誰の???

あらゆる疑問

このままいったら悟れますかね???どのやり方がベストですか???マントラ、ハタヨーガ、どちらが効果的ですか???断食は効果あります??????誰にとってですかね????誰が今それを尋ねているんですか????「私」ですね。。。それしかないんです。なぜ????だって真我はそんな疑問持つわけがないのですから。真我はただ真我として「在る」だけでありそれだけで至福です。それ以外何もないのです。

そうか

つまり全思考全疑問の所有者は「自我」であり、、、全てそこから生まれます。私という感覚、自我から、、全思考、全疑問が生まれ、、回答を望むのです。そしてなぜ疑問や衝動が起こるかと言えば、、、自我そのものが矛盾の塊、無知そのものであり、、よって、、真実発見までそれは動き続けます。結局のところ、、、全疑問の最終目的は「私とは誰か???」であり、、それが分かるまで、、、この動きは止まりません。

最終回答

私とは誰か????の最終回答は、、真我です。。。。。「私」という幻が起こり、、私とは体だという間違いが起こり、、、私は体でもない、、私はこれでもあれでもない、、が起こり、、、最終的に、、、私は見える何かではない、、が起こり、、、心が内側に向きます。全疑問、全世界を生み出してきたのが「私」でその私は、、最終的に全存在、唯一無二の実在に吸収されるのです。これが真我実現です。

神が見る景色

今も

今我々が観ている景色は神の景色です。神が今まさに景色を見ています。「私」ではなくて???いいえこれが神が見る景色です。それしか実は存在しません。たった一つの存在しか存在せず、、それが神と神が見る景色です。私がこの景色を見ている???たった一つの存在しか存在しないにも関わらずどうして「私」が存在できるのでしょうか???

つまり

見える対象の全ては幻です。この私も当然幻、、何もかも幻です。神が存在し神が見える景色があってそれ以外が何も存在しないのです。でも街で知人に会えば、、話しかけてきますよね。。幻が幻に向かって話しかけるという幻がただ起こるのです。そこには何一つ分離はなく、実は何も起こってもいません。幻による幻活動以外がないのです。だから神と神が見る景色以外は何もありません。それは微動だにせず、、そのままです。

自我という幻

神と神が見る景色の中に自我という幻が現れてあらゆる幻展開をします。ただそれだけです。どんな幻展開をしようとも、、それも幻活動です。時間という幻が起こり、空間という幻が展開しようともそれだけです。宇宙も幻であり、、神と神が見る景色以外がないのです。眠りとは自我という幻の世界撤収であり、、夢見は新しい精神的幻の展開です。この現実とは粗大な幻世界の展開です。

体験

たった一つ

あなたが今このブログを読むという体験をしています。その体験中に同時にコーヒーを飲むことはできますか???コーヒーを味わうと同時に深く理解する、、は起こりれますか????このコーヒーエチオピア産で深く煎ってあるなーと感じると同時に深くブログを理解するは起こり得ますか???不可能ですね。。そうです、、、体験はこの瞬間この体験のみです。このことを当たり前と思うのでしょうが、、実はこの決定的事実こそが「体験者=絶対的意識」だということです。真我がこの体験の真の体験者である決定的根拠です。

ここから

ここから常に何か現象が現れますが、、その現象は絶対的意識、真我によって知られます。ただそれだけです。どんな思考が起こっても気づかれます。ただそれだけです。この私、この体の中の私が友人と会話したという二元の経験も真我という絶対的意識によって気づかれています。そしてこのことが理解できますと、、絶対的意識の上に相対的意識が現れることができなくなります。

相対的意識

二元の世界、二元の経験は、、経験者自我が絶対的に君臨していたはずです。全ての経験を知る存在「自我」が100%この世界の中に存在していたのだから相手が登場し、、経験を二人で作り出していたはずです。ですが今自我の大前提「経験者」が真我という絶対的存在、スクリーンであることが分かったのです。幸福の所有者、自我が、、その幸福は「スクリーン」だったと気づいたのです。さて、、骨抜きにされた自我は、かつての活動(相対的経験)ができるのでしょうか???できませんね。

運命

プラーラブタ

カルマ、プラーラブタ、、、行為者という感覚がある時に生まれる因縁です。この因縁は行為者という感覚こそが起こします。この因縁こそが、、我々の今の行為を作り出していきます。だから目が覚めて、、コーヒーを飲む、タバコを吸う、朝マックする、、、あらゆる行為が次々に起こるのです。そこをどうこうしよう、、という動きすらもプラーラブタです。全て自我OS活動、心の動きです。記憶された心の動きです。なぜか世界一周をしたくてしょうがない、なぜか世界中の山を登りたい、、、などです。

