自我=微細で精妙

宇宙

眠りに入る時、世界は消え去ってあなたが残ります。夢見に入る時、、あなたがその夢見を作りあげます。夢見から目覚めて移行する時、、あなたがこの世界を生み出します。あなたが創造主です。世界はあなたの付属品です。体もあなたの付属品です。そしてあなたはその変化に気づきます。なぜその三つの状況の変化に気づけるかと言えば、、、その変化する現象よりもあなたが微細で精妙だからです。

物質と心

あなたの心は目の前の陶器に気づきますが陶器はあなたの心に気づきません。なぜならばあなたの心は目の前の陶器よりも微細だからです。あなたの心は、、あなたが存在しなければ現れることができないということは「あなた」はあなたの心よりも微細であるということです。つまりこの世界は「微細と粗大」のグラデーションだということです。宇宙の果ては何か???という心(微細)が現れて、、宇宙の果て(粗大)が誕生するのです。SWITCH2が欲しいという心(微細)が現れて現物(粗大)が現れるのです。

真我

では真我は何か?????それは微細の究極(純粋=PURE)です。一点の動きもない状態、ZEROです。不変です。不動です。それが「これ」であり、「在る」である「生」であり「意識」です。ここからアバターとして「私」という魂、思考が現れ、、それが「真我」を同一視し、、、心が動き、、この体、世界を立ち上げたのです。純粋→超微細→微細→粗大、、、、、、、が現れていくのです。自我とは純粋(真我)と粗大(宇宙)の間に現れた超微細です。この超微細の自我が、、私は「気づきでありこの体でありこの心だ」という思考を作り出し、、、混乱した世界が生み出されています。なぜならば「自身=完全矛盾」だからです。

自我の存在

つまり自我とは=無知なのです。自我を支えるのは完全な無知(アジニャーナ)です。真実(ジニャーナ)は無知を消滅させます。、、無知を消滅すれば自我も自然に消えます。無知こそが自我の屋台骨です。だから覚者はあらゆる質問に対して「その前に先ずあなたは誰か???」と問うのです。あなたが無知に支えられた幻影であることに気づけば、、それに付随する全不幸も同時に消えるのです。真我実現とは無知根絶です。

アジニャーニ

無知

ジニャーナヨーガでは自己実現した人をジニャーニ、自己実現していない人をアジニャーニと呼びます。ジニャーニは真我実現し、、その後アジニャーニを救っていく、、という流れにはなります。ですが全てのジニャーニがそのような行動を取るかと言えば全く違うわけです。それはなぜか?????アジニャーニとは救ってあげなくてはならない存在なのか????あなたが夢見から覚めた時「夢の中の登場人物を見捨てて目覚めてしまった」とは思いません。見捨てた、自分勝手、利己主義とは絶対に絶対に思わないのです。なぜ????だってそこには実在する人間など居ないのですから。

つまり、、、

アジニャーニとは実在しない存在、幻想だということです。そしてジニャーニこれも当然実在せず、、幻想です。なぜ幻想が幻想を救わなくてはならないのか????意味不明です。幻想とは幻想と見抜かれた時点で既に救われているわけでです。つまり救ってあげなくてはならないアジニャーニなど存在しないのですから。ですが真我実現したジニャーニにとって全ては愛おしい自身の子供です。だから見た目上苦しんでいるのならば救おうという情熱が起こる場合もある、、、という話です。そこには悲壮感や責任感は間違いなく存在しないでしょう、だって幻想をマジガチで救うって不可能じゃないですか。。。

三つの状態

目覚め、夢見、眠りの三つの状態があって、、その全てに気づく気づきが真我です。目覚めの状態で「私」が友人と話をしている、、という二元のストーリーが生み出されようとも、、それをただ気づく気づきが真我です。ですからこの気づきは「二元」ではないのです。それが夢見に変わり、、最終的に眠りに気づくのです。眠りに気づく????そうです。自我の活動の不在に気づくのです。そういう意味で自我の三つの行動をただ「気づく」観賞者になるということです。この観賞者は三つの状態、自我の三活動には関与できません。ただ気づくのです。

