解脱とは何か???

その前に

解脱とは、、輪廻転生からの解脱です。では輪廻転生とは何でしょうか???それが分からずに解脱はあり得ません。輪廻転生とは何でしょうか???輪廻転生とは、、、、この世界を実在と確信し、この体を実在と確信し、、この実在する世界の中を体を変えて、、、自我が、、、何度も生まれ変わるという信念のことです。信念???信念ということは事実ではないということ???はい実在しません、何もかも。。この世界もこの体も自我も何もかも実在しないのです。ですから輪廻転生は盲信、妄想です。

唯一の実在

唯一の実在は真我だけであり真我は生まれ変わることはありません。なぜならば実在とは消えない存在だからです。消えない実在がなぜ、、、生まれ変わるという出現と消滅ができるのか???できるわけがないのです。実在は消えることも現れることもない、、、ただ「在り続ける」だけです。だから輪廻転生は実在の中に現れた妄想です。つまり解脱とは、、、輪廻転生が妄想に過ぎないと気づくことです。解脱する「私」は実在しません。輪廻転生が妄想ならば、、、なぜそれを解脱できる「私」が実在できるのかという話です。

つまり

私は一度たりとも事実としては輪廻転生などしたことがないのです。真の私、真我は、、「永遠に在る」しかできません。出現と消滅は幻想以外では起こり得ないのです。全てが「幻想」です。ですがこれを幻想と見抜けず、、これを実在と信じた時にだけ、、、この体が消えても消えない自我という幻想が、、新たな体を求め、、そこに移るのです。もう輪廻転生はしたくない???ならばこの目覚めた状態の中でこのことに気づく以外にありません。

熟睡中に問題が起こったことがあるか??

ない

あなたは熟睡中に社会問題に悩んだことはありますか???あなたは熟睡中にお金の問題を抱えたことがありますか????あなたは熟睡中に人間関係で悩んだことはありますか????ないですね。。ないんです。熟睡中は、、、何も問題を抱えることができません。つまりこういうことです、、、あなたが抱える全ての問題は熟睡で全て消え去ります。存在不能です。

いやいや

いやいや、、、それは熟睡中の話であって、、、、起きれば全て現れるわけで、、、それが何の意味があるというのですか????何も救いになっていないですよ!!!!実はそうじゃないんです。熟睡中に世界もあなたも消えたから、、、問題が勃発しなかったのです。これが真実です。問題を抱えたあなたも世界も消えたんです。消えるんです。ところがあなたはその事実をスッカリと忘れ、、、、、世界も私も熟睡中に存在するという教えをどこかで信じたわけです。。。。。だからその観念が反映された世界が今ここに立ち現れています。

世界中の人々

この事実をあなたが世界中の人々に話をするとしましょう、、、恐らく鼻で笑われます。。。。実際にやってみてください、、、鼻でしっかりと笑われるはずです。なぜ?????だってあなたの固定観念が「あり得ない」と言っているからです。その固定観念こそが、、、この世界を生み出すのです。だから世界はあなたの思い通りなのです。周囲がしっかりとこの話で大爆笑してくれるのはあなたの観念、心がそうさせるのです。ですが、、周囲が大爆笑しようとも真実が変わることはありません。あとはあなたがこれを確認するだけです。

物質化現象

真我

この世界は真我から自我が現れ、その自我から心が現れ、、最終的に物質化したものです。粗大な体を「真我」と同一視することで、、粗大な世界が立ち現れました。ですがこの物質化した世界は眠りとともに消え失せます。自我がこの物質化した世界を撤収するのです。眠りとは自我が拡げた出店(世界)を撤収して自我不在になることです。つまり目覚めと眠りの違いは、、自我の出店(世界)が在るかないかの違いなのです。

