主体、対象、行為

トリニティ

「私」が「グラス」を「見る」主体があって対象があって行為がある、、、、トリニティ、、、です。この世界はこの三つで成り立っています。そのように感じます。ですが同時にこの三つがなくてはこの世界は成り立たないとすれば三つは一つです。つまり分離した三つではなく三つで一つです。一つが欠けた時点で成立しないのならば、、それは分離ではなく統合です。分離した存在は存在しないことになるのです。

実際

この世界には分離は存在しません。だからトリニティは存在しません。だからこそ主体が存在しない対象は存在せず、、、対象が居ない主体は存在しないのです。つまり主体と対象は一つです。対でなければ存在しえないのであれば二つは一つなのです。つまり分離はないのです。

苦しい時

私が手放さない

苦しみ、、、これはあまりに長い期間「自分」によって所有されてきました。だから苦しい、、、この感情が大きければ大きいほどに「自分」が強く意織されさらに苦しむことになります。苦しいから苦しいから悟りたいんです。。。その時強烈に「自分」が意織されているために悟りとは最も遠い認識にいるのです。

苦しいを感じる、、だから俺が居る

苦しい、、、だからこれを私が感じている、、、、私が感じているという概念が、、さらに分離感を強めます。するとそれを感じているのは「俺だ」が起こり、、、さらに苦しみが湧いてきます。。この負のループに入ったら最後、、、記憶が「俺」を起こさなくなるまで続くのです。自暴自棄とは、、「俺」がもうこの苦しみを対処しない、、という自己防衛です。どうにでもなれ、、、という時、、「状況と自分」を切り離したのです。

状況の責任を取るのをやめる

現状はこうだが、、ここで逃げ出したら親は家族は恋人は悲しむだろう、、、だから逃げない。。。この時逃げたい「自分」と「自分」を囲い込む周囲によって雁字搦めにあっています。開き直ってどうにでもなれ!!!!という時「状況と自分」「周囲と自分」という関係を切ったのです。それができない時、、、現象を対処すべき「自分」が残ります。自分を中心とした概念の渦が連打します。

個別の反応ではない

全体からその体を通じて起きる

お店に入って注文を間違えられた時「全体からその体を通じてその間違いが起こった」これが事実です。多くの方は間違えた「体」に向かって感情を抱きます。「あのやろう」「このやろう」「なめやがって」ですが実際にはその体には個別行動は一切許されておらずただ全体の表現としてそれが「起こった」のです。これが科学です、真実です。「あのやろう」「このやろう」という思考はこの科学の理解が欠如している時に起こるものです。

挨拶を無視される

親しい知人に道端であって「こんにちわ」と挨拶をするも無視をされる、、、、そうなれば多くの方は「冷たいやつだ!!!」となるでしょう「人が変わってしまった」「人間調子に乗るとああなるよね」まーなんでも感情思考が起こるでしょう。ですが実際には「全体からただそれが起こった」のです。知人の意志でそれをしよう、、、じゃない。。。。

個人的感情が消える

そこから「あいつはこうでこういう性格で過去にはあんな事情があったに違いない、家庭環境がこうこうっではないか。。。。。」をしなくていい、、、なぜなら全体による全体の反応が「それ」だったのですから。こちらからの「アクション」に対してそういう反応が起こった、、以上です。個人ではなく全体のリアクションとしてそれを受け入れる、、ただそれだけです。そしてそれに対していかなる反応がこちらで起こってもそれも全体の反応です。

「私が理解する」という前提

だから

理解できません、悟りのメッセージは理解が起こらないのです。なぜか??????「私が理解する」という前提のコンセプトだからです。その根底で、、、理解できる内容のみが、、、理解が起こるのです。だから本当は分離がない、本当は自由意志がない、、本当は時間がない、、本当は空間がない、、、という「私」ありきを覆す「内容」は認識が起こらないのです。

1+1=2

数学の基本は「1+1=2」です。このコンセプトが大前提にあってあらゆる数式が成り立ちます。ところが1+1=2を覆す内容の話を数学学者に伝えても「ちょっと待った!!!!!」が起こります。無理無理無理!!!!!です。急にそんな話をされても困っちゃって終わりです。

内容はシンプル、だが認識は起こらない

悟りのメッセージはシンプルです。超シンプルです。ですが、、、認識が起こらないのです。なぜならば認識しようとする前提が違うから。今日この話を理解しようとする「私」が居ないという話だから。誰がじゃあ理解するのか??????という話です。そして周囲が誰も認識していない内容を認識することは完全シャッターオフが入ります。なぜならば「周囲との分離」はエゴの死を意味するからです。

嫌われる

なぜ??????

