天国と地獄

夢の中で

自我が全くない状況で夢見は可能ですか???不可能です。そうです、自我が精神的身体と同一化することなく夢を生み出すことはありません。夢の中で、、、天国や地獄を経験する際に、、自分が居ないという状況は有り得るでしょうか???不可能です。そうです、、、自我こそがこの夢見を生み出すのです。では、、、この現実はどうか????紛れもなく自我が体を同一視することでこの粗大な世界を生み出すのです。全ては自我の産物です。目覚め、夢見、眠りの各状況は自我の産物です。

それに気づく真我

三つの状況、自我の産物「目覚め、夢見、眠り」の状況は、、、真我という土台の上に現れる現象です。そこに天国が現れようと地獄が現れようと、、なんだろうとも、、、それは真我の上に現れた現象です。真我の顕れです。真我から自我を通じた創造物です。ですが真我自体には何一つ変化はないのですからこれらの全ては幻想、幻影です。そういう意味では何も起こってさえいません。今もだから我々は自我が生み出す幻想を見せられているのです。

その事実に気づくと

この事実に気づいた時、、、三つの状況に気づく真我が再発見されます。何も変わらずにただ「在る」真我の再発見です。全ては真我の中で自我による夢が織りなしています。粗大な夢だったり、微細な夢だったり、、夢の不在だったりです。そしてこの時、、真我と自我という二つの自己が存在するのです。ですが自我とは真我との同一視から生まれた偽りですから、、これは同時には両立しないのです。自我は真我によって超越体験させられる存在にシフトします。何一つ真我に影響を与えることがない夢の創造主にシフトします。

粗大な眼

粗大な世界

我々は普段粗大な目から世界を眺めます。すると粗大な世界が広がります。夢見の状態の時、、精神的体から世界を眺めます。精神的世界が広がります。そして熟睡状態、、、体が現れませんから世界も現れないのです。世界を眺める体が不在です。では、、真我の存在に気づき真我から世界を眺めるとどうなるか???全ては真我の現れになります。真我以外が存在しないのです、ならば見える全ては真我そのものに決まっています。

真我が真我を見る

真我の存在に気づいたら、、見える世界も真我です。なぜか????なぜならば真我以外は存在しないことを知っているからです。目の前には真我しか存在しません。どこを見ても真我以外が存在しないのです。道ゆく人々、看板、お店、、全て真我です。真我が真我を見ています。真我が真我を知っています。真我がただ真我に気づくのです。

何を努力する???

この状況で何を一体努力したらいいのでしょうか????右を見ようが左を見ようが真我しか存在しないのです。湧いてくる思考も真我の現れであり、、感情も現れです。自我が現れようとも、、それを超えた真我がドカンと鎮座しています。自我の超越体験が起こるだけです。この真我は消えることもなく現れることもありません。何が起こっても在り続けるのです。

還元不能

世界

世界とは何か???世界とは心の現れです。心とは何か心とは自我の現れです。自我とは何か、自我とはヴァーサナーの現れです。ヴァーサナーとは何か???ヴァーサナーは真我の現れです。真我とは何か??真我とは真我です。真我を生み出す存在は存在せず真我以外には何も存在しません。唯一無二の存在が真我です。それ以外は全て真我の現れ、顕現です。

つまり

つまり世界とは心のことであり心とは自我のことであり自我とはヴァーサナーのことでありヴァーサナーは真我のことです。つまり真我以外が存在しないということです。その真我=至福=愛です。つまり我々は至福であり愛なのです。何の努力もしなくても最初から至福であり愛です。この体を真我と同一視した時にだけ、、私という偽りの自分が誕生し、苦しみを生み出します。その現れが存在しない時、苦しみも消え去ります。

沈黙

思考停止?????

一般的な沈黙とは思考が停止しノイズがないことです。雑音がない状態が沈黙です。ですが真の沈黙はそうではありません。あらゆる動きがあります。目を開けばあらゆる動きが起こります。思考も起こるでしょう。感情も起こるでしょう。その動きの全てに「行為者」が存在しません。誰も存在しないにも関わらず動きが起こります。そしてその動きすらも実は心の動きに過ぎません。行為者不在で全てが動きます。これが森羅万象、高次の力です。

Switch2

大人気ゲーム機Switch2にもしも、もしもコントローラーが存在していなかったら、、、あなたはどう感じますか???TVモニターには色鮮やかな映像と音響、、、最先端のコンピューター技術が満載のSwitch2にコントローラーが存在しないとしたら、、、、これが真の静寂です。我々は実はこれを見る以外にやることがないのです。行為者が存在不可能なのです。行為者とはコントローラーがある場合においてのみ存在できます。この世界というゲーム機にはコントローラーが存在しません。

真の沈黙

真の沈黙とは、、、誤った思考の除去です。勘違い思考が消え去った状態が沈黙、静寂です。この世ゲーム、この現実ゲームにはコントローラが存在しないという真実に気づいた時、、、誤った思考が崩壊します。除去されます。根絶されます。真我実現とは何かを手に入れることではありません。この森羅万象の動きの中から無知な思考が消え去ることです。ヴァーサナーが消え去ることです。無知が支えてきた動きが消えてしまうことです。

失くなって辛い???