全てを俯瞰する

今あなたがこのブログを読んでいるのは必然です。そうなっていたということです。それを避けることは100%できなかったのです。自由意志という感覚がどんなにあろうともそうなっていたのです。そこをどうこう考えても無駄です。なぜならば、、全ては幻想の動きであり、、その幻想には主体者は存在し得ないからです。その中で主体者が居るという感覚が起こり、、自我OS活動がシャクティによって起こったのです。真我の視点から眺めれば何もかもが、、自然の動きとして起こるのです。

自我も必然

自我すらも必然です。自我を悪者扱いしようとも、、必然的に現れたのです。自我は現れるべくして現れました。そこから自我OS活動、心の動きが起こったのも必然です。この動きがなくては真我実現は起こり得ません。心が外に向かって世界が誕生し、心が世界に対して完全絶望し、心が方向を真我に変えて、、真我に近づいていき、、真我を発見することで心は破壊されます。この全てが必然として起こるのです。

異次元

あの人は、、、

マイケルジョーダン「神」、、、コート上のプレイを大衆は観て「神」と彼のことを呼びます。なぜ人はこのような言葉を形容するのでしょうか???答えは全員が神だからです。全員が全員実は神であり、、そのことをただ忘れているのです。スポーツ選手は集中して集中して集中して思考を一点に集めたとき、、それ以外の想念が完全に消えます。世界にその想念だけが残ります。するとその想念がそのまま現実化、現象化するのです。それが神のプレイと形容されます。一種の超能力です。ジニャーナヨーガではこれをシッディ(超自然能力)と呼んだります。

つまり

神のプレイとは集中力です。雑念を完全に排除した時、、、世界から他の現象が消え去り、、一点に集中された思考がそのまま現象になるということです。これは弱い心ではできません。なぜか????心は基本散漫であり何かに集中することができないからです。その心を一点に集中するトレーニングを重ねることで、、、心を強くしていくのです。一点に一点に集中することでその心が真我に入りこんだ状態が「ゾーン」に入った状態です。熟睡状態はこれを無自覚にやります。プロ選手はこれを意識的に行うのです。眠りのない眠りの状態です。

強い心

ジニャーナヨーガでは、、この強い心を使って、、心を「真我」に意識し続けていきます。真我に心が向いた状態で、、日常生活を行うのです。なぜ????なぜそんなことができるの????だって、、、この日常生活の動きは自然に勝手に進んでいくから大丈夫なんです。お腹が空いたら自然に買い物に行くし、トイレに行きたくなれば行く、寒くなれば上着を着るし、電話が鳴れば取るでしょう、、、何か問題でも???レストランのウェイターは、、右手に5杯のグラスを運びながらホール全体を見渡すのです。何か問題でも???

何が起こる???

真我として常に「在る」ことができる時、、、この世界は完全に真我に飲み込まれます。完全に真我に飲み込まれた状態でこの世界が動きます。世界が自分のものになります。そして世界が動くこの動き自体が自分自身の動きであることに気づくのです。真我以外が本当に存在しないことを実感します。これが真我実現です。真我以外が存在しないことを自覚しながらただ現れが動きます。世界の動きは全て私の「超能力」シッディです。自我が現れようともその動きも私のシッディです。超越体験です。

テレビに映ったダイアモンド

これ俺のモノ

子供にTVをプレゼントします。子供は喜びTVをかじりつくように観ます。そこに1億円のダイアモンドが映し出されました。その瞬間子供は「これ僕のだよね」と言います。僕のテレビに映ったダイアモンドだから僕のだよね!!!と言います。学校に行っても「僕は1億円のダイアモンド」を持っているんだ!!!と言います。さて、、これ何が起こったのでしょうか????映像としてのダイアモンドは確かにその子のものです。ですがリアルなダイアモンドはその子のものではありません。

さて、、、

本題に入ります。この体、リアルなこの体は、、「あなた」のものではありません。ですが、、、幻影としてのこの体、映像としてのこの体、蜃気楼としてのこの体は「あなた」のものです。これが真実です。リアルな体は実はここには存在しないしどこにも存在しません。蜃気楼の体のみ存在します。その蜃気楼の所有者は「あなた」です。つまりあなたは蜃気楼のこの世界全体の所有者です。そして世界は蜃気楼ですがあなたは蜃気楼ではありません。あなただけがこの世界で蜃気楼ではないのです。

