喪失

失いたくない

我々は自分の家族、自分の財産、自分の友人、自分の地位、自分のブランド、、、、に固執します。絶対に失ってはならない、、、こう考えるわけです。なぜならば自分は絶対的存在でありその絶対的存在を支える家族、財産、地位名誉、ブランドも最重要アイテムだからです。ですが簡単な疑問が湧くのですが、、なぜ自分が絶対的ならばそれを支える何かがそもそも必要なのでしょうか???矛盾していることに気づけますか???自分は何も絶対ではない、、これが答えです。絶対的じゃないから何かに依存するのです。

自分

自分という感覚がバコッと出現しその自分が体と同一化します。自分=体の誕生です。そして自分は心を取り入れ「自分=体+心」が誕生します。この時点で自分は体、心を取り入れました。ですがこの体も心も移ろう絶対的存在ではないため、、自分は地位や名誉、家族を手に入れていきます。自分の〇〇シリーズを増やしていくのです。とにかく少しでも自分を絶対的何かと結合していきたいわけです。家族の長であり、町内会の役員であり、会社の課長であり、、、、です。。。こうして自分はあらゆる何かを手に入れて存在を絶対的にしようとします。ですが俯瞰すれば「自分」そのものが全く絶対的じゃないからその他に依存するのです。

気づき

では真実を述べます。自分とは真我の中に現れでた閃光です。突然現れでた何かです。そしてその閃光の出現は同時に世界を生み出します。自我は現れでた体と同一化し、、存在を確保するのです。この体は少なくとも、、目覚めの状態では消えないのですから。ですが真実では自我は現れでた思考に過ぎず、、現れたということは消えるのです。つまり自我は実在ではなく幻影の一つです。そして体も幻影、心も幻影です。幻影同士が結びつき、、存在を少しでも絶対に見せているだけです。ですが幻影が幻影を寄せ集めたところで幻影です。

散々

散々、、幻影をかき集めて、、もがき苦しんだ自我という幻影は、、、もう幻影を求めるのは辞めよう、、、という動きを見せます。幻影が幻影とくっついたところで所詮は幻影に過ぎず何も安心感は起こりはしない、、という諦めです。これがサレンダーと呼ばれる現象です。自我は動きを外側(世界という幻影)から内側、、真我にベクトルを向けるのです。このベクトルの方向転換が真我にまつわる真の知識を呼び込み真我探究(ヴィチャーラ)が始まります。

宇宙は非実在(幻影)と気づき幻影として実在する

maya

ジニャーナ・ヨーガでは宇宙はmayaと呼ばれます。幻影ですね。。。今ここで見える世界、宇宙がmayaです。いやいや、、、めちゃくちゃしっかりと今100%存在してますが、、なぜ?????幻想って触ってみたら消えちゃう、、みたいなやつですよね。。。今100%ガッツリ存在するこの宇宙がなぜmayaなのですか???答えを言いましょう。実在とはまさに絶対に消えない存在だからです。にも関わらず宇宙は熟睡時100%消えています。消えて無くなってしなう実在は実在ではありません。それをmayaと言うのです。

そうか、、、

そうか、、つまり消えてしまう全てがmayaなんですね????だからこの体もこの世界も家も家族も何もかもがmayaであると言うことですね???そうです。その通りです。ではなぜこのような消えてなくなる宇宙が存在できるのでしょうか????何か永久の存在「実在」が存在しなかったら宇宙は再び再誕生できないはずです。そうなんです。絶対に消えない存在が存在するのです、それが真我です。それこそが目覚めに気づき、夢見に気づき、眠りにに気づくのです。この気づきがなかったらこの三つの状態は存在できません。

つまり

この世界はmayaであるという真実に気づかれながら続きます。幻影ですから何が起こっても何も問題はありません。実在は実在し続け、、幻影は幻影として実在し続けていきます。この幻影を支えているのは絶対に消えてなくならない真我であるのだから幻影の今後の永続を心配する必要は全くありません。この圧倒的理解が進む時、、この宇宙の起源は我々の心であることからこの宇宙の様子も変わってしまうのです。緊張感ガンガンの世界から緩んだ世界に変わるのです。なぜならば心=世界だからです。

心=世界

実在は真我ただ一つでありそこには分離は存在しません。そして世界は真我の中に現れる幻影=mayaです。そしてその世界の根源は心です。心と世界には分離は存在し得ないため、、心の状態=世界の状態になります。だからこの話を聞いて真の安心感を得たとき、、世界が必ず変わります。その安心感は世界と完璧にリンクしています。無知が消えれば安心感が起こりその安心感が世界になるのです。だから世界を変えようとしないでください、世界ではなく心を変えるのです。心とは固定観念であり、、真実とは何か???これで十分に変わっていきます。