悟り系のメッセージは嫌われます、非二元のメッセージは嫌悪されます。なぜ???????宝くじ3億円を夢見て買っている人に「当たっても幸せになりませんよ!!!!!」と大上段からのさばるメッセージだからです。買っている側からすれば、、、ふざけんな、、じゃあ他に方法があっるなら教えろよ!!!!となります。そしてメッセージを聞いても意味不明、、これでは嫌われて当然です。

世の中のほぼ100パーセントが知らない話

その内容がいかに信憑性があっても無駄です、意味ないのです。なぜか??????多くの人は内容ではなく「パーセンテージ」を気にするのです。「内容がどうか」ではなくどれほどの人がそれを信じているか、、ここしか見ていません。だからこの圧倒的少数派の意見は内容に関わらず認識できないのです。つまり友人、同僚、親、親戚から聞かない限り「内容が入ってこない」のです。だから悟り系のメッセージが陽に当たることは先ずないということです。

後悔と戦略

あの時はこうして失敗した

あの時はこうして失敗してしまった、、、だからこれからはこれだけは気をつけていこう!!!!!あの時は完全に勘違いしてこう失敗した、だから次からはこういうやり方で行こう。。。。人生とはトライアンドエラー、、、失敗は誰でも味わってしまうからそれを回避するためにこうしよう!!!!の連続です。というよりも人生とは失敗回避戦略のことです。で?????今幸せですか??????今も結局のところ失敗しないことに怯えて生きていませんか??????それって幸せですか???????

その全て

人間のほぼ100パーセントが失敗回避戦略で生きているならばそれって本当に主体的な生き方なんでしょうか????それってただの反応じゃないですか?????あの失敗だけは絶対にしたくないってただ反応して生きているだけじゃないですか???????はい、その通りです。人生とはただの反応なんです、限りなく主体的に見えて実はただの反応です。

だったら

ただの反応ならな、、もう何も考えなくても大丈夫です。いままでがただの反応ならばこれからもただの反応ですから。。。。。いやいや今までしっかり「考えて」生きていたから生き残ってこれたんです、考えなくなったら即死にますよ!!!!!その「考えて生きてきた」が反応だったのです、だからこれからも思考が起ころうと行動が起ころうとそれも反応です。だから大丈夫なんです。反応以外の選択肢が用意されていないのですから。

そう思うとかじゃない

悟りとは「こう考えた方が良いかも」というポジティブシンキングでもモチベートシンキングでも概念でも信念でも観念でもありません。事実がそうなっているという「科学」です。科学だから捉え方の話し方ではないんです。科学でそうなっている、、、に全て収まっていく、集約されていく、、完結されていく、、これが悟りです。

力が抜けてしまう

あ、そうだ!!!!

「あの時あれをしとけば!!、、、、、、あ、、、そうだ、、無理だった。。。。。」「あいつなんでこんなことをするんだ!!!!性格悪いよなー、、、あ、そうだ、、、誰も主体が居なかった、、、、、」「全然結果がでない、どうしよう!!!、、、、、あ、そうだ、、、、、誰も結果には介入できなかった。。。。」全部が全部こうなります、、思わずでる後悔、怒り、反省、妬み、嫉み、、、、その瞬間「あ、そうだった」が起こります。思考は湧いていいのです、、誰にもこれはコントロールできない、、、ですがその後に「あ。そうだ!!!!」が起こるのです。

これが証拠

紛れもない後悔が、、、「あ、そうだ!!!!」で消えるのです、、、これどう想います?????紛れもない100%純度の後悔が、、、「あ、そうだ!!!!」で消えるのです。。。後悔って何ですか?????思考が作り上げた「エネルギー」です。思考が作ったんです、、、だからその思考が変われば作ることができない感情それが「後悔」です。