鏡張の部屋

そこで

あなたが鏡張の部屋に入ります。壁の全て、床も天井も全てが鏡張です。そこにあなたが入り込めば、、、そこに映る何十体ものあなたの体を見るでしょう。全方位から見えるあなたの体がそこに在ります。そしてあなたは、、なるほど私は背面から見るとこんななんだ、へー、上から見た自分はこんななんだ、、と気づきます。初めての視界に驚くかもしれません。ですがそれがあなたの体で在ることには気づいています。

では

もしもあなたがその部屋で生まれその部屋で育ち、、それを鏡と教わっていなければ????どうなりますか??それを「お友達」と教わることもできますよね???そこにはお友達が居るんだよ、、と教われば部屋中に何十人ものお友達が存在することになります。こちらの動きに100%反応してくれるお友達です。ですが流石に親が、、そろそろ本当のことを教えなきゃ、、、と考え、、真実をあなたに伝えます。「この子達全員はお友達じゃなくて全員あなたの鏡に写った姿なの!!!!」ですが、、、そう教わったところで、、あなたは果たして、、そっか!!!!となるでしょうか???

ならない

なりません、、、なぜならば鏡とは何か???が分からないからです。鏡張の部屋というのは鏡であること自体が分からないのです。だから、、これが鏡であることを知るには、、この部屋を出るしかない、、、のです。この部屋を出て初めて、、鏡という存在を知ります。部屋を出た瞬間、、鏡張の部屋ってそういことか、、となります。

さて

鏡張の部屋を出たあなたは、、鏡の存在を知ります。本題に入りましょう、、、この世界はあなたの心が「反射」したものです。この世界とはあなたの心という鏡の中に「在る」のです。心という鏡の中に映された「映像」がこの世界です。ですが我々はこの世界を遠くから見たことがないので、、この事実を教わっても「腑に落ちない」のです。生まれた時からこの鏡張(心)の部屋に閉じ込められているから、、気づけないのです。

ですが

あなたと先程の子供との違いは、、あなたは「鏡」という存在を既に知っています。ですからこの話が理解できます。そうか最初から鏡の反射しか見ていないのなら気づきようがないよね、、、、となるのです。今あなたは心という鏡に映し出された世界を見ています。そして見ているということはあなたは鏡の中の住人ではなく、、鏡の外の住人です。それが真我です。あなたは鏡に写った映像を真我として今見ているのです。だからあなたは鏡の中の住人ではありません。

自我

自我とは、、あなたが鏡の中の住人ではないにも関わらず、、あなたを、、この鏡の中の「私」にしようとする詐欺師です。そして鏡の中の住人「私」は鏡の中の住人なのだから「体」が必要ということになりこの体を作ったのです。そしてしっかりとこの体を今やっています。ですが、、、この鏡の映像に気づくのは、、、鏡の外に存在する必要があり、、、今も(真我=あなた)は100%鏡の外に存在するのです。だからもう「私」という詐欺師と縁を切ってください。

眠りの状態と自我

三つの状態

目覚め、夢見、眠りの状態があります。目覚め、夢見の状態では確実に自我が存在します。そして自我から心が動き出し世界が現れます。その世界が心に飲み込まれ、心が私に飲み込まれ、眠りの状態に入ります。ではその時自我はどうしているのでしょうか???自我は自我を生み出すvasanaの中に飲み込まれます。だから眠りから覚めた時、、眠りの記憶が存在しないのです。これを繰り返します。真我という存在に無知な時、、、ただ目覚め、夢見、眠りの3つの状態が無意識に連鎖するのです。

眠り

本来であれば、眠りの状態は至福なわけです。私が居ないのですから苦しみを生み出す思考もまた不在です。私の不在は至福です。にも関わらずこの至福に無知な理由は皮肉にも私が存在しないからです。だから目覚めて自我が立ち現れ、、、また苦しみが始まります。夢の中でも苦しみ、、眠り(至福)の記憶がないままにまた目覚めるのです。だから人生とは間違いなく「苦」です。問答無用で「苦」です。真我に無自覚な「眠り」は快楽同様に一瞬の花火です。