全員が

学校に行けば会社に行けば全員が、、このリアルな体の所有者ということになっています。全員が全員画像に映ったダイアの所有者と宣っている「イタイ」勘違いをしている人々です。騙されてはいけません。この見える世界の全ては蜃気楼であって実在ではないのです。そして実在は唯一無二の「あなた」のみです。そして実在のあなたはこの体の中に収まるのではなく世界全体の所有者です。世界全体の所有者「あなた」はこの蜃気楼の体の中に閉じこもるわけにはいかないのです。

あなた以外が存在しない

あなた以外は全て蜃気楼ですから厳密に言えば「あなた」はあなたではないのです。あなたという言葉にはあなた以外の存在が必要です。ですが「あなた」しか存在しないのならば「あなた」という言葉自体が不適切です。そこで神、真我、絶対、ブラフマンなどの言葉が生まれたのです。つまりあなたは真我、神、絶対です。この事実を絶対的に自覚できた時、、、もうあなたはこの蜃気楼の中の体に閉じ込められることはありません。あなたはこの小さい小さい体から見事脱出したのです。

映画

誰が見てる??

スターウォーズという映画があります。その映画を見る「私」が存在します。スターウォーズという映画は「二元ストーリー」です。ですからそれを見る私も二元世界の中でこれを見ます。二元世界の映画を二元世界の私が見ます。ここまでいいですね。。。。『「二元世界のスターウォーズ」という映画を二元世界の私が観ている』というこの事実は本当に真実ですか????嘘発見器にかけてこの事実を1億円賭けれます??????1億円は賭けれないかもしれませんが、、、映画を観たということに関しては絶対的に否定できないはずです。

ならば

『「二元世界のスターウォーズ」という映画を私は観たという映画』が誰かによって気づかれていることは分かりますよね???「スターウォーズ」の登場人物ではない私が映画の外から見たことには異論がなく、、、そのことに気づいているのならば「映画を観た私」という映画も映画の外から確認されていなければなりません。そうでなければ1億円賭けれないはずです。つまり私が「二元世界のスターウォーズ」を観たという映画が確実に私の外の誰かによって気づかれているのです。

その誰か

その誰かが、、私のように二元世界の住人である場合、、、そのことも誰かに気づかれなければ、、成立しなくなることは分かりますか???つまりこの証明作業は延々に続くことになるのです。ですから、、私が「スターウォーズを観た」という映画は、、、二元世界の誰かによって気づかれたのではなく「絶対」でなくてはなりません。唯一無二の絶対にこれが気づかれる以外にないのです。

私がスターウォーズを観た

この事実は、、、絶対的存在、神によって気づかれたのです。だから今その事実を観ているのは「神」です。神がスターウォーズという二元世界の映画を二元世界の私が観たということに気づいているのです。そうなると問題が起こります、、この景色が神によって気づかれているとなると、、、かつての私は「神」ということになってしまうのです。となると、、、体の中の私という想定が成り立たなくなります。そうです、、この景色は神によって見られているのですから、、体である私の居場所が無くなるという話です。

つまり

この景色は神のものであり、、体である私のものではないのです。「私=神」だったということです。だからこの体は神が見る景色に現れる画像に過ぎません。個体という物質であることは間違いないのですが、、これは神の前で現れては消える現象なのです。神が見るこの景色の中に体の中の私がこれを見ているという思考現象が現れていたのです。実在するのは、、神であるこの景色の鑑賞者と、、その前に現れるあらゆる現象だけです。景色も私も全て「現象」です。現象として実在です。

熟睡中に起こらない疑問

俺は何のために生きてる???

俺は、私は何のために生きているんだ????こんな質問は熟睡中に起こりません。熟睡中に私はいつも自問自答をしている????聞いたことがありません。なぜ????なぜならば熟睡中は、、自分が存在しないのですから当然です。ならばこの現実と呼ばれる夢で、、自問自答するのは紛れもなく「自分」という自我です。この自分という自我が「何のために生きてるの???」という哲学的な疑問を描くのです。

どうしたら悟れる????

この質問は熟睡中に起こりますか???起こりませんね、、つまりこれも発言者は「自我である私」です。自我である私の心の活動が「どうしたら悟れるのか???」です。だから悪戦苦闘して悩むのではなく、、自我とは何か???にそこから入るのです。「どうしたら真我実現できるのか???」という疑問は間違いなく自我から発信されていて、、ならば自我が確実に残っているのです。だから自我とは何か???という自問自答が必要になるのです。

質問の中に答えがある

つまり、、、あらゆる質問の中に答えが最初から含まれています。疑問が起こる→この疑問は誰のもの→それは自我である自分以外にない→では自我とは何だ???となるのです。真実は自我を木っ端微塵にしますから、、真実に触れる以外にないのです。自我の自問自答に付き合うのではなく、、自我とは何か???真我とは何か???の繰り返しです。自我が、ヴァーサナーが、サンスカーラが、、木っ端微塵になるよう繰り返し、、真実の知恵に触れていく以外にありません。