簡単

悟りって実は実は超簡単なんです、理屈的には。人生の苦悩の全ては「間違った考え方」が作り上げたもの、、そしてどう具体的に間違っているかに気づけば、、、もう思考が苦しみを量産できない、、、、そこに気づくことです。思考がいかに巧妙に苦悩を作り出しているかに「実感」として気づくのです。すると「あ、そうだ!!!!」が連発します。

「何か」はない

分離

この世界には「何か」は存在しません。主語になる「何か」はないのです。これは科学です、、「何か」とはこの世界とは分離した「何か」ですがこれは科学的にないのです。何も「何か」がないのです。「何か」が一切ない世界においてではこの世界は「何」なんでしょうか?????「何でもありません」「何か」が一つもない世界、、終わりです。「何か」が一つもないのだから『「何か」がひとつもない』を集めても何でもない、、が答えです。だからそれを非二元と称します。

あるけどない

間違いなく視界には「あらゆもの」が存在するように見えます、、そして視界は100%あります。ですがその中に「何か」と呼べるものは一切なく、、よってそれを集めても「神」「空」などと表現できてはおかしいのです。言葉で表現できる「何か」では絶対にないのですから。「何か」と呼べるものが絶対にないのですからそれを集めても「何か」では絶対にないのです。だから「空」とは「何か」ではなく「何か」とは絶対に呼べないものを集めた「何か」ではないものです。

苦手な上司

明日のプレゼン

「明日苦手な上司の前でプレゼンの予定が、、、、もう今から胃が痛くて痛くて、、、、」これ何が起こっているのか??????「苦手な上司をありありと思い描き、、その前で発表する私をありありと思い描き、、」そのことで居心地の悪さが生まれ胃が痛くなったのです。何を当たり前のことを説明してるんですか???????『まだ何も起こっていないのに、、想像するだけで胃が痛くなるんです』これ、、悟りの答えですよ笑

想像だけで、、、、、

人間とは想像するだけで「胃が痛くなる」んです。強烈な分離しているイメージが想像通じて起こった時「分離感」が起こります、、これが居心地が悪いために、、、お酒を飲もう、、という次のアクションが起こります。人間の苦しみとは実はこれだけなんです。「分離しているというイメージ」これがただ「分離感」を生み出し、、これが苦しみとなり、、、解消できるであろうイメージが起こり続けます。「解消できるであろうイメージ」はさらなる分離感を生み出し、、、またまた居心地が悪くなる、、ということを「今」繰り返すのです。

この延長線上には救いはない

このことに気づくまで「この地獄」は続きます。想像するだけで苦しくなっちゃうんです、、こんな酷い苦しみありますか???????人間業界では「当たり前」かもしれませんが、、これ地獄ですよ。これをやっている限りは地獄なんだ、、この気づくを起こすしかありません。人間の間で生きていく限り勿論この想像行為は続きます、、この想像無くして「仕事が成り立たない」ですから。ただしもう一つの認識、、「その想像は想像に過ぎず、、、そこに気づかないから苦しんでいた」この認識を作ります。想像にも関わらず苦しんでいた、、、ではなく想像こそが苦しみの真犯人です。

既に誰もいない

それが分かる

究極的には最初から最後まで誰も居ません、、ここは「空」という絶対の存在の影なので、、、分離は100%ありません。だから分離した「誰か」というのは現れ出るわけがないのです。ですがその中で「分離している」という思考の形をとった影が現れでることで「分離している誰かが居る」という思考認識だけが起こります。だから100人の前に立てば、、「100人の独立分離している誰かが居るなー」という思考が勝手に湧いてくるのです。

居心地が悪い

明日100人を前にして挨拶をしてください、、、そう言われれば居心地が悪くなります。なぜか?????それは『「独立分離してる誰か」から「独立分離した私」が見られる』と今想像が起こったからです。これによって強固な分離感が現れでて居心地の悪さが現れでたのです。起こったことは全て想像です。想像だけが起こり、、本当は誰も居ないのです。

誰も居ないのに

最高に最高に面白いのは「誰もいない」のに、、今までコミュニケーションが行われていたということです。こんな面白いことはあり得るのでしょうか??????「この人の話は面白いけどあの人は面白くない」なんていう稚拙な話ではないんです。会話が成り立っていること自体が奇跡です。本当は誰もいないのに、、まるで居るかのような会話が成立してしまっている、、というここが奇跡であり癒しです。