私→宇宙空間→意識→気づき

システムエラー

真実ではこうなっています。私は宇宙空間に含まれ宇宙空間は意識に含まれる、意識は気づきに含まれます。これが真実です。ですがここに起こる思考内容はそうではありません。意識と気づきがこの体の中に含まれていてそれを「私」だという思考が起こっています。その思考が意識され、、さらに気づかれているのです。完全なシステムエラーです。真実とは異なった思考が起こっています。この思考が起こったとき、同時に分離感が起こりそれが苦しみになります。

真実に気づけば

真実に気づくとこうなります。宇宙は、世界は「意識」から生まれたのだ、、これが実感できます。なぜならば意識不在の状態で宇宙空間は存在したことがないのです。これが事実です。これが真実です。そして「気づき」が存在しないとき意識も存在できません。意識は気づかれてこそ意識だからです。意識単独では存在できないのです。

つまり

真実を知ってしまえば、、事実は完全完璧に上記の流れで構成されています。気づき→意識→宇宙空間→私の順番で構成されているのです。ですからこの「気づき」は私には含まれていません。この意識は私には含まれていません。気づきも意識も私には含まれていないのです。気づき、意識の中に私という思考が含まれているのです。この事実に「気づいた」とき全てが変わります。

感情が現れた、嘘を信じている

踏み絵

江戸時代にクリスチャンを発見するため「踏み絵」を利用しました。マリア様、キリスト、の絵を描いたものをクリスチャンは絶対に踏めないことを分かっての戦略です。固定観念は感情を生み出します、クリスチャンにとって踏み絵とは絶対に絶対に感情が許さないわけです。固定観念が感情を生むのです。あなたは今感情を持っていますね????ならばそれを支える固定観念が存在するのです。だから感情とは「固定観念」が生み出す第二の思考です。

つまり

どんな感情が生まれてもいいのです。その根源には固定観念が「ドカン」と鎮座し、、ただ第二の思考が湧くのですから。感情はそこには固定観念が鎮座してるよ、、、というメッセージです。苦しいという感情は「固定観念」が生み出す第二の思考です。「人生とは苦である」という釈迦のメッセージとは「人生」という固定観念が苦しいという第二の思考を生み出す、という意味です。

真の幸福、愛

では悟った後には感情はないのか?????感情の有無に関わらず、、、真の愛、真の平和は感情ではないのです。感情とは第二の思考ですから、、思考は体験でしかありません。思考は幻想でしかありません。それは現れては必ず消える代物です。悟った後の感覚は感情ではなく、、、エネルギーそのものです。真我という存在が実現した時、それ自体が「愛であり平和」です。愛と平和自体になるのです。湧いてくる思考ではなく、、愛と幸福そのものになることです。

期待

記憶

未来に向かって大きな期待を、その期待の内容は間違いなく「記憶」が生み出します。記憶が期待を生み出しその期待を生きるのです。つまり形を変えた過去を生きるのです。そしてそれを達成したところで過去の変容を達成したに過ぎません。過去とは「自我の記憶」です。自我の経験です、これが苦しいから、、、全く異なった自我を取り巻く状況を夢見るのです。ですがそこには確実に自我があってどこまで行っても苦しみが続くのです。

つまり

我々は過去をベースにした現在未来を生きています。その過去に苦しみを生み出した「原理」に気づかずにひたすらに過去を生きるのです。つまり記憶の中に閉じ込められ、記憶を生きているのです。その記憶には記憶の中だけには自我が存在し分離の罠から抜けれません。苦しみの因数分解が終わっていないのです。苦しみの因数分解を横に置いて新しい過去を生きているのです。

根本解決

我々は根本解決を横にとりあえずおいて何か期待できる過去をイメージし、、生きています。ですがその戦略には主人公「自分」がいつも居るから当然全て失敗に終わります。根本解決を横に置いてのあらゆる戦略は木っ端微塵に常に失敗します。なぜ過去が苦しかったのか、、そこから目を逸らして形を変えた過去を目指すのです。ですがそれは全て過去の投影ですから、、苦しみも同じようについてくるのです。