自由意志の起こる場所

自我

私無くして自由意志ってあります???自由意志って確実に私に所属してますよね????そうです、自由意志って私のものです。私あっての自由意志です、、、つまり自由意志は私の所属品なんです。だから私が存在する限り自由意志はガンガン毎日湧いてきます。どっちにしよう、どっちから片付けよう、どこから攻めようか???ですね。これを自由意志と呼ぶのですから。で、、つまり、、、自由意志ってあっていいんです、私が存在する限りは湧いてくるんですから。重要なことは、、自分という自我、これに所属するという自覚です。

では、、、

その自分とは何か???となります。自由意志を所有する自分とは何か????これです。自分が何かがわかっちゃえば、、自由意志もひっくり返ります。自由意思は自分が存在してくれないと存在できないのですから。そして、、、自分とは、、、真我と体を媒介する思考です。真我を体と同一視する媒介ツールです。真我という無形の存在を、、体という有形の存在と同一視する結節です。真我という唯一無二の存在を、、体という真我の一部を同じとするプログラムです。ということでつまりこれはバグってます。=でないものを=にしてプログラムを組んでいるのです。「=」のプログラムミスです。

つまり

つまり自由意志とはプログラムミスを土台にした新たなプログラムです。自由意志とは勘違いをベースにした勘違いコントです。ですから自分が何か???本当の自分が誰か分かってしまえば、、ドミノで崩れます。元来の自分なんて存在は、、、完全なプログラムミスです。本当の自分は、、不変で永遠、そのままで愛である真我です。「私」という発想すら全く生まれもしない存在です。「I AM」とは「私=存在」ということです。存在だけがあってその中で自我という精妙な心が生まれ、、その心が想念の束である大きな心を生み出し、その心が世界を生み出すのです。自由意志とは、、その流れの一部です。

自己改革=社会改革

社会は私の中

社会はどこにあるのか????この根本的質問に対して人類は完全に勘違いしてきたからこそ、、朝から晩まで社会をいかにしなくては!!!!と議論し、、働き、、ここまでやってきました。政治家が現れマスコミが現れ、それを買う読者が現れ、、行政が現れ、、、、です。全ては、、社会はこの肉体である自分の外側にあるという大前提です。ですが、、これ大きな大きな勘違いです。社会はあなたの中にあるのです。あなたの心の中以外に社会は存在しません。

つまり

人類の活動の全てはあなたの心の中の活動です。騒ぐ立てるコメンテイターもあなたの心の中以外では騒ぐことができません。街頭演説で熱く語る政治家も、、あなたの心の中で語っているのです。つまり全てが茶番劇です。その茶番劇の中にあなたも登場し、、、そうだそうだ!!!と政治家に賛同していたということです。あなたもこの茶番劇に参加して、、交じってきたのです。あなたの心の中にこの体も現れ、心の中以外にはあなたのこの体は現れることができません。

パラダイムシフト

この真実の理解こそが、、、あなたの固定観念を壊していきます。この真実への目覚めが、、これまでの固定観念を打ち壊します。心の中の社会問題と心の中の政治家、コメンテイター、、、この活動に対するあなたの反応が確実に変わっていくのです。あれ?????これって本当に問題なのか???です。心の中の社会問題って、、本当に社会問題か????です。ただ夢を見させられているような感覚です。

それでいい

全ての社会問題は心の中で起こります。だから勝手にやらせておけばいいのです。勝手に勝手に何でも起こりますが、、これ心の中で起こるだけです。そして、、心の中で起こるということは全社会問題も政治活動も、マスコミの動きも、、これ心の活動です。あなたの心の活動です。つまり自作自演です。あなたの心が社会問題を生み出し、政治家を生み出し、マスコミを生み出すのです。だから放っておいてください。あなたの心の自作自演にいつまで付き合うんですか???

無関心

真実の目覚めは社会への無関心を促します。なぜならば社会の動きはあなたの心の動きに過ぎないのですから。あなたが生み出した社会の動きに、、なぜ関心が起こるというのでしょうか???ありえないことです。あなたの心の活動になぜあなたが過剰反応しなくちゃいけないんでしょうか?????では私は何に関心を持てばいいんですか?????あなたは、、あなたの心が生み出すこの世界の「鑑賞者」です。あなたはあなたの心が製作総指揮する「世界」をスクリーンとして見る鑑賞者です。このスクリーンである真の自己に関心を向けます。完全に忘れ去られていたスクリーンが、、真のあなたでありそれ以外に実在は存在しないのです。