真我実現

真我実現とは自我の出店出店(世界)が現れようが現れまいが、、、そんなこととは何も関係なく真我として「在る」ことです。自我の出店(世界)がいかに荒れ果てていようが平和であろうが、、何も関係なく真我として「在る」ことです。自我は出店を出店し、、夜になると引き上げます。真我の存在を完全に忘れてしまっている時、、、自我の出店だけが実在になり、、、体である私はこの世界に翻弄され続けるのです。

自我の終焉

真我の存在が完全に忘れ去られた時、、、体である「私」だけが実在であり、、、世界という実在の中で翻弄され続けます。世界は荒れ狂い、問題が勃発し続け、、、その中を彷徨うように生きるのです。なぜならば自我自体が矛盾の塊でありそれを通じた世界もまた矛盾の塊になるのです。だから世界の中で幸福になることはできません。世界とは何か???私とは何か????という疑問を持ち、自我の矛盾を発見する以外にこの世界は苦しいままです。

快楽と苦悩

世界は実在すると信じるからこの世界の中で快楽と苦悩を行ったり来たりします。快楽は苦悩を一旦は忘れさせてくれますが、、その次にはまた苦悩が始まります。快楽と苦悩のシーソーゲームが続きます。そこに行ってはなりません。そうではなく、、、この世界とは何か???この私とは何か???そこに向かうのです。するとこの物質化現象を作り出した真の私、真我が発見されます。真我はそのままで至福であり、、至福こそが我々の本性です。

粗大な体、精神的体

同一化

目覚めの状態では、、我々はこの粗大な体と真我を同一化させ、、、、粗大な世界を作り出します。粗い粗い世界です。夢見の状態では、、精神的身体、微細な体が現れ、、それと真我の同一化が起こるため、、精神的世界が現れます。微細な世界とも言えます。では眠りの時は????眠りの状態では、、、「体、身体」が何も現れないため、、、世界が消えるのです。この三つの状態をただ延々に延々に繰り返すことをサンサーラ、輪廻転生と言います。無知な現象だけが起こり続けるのです。この現象を支えるのは「無知」アジニャーナです。

賢者

賢者、ジニャーニ、聖者と呼ばれる人々は、、この無知によって支えられた現象に終止符を打ちます。真我を「体」と同一化するという無知を辞めます。真我は永遠不変の意識であって間違ってもこの体ではないのです。真我は永遠不変の気づきです。現れては消える体とは全く異なるのです。だから賢者は真我と体を同一視しないのです。そしてこの動きは目覚めの状態でしか起こり得ません。眠りの状態でこの動き、努力は不可能です。だから今、まさに今その努力が求められるのです。

眠り、気絶、死

眠った状態、気絶した状態、死とは、、、、、真我と体の同一化がされていない状態です。ですからこの時、、、世界が現れることがありません。世界が消滅しています。死を恐れるとは眠りを恐れることと同意です。死を恐れるとは、、、、完全な無知です。眠った状態が至福であるように死も至福です。ですが目覚めた状態でしか、、、この気づきに至ることができないのです。

真我との同一化

体と同一化すると、、体に準じた世界が現れます。ではジニャーニは何と同一化しているのでしょうか???ジニャーニは真我と体の同一視はしません。なぜならば真我と体は全くもって別物、別次元だからです。では真我は真我を何と同一視するのか????ジニャーニは真我を真我と同一視するのです。体との同一視によって生まれた「私」を真我と同一視するのです。「私」を真我に戻すのです。これが眠りの中の目覚め、目覚めた眠りと呼ばれる状態です。第四の状態です。

超越体験

自我

ジニャーニには自我は現れないのか????真我実現した人間には自我は現れないのか????現れます。それでも現れてきます。ですがその自我は完全な幻想であることがバレています。完全に犯罪がバレた状態の犯罪者です。完全に詐欺がバレバレの詐欺師です。犯罪者、詐欺師が、、存在をバレた中で行為だけが起こります。存在がバレバレの詐欺師は、、本当に詐欺師ですか????詐欺師とは、、詐欺という行為がバレていないから詐欺師なのです。詐欺がバレバレの詐欺師の存在にあなたは困るでしょうか???

