フィルム

一瞬一瞬

外を見ます、、その瞬間外の景色が広がります。。この景色がフィルムになります。このフィルム、、このフィルムこそが「私」です。部屋を見ます、、、部屋が広がります「パシャリ」このフィルム、、、このフィルムが本当の私です。コーヒーの香りがします、、その瞬間「パシャリ」このフィルムが本当の私です。

あの時

そういえば三年前にこんなことしたなー「フィルムの映像が記憶から現れます」、、、、記憶からフィルムの映像が現れ出ることで「時間が経つのは早いよね!!!!」という思考が湧きます、その瞬間「パシャリ」その認識のフィルムが起こります。一枚一枚はフィルムですから「時間」は存在しません。過去のフィルムの映像が現れでた時「時間を意織した思考」が現れ出て「パシャリ」と音がします、、フィルムが現れでます。

空間はありますよね?????

フィルムは「視界」の時もあれば「味」の時もあるし「思考」の時もある「香り」の時もある、、、、さて空間はありますか???????「思考」というフィルムに空間はありますか???????時間もない空間もない、、あるのはフィルム(五感or感情or思考)です。あれ??????私ってこのフィルムだとして実際にはフィルムじゃなくてその「経験」だとしたら??????時間もなく空間もなく、、「経験」だけとしたらあれ??????存在してるの??????だって経験って物質じゃないよね?????経験って集めに集めても、、、「無」では??????そうです、、、私たちは経験という「無」です。あるけどない存在です。

思考とは記憶である

記憶喪失

事故で記憶喪失になってしまえば思考することが出来なくなります。先ず第一に思考のための言語が存在しません、言語がなくなってしまった瞬間、、、思考は構造上不可能です。つまり思考とは記憶のことであり記憶から自動発生的に現れ出る現象です。記憶から自然発生的に現れ出るこの自然現象を「思考」と呼びます。記憶は大脳が司りますが、、この大脳から自然現象的に現れでます。

あいつはこういう奴だ

記憶から自然現象として現れ出る思考を他人は認識し「あいつってこんな奴だよね!」というイメージを持ちます。その認識では「発言をコントロールできる自我」のことを称しますが、、実際には記憶から自然現象として現れ出ているだけです。それをコントロールできる誰かは絶対に絶対に存在しません。

注意

失礼な発言をした人間に対して注意をすれば発言が変わりますよ!それってしっかり自我が発言をコントロールしていますよね??????違います、、その注意内容が記憶され、、その記憶から次の発言が現れ出るために、、「変わった」と感じるのです。そこには誰も介在していないのです。

自己紹介

なぜできる??????

誰もこのことに気づきません。なぜ人間は「自己紹介」という「客観者にならなければ出来ないこと」を出来るのでしょうか??????私は波であるという自覚は海でしかできませんよね。海だけが「波」になることが出来るし「波」の紹介をできます。なぜ波が自身を波と気づけるのか?????です。

自己紹介できている時点で

自己紹介できている時点でその自己は本当の自己ではなく全体が「この偽りの自己」を認識し紹介が起こっているのです。「この偽りの自己」ありきから現れ出る思考感情を全体が認識し、、それを相手に伝えるということが起こっています。そういう意味ではこれは全体による他己紹介です。

非二元的経験

その後に

ここでは非二元的経験しか起こりません。非二元的感覚でもあります。分離が一切ないのですから主体客体という関係はあるわけがないのです。音楽が聞こえる時、、その音だけが起こり、、それを聞く者も聞かれる音楽も存在しません。音だけです。ですがその後に全体から全く分離していない思考が現れ出て「私が音楽を聞いた」が起こるのです。非二元的経験が二元的経験に置き換わった瞬間です、ですがそれは真実ではないので思考の中でだけです。

構造的不可能

自我ありきの思考

自我ありきの思考は必然的に利己的になります。本当は自分に構わずに相手のためを思っての行動をしたくても不可能なのです。なぜならば「自我」ありきの思考しか起こることができないからです。「私が居る」という前提の思考とは利己的以外が起こり得ないということです。ですからそこで相手を責めても「意味がない」のです。なぜ利己的な発想しかできないのか?????と問えば「構造的にそうなっているから」が大正解です。

不自然

自我とは「不自然」な思考内容です。自然においては自我は存在しません。この見える自然に自我は存在しないのです。自我は思考の中にのみ存在します、、、ですが我々はこの自分という存在はこの自然界に「居る」という想定で生きています。これが不自然なのです。だからここから湧いてくる思考の全ては「不自然」です。この不自然な思考は不自然ゆえに「この自分にとって得」になる行動しか起こしません。それでいいのです。

謙虚であり威厳

個の視点

個の視点からすれば我々は何も全くやっていない、、ですからそういう意味では「称賛されても」謙虚でいられます。だって何も実際にはしていないのですから。ところが個が全く何もしていないということは「この行動」完全に根源から行動です。根源とは一切分離していない現れです。つまり神の行為なのです。そういう意味では威厳があります。凄い行為です。個VS個で考えれば完全に無力、、、ですが同時に根源からの現れという意味では偉大な行為です。

