タコ踊り

もしも

もしもあなたが道を歩いていたら「おっさんが素っ裸でタコ踊り」をしている姿を目撃したとしましょう。「え!!!!」となります。「マジで!!!」となります。そして次の日その姿が自然に勝手に湧いてきてしまう。なぜ????なぜその映像をフラッシュバックするの????しなきゃいいじゃん!!!!でも間違いなく翌日も翌々日も翌翌々日も、、「フラッシュバック」の映像が、、、その映像は夢の中でも。。。。。なぜですか????自由意志があるならそんな映像思い出さなけりゃいいじゃん!!!でも出来ない、、、何度でも何度でも。

結論

結論を言いましょう。自由意志がないからです。自由意志がない決定的証拠がこれです。ないんです。自由意志は。ただしそのフラッシュバックを認識する存在が確実にいます。勝手に湧いてくるフラッシュバックに気づいてしまう存在がいます。それが「あなた」です。勝手に湧いてくるビジョンに確実に気づく存在が「あなた」です。つまり我々は自由意志の覇者ではなく勝手に浮かぶビジョンの認識者です。

大転換

大転換が起こります。天変地異です。次元が一瞬で変わってしまうのです。なんだこりゃ!!!!です。俺は思考を操る「自分」という存在じゃなくて勝手に湧いてくる思考の認識者に過ぎなかった。。。。感情の認識者に過ぎなかった。この体が自分だという誤解も勝手に今まで湧いていてその認識者に過ぎなかった。そして全ての思考、全ての感情が勝手に湧く大元、根源こそが自分だったのです。ただそれをシレッと認識するだけです。

空間と時間を超えて

時間と空間があるならば

時間と空間が仮に存在するとしましょう。ではどこに存在できるのですか???それが確実に存在するとしましょう。ではそれはどこに存在できるのでしょうか????つまりこの宇宙時空間が存在するためにはそれを包括する「存在」が必要になります。そしてそれが仮に存在するとしましょう。ではその「存在」はどこに存在できるのでしょうか?????とこれは無限地獄に続きます。ですからこの時空間は存在しないのです。時空間を収める「スペース」が存在してはいけないからです。

では

絶対にこの時空間が存在しないなら何が確実に100%存在するのでしょうか???それがこの体験とその気づきです。これは100%存在します。100%です。この体験、知覚、そしてその気づきです。これは紛れもなく存在するのです。これを実在と呼びます。真我とも呼びます。では本当の私とは誰でしょうか???それは真我です。つまり気づきです。その気づきからこの経験と呼ばれる知覚が次々に途切れることなく起こっています。この体である自分という感覚も真我から起こり、、そして気づかれています。

というと

じゃあこの人生ゲームは何ですか???人生ゲームなど存在できません。空間と時間が存在しないのですから。でも確実にその人生ゲームは気づかれていますよね。それだけは紛れもない事実です。とするとこの人生ゲームとは記憶が作り出したファンタジーということになります。言葉が生み出す幻想です。言葉が生み出す幻想が紛れもなく気づかれているのです。今ここで言葉が生み出す幻想が起こりそれが気づかれているのです。ですからマインドが消えればこの人生ゲームも瞬時に消えます。それだけが分かっています。

穏やかな心???

不可能

「今日は一日穏やかな心で過ごすことができました、今後もこのような心で暮らしていきたいと思います。」残念、不可能です。心自体が苦しみの根源であり、心とはトラブルメーカーなのです。ですから穏やかなトラブルメーカーは存在しないのです。心を過信すれば最後、、心に一生やられ続けます。心自体がトラブルメーカーなのだ、、、という自覚を起こすのです。

そして

このトラブルメーカー心は全くのノーコントロール、変幻自在、コントロール不能、、、これが真実です。こんな恐ろしいものを人間の体は搭載してしまったのです。ですから釈迦は悟り「人生とは苦である」と説いたのです。心というトラブルメーカーを搭載した体の宿命が「苦」です。ここから逃れることは不可能です。

だとしたら

だとしたらもう我々は苦しみから脱却なんて不可能じゃないですか!!!!だって思考を使わなかったら心を使わなかったら生きていけない、、、生きるためには心を使い、心を使えば苦しくなる、、、こんな理不尽なことってありますか???????大丈夫です。絶対に大丈夫なんです。あなたは今日から「心」を全く信用しなくなるから、、心は自分勝手に勝手に勝手に動く別生物です。そのことに気づいた時、、心の動きに関心が消えます。思考の動きに無関心になります。関心が寄せられなくなった心は苦しみを生み出すことができなくなるのです。

植物→動物→人間→神?

進化の途中???

さて我々人間は「植物→動物→人間」という進化を辿って生まれたと信じられています。DNA的にはそうなのでしょう。だとしたら人間の進化の頂点には「神」が存在するのでしょうか???植物連鎖の頂点に立つ人間のさらなる先に神が存在するのでしょうか???そしてその神は「龍神様」「天照大神様」と言って物質を伴わない存在としてここに存在するのでしょうか???