事実

過去の主人公「私」は嘘の存在です。何が嘘なのか????主人公「私」が所有する「意識」は「私」に含まれていないのです。意識が世界を私を含んでいます。だから今「意識」が確実にあります。私を忘れることがあっても意識が消えないのがその証拠です。意識こそが私を生み出すのです。この勘違いこの大勘違いが苦しみの大元です。原因です。意識が世界全てを今ここで生み出し、私も生み出します。私とは意識によって生み出された思考です。だから消えても大丈夫なのです。

味の変化

ビール

ビールを飲みます。最初の一口、、美味い、、、それが徐々に徐々に普通になっていく。ただの苦い液体に。つまり味覚が変わっていく、味覚に変化が生まれていく。つまり知覚は変化して行きます、感覚は変わっていくのです。では????なぜ変わっていくことに気づけるのですか???なぜでしょうか????それはそれぞれの味覚に普遍の「気づき」が働くからです。「気づき」が完璧だから味覚の変化に気づくのです。気づきが今日はイマイチ、、これがないんです。疲れてる、疲れてない、、毎日微妙に変わるこの感覚の変化、、、それに普遍の気づきが気づくのです。

つまり我々の本質はこの普遍の気づき

気づきが何一つ変化しないから味覚という経験、意識の動きに気づきます。気づきが不安定ならば味覚の変化に気づけません。そうです。我々はこの普遍の気づきです。そして味覚の変化とは意識の動きのことです。意識の動きに確実に気づけるのは気づきが不変だからです。我々はこの不変の気づきでありそのことを忘れるという意識の動きがあったのです。

何にもならなくていい

だとしたらですよ!!!!もう私は何にもならなくていいんですね????だって不変の気づきが私ならもうこれからも何にもなれないじゃないですか!!!!そうです。あなたが何かになりたがろうが何だろうが、、何かになるのは不可能です。だって最初から気づきで最後まで気づきですから。何一つ変化しない気づきがあなたです。じゃあ体の中の私はどうすりゃいいんですか?????どうにもなりません。ただ意識の動きとして何かが起こるだけです。

それじゃあ人生なんて意味ない????

じゃあじゃあ人生なんて何の意味だあるんですか???不変の気づきが本質なら、、この世界を使って何をしたいんですか???この世界は意識であり、、この世界は真我という不変の気づきが「無限」であることを証明するためにあります。この世界は変幻自在、常に新しいのは、、その投影元が無限だからです。この世界は真我の投影であり、、真我こそが無限だから投影内容も無限に起こるのです。だから「これ」は常に常に新しいのです。

愛が現れる

意識と意志

この世界が全て「意識と意志」から現れていることに気づきますと、、世界に愛が広がります。意志とはそのまま愛です。その愛がこの体の中にだけ収まっているという勘違いの動きが起こると、この愛の上に苦しみという感覚、分離感という感覚が芽生え愛が曇ります。この曇りは勘違いの産物です。この体はこの宇宙空間から生まれ、宇宙空間はこの「意識と意志」から生まれたんだという自覚が起こりますと、、愛がどっと溢れてきます。勘違いの思考が消えます。カルマが消えます。

調和と愛

今もここは意識と意志つまり調和と愛でできています。それ以外が存在しません。ですがそこに勘違いの思考が起こり分離感という感覚が起こります。これも勿論「調和と愛」ですが同時にこれは苦しみも起こすのです。ですから何かをして愛と調和を手に入れよう!!!!というスローガンは完全にギャグです。最初からそれしかないのですから。愛と調和という海に波が立っているだけです。その波も愛と調和です。ですからそこに気づくだけでいいのです。

行為者が波を荒立てる

行為者「自分」という存在が存在します。この行為者が動くと調和と愛という海に波が立ちます。これが苦しみです。行為者の中には「意識と意志」が含まれているという勘違いが、、、、行為者という存在の盲信になります。ですが「意識と意志」は行為者に含まれているのではなく、意識と意志がこの宇宙空間を生み出しその中にこの体が在るのです。全くの勘違いです。そしてこの宇宙は森羅万象の動き、何一つ自由意志はありません。

熟睡時の自我

消える

熟睡時は自我が消えます。熟睡時、自我がはっきりと存在していた、、という自覚がある方は間違いなく存在しないはずです。熟睡時は自我が消えているのです。ということは自我は消え去ることができるのですから自我は幻想だということが分かります。自我が実在であるならば自我は絶対に消えることができません。消えることができる=実在しない決定的証拠です。そうです、自我は実在ではなく幻想なのです。

では実在は何か????