ジニャーナ・ヨーガ

他のヨガ

真我探究を直接アプローチするのをジニャーナ・ヨーガと言います。一方ハタヨーガ、クンダリニーヨーガなどは、、、真我を直接達成するのではなく、、自我と全体を再結合しようとします。大前提としての私、体、心が存在し、、、それを取り巻く宇宙が存在するという考え方です。ジニャーナはそれを最初から否定します。そもそも、、何一つ分離した存在は存在しないのだ、、、という最終回答からスタートします。そしてそれが事実です。

だが

他のヨガが間違っているのではなく、、自我前提、体前提、、全てが実在という前提から、、、分離感自体を消去していくのが他のヨガです。入り口では世界は確実に存在するし、体も私も存在するのだ、、から入っていきます。一方ジニャーナ・ヨーガはあなたは誰か???自我とは何か????という大前提の崩壊に入るのです。つまり、、、勘違い思考の崩壊を目指すのがジニャーナ・ヨーガです。

無限のアプローチ

どのヨーガがその人に最適かはその人のvasanaによります。サンスカーラによります。つまり輪廻転生してきた記憶です。この記憶と、、アプローチの相性がヨーガが多岐に渡る所以です。そもそも心とは何なのか???私とは何なのだ????という究極の問いから入れるのもその方のヴァーサナー次第です。前世で十分に準備ができていれば、、直接真我発見に関心が向くかもしれない、、、、という話です。

関心

消えていく

この現実が自我が作り出した自作自演ストーリーであることに気づいた時、、、何が起こるか????世界に対する関心が消えていきます。あなたが夢見から目覚めた瞬間、夢の中の登場人物への関心は一瞬で消えます。「あいつ、、このやろう!!!」が一瞬で消えます。ではこの現実と呼ばれる自我の自作自演ストーリーがそう気づかれた時、、どうなるか????全く同じように関心が消えるのです。外的環境への関心が激変します。いいえ、、、外的環境だと思っていた世界が自我の中に含まれている、、つまり内的環境に過ぎなかったという大どんでん返しが起こるのです。

この大宇宙

この大宇宙、無限に広がる大宇宙が自我の中に含まれているという大どんでん返しはとんでもない革命です。何というたのでしょう。。。。ちっぽけで全く頼りにならないこの体の自我、、、じゃなくて自我の中に大宇宙が存在していたのです。これは大変です、、。。。ということでこの事実に気づきますと小さいことに拘れなくなります。政界の状況、経済状況、友人関係、結婚、離婚、仕事、世間体????となります。自我が存在しなくては出現できないこの世界になぜ関心が起こるのか???という話です。

ヴィチャーラ

ジニャーナ・ヨーガでは外的環境への関心から内的環境への関心へのシフトをヴィチャーラと呼びます。世界を作り出したのは自我という思考であり、、では自我を作り出したのは何か???という疑問に移るのです。夢見を作り出したのは自我でありではその自我は何から発生したのか?????です。夢見と目覚めの真の創造主は誰なのか???となります。そしてなぜこのような夢見、目覚めの状態は存在するのか???という新しい関心が起こるのです。これがヴィチャーラです。

真我

これだけの大宇宙をあなたの自我(心)が生み出してしまうということは間違いなく「自我=心」は多様性に富んでいます。ではこの心を生み出す真我はどうか???間違いなく無限の存在でしょう。。これが分かってきます。そしてその心=自我は真我の反映でり、、故に真我はとんでもない存在なのです。この世界の多様性、緻密さ、奥深さこそが、、真我そのものの価値を証明しているわけです。「今月の家賃が、健康保険が、ローンが、、学資保険が、、」という悩みの前に、、、関心がガッツリ外的環境にあることを自覚できます。その外的環境(世界)への関心が薄くなった時、、、そこへの犠牲も消えてしまうのです。

そこに悩む

そこに悩むためには、、、そこへの関心が必要になります。孫のことで悩むには孫への関心が必要になります。お金のことで悩むにはお金への関心が必要です。名誉について悩むにはそこへの関心が必要になります。関心がないことで悩むのは不可能です。つまり、、、、世界への関心の希薄は、、世界のことで悩むことを不可能にするのです。全ての関心が外的環境(世界)でなく真我に移った時、、世界のことで悩むことができなくなるのです。では真我のことで悩むのでは???いいえ、、真我は絶対的な存在であり移り変わりもすせず、、愛そのものであるからそこで悩むことはできません。

