悟りという科学

分離の完全否定

悟りとは分離の完全否定です。「一切の分離はない」これです。ですから「個人が悟る」これも100%ありません。個人の解放、個人の目覚め、、100%ありません。悟りとは「分離が完全完璧になかった」という気づきが個人ではなく全体から起こった、、、それです。そして分離にまつわる全ての認識は「思考の中」のみで起こります。

THIS IS A PEN

これはペンです。これは思考の中で起こります。ここには全体から切り抜かれた何かは絶対に絶対に存在しないのです。ですから「これはペンだ」という認識は思考として起こるのです。「この体の中には私が居る」これも完全に思考です。「あなた、私、家族が存在する」これも完全に思考です、、、科学では、、全体から切り抜かれた「何か」は存在しません。

社会通念

社会の中で生きるには「ペンを取ってください」という言葉は必要です。生きていくためには「切り抜き」をしなくてはならない。ですがこれは全体から切り抜かれた「何か」が存在するのではなく、、便宜上そこにその「名前」をつけただけです。ですが名前はそれが便宜上であろうと方便であろうと「切り抜き」ます。どうしてみ切り抜かれてしまうのです。だからそのことを理解します。ナイフは分かっていようといまいと触れれば切れるのです。そのことを自覚します。

「気づく」すらない

個人が気づくことはできない

スピリチュアル用語「気づき」は誰に起こるのでしょうか????「目から鱗が落ちる」は誰に起こるのでしょうか??????個人ではないですよ、、個人は居ないのですから。気づきは「全体」から起こるのです。「目から鱗が落ちる」は全体から起こります。その認識が突如起こるのです。というよりも「間違った概念」が間違っているという気づきが起こるのです。

科学は優しい

科学はある意味冷酷冷徹です、、一切の「寄り添い」をしないので。ですが同時に科学は単純明快であり、、そういう意味では「迷い」を完全に消します。この苦しみは何か????「迷い」です。科学は根底からこの迷いを排除します。どこかでこのことが分かっている(個人ではない)ので悟りへの興味が起こるのです。悟り、覚醒、解放、目覚めとは一切の「科学的矛盾」を見抜くことにあります。見抜くのは個人ではありません、見抜くが全体から起こるのです。

1ミリも独自の意図がない

根性の恨み

根性の恨みでもって、、あなたが誰かを恨んでいたとしても、、、そこには独自性、分離性は一切存在しません。自然とその恨みが起こっています。その恨みはこの体が独自に生み出したのではなく、、全体から自然と湧くのです。そして恨んでいる相手もその体から独自にその「裏切り」が起こったのではなく、、自然現象的にその体を通じて起こったのです。だからその体の持ち主を恨むことは科学的に間違っています。

ですが

その相手の身体を通じてその裏ぎり行為が再度起こるか起こらないかは誰にも分かりません。その裏ぎり行為という分離行動は実は存在しておらず全体の表現としてそこから起こったのであって、、また火山噴火のように起こるかもしれない。ですからその行為を受け入れようともまた噴火が起こる可能性があります。ただそれだけです。科学では何でもその体から起こり得るのです。

究極の抽象度

悟りとは究極の抽象度でもって科学的に「ここ」で起こることをただ解説します。そこには一切の分離が許されないので、、独自行動、個人、対象の全ては存在しません。これが科学的事実です。その中であらゆる「概念」が生まれ出しこの分離していない「ここ」で起こることにストーリーを加えていく、、ただこれだけが「起こった」のです。加えるという分離行動も起こりえないので、、これはただ起こります。

そこに気づく

そこに「気づく」が分離行動ではなく全体からただ起こった時、、、科学的不成立な「思考」が全体から起こるということが少なくなっていきます。気づきは個人ではなく「全体」から起こったのであってこれが引き戻されることはありません。そこからは科学的不成立な思考は徐々に徐々に減っていきます。

物理的不可能、心理的可能

私がグラスを見る

これは物理的に不可能です、ですが心理的には可能です。「絶対である存在」の影であるここで「私」という分離した存在がやはり分離した「グラス」を分離行動として「見る」のは不可能です。物理的にはただ「景色」がある、、これだけです。『この「景色として在る」を「私」という存在は分離行動として分離した「グラス」を見たんだ』という思考が後付けで起こっただけです。そしてその思考は「分離した私」が分離行動として分離した思考を作り出したのではなく、、ただその思考が起こったのです。