トゥリーヤ

ジニャーナヨーガでは、、眠り、目覚め、夢見の状態を超えた状態をトゥリーヤと呼びます。その全てに気づく状態です。真我が最初にあって、、その真我の上でこの三つの状態が続くのです。これに自覚的になった状態、意識的になった状態がトゥリーヤです。第四の状態と呼びます。無自覚に三つの状態が起こっていた時期が最初にあって、、それが真我の中で繰り広げられていることに気づいた状態です。

だがしかし

vasanaが残っている以上、、自我は眠りと共にvasanaに雲隠れし、、、生存します。トゥリーヤの状態は眠りに自覚的であるのですから、、自我がvasanaに雲隠れしていてはいけないのです。自我がvasanaではなく真我の元に戻るのが真のトゥリーヤです。「私ー私」、「IーI」の状態、、です。この状態が安定した時、、目覚めの状態においても真我の中で世界が現れでることに気づきます。眠りの中で目覚める状態に入ります。今までの目覚めではありません。

真我と自我のタイマン対決

ゴング

世界は心の現れであり、、その心は自我によって生み出されます。悩み事の多くは自分ごとか、自分の周囲についてです。全く知らないどこかの田中さんについて思い煩うことがないように我々の思考は私事なのです。ですから世界が心の産物と分かって心に飲み込まれ、、心は最後自分、私に飲み込まれます。では、、、最後に残ったこの私は何によって気づかれているのか????真我です。真我が自我に気づくのです。心も消え、世界も消え去り、、最後に残った自我が真我によって気づかれています。「私」という精妙な思考が取り残されたのです。

この思考は誰のもの????

思考が起こるたびに、、この思考は果たして誰のものなのか????と思考してみてください。間違いなくその思考は「私」のものです。その「私」から気づけば次々に思考が嵐のように吹き荒れています。その思考が世界を生み出しています。ですが世界が心思考の産物と気づけば世界が消え去り、、心は自我に引き戻されていきます。世界を失った思考は思考することがなくなるのです。そして「私」が取り残されて今ここに在るわけです。

いやいや取り残された「私」は当然真我ですよね????違うんです。真我は絶対に「私」とは言わないのです。なぜか????真我しかないのだから真我が私と叫ぶならば私以外が確実に存在するのです。ところが真我以外が何も存在しないのです。神以外が何も存在しないのです。だから、、、、、この「私」は真我の声ではなく、、ただ起こった現象なのです。「在る」「生」「意識」から生み出された思考が「私」です。生み出された思考の私は間違いなく「在る」「生」「意識」であるはずがなく、、故に私は用無しになって真我に吸収されていきます。詐欺師の撤収です。お役御免です。

その後

その後も当然私という思考は起こりはしますが、、その私は真我「在る」「生」「意識」であるはずがなく、、私は起こっては消えていくのです。私が常駐する理由は一切なく、、、故に私は儚い現象の一部になっていきます。体、心を私が捕まえようとも、、その私は「在る」「生」「意識」ではないことが明白であり、、故に、、存在し続ける理由がもはやないのです。

ガチマジ

社会に適合

宮台真司さんの講演で「あなたはなぜつまらない人間なのか???」という議題での公演があります。「あなたは社会が作った法律、ルール、社規、、、にマジでガチで適応しようとしている、、、だからつまらない人間なのだ。。。本当のコミュニケーションとは法の外、ルールの外にある。人間の価値は法律の中、ルールの中に閉じ込められたものではない、、、」という趣旨の内容です。まさにその通りです。我々は、、、社会どころか世界、宇宙の中の存在でもないのです。我々の中に宇宙も、世界も、社会も、会社も存在するのです。あなたなしに宇宙も、世界も、会社も社会も法律も存在できないのです。

