思考が消えると不幸が消える

マジで???

思考が消えると不幸が消えます。?????思考なしに不幸になれますか???不可能ですね。あなたが突然記憶喪失になった場合、、、借金10億、、家族離散、、、、でも不幸になれない、、不幸と思えない、、、事実です。それが現実が見えていないから????違うんです。その人の世界にその事実は登場できないのです。なぜ????なぜならば事実とは心が生み出すからです。心こそが世界を生み出すのです。だから、、、心とは違う場所で、、世界、現実は起こり得ないのです。

信じられない

世界や現実をしっかり見ないなんて、、現実逃避では????違うんです。実在は、、この見える世界ではなくて、、この見える世界の基盤です。この見える世界を見える世界たらしめる基盤こそが、、実在です。そしてこの見える世界はその基盤から心という基盤が起こりその基盤を通じて起こるのです。つまりこの世界は心が生み出す映画ということです。この二元ストーリーは、、心が制作総指揮の映画です。だから私が消えても心が消えてもこの世界も消えるのです。

消える?????

夕方道を歩いてたら「蛇だ!!!!」と思い恐れ慄いていたら、、なんだ「ロープか!!!」という勘違い解消が起こります。その瞬間、、、蛇は消え去り、、ロープに変わります。。。。。この世界、、この世界は、、絶対のリアルだ、、、と思っていたら、、、なんだ、、、これ心が生み出す幻想じゃん!!!に変わるんです。もうそこにはかつてのリアル世界は存在しません。リアルだと思ってたら、、映画じゃん!!!と同じです。リアルだと思ってたら、、ゲームじゃん!!!と同じです。

「在る」は一なのか??

二元性の否定

一なるものから、、二が生まれた、二元の世界が生まれた。。二元性を生み出すのは一元である、、、、これが概念が考えることです。心が考えることです。二元性が心が生み出した概念に過ぎないのならば、、真我は一である。これが、、、心が導き出す真我です。ですが真実は、、、二でも一でもなく、、「在る」ですから。「在る」に数は存在しないのです。真我に数は存在しません。1、2、3、4という心の活動を超えた存在が真我です。

主体客体

主体があって対象がある、、、ところがこれが心の活動に過ぎなかった、、という気づきが起こります。その気づきは「真我=1」とは全く関係のないことです。二元の世界、トリニティーの世界が幻だったという発見が起こり、、、それを生み出す存在が「空」「真我」ということです。ですが「空」「真我」という言葉は分離を生み出す道具ですから言葉が「空」「真我」を言い当てることは構造上不可能なのです。分離を生み出す道具で非分離の存在を説明することは矛盾を抱えます。

つまり

心の活動で真我を発見することはあり得ません。心の理解とは、、対象となる世界(心)だけです。心の管轄範囲はこの世界だけなのです。真我は心を超えていますから構造上心が真我を理解することはできません。真我は「心の活動が破壊」された時に残るものです。つまり、、、真我として「在る」ことで、、心を破壊し、破壊しきることです。東大生が一夜漬けで真我実現できないのは、、、真我は理解ではないからです。なぜならば真我の場所は心の守備範囲(世界)を超えています。

「在る」=電源ON

否定できない

「在る」という否定できない感覚があります。電源ONの感覚です。これを否定できる人はいますか???今このブログを読んでいる方で、、「在る」という感覚、「電源ON」の感覚、生きているという感覚、「この意識」の感覚を否定できる人はいますか????いないですね。。。そうです。この感覚は90億人全員が所有する感覚です。そしてこの感覚を「この体の中の私」が所有する、、、という思考が起こります。これが嘘のプログラム、思考です。

とはいえ

「私」は、、、何かに依存しなくては存在できないため、、、体を所有し、この「在る」という感覚を所有します。そうなっているのです。自我とは、、何かと結びつく以外に存続できないのですから。だから嘘のプログラムが発動していいんです!!!!!何も問題がなくそうなるために生まれたのですから。ですが、、そのことに気づかない期間は、、、、重り1000キロを背負った状態、、何もしたくない、、、働きたくない、、結婚も本当は面倒、、離婚も面倒、、、親の世話、、、、勘弁してくれ!!!状態です。

だから

先ずは自我を肯定します。自我とはそういう存在でそう在るために生まれてきたのですから。自我は粗大な体と同一化し、、電源オンの感覚も同一視し、、幸福も所有します。ですが、、、全てそれは自我とは全く関係のないものです。自我とは、、、「私」であり、、、「私」は何とも一切関係がないのです。ですが何かを同一視せざるを得ない自我は、、絶対存在「在る」を同一視します。「幸福」を同一視します。「愛」を同一視します。こうやって依存先に最強の「存在」を携え、、、安定存続体制にシフトします。

だが

この自我の安定生存戦略が機能するのは、、真我が発見されない期間だけです。我々は実は三つの状態「目覚め、夢見、眠り」の根幹、基盤で在ることが明確になった時、、自我は、、、依存存在を失うのです。「幸福、愛、気づき、意識」は全てこの根幹の感覚であり、、、体である「私」であるはずがないのです。この明白になった詐欺行為が露わになった時、、、自我は存在を失うのです。かつての自我が木っ端微塵に消え去ります。そして「私=体=心」という役名のみが残るのです。

