アジニャーニ

無知

ジニャーナヨーガでは自己実現した人をジニャーニ、自己実現していない人をアジニャーニと呼びます。ジニャーニは真我実現し、、その後アジニャーニを救っていく、、という流れにはなります。ですが全てのジニャーニがそのような行動を取るかと言えば全く違うわけです。それはなぜか?????アジニャーニとは救ってあげなくてはならない存在なのか????あなたが夢見から覚めた時「夢の中の登場人物を見捨てて目覚めてしまった」とは思いません。見捨てた、自分勝手、利己主義とは絶対に絶対に思わないのです。なぜ????だってそこには実在する人間など居ないのですから。

つまり、、、

アジニャーニとは実在しない存在、幻想だということです。そしてジニャーニこれも当然実在せず、、幻想です。なぜ幻想が幻想を救わなくてはならないのか????意味不明です。幻想とは幻想と見抜かれた時点で既に救われているわけでです。つまり救ってあげなくてはならないアジニャーニなど存在しないのですから。ですが真我実現したジニャーニにとって全ては愛おしい自身の子供です。だから見た目上苦しんでいるのならば救おうという情熱が起こる場合もある、、、という話です。そこには悲壮感や責任感は間違いなく存在しないでしょう、だって幻想をマジガチで救うって不可能じゃないですか。。。

三つの状態

目覚め、夢見、眠りの三つの状態があって、、その全てに気づく気づきが真我です。目覚めの状態で「私」が友人と話をしている、、という二元のストーリーが生み出されようとも、、それをただ気づく気づきが真我です。ですからこの気づきは「二元」ではないのです。それが夢見に変わり、、最終的に眠りに気づくのです。眠りに気づく????そうです。自我の活動の不在に気づくのです。そういう意味で自我の三つの行動をただ「気づく」観賞者になるということです。この観賞者は三つの状態、自我の三活動には関与できません。ただ気づくのです。