ですが、、、

そうは問屋が卸さない、、動きがあります。それがヴァーサナーです。vasana。真実に目覚めていくのではなく作った世界にガチマジで適応しようとする動きです。この動きが悪なのではありません、この動きが苦しみの継続なのです。宮台真司さんは人間は決して法律よりも社会よりも会社よりも価値のない存在なのではないと叫んでいましたが、、そこに甘んじる動きがvasanaです。この動きは、、真実の発見の前の未発見という経験のために起こるのです。未発見の時期がなければ発見という体験が起こらないのです。アメリカ大陸発見という歴史があるのは発見されていない期間があるからこそです。

vasanaが消えると

vasanaが消えていきますと、、、vasanaによって隠されていた真実が現れてきます。物事がありのままに見えてきます。今はまだ、、見えていないのです。社会にガチマジで適応しなくては!!!という動きはまだvasanaによってありのままの世界が見えていないということです。このことをジニャーナヨーガではsiddhi(シッディ)と言って、、超自然能力と言います。なぜあの人は見えているのか????です。あの人にしか見えていない世界がある、、、の能力です。この能力が開発されてきた時、社会、会社にマジガチで適応しなくては!!!が起こりません。なぜならばその必要がないことが見えているからです。

幼少期

幼少期は皮肉にも見えていたのです。幼少期はマジガチで社会に対応しなくていいことが見えていたのです。ですがvasanaが発動し始め、、ありのままの世界に影が出てきたとき「見えなくなった」のです。超自然能力(siddhi)が閉じました。これによって我々は社会の従順な(何か)に甘んじるようになります。ですがどこかでは感じます、何かがおかしい、、幼少期はこんな感じじゃなかった、、、です。そうです、それが真我探究の発露です。

体の中の世界

世界の中の体

一般的に我々は世界の中にこの体が存在すると信じています。ですが事実では別でこの体の中に世界があるのです。世界があるからそれを捉える五感があるのではなく、、五感しかないのです。五感の外にはリアルな世界は存在しません。五感がだけが起こっていて五感の外に実在の世界など存在しないのです。五感を作り出すこの体だけが存在して五感の外には実在の世界など存在しません。

体の中の心

一般的に我々はこの体の中の脳、この脳の中に心が存在すると信じています。ですが事実では心の中にこの体は存在します。脳の中ではなく心の中にこの体が存在するのです。その証拠に眠りの状態で、、体が消え去っても心が残り夢見を作ります。体は眠りで消え去っていますが、、残った心が、、夢見を生み出しています。だから体は消えても心は残るのです。それが輪廻転生です。体が死んでも、、違う体を選んで生まれ直します。同じ体を選んで生まれるのが普通の目覚め、違う体に変えてしまえば輪廻転生です。

心の中の「私」

一般的に我々は心の中に「私」が存在すると信じています。ですが事実では「私」の中に心が生まれます。私こそが心の生みの親です。その証拠に、、夢見のスタート、、最初の最初に現れるのは「私」です。目覚めの瞬間、、最初に現れるのは心ではなく「私」のはずです。「私」が現れてから心が活動的になります。つまり心とは私に纏わるものなのです。私にとっての心なのです。

ヴァーサナー

その私はヴァーサナーの中に生まれます。ヴァーサナーとは輪廻を通じて形成されていく癖のようなものです。精神的内的傾向とも呼ばれます。これを「カルマ」と呼んだりもします。このヴァーサナーは幼少期には発動せず、、幼少期を過ぎた頃から発動し、、、癖として人間の体の中で現れます。ヴァーサナーが自我を生み出し、自我が心を生み出し体、世界を生み出すのです。

真我の中のヴァーサナー

vasanaは真我の中に生み出されます。ですが真我は不変であり永遠の存在ですから、、、真我とは別にvasanaが生み出されることはありません。真我の影としてこれが起こるのです。ですからvasanaは実在ではありません。実在ではないということは消える可能性があるのです、というよりもどこかで消えます。我々の人生はこのvasanaを消すためにあるのです。

世界という想念

想念??????

世界の原料は思考、想念、心です。多くの方は心と世界は別物と考えます。ですが事実では世界は心の一部なのです。世界はなくても心は存在できます。その証拠に夢を見るとき、、世界は存在しません。世界は存在しないにも関わらず夢を見ることができます。つまり世界とは心が生み出すのです。夢を心が生み出すように、世界も心が生み出すのです。そして心は「私」によって生み出されます。そして「私」は真我のよって生み出されるのです。では真我は何によって生み出されるのか???真我は何によっても生み出されません。なぜならば真我以外は存在しないのですから。

世界がなくても

我々は眠りの状態の時、、世界がなく存在しています。世界がなく存在するためには、、我々は世界を超えた存在でなくてはなりません。事実我々は世界を超えた存在なのです。その証拠に我々は世界不在の中で夢見の状態を生み出すことができるのです。ではこの現実呼ばれる世界は我々の心が生み出すのならば、、我々はどうやって真我から現れることが可能なのでしょうか???

