思考花火は刺激的だが虚しい

毎日毎日

ネットフリックスにはまります。どハマりします。。。一年間毎日ネットフリックスしか観ていませんでした。その時刺激的ではあったが虚しい気分になります。これは思考も全く同じです。毎日毎日考えることばかりで四六時中考え事をしていました、、刺激的だが虚しいのです。なぜか?????思考とは花火のようなもの、、、、花火の絵は綺麗で刺激的ではありますが、、体感がないのです。五感を全く使っていません。

空想の中で

空想の中で「気になる異性」とデートをする夢を毎日毎日回想するとしましょう。。。刺激的ですよね、楽しいですよね、、、でも虚しいんです。なぜ?????体感が全くないからです。五感が全く働いていないのです。だから虚しいのです。思考とは現象の一つです、、、現象を現象のままに気づく時「至福感」が芽生えます。花が咲くのもそのままに気づくと至福感が生まれます。ですが「思考の花火」を認識し続ける時「違和感」が同時に起こるのです。その違和感とは「虚」です。

憎き親

1億円

今の苦労は全部親のせいだ、、親が大学に行かせてくれなかったから俺は毎日こんなくだらない仕事をしなくてはならないんだ。。。毎日毎日通勤中そうやって回想している人が居るとしましょう。その人の親が突然「生前贈与で1億円をお前に渡すことにした」と伝えられたその日から親への恨みが突然消えます。なぜ????簡単です。「今の苦労は全部親のせいだ、、親が大学に行かせてくれなかったから俺は毎日こんなくだらない仕事をしなくてはならないんだ。。。」という思考が止まっただけ、ただそれだけです。この思考の花火が上がらなくなると「認識」がなくなるのです。

記憶喪失

「今の苦労は全部親のせいだ、、親が大学に行かせてくれなかったから俺は毎日こんなくだらない仕事をしなくてはならないんだ。。。」交通事故で過去の記憶が飛んだ瞬間に「今の苦労は全部親のせいだ、、親が大学に行かせてくれなかったから俺は毎日こんなくだらない仕事をしなくてはならないんだ。。。」の思考が湧かなくなります。すると毎日穏やかに会社に行けます。だったら記憶が飛んじゃった方が良いぐらいです。

だったら

記憶喪失になったら「穏やかになれる」記憶があると「穏やかじゃない」これっておかしくないですか????記憶を意図的に無くすことはできませんから結論から言いましょう。思考は全部記憶によって生成されます。記憶をベースにその都度その都度それを混ぜ合わせて思考が湧き上がります。その思考の花火をひたすらに人は見ているんです。過去の記憶をベースにした思考花火を毎日毎日ひたすらに見ているのです。

波乱万丈?

本当は

俺の人生は波乱万丈、幼少期は虐待にあい、学生時代は壮絶な虐め、就職してからはブラック労働で結婚離婚を繰り返し、、、みたない、、、映画のような人生を歩んできました、、、って話ありますよね????実は実は全部思考です、、そういう目にあったという思考が今花火のように上がっています。何を言っているのか????本当に実際にあった話だからしているんです!!!違うんです、、実際にあったという思いだけがあるのです。

思考

幼少期に虐待にあったという思考があり、学生時代に壮絶ないじめにあったという思考があり、ブラック労働だったという思考があり、結婚離婚を繰り返したという思考が起こるこので「それが起こった」という認識が起こったのです。思考の花火を打ち上げたことでその花火が空に描かれたのです。全く同じ境遇にあった兄弟がいて「幼少期は父と毎日プロレスごっこをし、学生時代は毎日友人と喧嘩ごっこをし、就職はベンチャー企業で浸食を忘れて打ち込み、情熱的な恋愛をしてきた」と答えればまるで違う思考の花火が空に打ち上がります。そしてそう認識されます。

良い悪いではない

ネガティブな思考は悪で、、ポジティブな思考は善であると言いたいわけではありません。何事も受け取り方次第で、、だったらポジティブに捉えましょう、、、と言いたいわけでも全くありません。重要なことは「思考こそが」花火のように打ち上がりその思考の花火をただ認識しているんですよ!!!という話です。だから思考の打ち上げ花火をみて、、そこに深刻になる必要がありません。思考という存在の仕掛けに気づくのです。

気づくと

死にそうなほど深刻な顔の人が「私は借金1000万円あり、妻も家を出て、子供も離れ、会社も首になりもう生きる希望がありません」と宣えば、、その思考を起こすことでその認識が起こっていますよ、、となります。状況そのものが深刻を作ることはできません。状況を受け取る思考が深刻を作ります。だからポジティブにということではなく「思考のみ」が「認識」を生み出すというメカニズムに気づいていきます。