困らない

そうです、困らないのです。詐欺師を詐欺師と見抜いた私は、、、詐欺に引っかかることはありません。スパイをスパイと見抜いた刑事はスパイをされることはありません。つまりジニャーニは、、、自我という存在の正体を知って自我活動を楽しむのです。自我が現れでようとも、、自我の出現、正体が完全にバレているのです。だから、、、何が起こっても気にしない、、、という境地になります。

では、、、、

自我は誰によってバレているのか???それが真我です。真我によって自我の存在がバレバレなのです。自我とは真我と同一視した私ですが、、、その私が同一視したはずの真我によって気づかれるのです。こうして、、存在矛盾した自我が真我によって気づかれます。真我が真我として気づかれた状態において自我は既に崩壊しています。なぜならば自我とは真我の存在が忘却されている期間に活躍できる存在だからです。ジャスティンビーバーと嘘をついて日本人を騙す詐欺師は、、本物のジャスティンビーバーの前では行動しにくいのです。

眠りと目覚め

幸福とは???

あなたは、、熟睡と夢見とどっちが好きですか????良い夢見たなー、、、、と目覚めようが、、間違いなく熟睡が良くないですか?????ですよね!!!!!1000%熟睡が良いですよね?????そうです。。。。熟睡が至福なんです。だから夢見も、、目覚めも、、、、全部比較して「しんどい」になります。では本題に行きます。あなたは目覚め、、熟睡が終わりました。。熟睡が至福で目覚めは「しんどい」です。どっちが本物ですか???

至福

しんどい現実が実在で、、熟睡が偽りならば、、、我々は一生この「しんどい」から逃げることはできません。現実というリアルから逃げることができません。ところが、、、真実では熟睡(現実の不在)がリアルであり、、、現実の立ち上がりが幻想です。リアルの存在、真我=至福が実在で、、、この現実こそが、、実在の上にボコっと現れた、、幻想です。つまり「至福=真我」は全く何一つ欠けることなく今もここに「在る」のです。

不幸

つまり不幸とは幻想です。不幸が実在ならば、、我々はその不幸を増やしたり減らしたりすることは絶対にできません。不幸が増減するのは、上下するのは、拡大縮小するのは、高低するのは、、、、不幸が実在ではないからです。実在とは永遠であり絶対であり上下するような柔なものではないのです。ではどうしたら、、、この不幸を根絶できるか?????簡単です。絶対的存在=至福の存在を微動だにすることなく思い出すのです。一瞬ではないです。常に常に常に常に思い出すのです。

主人公の私とスクリーンの私

二つの自己

この世界には二つの自己が存在します。それはスクリーンの私と、、主人公の私です。スクリーンの私は真我の私です。そして主人公の私はこの体の私ですね。この二人が存在します。HUMAN BEINGという言葉があるように、、、人類はそのことを実は知っています。HUMANは人間の体、BEINGはスクリーンのことです。では、、、この二つの自己、、ですが、、、そのことにあなたは本当に気づいているのでしょうか???

今は?????

今この瞬間、、、あなたはどちらの自己ですか????人間の方ですか???それともスクリーンの方ですか???どちらをあなたはやっていますか???????返答に苦しみますよね???そうです、、、ここを誰も分かっていないのです。スクリーンもやっているはずだし、体もやっているし、、二つの自己を同時にやってる?????となります。。。。では答えを言いましょう。。。二つの自己はリアルには存在できません。真実の自己は真我以外にはあり得ないのです。体の方の私すなわち自我は、、実在のレベルでは存在しません。

この二つ

スクリーン、真我の自己は実在です。唯一の実在です。ですがこの体の自己(私)は、、、、現れては消える蜃気楼、幻想です。事実眠りの状態では私は気づかれることができません。この体も気づかれることができません。つまりこの体の私は目覚めの状態において気づかれてもらうことができる「私」なのです。この体の私が「私」を実感できるならば眠りの状態でも「私」は「私」に気づくんです。ですがそれは起こりません。つまり蜃気楼と同じで気づいてもらってなんぼの「私」がこの体の私です。