では実在は何でしょうか????決して消えることがない実在です。それは熟睡時にも絶対に消えない存在です。熟睡に気づくことができる存在です。熟睡していたことに気づく存在は熟睡時に消えていないわけです。あなたは熟睡後に熟睡していたことに気づけますよね???つまりあなたは熟睡でも決して消えない実在なのです。熟睡時にも決して消えない実在があなたの本性です。逆に言えば、、、目覚めて現れる自我は偽者です。それは幻想の方です。世界も熟睡時には現れることなく消えるのですからこれは間違いなく幻想です。もしも世界が実在であるのならば熟睡時にも消えてはいけないのです。

自我が幻想であることに気づけばそれでいい

我々の本質は熟睡時にも決して消えない存在です。それは自我ではありません。自我という感覚、私という感覚は確実に消えるのですから自我は幻想です。そして自我は目覚めと当時に立ち上がりますが見渡す全ては幻想です。一番大切なこと、、それは実在は自我ではないということ、世界でもないということ、その気づきです。この気づきは疑問や疑いを消します。もう私が何かにならなくてはゲームは終わりです。私が何かになろうともそれは幻想の中でのことです。実在である私は現れもしないし、消えもしません。ただ気づきとしてここに「在る」のです。

記憶が生み出す判断

毎瞬毎瞬

記憶は今この瞬間のこの映像を判断し続けます。記憶が判断を下します。そしてそれを当然と思っています。ですがその記憶自体が完全に誤っていたとしたら、、その判断の全ては間違っていることになります。そして事実としてその記憶は間違っています。間違った記憶から間違った判断が生まれ続けているのです。だから釈迦は人生とは苦であると説いたのです。

判断を下そうとしている時点で

今なぜ判断を下すのでしょうか???判断をしなくてはならない理由は????何ですか????それは今が苦しいからです。今が苦しいから判断を下さないといけないのです。今が苦しくなかったらわざわざ判断なんて下す必要がないわけです。そうです。記憶が生み出し続ける判断の連続として今が苦しいのだからその記憶から生み出される判断で得れる結果も「苦しい」に決まっているのです。

つまり

今この瞬間記憶が生み出す判断が始まります。会社辞めたいけれど、、とりあえずもう少し頑張ろうか、、、という判断が起こります。ですがその判断を下すのはこれまで苦しみを生み出してきた張本人「勘違い記憶」ですから当然その判断の先も「苦しい」で終わります。そのことが分かってきたら判断の結果に関心を持たなくていいのです。どうせ過去の記憶が生み出す判断では「苦しみ」が待っているのだから、、真実に触れよう、、となります。

感謝

真の感謝

真の感謝とは何でしょうか????何かを期待しそれが叶った時人は感謝します。ですがこれ完全に実は間違っています。この森羅万象の動きを知らない時このような動きになります。森羅万象の動きでは、、全ては全自動です。ここに人間が何か介入することは不可能です。ですから上手くいく、上手く行かない、、という判断自体が森羅万象の動きを理解していない無知から起こる動きです。そしてその無知の動きすらも森羅万象の動きです。感謝とはこの奇跡、全ての動きの結果「現在」が起こっているということに関しての意味です。全自動の結果が「現在」であり、、、そこには何一つ介入などできないのです。他の道があった他の選択肢があったとした場合には感謝ではなく「後悔」が起こります。

不平不満

不平不満というのは、、コントロールしていれば本当は違う現実を選べたはずだ!!!!!から来ています。目の前の「現実」ではなく他の現実があったに違いない、、ここから不平不満が起こります。それでもいいのですが、、事実としてはそれはあり得ないことです。なぜならば森羅万象の動きにミスはないからです。ですから全ての現実に「感謝」でいいのです。それしかあり得ないのですから。では何のためにこのブログはあるのでしょうか????このブログを読んで違う選択肢をするためではないのですか???