何も思わないようにすればいいんですね

全く違います、、「思わないようにする」という思考が今起こっただけです。この思考には何の力もありません。思考はただの花火ですから。思考はただの花火なんだ、思考は認識を起こすただの花火だという気づきが、、、「思考花火」を花火として認識することを可能にします。

素晴らしい日々

あの時は

あの頃って今思うと「素晴らしい日々だったなー」という回想が起こります。いやーあの頃はみんな純粋無垢で将来のことなんて気にしないで遊んでた。。。。という思考が今起こったんです。その事実は全くありません。起こったのは「その思考」だけです。「素晴らしい日々」は思考の中だけで今起こったのです。今があまりに慌ただしく世知辛いから「その思考」が起こったのです。

将来は、、、、

またもう一度、、あの頃のような「素晴らしい日々」にいつか戻れたら。。。無理です。なぜならば「素晴らしい日々」は思考の中にしか存在しないからです。今できるのは「いつか素晴らしい日々」という新しい思考を起こすことだけです。思考の中にだけ素晴らしい日々をイメージできます。ではどうぞ!!!!いかがですか????虚しいだけですよね。そうです、、思考の中で素晴らしい日々をイメージしても虚しいのです。

過去は良かった、またいつか将来素晴らしい日々を。。。これマジックです、騙されてますよ。「過去には素晴らしい日々があった」という思考花火を今打ち上げて、、「将来はまたあのような日々を」という思考花火をまた打ち上げたのです。素晴らしい日々というのは「この仕掛け」を見抜くことなのです。過去を今思い出し将来を期待するというのを今思考しているだけです。この思考花火こそが「今」を曇らせています。今、思考花火さえ起こらなければそのままに至福に変わります。思考花火が今という至福を曇らせていたのです。だからそのメカニズムに今気づいて思考花火を打ち上げなければいいのです。

自分だけ幸せになっていいんですか????

逆です

あなたしか幸福にはなれません。なぜか?????この世界このあなたの体が登場する世界は「あなたしか存在しません」なぜならばこの視界から消えてしまった人々はこの世界から消えてしまうからです。だから他人を幸福にするって絶対に絶対に不可能なんです。まさか相手のために24時間一緒に生活できませんよね????そうです。不可能なんです。

自分は幸せになっていいんですよね????

その通りです。ですがこの体も実を言うと視界から消えた時存在していません。あなたが外を眺めたその瞬間実はこの体も消えています。ですから厳密に言えば「この体=私」とするならば私は絶対に幸福にはなれないのです。現れては消えていく存在この体である私を幸福にするって不可能です。外を見るたびに消えるんですから。ではでは誰が幸せになれるんですか???誰もなれません、誰もなれないんだから先ず他人の幸福を願うって無理ゲーです、私すら幸福になれないのですから。

ところが

そのことを腹の底から理解できてきますと「あれ、おかしい、穏やかで安らぐんです、、、」幸せにならなくてはならない個人は誰も居ないと気づくと、、まさかの安らぎが芽生えてきます。社会問題、政治問題????いやいやこの視界から外れたらその人は存在できないのです。なぜそこを深刻に捉えれるのか????この私ですらその影響を受けれないのですから。

誰も何も影響を受けていなかった

この視界が全てです。その時この体も他人の体も現れては消えていきます。だから救いようがない。そのリアルな気づきが、、本当の癒しになります。何からも守るべき存在が居ないのです。現れては消えるこの体と共に「今やりたいこと」をやってしまっても誰にも迷惑をかけることができない。その証拠にやってみてください、そして「何か言われたら着信拒否に」するともう現れませんよ。

認識が経験を変える

ノンデュアリティの認識

悟るとなぜ感覚が変わるのでしょうか????いまここは何も変わらないにも関わらずなぜ?????簡単です、認識の転換は経験の転換だからです。「あなたはニューヨークビルの所有者」こう嘘をつかれても信じ込めば「経験」が変わります。就職難の情報????全く気にもならない、、友人の就職成功、、どうでもいい。。完全に経験が変わっています。悟りとは今ここで何が起こっているかの認識の転換です。つまり経験の転換です。

疲れたサラリーマン

かつては疲れ果てたサラリーマンを見れば「ああなってはいけない」「だから頑張らなくては」と危機感が起こっていた。今はその全てが自動運転、どうにもこうにもそこには選択肢はない。。そして見える彼らに感情が本当に起こっているかは疑わしい。。と思っています。だから何の感情を湧かない。ただそのような様子があえるだけ、、になりました。

慈悲

全員が全員勝手にやらされている、、という理解は、、なんとも言えない共有感でもあります。ただ感情が思考が起こるこの世界、この現象界に現れた人々。現れては消えていくこの人々は二度と見ない人ばかり。このことが実は面白い、切ない、なんとも言えない感情が湧きます。そこには優越感なんてものはなく、、皆それぞれの役を演じている。そこに慈しみを感じます。その慈しみは個人から個人に対してではなく、ただそれになるのです。都会の喧騒でただそれになります。

