問題が片付いて本当に良かったね

本当に????

本当に本当に本当にそう思っていますか??????大学受験三年間浪人し、、やっと受かったんです!!!!!入学式当日最も晴れやかな顔しているはずですよ!!!!!「写真」を見てビックリ、、、、、全然晴れやかな顔でもない。。。。「嘘、嘘、嘘、嘘」三年間の大問題が解消したにも関わらず「晴れやか」でないのならば何十年間の問題が解決したら「晴れやか」になりますか?????ならないんです。嘘です、錯覚です。

知ってる

実は実は実は全員が知っているのです。大問題が解決しても問題が消えないことを、、、だから晴れやかにならないのです。大きな大問題が片付いても「幼少期の無邪気さ」が戻ってはいないことを知っていますよね?????そうです、、そこです、そこなんです。「究極のお気楽さ」が戻っていない、、でもそんなものはもう無理だろ????だから僕たちは「重い」中で大きな問題小さい問題をコツコツこなしていくしかないんです、だから幼少期のような無邪気さなんて何も知らない人間の特権ですよ!!!!と勘違いが続きます。

諦める

幼少期のような無邪気さなんてさっさと諦めてしまい「人間活動」やっていくしかないんですよ!!!!違います、、違います、、、「人間活動」と呼ばれるその活動こそが「思考活動」でしかないのです。思考の住人、思考の住人、思考の住人、、、これが大きな大きな重さの原因なのです。だから思考活動思考の住人の中で問題が解決しても意味がないんです。

危険????

ノンデュアリティかぶれ

ノンデュアリティとか悟りとか、非二元とか、、、そんなことばかり学んでいると危険ですよ!!!何にもしなくていいとか、勝手に全部起こっているとか、、人間活動じゃなくなってしまいますよ!!!大丈夫ですか?????「大丈夫です!!!」その人間活動じゃないような活動も全て全て根源からの活動です。何一つ自分で決めていないのですから人間じゃないような行動が起こってもそれも今までと何も変わらない原理で動くのです。

そのことに気づかない活動

何もかもが全て根源からの活動であったにも関わらずそれに気づいていない活動をしておきながら「我々は生きてこれた」のです。完全な勘違いの中でも完全に生きてこれたのですから、、勘違いがなくなった状態が危険ってあるわけがないのです。勿論その勘違いも勝手に起こったのであってそれも根源の活動です。根源の活動を根源の活動と自覚(自ら覚る)して生きることが危険な生き方ならば何が一体安全な生き方なんでしょうか????

周囲から見れば

周囲から見れば危険でしょう、、何も求めず何も不安に思わず何も欲しがらないように「見える」かもしれませんから。ですがそれこそが完全な勘違いであり理解しあえたらおかしのです。勘違いとは「真実」をありのままに見えない状態であり、、真実に則った「生き方」があるがままに認識されることは決してありません。だから周囲から勘違いされることこそが「あるがまま」であるという証拠でもあります。

馴染んでくると

子供の無邪気な姿を見て「危険」と思いますか????子供たちの屈託のない顔を見て「危険」と感じるでしょうか?????本当に非二元が馴染んできますと「危険」と感じさせる要素が消えます。無邪気、奔放、元気、あるがまま、、、、子供のような溌剌とした姿が現れてきますから、、「危険」というイメージとは真逆です。

この世界は結果が全てでしょ!!!

異論はありますか?????

どんな綺麗事を言ったって所詮は結果です、、結果がでなければ綺麗事、、、、この世界は現実なんです。そうでしょう、、そうでしょう、、確かにお金を一円も稼げなければ、、、全て綺麗事です。夢では食えない、、そうそうそれ!!!!でもその結果っていうやつを生み出すプロセスに我々は何一つ関わっていなかったという事実が分かってしまっても「結果至上主義」貫けますか????????

私は日本一努力して東大に入学しました

それは本当かもしれない、、紛れもない事実かもしれない、、、、ですがその日本一の努力が、、、勝手に起こっていたとしたら、、、全部自動運転、自動反射で勝手に勝手に起こっていたとしたら?????その結果はあなたのものですか????努力しようという思考も、、、それに伴う情熱も勝手に勝手に起こっていたのならば、、、それはあなたが成し遂げた功績と言えるのでしょうか??????