違う

このブログはより良い選択をしてもらうためのブログではありません。全く違います。選択肢は一切ない、何もない、、それを自覚してもらうためのブログです。そんな絶望的なメッセージで人は救われるのか????野生動物の全ては救われています。人間だけが苦しみます。なぜか????人間だけが自由意志があると信じているから苦しむのです。もっと違う選択肢があるではないか!!!!今の政治家は何をやっとるんじゃ、、です。全てはこれです。無いんです、そんなものは。。。。この諦めこそが、、、悟りです。この諦めがサレンダーです。究極の諦め、究極の感謝です。

この意識のない状態の想像

不可能

あなたに質問します。この意識がない状態を想像できますか??????世界が存在するにも関わらずこの意識がない状態を想像できますか??????不可能ですね。そうです、それは不可能なのです。この意識は世界の登場、体の登場、私の登場と完全同時に現れます。世界があるけど意識がない、意識があるけど世界がない、、、が不可能なのです。そうです。この世界=この意識です。この私=この意識です。この体=この意識です。

世界は変わっても

断言しますがこの世界があらゆる顔を見せようとも、、、この意識がこの意識ではなくなることはありません。この意識があの意識になることがないのです。世界は豹変して行きます、ですがこの意識はこの意識のままです。この意識の中で世界が豹変するのです、感情も豹変します、この思考も豹変します。ですがこの意識はこの意識のままなのです。

この意識のその気づき

この意識をそのまま鑑賞者と表現したりもします。鑑賞者=この意識=この世界です。真我は鑑賞者ではないのか????熟睡時に鑑賞者は消えますよね????つまり鑑賞者はこの意識のことです。夜熟睡中は鑑賞者であるこの意識も消え世界も消えるのです。自我も当然消えます。そして朝目覚めと共に、、鑑賞者が現れ、この意識が現れ、この世界が現れます。この私も現れます。それが分かって何になるんですか???それがわかった時点で本当の私である真我はこの世界が消えようとこの意識が消えようと、何も変わらずに在り続けることが分かります。真我を傷つけることができる「存在」は存在しません。なぜならば現れる現象は全て幻想であることが分かっているのですから。次元が違うのです。私とはこの幻想とは別次元の存在です。

無関心

この世界

この世界を幻想と見破りますと、、この世界への過度な関心がなくなります。何が起こってもそれは幻想なわけです。この体がいかに評価されたとて、、それも幻想です。この私がチヤホヤされようとも、、そのチヤホヤは幻想なわけです。そうです、、、全ては神の遊びです。何一つ重い現実など存在しないこれは幻想です。一方この意識は不変に常に常に存在します。圧倒的安定感の中で確実に存在を放ちます。この意識はこの世界の誕生と同時に現れます。我々はこの不変の意識です。

熟睡時

熟睡時、、この不変の意識も消え、、世界も消え去ります。世界は残ったが意識は消えた、、、は絶対にない。。。さらに意識は残ったが、、世界は消えてしまったもない。。。世界の消滅とこの意識の消滅は同時です。どちらが先もない、、全く同時に瞬時に消えます。世界が消え意識も完全に消え去ってしまったのならば、、世界と意識の復活は絶対にあってはならないわけです。復活するということは、、世界と意識が残っていたことになりますが、、間違いなく、、、、熟睡時、、、世界も意識も100%消えていたではないですか!!!!つまり、、、世界とこの意識が消え去っていようとも残っている存在があったということです。

それが、、、、、

それは何ですか????この意識と世界が「消え去って」も残る存在は何ですか???それが「この世界とこの意識」に気づく存在です。それが100%存在します。それが存在しなかったら、、、「この世界とこの意識」はなぜ、、、存在できるのですか????つまり100%「気づき」が存在し、、その気づきの中で「この世界とこの意識」は出現し気づかれているのです。そして気づきは物質でも空間でも時間でもない、、時空間ではないんです。。。。だから、、、、出現する世界、この意識は100%幻想です。現れるこの世界もこの意識も「気づき」の変容です。