真我とは

真我とは絶対的存在であり不変の存在であり、永遠の存在であります。だから真我が「私」をドカンとリアルに生み出すことはありません。ならば「私」は何なのか???私とは真我の投影として現れでた影でしかありません。不変の真我の中に現れた影です。その影である「私」が真我(不変、永久)を自己同一視し、、心を生み出し世界を生み出しこの体、心とも自己同一視したのです。その結果、影の世界で、、私物語が始まったのです。

狂った動き

宗教的テロ集団がなぜ危険かと言えば、、彼らの心情において、、ミッションを遂行したら「天国」に行けるという刷り込みがあることです。天国に行けるならば、、何でもできる、、、これが周囲からしたら危険極まりないわけです。真我探求はそれとは全く違うのですが、、全てが幻想であることを見抜いた動きは、、見かけ上の周囲からは変わって見えるのです。全てが実在と信じた動きと、全部が幻想と見抜かれた動きは全く変わってしまうのです。

そして

全てが幻影、マーヤーである以上、、そのマーヤーに依存することもなく、、、故に彼は自由です。社長を約束されているドラ息子が奔放なように、、、真我であることを実現した彼は、、、奔放です。しかも社長という不確かな椅子ではなく真我という椅子です。絶対に消えて無くならない椅子、それが真我の座です。自分自身がそこに座っていたことに気づいた彼は、、、この幻想の世界を遊びます。

意味不明

この世界を幻想と見抜いた行動は周囲からは意味不明です。あいつは命が惜しくないのか???あいつは世間体は気にしないのか???あいつは、、、、、です。ですが彼の行動には皮算用、取引、裏の顔が既に存在しません。だって何一つこの幻想の世界に頼っていないのですから。彼がギャンブルに興じても、異性に興じても、贅沢三昧に興じても、、それはただ自由だからです。世界はもう彼のものです。

誰もいない

たった一つのエネルギー

誰も実在しません。誰一人存在できません。真我というたった一つのエネルギーだけが存在し、それ以外には何も存在しません。存在できるとすれば蜃気楼、幻想だけでのみです。幻想とは存在すると100%感じることができるが100%存在しない存在です。眠りに入ったら全消えしてしまう存在です。その存在を「実在」するとは言いません。実在するのは真我だけです。

そこに

私という思考「自我」が突然ボコっと現れ同時に心が現れ世界が現れ、、その私は「真我」と同一化し、体と同一化し、心と同一化します。真我の中に「私」が立ち現れた瞬間です。そして「私」が立ち現れることで「あなた」「彼」「彼女」「その他大勢」という幻想が立ち現れていくのです。真我の中にあらゆる幻想上の存在が現れ出たのです。この動きを何千回と輪廻転生の中で繰り返してきました。その経験が「サンスカーラ」であり、、そこから起こる動的傾向がヴァーサナーです。

ジニャーナヨーガ

個人の存在を認め、世界の存在を認め、、その上で再結合を目指すのが一般的ヨーガです。一方知恵の道、ジニャーナヨーガは、、、最初から「私」を全否定します。「私」という感覚は自我でしかなく、、その自我は実在しないと全否定してしまうのがジニャーナです。自我は実在せず、、、真我だけが実在する、、この事実への気づきは、、そのままかつての自我が作りだした世界を変えていきます。真我が発見された後の自我はもう自我ではありません。自我とは真我の「気づき」を拝借していた存在だからです。

自我の動きが変わる

それでもヴァーサナーが在る限り、、、そのヴァーサナーは、、自我に絶対的な何かへの依存を促します。これまで散々散々何かに寄りかかってきた自我はその何かがなくては存在できません。そこで絶対的何かを真我にシフトするのです。これがヴィチャーラ、真我探求です。もう友人に依存する、会社に依存する、地位に依存する、SNSに依存する感覚が消えています。真我に依存するのです。真我として「在る」ために動きが起こるのです。ヴィチャーラへヴァーサナーが動きます。