自分の因数分解

消えていく

では自分の因数分解をします。因数分解とは100=10✖️2✖️5、、といった具合に、、構成因子をバラしていくことです。自分=「この体✖️気づき✖️思考✖️感情」です。これが人間業界の一般常識です。ところが、、ところが、、、これ間違いです。自分=この体✖️気づき✖️思考✖️感情ではありません。先ず「思考」これは勝手に勝手に実は起こっています。全くコントロールできずに勝手に起こるのです。自然現象です。この自然現象を自分と呼ぶのは人間の傲慢です。思考は勝手に勝手に起こるのです。

感情

思考が湧くと感情も勝手に起こります。そして思考も勝手に湧きます。つまり思考感情は全部勝手に現れ勝手に消えるのです。何一つコントロールできずに現れてが消える現象でしかありません。次に「気づき」「五感」、、、これは「空から色(現象)」が立ち現れた時、、勝手に起こります。気づきは実は勝手に起こっています。「音に気づく」というのは音がこの世界に立ち現れた瞬間に起こるのです。「自分が聞いた????」とんでもない、、気づきは空から立ち現れる現象です。

この体

この体は手放さないですよ!!!!この体は絶対に自分です。。この体だけは!!!!!残念ながらこの体も現れては消える現象です、、、あなたが外を見る時、、この体は消えています。あなたが熟睡状態に入る時この体は消えています。あなたが映画に夢中の時、、体は存在していません。この体は視界に入ったその時現れます。我々はこの現れては消えるこの体という現象を「自分」と呼んでいたのです。つまり自分とは「体と呼ばれる現象✖️気づきと呼ばれる現象✖️思考と呼ばれる現象✖️感情と呼ばれる現象」、、、、自分=現象✖️現象✖️現象✖️現象、、、、、自分=自然現象✖️自然現象✖️自然現象✖️自然現象、、、、自分=現象、、、自分=現れては消える「色」「幻」「空の投影」です。

自分って「気づきの意織」のことだった。。。

え?????

あなたは何を指して「自分」って呼んでいるんでしょうか?????「僕は太郎ちゃん」って自分のことを呼ぶ時、、何をもって自分なんでしょうか??????「気づきの意織」+「この体」です。実はこの二つをくっ付けた存在を「自分」と呼んでいたのです。「この間違いない存在体」そして「紛れもなく実感できる五感」これを指して「自分」と呼んでいたのです。

紛れもなく実感できる五感

この紛れもなく実感できる感覚「五感」は、、、、体のみでは起こりません。これは、、空から色が現象化される時「起こる」のです。認識はこの次元では起こらず、、そのまま空から直接起こります。この空から直接起こる気づきを「自分」と呼んでいたのです。ですが「自分」という言葉を用いる時その事実は横に置いておかれ「イメージ」が作られています。真実とは別のイメージが作られます、それが「自分」です。

明晰な観察

自分というイメージから解放され、、「気づきの意織」そのものに戻れば、、、全ての現象はイメージを通さず認識されます。というよりも「気づきの意織による気づき」が起こったっ時にさらに起こる、、それを「認識した自分」という思考の立ち上がりが消えます。気づきは気づきそのままに気づかれるのです。すると今までの気づきとは全く違う、、「本当の気づき」「明晰な気づき」がスタートします。気づきの上に乗っかった「モヤ」「霧」「霞」が消えるのです。

自分の解体

「ブログが重要なんです、、ブログがないと生きていけません、なぜならばブログをやらないと食べていけないからです」あなたがそう思い込んでいる時「ブログとはつまり集客用ツールであって、、本当は集客はブログじゃなくてもいいんですよ!!!!」というメッセージに出会えば「ブログ=生きるための必需品」という概念が落ちます。これは「自分」も全く同じ、自分とはつまり「この体と気づきの意織」のことを言うのであってこの体は現れ出る現象であり「気づきの意織」は空から直接現れ出るこれもやはり現象ですよ!!!!!というメッセージに出会えば「自分=全て」という呪縛から解放されます。

気づきの意織は死なない

気づきは死ねません、、気づきは、、、現象ですから死ねません。気づきは空から色が立ち上がるその時「起こる」ものですから空が存在する限り消滅しないのです。だから我々は絶対に死ねないのです。気づきのことを「自分」と呼ぶならば消滅できないのです。そしてもう「気づき」のことを自分と呼ぶ必要もない、、そう信じる必要がなくなりました。人間業界の勘違いに合わせる必要が無くなったのです。

でも体は自分でいいんですよね??????