目覚め

自我ー目覚めー世界

朝目覚めます。世界は存在するが自分が居ない、自分は居るけど世界がない、、、このどちらもが成立しません。この世界は自我が作り上げています。この二元の世界は自我の産物です。あらゆる思考が湧いてきますがその創造主は自我です。その思考が世界を多様化していきます。自我=世界であり、世界=自我です。ただ、、今それに気づく存在を自覚できます。自我の自作自演劇場に気づいてしまった存在が存在します。それが真我です。自我の活動を超えた存在に存在が気づくのです。真我がボコッとこの自我の自作自演劇場の俯瞰者として思い出されるのです。

なんだ、、、

自我の自作自演劇場を俯瞰できるようになりますと、、自我が何をしているのかが分かってきます。自我とは、、真我の投影であり、、その真我は無限です。その真我の投影が自我ですから、、自我の自作自演劇場は無限の多様性を生むのです。その証拠にあなたは毎晩どれほど多様な夢を見ますか???どんなやってあんなにあらゆるシチュエーションの夢を生み出すことができるのでしょうか??つまりはこういうことです。このAI 社会をあなたの自我が作ったのです、、半端ないことです。この複雑化した政治闘争の世界をあなたの自我が生み出したのです。エグいです。

あなた

あなたがこのとんでもなく発展した世界を今ここで作り上げておいて、、、こんな社会についていけないと嘆くのです。いやいや、、、あなたがこんな世界を作ったのですよ。。。イーロンマスクを作ったのはあなたです。にも関わらずそのカラクリに気づけないから、、、私なんて、、、、という発想が生まれます。とんでもない勘違いです。あなた(自我)はとんでもある存在なのです。そしてなぜあなたがとんでもある存在かと言えば、、、真我の投影だからです。

夢が立ち現れる瞬間

夢見

夢が立ち現れる瞬間をあなたは知っていますか???夢がどういうタイミングで現れるのでしょうか???夢は現れたが「自分」は居なかったということはありました???自分は現れたけれども夢が現れないということはありましたか????絶対に絶対に絶対にないですよね????そうです。夢は「自分」「自我」が現れると同時に現れ、、そして自我が体と自己同一化するのです。現れでた自我があって同時に夢が作られ、、自我は夢の中の体に自己同一化します。これがマイストーリーです。

目覚め

ならば目覚めも全く同じです。自我が立ち現れると同時にこの現実(夢)が立ち現れ、、現実の朝が始まります。ああ、、また、、朝が来た、、、これです。自我無くしてこの夢(現実)はなく、、自我無くして夢見もありません。自我という思考がこの現実世界の発起人であり、、それは夢見も全く同じです。つまり、、、同じシステムで夢見も目覚めも起こるのです。これに気づきます。この同じシステムに意識的になるのです。偽りの自己が立ち上がる瞬間に意識的になります。

真我

我々は真我の存在を全く教わらずに最初に自我の存在を教わります。真我には全く気づくことなく自我から始まるのです。自我が立ち現れ現実が始まることから「自我」こそが絶対の王であると勘違いします。自我の存在性に何一つ疑うことがありません。だって自我しか存在しないのですから。ですが大人になるにつれて、、、自我とは本当だろうか???という疑問が起こるのです。自我が叶えたい夢を一日中努力して叶えてみても全く満足できない現状にそろそろ疑問を持つようになります。

神とは何だ???

神とは何だ???この世界で絶対的に言われる神とはこれは空想なのか???仏様????何だ???それは、、、だが世界ではあらゆる宗教が乱立し人々は求めている。。。これは何なんだ???という疑問が起こるようになります。これこそが真我探求です。ヴィチャーラとも言われます。この真我探究の欲求が外的欲求を上回るようになった時、、この現実と呼ばれる夢の中に「グル」「聖者」「覚者」と呼ばれる存在が現れ始めるということです。

本当に????

最初は疑わしいわけです。本当にそんな存在居るの????となります。ですがこの世界は夢ですから関心が起こればその関心こそがグル、聖者、覚者を生み出すのです。元々居たにも関わらず見つけていなかったわけではないですよ。。。あなたの関心こそがグル、覚者、聖者を生み出すのです。ジニャーニが私を見つけて「教えてあげるよ!!!!」とはなりません。あなたの関心こそが覚者という真我のアバターを生み出します。

夢の役割

何???