友人の一人が、、、昨日自分が大切にしていた影が突然消えて本当に辛かった、、渋谷駅からずっと一緒に居たんだけど、、、新宿駅に着いたら突然消えちゃって、、、ショックだった、、、、と言ったらどうします????「お前は〇〇か!!!」と突っ込みますね!!!!!そうです。友人の体は無事であり、、影は体が存在する以上、、、何億回だろうと出現しますから。。。。影の出現消滅に関心を持つこと自体が「〇〇」なのです。

では、、、

私は母親を昨年失ってショックが、、まだ癒えません、、、、、という友人がいたとしましょう。。。。残念がら消えてしまう存在の全ては「影」です。誕生する存在の全ては「影」です。実在は現れて消えるような柔な存在ではないのです。そして現れては消える存在は「実在」の影です。そして実在が存在する限り無限に影は現れ続けます。それが影の宿命です。

だから

だからこの体も影です。この心も影です。私も影です。そして影の大元「真我」は全く消えも現れもしません、、、常に常に「在り」続けます。それが実在です。だからあなたは物心つく前から「在り」続けてきました。ということはこの体が消えようが「在り」続けます。だって消えるのは影ですから。消えない存在が今ここに影の源として「在る」のです。だから安心してください、あなたは消えることができません。実在は消えることが不可能です。

不変

真我

真我は不変です。何一つ動きのない存在です。そしてこれが唯一の実在です。ではこの自由意志の行動は一体全体何なのか????ということになります。その前に目の前にPCが存在します。そこに一切の疑いがありません、では、、、、唯一の実在「真我」以外に実在が存在するかと言えばNOです。つまり目の前にある100%の存在PCは心の動きということです。つまり自由意志も心の動きです。そう感じる心の動きが起こっています。

感じるから「在る」?????

我々はそう感じるのだから「在る」のだ、、、だって感じるのだから、、、、で世界全体を見渡します。ちょっと待ってください、、、砂漠に広がるオアシス、、蜃気楼も100%感じてますよね????でもない。。。。これを非実在と言います。そううです、、、五感全体で「在る」と感じたって実際には「ない」は100%あり得るわけです。自由意志も同じ、、100%在ると感じようがないのです。

では、、、

この自由意志はなぜ在るように感じるのか???それは「自我」「私」の絶対的根拠になり得るからです。心の動きは全て自我が生み出します。その心の中には自我、私を絶対的実在に思わせる動きが起こっていいのです。思考、概念、心は自我の産物ですから、、、何でも起こっていてもいいのです。その一つが自由意志はあるという心の動きです。「私」と「自由意志」共存関係、、、この存在の実在性を高めます。

心の破壊

癒しではない

真我実現は心を癒すことではありません。心を破壊するのです。誰にとっての心ですか???私ですね、自我ですね、、、ここに付随する心、想念、固定観念を木っ端微塵に破壊する必要があるのです。なぜならば自我とは無知を生み出し、、無知に気づき、目覚めるために生まれたのですから。当然です。では無知とは何か???無知とは、、、真我以外に何かが存在するという妄想、幻想のことです。

つまり、、、

真実では真我以外には何も存在しないのです。その真我が「意識」であり「存在」であり「至福」なのです。これ以外に何かを実在すると信じた結果として、、あらゆる想念が生まれ、それが支える世界が生まれ、、苦しみの地獄に入るのです。だから振り返って、、自我とは何か???ここに迫るのです。自我が何か、、これが分かってしまえば、、、自我によって生み出された全ては実在から幻影に還元され、、真我のみが実在する境地に戻るのです。還元不能な境地に戻るのです。

自我

自我は実在しません、実在はしないが、、これが幻影として真我から立ち現れます。この自我は真我を同一視し、心を生み出し、体を生み出すことで体とも同一視します。そしてその粗大な体の目を通じてやはり粗大な世界を現し、、五感を通じてこれを感じます。粗大な世界、粗大な体の完成です。だから今我々の前には粗大な物質世界がドーンと広がっています。このありようがあまりにもリアリティがあるから、、世界だけが実在と信じ込むのです。この教えをまんまと信じ切るわけです。

ところが、、、、

我々人類はここ50年足らずでとんでもないリアリティ風ゲームを生み出しているわけです。神がとんでもないリアリティゲームを生み出せないわけがないわけです。そうです。この物質世界、五感バリバリゲームは、、、神によって容易に生み出されるのです。そしてこのゲームは眠りに入ると同時に消え去ります。これをこの世的に言えば蜃気楼、幻想と呼びます。この事実に目覚めていきますと、、自我が作り出した様々な心、想念が消えていくのです。世界=実在を前提にした思考、心が破壊されます。これが真我探究=ヴィチャーラです。

外に向かう心

世界が実在

世界だけが実在するという心が存在する時、、その心が実在しているに間違いない世界を作り続けます。一切の隙のないリアリティ、実在以外にあり得ないリアリティをもって心がその世界を生み出すのです。「この世界って本当か????」このような疑問の心でこの世界を眺め始めると、、この世界を壊す動きがこの世界に起こるのです。全ては心が生み出します。つまり自作自演とはこのことです。

自作自演?????