つまり

つまりこの体の私とは、、雲のように気づかれて初めて存在を維持できます。眠りに入ればこの「私」は隠れてしまうため、、存在していない状態になります。ですが実際には消滅していないのですから、、存在自体が存在に気づくのであれば、、感覚が消えてはいけないのです。ところが事実では眠りの状態では私の感覚は確実に消えます。つまりこの体の私は、、、体の消滅と同時に、、存在が隠れ、、気づいてもらえない状況になるということです。

目覚め

目覚めの状態の時、、、間違いなく自我が現れ、、この体を同一視することで、、、「私」という観念が生まれます。この観念がスクリーンである真我によって気づかれるのです。主人公の私の誕生です。そして主人公の私は眠りに入る時、、この世界を地引網のように引き上げ、、、世界を収集するのです。世界が撤収され、、、自らは隠れてしまうから、、、スクリーンである真我に「気づかれない」のです。この話をファンタジーお伽話と思うのであれば是非確認してみてください。

「在る」→「在らない」

催眠術師

世界一の催眠術師にかかれば、、あなたの目の前の「リンゴジュース」を塩水のような味覚にかえ、、目の前の女性を魅力的に見せ、、火の上を歩くことを可能にし、、、と何でもやってのけるでしょう。世界一の催眠術師にできないことはほぼないのです。彼は何をするのか???あなたの心を自由自在に操るのです。ではなぜ心を操るとリンゴジュースが塩水の味覚に変わるのか????なぜならば心が五感、物質すらも生み出しているからです。

ところが

世界一の催眠術師でもできないことがあります。騙せないことがあるのです。女性であるあなたを男と勘違いさせれる催眠術師が、、40歳のあなたを6歳の感覚に変えれる催眠術師が、、、これだけは絶対にできない、、、ということがあるのです。それが、、、「在る」という感覚、、あなたが紛れもなくここに「在る」という感覚を、、、「ない」とは変えることができません。「今ここ」「在る」「生」「意識」など言葉はいかようにも変えることはできますが、、、ここを否定することは世界一の催眠術師でも不可能です。

つまり

心はいかように変えれます。心を変えれば五感も変わります。思考も感情も好きなように変えれます。つまり何でもできます。ですが心を超えた領域、、ここだけは不可能です。では心を超えた領域とは何か、、、それは心の源の方です。心の動きに「気づく」存在の方です。ここは変えることはできません。なぜか????催眠術師という存在すらもそこから現れているに過ぎないからです。それが「気づき」「在る」「生」「意識」の領域です。真我の領域、神の領域です。

生きている

感覚

ここに世界一の催眠術師が存在するとしましょう。世界一です。その世界一の催眠術師の前で「オレンジの味がするジュース」をあなたは目隠しをした状態で飲みます。あなたはそのジュースがオレンジジュースであることに「1億円」ベットできますか???1億円を賭けて催眠術師と勝負できますか????できませんね。なぜならば彼らは催眠術で味覚を変えてしまうプロだからです。何を飲んでも食べてもその感覚に対して彼らの前で「言い切る」ことは不可能です。

では

世界一の催眠術師の前で「あなたは今生きているか???」という質問をされた時、、あなたは「生きている」と言い切ることに1億円賭けることはできますか???生きているかどうか????この質問になった途端にあなたは「生きている」と言い切れるのではないか、、、それならば1億円賭けて勝負してみようかな、、、と思うのではないですか???食べ物や飲み物を当てることには自信はないが、、生きているかどうかに関しては1億円賭けてもいいんじゃないか、、、と思うはずです。