みなさん夜に夢を見ます。夢を見たことない、、という人は誰もいないでしょう。。。。夢って何ですか???現代医学的には睡眠時の脳の活動なんでしょうが、、、、。では夢とは何か説明します。夢とは、、、この現実が夢であることを証明するための最大のヒントです。現実と夢の違いをあなたは明確に定義できますか????現実と夢とは何が具体的に違うのでしょうか???夢は幻想で、、現実は幻想ではない、、、これだけでしょう。。

五感

では夢を説明します。夢とは「心」「思考」が生み出すファンタジーです。その夢の中ではしっかりと「五感」が生み出されています。夢の中でもしっかりと「美味しい」「不味い」「臭い」「触られた」が起こります。「心」は五感を朝飯前に作れるわけです。だから夢は「目覚めない限り」夢とは気づかれない、、、この事実を思い出してください。「心」は確実に五感を作り上げています。

では

目覚めた状態でのこの「五感」は心が作ってはいない、、、とどうして証明できるのでしょうか????夢の中ではあなたは簡単に騙されました、、なぜならば夢の中の五感は「リアル」だったからです。ならばこの現実の中の五感がリアルなのは何も難しくない話です。心にとって五感を生み出すのは超簡単であり、、その心が今もまさに動いているのだから今まさに五感を生み出しているという可能性は絶対に否定できません。

つまり

あなたがこの現実世界を「リアル」だと思っているのは「目覚めていない」だけに過ぎないのです。目覚めれば、、この現実世界は夢だったと気づきます。その気づきのために夢見の状態が存在するのです。夢見の状態を「リアル」と勘違いできるのだからこの現実世界も「リアル」と勘違いできるのは当然なわけです。目覚めるまでは「心が生み出す世界」はリアルなんです。目覚めて初めて「リアル」が「夢だった」に変わるのです。

最終回答

では最終回答です。夢見の状態は、、目覚めの状態も夢であることを教えてくれるヒントです。なぜそんなヒントが与えられるのでしょうか???簡単です。この目覚めの状態「現実」と呼ばれる世界は、、、あなたに夢だと見破られるためにあるからです。だから最大限のヒントが最初から与えられているのです。「心」によってこの現実世界をリアルと感じさせることは至って簡単なことです。ですが同時に「夢見」という状態が存在するこそが、、、、夢の仕組みの説明書なのです。現実とはそれを現実と思う心の動きのことであり、、五感は心が生み出す副産物です。

世界

当たり前過ぎる話をします。世界は自ら吾輩は世界である、とは言いません。主張しません。世界は、、自ら吾輩は実在だ、、とも言いません。世界自体には何一つ存在を説明する機能がありません。夢をリアルと感じてきたように、この世界をリアルと信じてきたのはあなたの「心」です。心の動きしか存在したことがありません。このような話を聞く時に何かが反応します。あなたが知らないところで何かが反応し、、心が解体されていきます。

唯心論、唯物論??

どっち??

このブログって要するに唯心論ですよね????そういう意見があるかもしれない。。。全部心の中にある、世界は心の中にあるってことは唯心論ってことですよね????究極的にはそうです。ですが、、、多くの方が思っている唯心論とは違います。多くの方が思っている「心」とは動く心のことです。「あ、今日体調いいかも」「あれ???なんか気分良くない、、、」というこの湧き上がる思い、、これを心と呼びます。そしてこのブログでもそう使っています。

ですが、、、

本当の心、真の心とは、、、動く心に気づく「心」の方です。全く動かない、微動だにしない、「心」それが我々の本質です。動く心を超えた心です。動く心とは次元が異なる心です。そっちが本物です。じゃあじゃあ動く心は何なのさ????動く心はどんな地位なの????となりますよね。。。その動く心は、、、真の「心」の影です、投影です、「真の心」の鏡に映った姿です。

でも、、、、

さっきは「真の心」は微動だにしないと言っておいて鏡に映った真の心は「動く心」というのはどういう意味ですか????微動だにしないわけだから動いたらおかしいですよね????いいえ違うんです、、、ここで使う微動だにしないという真の心は「真の心=生」として微動だにしないということです。「真の心=生」として微動だにしない時、、、それは生ですから生が鏡に写し出されれば、、、そこでは「動」に変わります。

救わなくてはならない人々

どこに????