分離行動はない

物理的にここでは分離行動は絶対に不可能なのです。だから私が見る、考える、思考する、見つける、、、全部不可能です。ここでこことは分離した「何か」が独自に活動をするのは不可能なのです。なぜならば分離ができないからです。できるのは全体としての動きのみ、、ただそれを思考で切り取って「独自の行動に仕立てる」ことはできます。「あの全体の動きは実は「個」の動きではないか」という思考が起こることはあります。その思考も「個」が独自に思い描くのは不可能であり、自然現象として全体から起こったのです。

全体の活動を

私が見たのだ、、、私が発見したのだ、、私が考えたのだ、、、と分離活動に仕立て上げることが常に常に起こっています。「私」が「グラス」を「見た」。「私」が「悪口」を「言われた」、、、、全く起こっていない事実の中でそのような「切り抜き」が思考として全体からただ起こるのです。それを止めることができる「個人」は当然存在しないため完全に放置です。放置するという分離活動も存在しないためその言葉すらも不適切です。

レアシューズ

購入

私は今日レアシューズを買いました。レアシューズをレアシューズと認識するのは「記憶」が必要になります。「あ、レアシューズだ!」これに気づくには「記憶」が絶対に絶対に必要ですよね????するとその記憶には必ず「私」がセットで付いてきます。いつその情報を知ったの?????私が先日雑誌で読んだからです。これによって「レアシューズ」を手に入れた「私」が誕生します。レアシューズの存在は私を確固たる存在に仕立て上げるのです。

雑誌の情報

雑誌の情報がなければこの世界に「レアシューズ」は存在しませんでした。。。「あ、レアシューズだ」雑誌の情報が記憶化され、、、まさにそれが目の前に登場して初めて「レアシューズ」はこの世界に誕生します。記憶の中にありありと「レアシューズ」が先ずは創り出され、、それに合致した「何か」が誕生した瞬間「レアシューズ」はこの世界に誕生します。そして「レアシューズ」を所有した「私」という二者が現れ出るのです。

ない

その情報がなければその情報を学習しなければそのレアシューズはこの世界には存在しないのです。ですからそのシューズは記憶が作り出したのです。そして記憶がなければ「私」も存在できない、、よって「私がレアシューズをゲットした」というのは事実ではなく記憶が作り出したのです。記憶が「私がレアシューズをゲットした」という物語を生み出したのです。

記憶

人間の記憶というものがこの世界から消えた瞬間、、「私」も「あなた」も「レアシューズ」も「国」も「人種」も何もかもがこの世界から消えます。「消えるんです」記憶が消えた瞬間、、無くなってしまう存在というのは本当に存在するのでしょうか?????しません。だからここには本当は何もないのです。

「私」が「何か」を理解する

二元

「私」がこれを「コップ」と理解する。二元の世界では当たり前の表現ですが、、、これは真実とは全く異なります。「コップ」と「私」を作り出します。コップを認識するためには私が必要になり、、私が存在するためにはコップが必要になります。分離した二つの存在が存在しなければこれは成り立ちません。コップはコップそのままでは認識されず、コップが存在することで「私」がまた存在できます。

ポケモンレアカード

ポケモンレアカードに気づく時、、私が誕生します、ポケモンレアカードに気づくには過去の記憶が必要でありその過去には間違いなく「私」が存在します。だから「私はレアカードに気づいた」が成り立ちます。レアカードをレアカードと気づくには「私」が必要になるのです。「私」が「ユダヤの法則」を理解した、、、この場合も「ユダヤの法則」を理解するには過去の記憶が必要になり、、過去には「私」が存在します。ユダヤの法則が私を確固たるものにし、私がユダヤの法則を存在たらしめます。

分離

本当は本当はこの世界には分離は存在しません。ですから上記の表現の全ては「勘違い」です。レアカードという分離した存在は存在せず、、それに気づく「私」も存在しません。切り抜かれた二つの存在「レアカード」「私」は独立分離した存在ではないのです。

主体、対象、行為

トリニティ

「私」が「グラス」を「見る」主体があって対象があって行為がある、、、、トリニティ、、、です。この世界はこの三つで成り立っています。そのように感じます。ですが同時にこの三つがなくてはこの世界は成り立たないとすれば三つは一つです。つまり分離した三つではなく三つで一つです。一つが欠けた時点で成立しないのならば、、それは分離ではなく統合です。分離した存在は存在しないことになるのです。