これからは

こういう風に「考えて」生きていきます

今まで様々に「考えて」生きてきて「苦しみの世界」に入り込みました。これからは「こう考えて」生きていっても同じです。ノンデュアリティ は「考え方」の学問ではありません。ノンデュアリティ とは真実そのものです。そしてこの真実そのものは「考え方」ではないので「認識」が起こりません。丸暗記しようにも「認識」が起こらないのです。

それでも

学んでも認識は起こらない、、では考え方として捉えても無駄、、じゃあ一体全体どうしろと????認識が直ぐには起こりはしないがそれでも触れ続け浴び続けていけばいつかは「認識」が起こるというスタンスです。これは考え方の学びではない、、かといって認識が起こらなければ実感は湧かない。このことを自覚して取り組むのです。

仲間に入れて

中学生が

中学生が、、小学生の群れの中に入れて欲しいな、、、、って思わないですよね?????高校生が小学生の遊びに混ぜて欲しい????ないです。なぜ????楽しいの感覚が異なるからです。他己責任から自己責任で生きていきますと「エネルギーの自分への集中」が起こり、、人生が楽になります。その時「楽しい」も変わります。人生の中での楽しいが変わっちゃいます。その時「他己責任」をやっている人とは話が合わなくなります。

自己責任から無責任

自己責任は「楽だし結果も出る」だからもっともっとが多くなります、つまりエゴイスティックになっていく。もっと違う景色が見えるかももっと大きな家にもっともっとです。この終わることない夢はいつまで続くのだ???です。そしてそして「自己責任」すらなかったことに気づきます。他人にも責任は一切ないし自分にも責任は一切ないという境地に至ります。

自分すらも

自分すらも勝手に勝手に行動や思考が起こっていたんだ、、、という気づきが起こります。すると他人は勿論責めることはできませんし自分も責めることができません。つまりこの世界には責めるべき誰かは全く居ないという真実に行きついてしまうのです。これが解放です。これが目覚めです、、実は誰も居なかったという気づきです。すると世界は全部幻想で世界は一つなんだという気づきのドミノが倒れてきます。全てが幻想ならば時間もないし空間もない、、空即是色、色即是空だけ。という気づきです。

分かってくると

あれ????

分かってきちゃいますと「音楽ってこんなに綺麗だったっけ???」「景色ってこんなに輝いてたっけ???」「料理ってこんなに美味しかったっけ???」「お酒飲むってこんなに楽しかったっけ???」と気づきの連鎖が起こってきます。「あれ???」です。でも全く驚かないのは、、本当はそうだったよね。。。という懐かしい感じ、、、いや違う、、この感覚を疑うという感覚が起こらないのです。

山の霧が晴れて

山の霧が晴れて、、壮大な山が聳え立つ時、、その景色を見て「疑い」って起こりますか????起きませんよね。それです、、凄い景色はハッキリとあるにもかかわらず同時によれを疑うが起こらないのです。催眠術から解けた時に「あれ俺って今催眠術かけられたかも」は起こらない。。。今までが催眠をかけられていたという揺るぎない感覚が起こります。

夢から覚めた時に

今まで夢を見ていた!!!という気づきが起こります。ですが同時にこっちが夢か????はない。目覚めた後の景色を夢では????とはならない。。なぜでしょうか????なぜ????不思議ですよね。。そうです、不思議なんですが疑いがないのです。疑うことがないから悟り、目覚めなんです。今までこそが夢だったという揺るぎない気づきです。

なぜ???そのファッション

関西のおばちゃん

TV番組で関西人に聞きました!みたいなやつに出てくる関西のおばちゃん「ヒョウ柄」「チーター柄」などなど不思議なファッションが目につきます。この不思議なファッション本人が意識的にやっていると思います。間違いなく勝手にそこに手が行き勝手にそれを気に入り勝手にそれに決めたんです。ブレスト?????やっていない間違いなく。

ピーコのファッションチェック

ピーコのファッションチェックコーナー、、ピーコが道行く人々をメッタ切りにするコーナーです。なぜ????この服にこれを合わせた????がピーコから続出しますが、、やっていない、、皆勝手にそれを選ばされ勝手にそうなったんです。何もかもが勝手に自然にそうなったのです。だけどピーコはそう思っていない「なぜ????」「なぜ?????」「なんで?????」が頭から続出している。

誰も何も決めていない

誰も何も決めていないという気づきはこの世界を「エンタメ」に変えます。滅茶苦茶軽いんです。全くもって軽いのです。だって全員が全員無責任に全てを決めている気になっているだけだからです。そして本当は誰も何も決めていないのです。この気楽さに慣れてきますと、、本当にお気楽人生が始まります。重い重い顔をして生きている人を見ても「それもやらされている」のです。全てが吉本新喜劇、喜劇です。