勿論そうです、、この体には「名前」が便宜上必要であり、、名前がないと社会生活が成り立ちません。ですから自分とはこの体に付けられた「名前」です。そもそも自分とは体に付けられた「名前」でしかなかったはずです。そこに「気づきの意織」も含まれ、、そこから起こる「思考」「感情」も含まれ「自分」と呼んできたのです。だから自分は大切で大切で大切で全部だったんです。でも今それが解体されました、、自分の因数分解が起こったのです。

あー退屈

という思考が現れた

「あー退屈だなー」という認識は「あー退屈だなー」という思考が湧くことで認識されます。当たり前ですよね?????当たり前なんです。ですがですが、、、、気を付けてください。「あー退屈だなー」という状況が先にあって「あー退屈だなー」という認識が起こっているんじゃないんです。「あー退屈だなー」という思考が湧くことで「あー退屈だなー」という認識が起こるんです。

状況

信じられないかもしれませんが「状況」が感情を作ることは一切なく「言葉」が「感情」を作ります。どういう言葉が湧くか、、=「感情」です。じゃあその思考を湧かさなければいんですよね?????残念!!!!!その思考を湧かすか湧かさないかを決める個人は居ないのです。そうではなく「思考」が湧くと「感情」が起こるというこのメカニズムに気づくことで、、、、「あー退屈だなー」という認識の解消方法が変わります。

そうか!!!!!

退屈で退屈で半端ないんです!!!!!そうですか、、、、だとしたらそういう思考がまさに湧いているんですね!!!!!この認識が起こった時「この退屈をいかに解消しようか」というさらなる思考が湧きません。退屈で退屈で半端ない!!!!!という認識が起これば「そう思考したんだな」という気づきが起こります。全く違いますよね。。。そうです、、、全く違うんです。前に進もうとする動きが止まります。解決のための行動が消えるのです。これが悟りです。

仕組みを知ったらズッコケる

「私が居る」という言葉を覚え「私が居る」という認識が起こった

これはギャグです、完全に逆なんです。もう笑うしかない。。。笑うしかない、、、という現実が本当に本当にあるんです。ビックリします、、、人間とは人類とはなぜこんな簡単な詐欺に騙され続けてきたのか?????ギャグです。「私が居る」という言葉を覚えることで「私が居る」という認識が起こります。なぜあなたは居るんですか??????それは「私は居る」という言葉を覚えたからです。え???????マジで??????

太郎くんは居るの??????

太郎くんって本当に居るの??????居るよ、、だって居るから。。。本当は本当は「太郎くんは居る」という言葉を覚えたからその認識が起こったんです。この言葉を覚えるまで「太郎くんは居なかった」のです。「太郎くんは居る」この言葉を完全理解した時「太郎くんは居る」という認識が起こったのです。「私は太郎です」この言葉を完全理解した時「私は太郎です」という認識が起こります。

言葉

言葉とはそのままに認識を起こす魔法の杖です。言葉を完全理解するとは完全認識を起こすのです。「私は存在する」という言葉を知らない人の世界には「私は存在する」は起こりません。つまり私は存在しないのです。じゃあじゃあ「私は居る」って言葉を覚えちゃったら、、、絶対に絶対に自分は居続けますよね?????それがそうじゃないんです。『「私が居る」って言葉が「私が居る」という認識を起こす』と「私が居る」という認識が起こったことに認識するという次のステージに入ります。誰でもない存在が認識することに認識するのです。

起こっちゃったら仕方ない

気づきのドミノ

気づきというのは「後戻り」がないことを言います。学習は積み上げていくのですが、、、気づきは積み上げではなくドミノのように倒れていきます。だから一回倒れたものがもう一度立ち上がるというモノではありません。「悟りたい」その欲求が本物であれば気づきのドミノはかなり倒れています。そしてそこからまた引き戻すことは絶対に絶対にありません。だから自分で「これは本物だ」と気づいたらチャンスです。悟り全開、覚醒全開です。

どうせ引き返せない

え?????じゃあもう普通の欲望を持つって難しいのですか????無理です。だってそこに幸福がないことに「気づく」が起こっているのですか。要はドミノが倒れたんです。そしてもう起き上がることはありません、そのドミノは。だから振り返らなくて大丈夫、どうせ引き返せないので。もう何もかも手に入れても全く満足できないことは百も承知ですよね???