鏡の法則??創造の法則???あれ????この世界って自分が作ってんの????という疑問が起こり続け、、そこに確信が芽生えてくると、、、心はグルを、賢者を覚者をこの世界に生み出すのです。これも自作自演です。そしてそのグルが、、、世界の秘密を洗いざらい話します。これもあなたの心の動きです。真我探究という心の動きが始まります。

いやいや

そんなこと今更言われたって、、私には家族もあれば会社もあるし、町内会も、、何もかもあって、、、困るんですど、、、、、、。という思考が起ころうが、、心がこの現実に疑いを持ち始めた時、、、それでも真実を突き止めようとするかもしれない、、しないかもしれない、、、実はその選択肢は自我が行うように見えて「高次の力」が決めます。我々には実は選択肢がないのです。自由意志を支える力にまさかの自由意志がないのですから。

相対的意識と絶対的意識

三つの状態

目覚め、夢見、眠りの状態の三つがあってこれらは自我に属しています。自我が立ち現れ、、目覚め、夢見の状態が現れている時、、相対的意識が立ち現れます。主体客体を伴う意識です。この動きの全て心を通じて起こります。そしてこの相対的意識に気づく意識、それが絶対的意識「真我」です。では相対的意識は真我ではないのか???真我です。絶対的意識(真我)の影としての相対的意識(真我)が現れるのです。そして眠りと共に相対的意識が消え去り絶対的意識(真我)のみが残ります。

実は意識しかない

相対的意識と絶対的意識という二種類の意識を使って考察すれば、、実はこの二つしか存在しません。宇宙、世界、、現実、夢見、、、という存在は、、、全て相対的意識の中に現れる戯れです。そして、、それに絶対的に気づく、気づきの意識(絶対的意識)の二つ以外が見つからないのです。この二つの意識を合わせて「意識」となります。分離が消えます。真我から分離した存在は存在しません。

「存在」=「意識」=「至福」

全ては意識でできていて、、それが真我の存在です。そして熟睡中に至福であることからも分かるようにそれは「至福」でもあります。意識=存在=至福以外の何かは何もない、、という気づきに至るのです。それが意識の中で気づかれます。全ての疑問が消えた時「至福」が湧いてきます。この一連の流れは「意識」「存在」「至福」が相対的意識の中に無知を生み出し、、その無知ゆえに苦しみが起こり、、それを解消しようと動く思考の中で気づかれます。そうか、、我々の本質は「意識」「存在」「至福」でしかないのだという気づきが、、「相対的意識」の中で起こり、それも「絶対的意識」に気づかれます。

創造

非実在

創造、、「創る、造る」、、、この世界は神によって創造された、、、もしもこの世界を神とは分離した何か、、と思考するならば、、、この世界は完全に非実在、非神であり、、つまり存在しません。なぜならば神しか存在しないからです。神以外の何かというのは思考、想像、幻想以外にあり得ないのです。ですがもしも分離が一切ないことを自覚するならば、、この世界は神の幻影として神の中に創造されたのです。ですがその創造とは何か新しい実在の誕生ではなく、、移り変わる影の表現でしかありません。

未来が創造されていく???

未来とは何でしょうか???未来とは、、完全に幻想のことです。実在は唯一神、真我だけであって、、そこには変化はあり得ません。となれば、、不変の神、不変の真我であり何一つ変化しない神、真我に未来は存在するのでしょうか???ないに決まっています。ならば、、、未来とは完全に思考の産物、心の産物、自我の産物です。未来とは真我の中に自我が影として立ち現れた時のみに現れる思考の産物です。自我が消えれば、、世界も時空間も消えます。その証拠に眠りの状態では時空間は消えます。

夢見

夢見の状態では自我は微細な体と同一化し、、微細な世界をここに生み出します。これが夢見です。ではこの夢見の中で現れる世界は「創造」と言えますか????夢の中の登場人物の全ては創造されたものですか???違いますね、、、彼らは夢見から覚めた瞬間消えるのですから、、幻想、幻影です。。。。幻想、幻影としては創造されたと言ってもいいでしょう。実在レベルでは何も創造されていません。つまり目覚めの中でのこの世界、この宇宙も実在レベルでは何も生み出されていません。幻想、幻影としては創造されていきます。

真我

真我の境地から見た時、、変化は一切ありません。不変です。不動です。実在のレベルでは、、何も起こってもいません。ですが非実在のレベルでは、、、この世界は変化しかない、、ということです。次々に変化が起こり続け、、、同じということがないのです。影の中、非実在としては、、、創造と破壊が繰り返され続けていくのです。

どうしよう????

この激動の時代を私はどう生きればいいの????安心してください。。。真我のレベルでは何も起こってもいません。そしてあなたはその真我です。ですが自我が現れこの体を同一視した時にだけ私を取り巻く環境は問題だらけ、、となります。この勘違いに解消が起こるまで問題は起こり続けるのです。なぜ???それはこの同一視が事実ではないからです。