周囲はみんな真我に無知で、、苦しんでいます。なんとかして彼らを救いたいのですが、、、、どうしたらいいのですか???教えてください。分かりました、、教えますね。。。あなたが救ってあげなくてはならない困った人々はどこに存在するのですか????教えてください、どこですか????、、、、、見渡して見れば分かりますよ!!!!だって世論調査でも6割の国民は生活が大変だと出ています。これは事実、ファクトですよ!!!勿論、勿論、分かっています。。。。その事実はどこで起こったのですか???どこですか???教えますね、、それはあなたの心の中以外にあり得ないのです。

なぜ???????

なぜあなたの心の中以外に、、その困った人々が存在できないのか????それは、、、、、困った人々という分離感全開の存在は非分離のこの真我の中に存在できるわけがないからです。非分離、非二元の真我の中には二元的存在、分離存在はどう足掻いても登場できないわけです。つまり困った人々が確実に知覚されているならば、、、それは心の中以外にあり得ないということです。だから何も心配しないでください、、その人々はあなたが思いを持たない時以外には存在できません。

思い浮かべ

目の前に困った人が登場しようが、、心の中でその人々を憂いてみても、、、、全部心の中の存在です。そしてあなたはその困った人々の前に登場できる人間ではなく、、、その心の創造主です。困った人々には指一本たりともあなた(真我)は触れることはできません。だから、、、救うこともできないのです。住んでる場所が全く違うのですから。夢から覚めた後に、、、、夢の中の登場人物を心配しないように、、、心配したくても存在しないことが最初に分かってしまったのです。

未来

もう少し具体的にいきましょう。。。その困った人々の未来を憂いているわけです。将来彼らが大変になるのではと、、、、ではその未来はどこに存在するのですか????それも心の中です。その未来は心の中にいずれドカンと現れるわけですが、、、どこからその未来は現れたのでしょうか????紛れもなく真我の中で現れます。つまり、、、その人々の未来は既に「ここ=真我」に収まっているのです。未来は既にここに真我として「在る」のです。だから、、現れることができるのです。つまりもう既にそれらの人々の未来は「存在」しちゃっているのです。存在しちゃっている未来が、、、ここにただ現れるだけです。心の中の出来事として。

将来が心配だ、、、

心配な未来は全て今真我の中に「存在」しちゃっていて、、、その存在しちゃっている未来が、、、ここで次々に上映されていきます。上映できるということは既に最初から「在る」のです。映画館に行って映画を流せるのは、、流すためのフィルムが最初から「在る」わけです。ないのならば絶対に流せません。今ここで「現実」と呼ばれる映画が流れているということは、、、最初から真我の中に「在る」のです。最初から「在る」未来が今ここで流れていくだけなのだから心配というのは冗談のようなものです。

大金持ち

もしも

もしもあなたが大富豪で、、お子さんも居ると設定しましょう。あなたの子供に労働の大切さを教えるためにはどうしたらいいですか????簡単です。我が家は貧乏であり働く必要があると騙せばいいのです。だからお前は16歳からバイトをして稼げと。。。。すると子供は「そうかウチは貧乏なんだ、、じゃあやるしかない、、」となります。大富豪である事実を一切伝えずにむしろ貧乏であると信じ込ませればせっせと働くわけです。

では、、、、

今我々はこの体を自分だと思って必死に生きています。実は神にも関わらずその事実は教わることはなく、、先ずは「貧乏=この体のみ」という設定からスタートしたのです。大富豪の家に生まれたという事実を教える前に、、「お前は貧乏だ」と嘘を教えてしまい、、働く大切さを学ぶように、、、神である自覚を起こす前に、、、「この体こそ私だ」という嘘を覚え、、、苦しみをあえて味わっているのです。

そして

なんという生きにくい社会なんだ、、なんという厳しい世界なんだ、、なんという、、、という不完全な世界を味わい尽くすことで、、、真我探究、自己探究に入っていくのです。本当に俺は貧乏なのか???本当に俺はこの体のみの存在なのか?????という究極の疑問を持ち始めていくのです。分離感という経験を十二分にしたからこそ「非分離」とは何かが分かり、、、、孤独を十二分にしたからこそ非孤独も分かるのです。貧乏を十二分にしたからこそ大金持ちとは何か???が分かるのです。

つまり

つまりこの勘違いは、、、神とは何か????を分かるためのゲームなのです。神とは何かを体感するには孤独、分離、悲しみ、苦しみを味わい尽くす必要があるわけです。これを経験し尽くしたからこそ、、、非孤独、非分離、非悲しみ、非苦しみとは何かが分かるわけです。だから何一つ無駄がない神の計画に寸分違わずに今があるのです。森羅万象の動きとは、、このためにあります。人間の体はこの神の計画に沿って作られ人間ゲームも完璧に遂行されます。