つまり

目の前で起こる出来事を当てることに関しては、、催眠術師の前では全く自信がないが、、、生きているかどうかだけは、、、、世界一の催眠術師の前であろうとも、、断言していいんじゃないか、、そう思いませんか???答えを言いましょう。。そうです、大丈夫なんです。。。「生きている」このことに関してだけは、、、催眠術でコントロールできない領域なのです。生きているというこの感覚は催眠術でコントロールできる「心」の領域ではないのです。

神の領域

生きている、、、、という断固疑えない感覚が最初にあって、、、その中で、、、あらゆる出来事を「心」が生み出します。その心の活動がこの二元ストーリーです。心がどんな二元ストーリーを奏でようが、、、「生きている」という神の領域を侵害することはできません。「生きている」「在る」「意識」この領域は心を超えているのです。これが神の領域、真我の領域です。この中に心の領域が起こっているのです。

あなたは何????

生きている、在る、意識、、、この領域は神の領域だと説明しました。。。そして今あなたはそれを感じています。感じているのは思考の「あなた」では絶対にありません。思考のあなたは神の領域「生きている」の中の思考の活動です。真のあなた、真我が「生きている」という感覚に気づくいているのです。思考のあなた「自我」の方は、、その中で起こる思考の活動、心の活動です。自我が体を同一視し「私」をやっているのです。それは全て思考の領域の話です。

欲望

対象

欲望には対象が必要です。車という対象が存在するから車が欲しいという欲望が生まれます。お金という対象があるから欲望が生まれます。異性という対象があるから欲望が生まれます。全ての欲望には対象があるのです。対象こそが欲望を支えます。欲望は対象に依存しています。その対象を手に入れた時、さらに手に入れたいという欲望が起こります。これが無限地獄です。対象は束の間の快楽を与えてくれます。だから、、、さらに手に入れたい、、、もっと手に入れた暁には、、真の幸福が手に入るのだ、、という勘違いをも生むのです。

その対象が

ところがです、、、その対象は心が生み出した産物なのです。心の重い部分(ラジャス、タマス)が物事、物質として現れたのです。つまり集めた対象は、、心の重い部分です。心が心を集めているのです。心が対象を生み出し、、その対象を心が追うのです。自作自演とはこのことです。この自作自演に真の幸福はあるのでしょうか???ありません。真の幸福(真我)は心を超えた場所にあるのですから。

心よりも軽い場所

心こそが対象を生み出しその対象を心が追いかけるというラットレースでは真の幸福は手に入りません。地位と名誉という対象も心が生み出すのです。それを心が追いかけます。そして手に入れても手に入れても満たされないことから、、諦めに変わっていくのです。真の幸福は心が生み出した何かではなく、、、永遠不滅の至福です。それは永遠不滅ですから「手に入れる何か」では絶対にダメなのでです。永遠不滅ということは今までも確実に「ここ」になくてはならないものです。

欲望の全て

欲望の全ては結局のところ、何が生み出しているのか????それはズバリ「私」です。私こそが欲望の創造主です。私は存在しないけれど欲望は半端ない、、これは起こり得ないのです。その証拠に眠りの中では欲望は起こりません。「私」も対象も存在しないのですから。つまり目覚め、私が立ち現れるから欲望も生まれます。その事実を明確にします。そして欲望を生み出すこの「私」はどこから生まれたのか???ここに注目するのです。この「私」は何なんだ????という疑問です。

「私」

私とは絶対不滅の真我から現れでた幻影です。この私が現れでたことで心が動き、真我を同一視し、、体を同一視し、、心を同一視します。この私という存在が矛盾だらけなため、、、この世界も矛盾だらけになるのです。そして「私」は真の幸福を追い求めて世界の中を彷徨うのです。真の幸福、平和、愛とは紛れもなく真我そのものであり、、それは確実に在ることは分かっています。だからこそ自我はそれを追い求める旅に出るのです。ですが自我こそが苦しみを生み出す張本人ですから自我が消えなくてはそれには至れないという悲しい存在なのです。