やっちゃう

悟る以外で至福に至る道は絶対に絶対にありません。この個人が幸福を掴むこの個人が悟りを開くという勘違いをした状態で作った「富の全て」は次に日には形を変えて人参になります。3億円の宝くじが当たったら次の日にはそのお金で「何か」を手に入れようとするでしょう!!!!貯金三億円が満足になっていない証拠です。貯金三億円ですよ、、なぜ?????なぜ?????それでお腹いっぱいにならないのか??????これが答えです。

自由への欲望

それだけで

全欲望は勝手に起こります、全欲望は全部根元から勝手に勝手に起こります。そういう意味では欲望に善悪はあるわけがないし優劣も一切ありません。なぜならばそれを取捨選択できる個人が存在しないのですから。ですが欲望には種類があります。自由への欲望、悟りへの欲望、、これが継続的に起こる時、、、それは本物の欲望です。代替品を散々捕まえてきてもういいや、、となった時「真実そのもの」を手に入れたい欲望が起こるのです。この欲望が現れたならばそういう証拠ですから有難いのです。

お金も異性も何もかもを

この世界の代替品(お金、異性、地位名誉、安定、何もかも)を全く知らずに、、ただ真実のみを知りたいという欲求は現れにくい。今目の前に美味しそうな食事があるにも関わらずそこに興味が湧かないって信じがたい。、、、ちゃんと食べて食べて味わい尽くした時、、、もういいや、、が起こります。その時結局悟らないと意味ないでしょ?????という欲望が起こるのです。

遠回りは一切ない

そういう意味では遠回りは全くありません。お金大好き、異性大好き、地位名誉大好き、、大いに大いに結構です。だってそこに飽きなければ嘘くさい、、、、真実への欲求はその先にあるのです。だから自分の欲望を大いに認めてあげてください、大事に大事にしてあげてください。見て見ぬ振りが通用する相手ではないんです。なぜならばそれは根元から湧くのですから。

あなたは誰だ??????

誰??????

この体のことです、、、これは体ですね????じゃあ体の中に居ることになっているあなたは誰ですか?????あなたはどこに居るんですか?????心の中ですか???頭の中ですか?????分かりません、、、、そうです、、分かるわけがないのです。なぜならば「私」とは「起こる思考」のことだからです。記憶喪失になった瞬間「私」は消えます、この世界から。つまり「私」とは記憶が作り出す「思考」のことです。

1万回

花子ちゃんと1万回呼ばれ続けた時この体の中に「花子ちゃん」が認識され、、、この体から自動運転で「花子ちゃん」という言葉が生まれるようになりました。。。この言葉が生まれた瞬間にそれは「認識」されることを記憶し、、、だから何度も「花子ちゃん」という思考が生まれるのです。するとまた認識される、、、認識されることを認識したから、、、また花子ちゃんという言葉が勝手に生まれ、、、認識が起こります。

玩具

おもちゃを見れば「はなこちゃんの」という言葉が勝手に湧くようになり、、、このおもちゃを他の子に取られれば「はなこちゃんの」と言いながら奪います。これが勝手に勝手に起こるのです。花子ちゃんという認識は言葉が生み出し、、その認識を認識する動きが起こり、、、何度も何度も「花子ちゃん」という言葉が頭の中、声として現れ出るようになっていきます。

この認識を「私」と呼ぶ

「わ・た・し」という言葉が「わ・た・し」という認識を起こし、、この認識を「わ・た・し」と思う思考が現れ、、、その思考(この認識こそ私だ)がそのままに認識されます。つまりつまり「私」とは「わ・た・し」という言葉のことだったのです。「わ・た・し」という言葉が生まれるから「私」という認識があるのです。そしてこの「わ・た・し」という言葉は勝手に勝手に湧いてきますから「私」という認識も勝手に勝手に湧き続けます。

分かったところで

それが分かったところで何かいいことあるんですか??????大有りです、、ありまくりです。。。。だって私って「居ない」ことが証明されちゃうんですから。私の正体って「わ・た・し」という「音」「言葉」だったんです。あなたとは誰ですか?????それは「言葉の認識」のことです。。。という回答聞いたことありますか??????ないですよね。。。。。