的欲求に対して内的欲求が勝る時が訪れます。真我探究への欲望が外的欲求を上回る時、、、グル、覚者、聖者と呼ばれる人々があなたの周りに現れるのです。これは真我のアバターです。

崇め奉らない

多くの方はここで聖者を崇め奉るわけですが、、これは真我の存在を象徴するだけであって真我はあなた自身なのです。あなたの中に真我は100%存在していて今もその真我の中にあなたは存在しています。だから真我実現していない人は実は誰も居ません。ただそのことを忘れているというvasanaの動きがあるだけです。だから聖者は私よりも偉いのだ、、、という思考もvasanaです。無知です。

幻影

聖者、賢者、ジニャーニ自体が、、あなたの真我の中に現れでた幻影に過ぎません。幻影ですから寝れば消えてしまう幻影です。蜃気楼です。ですがこの蜃気楼が現れ出るということは真我探究が強まっているのです。そこを自覚します。大切なことは蜃気楼の存在ではなく真我探究への努力なのです。真我は決して消えてなくなりません。世界は毎晩消えてなくなります。我々は消えてなくなる世界にばかり関心を持ち苦労をしてきました。消えてなくなる蜃気楼の中で体という蜃気楼の心配ばかりをしてきたのです。この流れを変えます。固い意志でこの流れを変えてしまうのです。