結論

人間は動物の進化の過程で生まれたのだからこの進化の先に神が存在すると「考え」ます。だから神様をイメージするときそこにが「白髭のおじいさん」が神として登場したりするのです。この白髭のおじいさんは「記憶」が生み出した想像物です。人間は記憶を使って神を想像することしかできないのです。ですが記憶とは思考です。思考が生み出す神が神なのでしょうか???我々が信じる神は思考が生み出すイメージのことです。

最終結論

ではさらに進めます。万物の創造主が人間によって発見されることは不可能です。なぜならば人間が神を発見してしまたら「神と人間」という対極構造が生まれてしまうからです。神と人間という二者が生まれてしまいます。神は創造主なのですから全てです。ですから人間に発見されてしまった神はその時点で「全て」ではなくなってしまうのです。では神はどこに居るのか?????今この森羅万象の動き、人間の動き、私の動き、私の心の動きに「気づく」その気づきが神です。真我です。そしてこの森羅万象の動きその動きも神です。だから神しか存在しません。真我しか存在しないのです。

現実の奴隷

現実が奴隷

我々は現実の奴隷です。現実という檻の中に住む奴隷です。綺麗事はいいけど現実はどうなの????夢物語はいいけど現実はどうですか????つまり私はこの現実の檻からは出れないよ、、というのです。これが催眠です。これが洗脳です。違うんです。この現実と呼ばれる時空間こそが「私」の中に幻想として今立ち現れているのです。思考によって。

だから

だからこの現実と呼ばれる幻想物理空間は熟睡中は消えるのです。私の意識と意志が存在しない時、、消えます。私の「意識と意志」が不在の状態で妄想物理空間は存在できないのです。だから現実は存在しないのです。消えるのですから。意識の不在時に消えることができるのはこれが幻想だからです。そして真の私とはこの「意識=幻想」が存在時も不在時にも決して失われない「気づき」です。

記憶が抜けても

残るもの

我々は記憶が全部飛んでしまったらどうなると思いますか????経験が飛びますよね。過去の経験の全てが。私ストーリーの全てが消えます。さらにですよ、記憶が飛んでしまった「今」経験がなくなります。思考が支えてきた経験が消えるのです。ビールを飲んでも「私がビールを飲んだ」という経験が起こりません。スイカを食べても「私がスイカを食べた」という経験が起こりません。そうです。何もかもが消えるのです。ですが絶対に消えないことはあります。それが「在る」という言葉が指し示す感覚、「意識」という言葉が指し示す感覚です。これは消えません。

そして

「在る」「意識」の感覚が気づかれます。気づかれないことがありません。「在る」「意識」の感覚に気づくのに努力は必要ないのです。つまりこれまでの全ての経験は「在る」「意識」の変容だったということです。記憶も思考もマインドも「在る」「意識」の変容でありそれが全てもれなく「気づかれ」ます。かつての「私」も「意識」「在る」の変容でありだからもれなく気づかれてきたのです。

私はどこに????

では過去に存在していた「私」はどこに行ってまうのですか???過去に存在していた私は「私=気づき+意識+この体」のことだったわけです。ですが私こそが意識の現れであり、その意識は、気づきの現れだったのです。ですから「私=この体」になるのです。この体に名付けられた名前に戻ったのです。私を構成していた「意識+気づき+この体」からすっぽりと意識と気づきが消えました。だからもうかつての私ではないわけです。

宇宙空間は誰が産んだ???

この体は宇宙空間から生まれました。これに疑いを持つ人はいないでしょう。人類全ての体は「子宮」から生まれその子宮は宇宙です。宇宙空間の中の女性の子宮からこの体は生まれたのです。では????この宇宙空間はどこから生まれたのでしょうか???何からこの宇宙は生まれたのでしょうか????何かが宇宙を生み出さなかったら宇宙は存在しえないですよね。

なんだろう????

宇宙空間は間違いなく「何か」から生まれています。その何かがなければ誕生は不可能です。そしてその何かから生まれたのならば今も確実に「それ」はなくてはなりません。だって「それ」の中に宇宙は間違いなく存在しているのですから。ではそれを探しましょう。「それ」がない時この宇宙もなくなる「それ」です。あなたは熟睡中この宇宙を感じることができませんね。つまり熟睡中は宇宙が存在していないわけです、それが事実です。だとしたら熟睡中に「それ」も無くなっているはずです。熟睡中に無くなっているのは何ですか???

意識

結論から言いましょう。「意識」です。熟睡中は意識がないのです。そうです。宇宙空間は「意識」が生み出したのです。だから意識がないとき宇宙もなくなるのです。宇宙の母は「意識」だったんです。そこまではわかってきました。ではその先に行きます。この私の母は宇宙空間であり、宇宙空間の母は「意識」です。では意識の母は何でしょうか?????その母は今も絶対にここに存在しています。それが存在していなかったら「意識」も存在できないのですから。何ですか????何が今ここに存在していますか????