最低最悪の行為すらも

逆に言ってしまえば、、人間業界的に最低最悪の行為であったとしてもそれも個ではなく根源からの活動ですから偉大な行為です。人から蔑まされるような行為も「神の行為」です。偉大です。ですがそのことに気づいた時、、もう人から何かを奪うような行為がここから起こりません。なぜならば威厳の中に安らぎながら「焦った感情」が湧かないからです。

自我思考活動がエネルギーを使い果たす

「私」を守るために

多くの時間が「自我」保存「自我」維持「自我」防衛に使われ、、エネルギーが使い果たされていきます。なぜ何もしていないにも関わらず疲れるのか?????それは「自己保存」のためにエネルギーが大量消費されているのです。この世界には分離は絶対に絶対に存在しません、ですからこの「自己、自我」とは嘘なのです。にも関わらずこの「嘘の自分」を維持するためにあらゆる思考感情が現れでてくるのです。

どんなにリアリティーがあっても

そこにどれほどのリアリティがあってもこの体に自分は存在しません。絶対に絶対に存在しない存在「自我」は思考の中にだけ存在し、、それを生き伸ばすためのあらゆる生存戦略が絶え間なく現れ出てくるのです、これがエネルギーを消耗します。だから何かを本当はやりたいんですが「出来ない」となるのです。

思考は分離した「何か」ではない

思考は全体そのもの

この世界には分離は何も存在しません、よって思考も全体から分離した「何か」では絶対に絶対にないのです。思考は全体の一部として現れ出るのです。ですがその思考が認識された時思考の中には「分離した何か」というイメージが起こります。その時初めて分離ではなく(あり得ないから)分離感が起こるのです。この分離感も当然全体から分離した「何か」ではなく全体の現れです。

静寂

思考は分離した何かではなく思考の中身のみ「分離した何か」が現れることに気づくと、、、思考を積極的に起こそうとする動きが止まります。思考の中身のみが苦しみを生み出すこを完全理解してなぜ思考を起こそうと思うのでしょうか。徐々に徐々に思考が収まってきますと、、「静寂」が訪れます。この「静寂」の心地よさを一旦でも知ると、、もうそれ以外への興味が湧かなくなります。真の幸福はこの「静寂」のことなのだという気づきが起こるのです。

見かけ上の私

見かけ上の私は高校生ぐらいで既にそのことを分かっていました。だから友人と連むよりも「静寂」の時間を作りたいという欲求を持っていました。年柄年中友人同士で連む彼らがそこに真の繋がりを築いていないことに気づいていました。思考の連打により繋がりはただの生存戦略に過ぎないのです。真の静寂の心地よさを一度でも知ると、、もう思考による生存戦略に興味が失せていきます。

チャクラ、経絡

ペインボディ

チャクラ、経絡とは、、、ペインボディの住処です。体の中のエネルギーライン、ここにペインボディは住んでいます。ここに重いエネルギーが住う時、、そのエネルギーがエゴを保持します。エゴとは思考エネルギー、そしてペインボディーは感情エネルギー、、これらが密接に結託し、、エゴ、ペインボディシステムを作り上げています。試しにマッサージを受けてみてください、、すると思考が穏やかになります。重いエネルギーを取り除くとエゴ思考エネルギーも緩むのです。

逆に言えば

チャクラ、経絡を意識してそこを掃除するようにマッサージ、ヨガ、ストレッチをしていきますとエゴ、ペインボディシステムが緩んでいきます。今を感じれるようになっていきます。五感で今を感じることを楽しめるようになります。自我を生み出す思考エネルギーが活発な時、、何をしても面白くない、、という状態になります。ペインボディの重いエネルギーが活性化し、それによって思考エネルギーが活性化し、、、今を感じる五感が閉じるのです。

重い重い体で自我を思考と見抜いたところで

自我を思考と見抜いたところで、、、体が重い重い状態であれば、、、その重いエネルギーが思考を活性化させ、、、、私物語を作り出します。私物語は思考に過ぎないという気づきがあっても私物語が止まらない。。。ですから機械的にペインボディをクリアにすることで、、思考を起こす動きを根本から抑えるのです。

「自我」はいまここに存在できない

今から離れる動き

なぜ?????次に次に救いを求めて行こうとするのか????なぜ過去に過去に後悔を求めるのか????簡単です。自我とは「今」に居れないからです。。。。。え??????自分が今に居れない???????何それ??????ですよね、そうなんです、、、みなさん完全に完璧に騙されています。今に存在できない自分「自我」が存在できるわけがないんです。だってここに存在できないんですよ。

試しに

美味しいコーヒーを飲みます。香りを味わうその瞬間「自分」は居ましたか??????良い音楽に浸るその瞬間「自分」は居ましたか??????居ませんよ、居ないんです。そうです、、感じる時「居ないんです」自分とは全部感じた後に付いてくる「思考」なんです。だから旅行などで朝から晩まで感じっぱなしの時「自分」が登場しません。

過去と将来が主戦場

だから思考とは過去か未来についてなんです。過去を振り返るか未来に思いをふけるか、、、この時しか「自分」が誕生しないのですから。今この瞬間を感じる時「自分」は登場できません。自分を思考しながらコーヒーを味わう??????しませんよね、というよりもできないのです。過去を振り返って自分物語を楽しみ、将来に思いを向けて自分物語を楽しみます。そこにしか登場できないのですから当たり前です。