実際

この世界には分離は存在しません。だからトリニティは存在しません。だからこそ主体が存在しない対象は存在せず、、、対象が居ない主体は存在しないのです。つまり主体と対象は一つです。対でなければ存在しえないのであれば二つは一つなのです。つまり分離はないのです。

苦しい時

私が手放さない

苦しみ、、、これはあまりに長い期間「自分」によって所有されてきました。だから苦しい、、、この感情が大きければ大きいほどに「自分」が強く意織されさらに苦しむことになります。苦しいから苦しいから悟りたいんです。。。その時強烈に「自分」が意織されているために悟りとは最も遠い認識にいるのです。

苦しいを感じる、、だから俺が居る

苦しい、、、だからこれを私が感じている、、、、私が感じているという概念が、、さらに分離感を強めます。するとそれを感じているのは「俺だ」が起こり、、、さらに苦しみが湧いてきます。。この負のループに入ったら最後、、、記憶が「俺」を起こさなくなるまで続くのです。自暴自棄とは、、「俺」がもうこの苦しみを対処しない、、という自己防衛です。どうにでもなれ、、、という時、、「状況と自分」を切り離したのです。

状況の責任を取るのをやめる

現状はこうだが、、ここで逃げ出したら親は家族は恋人は悲しむだろう、、、だから逃げない。。。この時逃げたい「自分」と「自分」を囲い込む周囲によって雁字搦めにあっています。開き直ってどうにでもなれ!!!!という時「状況と自分」「周囲と自分」という関係を切ったのです。それができない時、、、現象を対処すべき「自分」が残ります。自分を中心とした概念の渦が連打します。

個別の反応ではない

全体からその体を通じて起きる

お店に入って注文を間違えられた時「全体からその体を通じてその間違いが起こった」これが事実です。多くの方は間違えた「体」に向かって感情を抱きます。「あのやろう」「このやろう」「なめやがって」ですが実際にはその体には個別行動は一切許されておらずただ全体の表現としてそれが「起こった」のです。これが科学です、真実です。「あのやろう」「このやろう」という思考はこの科学の理解が欠如している時に起こるものです。

挨拶を無視される

親しい知人に道端であって「こんにちわ」と挨拶をするも無視をされる、、、、そうなれば多くの方は「冷たいやつだ!!!」となるでしょう「人が変わってしまった」「人間調子に乗るとああなるよね」まーなんでも感情思考が起こるでしょう。ですが実際には「全体からただそれが起こった」のです。知人の意志でそれをしよう、、、じゃない。。。。

個人的感情が消える

そこから「あいつはこうでこういう性格で過去にはあんな事情があったに違いない、家庭環境がこうこうっではないか。。。。。」をしなくていい、、、なぜなら全体による全体の反応が「それ」だったのですから。こちらからの「アクション」に対してそういう反応が起こった、、以上です。個人ではなく全体のリアクションとしてそれを受け入れる、、ただそれだけです。そしてそれに対していかなる反応がこちらで起こってもそれも全体の反応です。

「私が理解する」という前提

だから

理解できません、悟りのメッセージは理解が起こらないのです。なぜか??????「私が理解する」という前提のコンセプトだからです。その根底で、、、理解できる内容のみが、、、理解が起こるのです。だから本当は分離がない、本当は自由意志がない、、本当は時間がない、、本当は空間がない、、、という「私」ありきを覆す「内容」は認識が起こらないのです。

1+1=2

数学の基本は「1+1=2」です。このコンセプトが大前提にあってあらゆる数式が成り立ちます。ところが1+1=2を覆す内容の話を数学学者に伝えても「ちょっと待った!!!!!」が起こります。無理無理無理!!!!!です。急にそんな話をされても困っちゃって終わりです。

内容はシンプル、だが認識は起こらない

悟りのメッセージはシンプルです。超シンプルです。ですが、、、認識が起こらないのです。なぜならば認識しようとする前提が違うから。今日この話を理解しようとする「私」が居ないという話だから。誰がじゃあ理解するのか??????という話です。そして周囲が誰も認識していない内容を認識することは完全シャッターオフが入ります。なぜならば「周囲との分離」はエゴの死を意味するからです。