気づき

意識が存在していること、そのことに気づいている「気づき」が意識の母です。「気づき」がなければ意識は存在できません。そうです、意識に気づくその気づきこそが意識の母です。つまり我々は「気づき」から生み出された「意識」であり、「意識」から生み出された「宇宙空間」であり「宇宙空間」から生み出されたこの「体」なのです。そしてその全てが今ここに存在しなくてはならないのです。

私→宇宙空間→意識→気づき

システムエラー

真実ではこうなっています。私は宇宙空間に含まれ宇宙空間は意識に含まれる、意識は気づきに含まれます。これが真実です。ですがここに起こる思考内容はそうではありません。意識と気づきがこの体の中に含まれていてそれを「私」だという思考が起こっています。その思考が意識され、、さらに気づかれているのです。完全なシステムエラーです。真実とは異なった思考が起こっています。この思考が起こったとき、同時に分離感が起こりそれが苦しみになります。

真実に気づけば

真実に気づくとこうなります。宇宙は、世界は「意識」から生まれたのだ、、これが実感できます。なぜならば意識不在の状態で宇宙空間は存在したことがないのです。これが事実です。これが真実です。そして「気づき」が存在しないとき意識も存在できません。意識は気づかれてこそ意識だからです。意識単独では存在できないのです。

つまり

真実を知ってしまえば、、事実は完全完璧に上記の流れで構成されています。気づき→意識→宇宙空間→私の順番で構成されているのです。ですからこの「気づき」は私には含まれていません。この意識は私には含まれていません。気づきも意識も私には含まれていないのです。気づき、意識の中に私という思考が含まれているのです。この事実に「気づいた」とき全てが変わります。

無人島で生まれ「私」は存在するか???

無人島で突然

あなたはある日理不尽な理由から無人島に捨てられたとしましょう。そして狼に育てられた。そこで何年間か過ごし、、人類に発見されたとします。その時あなたには「私」という感覚はあるでしょうか???ありませんね。私というのは教わって初めて生まれる感覚です。だから人類が何度あなたに「名前」を呼びかけても反応できない。思考すら全く湧いていない状態です。これが無我の状態です。

ですが

ですが、、、、無人島に来た人類には気づくし、、、、彼らがチョコレートをくれれば、、それも感じます。五感は存在します。そして五感が気づかれています。何を当たり前のことを言うのか????そしてあなたは「世界に住んでいる」という感覚を所有しているだろうか???絶対にそれはないのです。ただ五感だけがあってそれが気づかれているのです。

種明かし

我々は「世界に存在している」という実感を持っていますか????持てないのです。思考なしに世界に私が存在している、、、など絶対に実感できないのです。五感だけでは「世界に存在する私」など絶対に体感できません。思考が起こって初めて「私」「世界」を感じています。思考を感じているのです。私を感じているのではなく私という思考を感じています。世界という思考を感じているのです。

7つの感覚

無人島で育てば5感のみが起こっています。思考が起こって初めて私や世界を感じるようになります。思考が起こって初めて怒り、憎しみという感情を感じるようになります。思考がなければ五感以外を絶対に感じることができません。思考がこの時空間を作り出し、この私を作り出し、、我々は日々を生きています。これが真実です。思考が消えた瞬間「無人島生活者」の感覚に戻ります。そこには世界も私もあなたも何もありません。思考が湧いた時だけ世界と私が現れます。

退屈、退屈、退屈

思考が生み出した登場人物

思考が生み出すカラクリを見抜けない時、、ここに出てくる「思考、記憶が生み出す登場人物」に退屈を感じます。登場人物に出会い「記憶から生み出すその人」に会います。その人という実在ではなく記憶が生み出す「人物像」に会うのです。だから毎回毎回同じ人物像です。記憶が「この人はこんな人」と定めれば、、、そうなります。物理空間は存在しません。時空間は存在しません。ですから実在は存在しえないのです。つまり我々は思考が生み出すイメージと毎度毎度会っているのです。

解除

思考のカラクリに気づきますと、、会った感覚がその人になります。毎回毎回雰囲気は変わるのですからそれがその人です。思考が決め込んだ固定観念ではなく「雰囲気」がその人になるのです。この体の消滅に対する恐怖心が消えていきますと対人に対する恐怖心も消えていきます。その時毎回毎回フレッシュな人間関係が生まれます。

もはや人間関係ではない

真我の存在に気づくと、真我実在に至ると、、もはや人間関係ではなくなります。真我から現れでる映像内の動きでしかありません。アバターとアバターの交流です。そこには真の私「真我」は全く含まれていません。全く私が含まれずにアバター同士の交流が起こります。世界とは「真の私の投影」であり全ては私なのです。この体とあの体の交流とは私と私の交流です。何の分離もありません。全く分離がない中で平和な交流が起こるのです。