ハタヨーガ

体を動かす「気」に気づく

体という粗大な物質があり、、、多くの方はそれには気づきます。ですがその粗大な体を動かす「気」という存在には気づきません。体という粗大な体を体たらしむ存在、気の動き、プラーナ、ナディー、、表現はいろいろありますが、、、それに気づきます。究極の微細、ピュアが真我であり、、そこから最微細な心が生まれます、これが気です。最微細な心が、、粗大な心である体を生み出していくのです。

ハタヨーガ

ヨガを行う際に、、、この体を動かす気の存在、最微細な心の動きに気づきます。最微細な心は、、そのまま真我である源から発生しており、、それは真我に気づくことでもあるのです。真我に真我が気づくのです。エックハルトはインナーボディーと称しますが、、つまり微細な心のことです。微細な心、気に気づいて日常生活を行うようになりますと、、真我、基盤の土台に常に気づいた生活を行えるようになります。

真我

真我という、目覚め、夢見、眠りの状態の基盤に気づき続ける状態は、、第四の状態と呼ばれます。この状態を常に継続できる時、、、ジーヴァンムクティ、生きた解脱です。生きながらにして悟った状態です。なぜならばもう、、この現象の中には存在しないのですから。現象を現象と完全に見切った状態です。粗大な心である体を動かす微細な心、気に気づくことは、、真我に気づき続けることに繋がります。ハタヨーガを行う際に、、この気の存在を意識して行うことでそれが可能になっていきます。

影に自由意志はない

実在

実在、、は真我のみであり、、真我は至福であり愛です。そして無限であり、不変、不動です。そしてこの顕現の世界は、、影です。実在である不変不動の影です。つまり自由意志の主体となる実在は存在しません。真我は不変不動であり、、その影も当然不変不動です。ですが影は、、変幻自在です。影であることに対しては不変不動です。当たり前です、実在である真我が不変不動なのですから。影も不変不動です。ですが影の中身、、影の中の現れは、、、変幻自在です。影であることこの事実は「不変不動」であり、、影の中の動きは変幻自在です。

もう一度

影が影であること、、、この事実は不変不動です。なぜならば真我自体が不変不動ですから。ですが影の中身、、影の内部の動きは変幻自在です。なぜならば真我は無限であり、、その影も無限を表現するからです。つまりこの現実と呼ばれる世界が変幻自在であることは、、影の内部表現ということです。この世界は影の内部です。真我という不変不動、無限の存在があって、、その影が影として不変不動であり、、その影の内部表現は「無限」を表します。

だから

朝目覚めて、、ああしよう、こうしよう、、、という自由意志が働くのは、、影の内部の無限を表すからです。無限の選択肢があって無限の決断が起こりえるのは、、影の内部は無限の現れだからです。影の内部では自由意志の感覚は起こり得ますが、、影の大元が不変不動であり、、影の中身に、、自由意志を所有する実在は存在できません。つまり。。。自由意志は存在不能です。実在としては自由意志は存在できません。ですが影の内部としてその感覚は起こりえるのです。なぜならば影の内部は無限の可能性だからです。

幸福というコンピューター

至福

我々が普段使うコンピューターがもしも幸福で出来ていたら、、、どうでしょうか????幸福という原料で構成されていたら????ですが、、、事実としてこの現実(実在の現れ)を生み出す実在コンピューターは「幸福」で構成されています。原材料が幸福である実在コンピューターの現れがこの現実です。つまりこの実の現れの土台は、、幸福でしかないのです。そして現実と呼ばれる実の現れはコンピューターのモニターに映し出された幻影です。

幻影の中

この実の現れ、現実の中に幸福が一切存在しないのは、、、コンピューター本体ではなく、、モニター画面の中だからです。残念ながらその中だけには幸福は存在しないのです。その中だけです。その証拠にモニター画像が消え去った状態(眠り)は、、、至福です。至福以外の熟睡をあなたは体験できません。これが決定的証拠です。コンピュータ本体(至福)以外が消え去った状態で至福以外を体験するのは不可能なのです。人間とはまさかの唯一の至福が存在しない場所『モニター内映像』の中でのみ至福を探し求める愚かな映像(生物)なのです。

ただし

肉体(映像)が幸福を求めることはできません。肉体は何も思考できません。肉体を「実在」と勘違いする思考が起こり、、、この現実(実在の現れ)をリアルと勘違いする思考が起こり、、、肉体こそが至福(コンピュター)の所有者だ!!!!という勘違いが起こった時に、、、、この画像の中で幸福を探すというおかしな行動が起こります。全て思考の動き、言語プログラムの動きです。コンピューター自体が至福なのですから、、、コンピューター本体(真我)がこの勘違いをするわけがありません。

何?????

コンピューターの電源がONになり(この意識)、、、、私というプログラムが起動し、、モニターがONになり、、、世界というプログラムが起動した時、、、「分離感」という感覚が動き出し、、苦しみの連鎖が起こります。全ては幸福(コンピューター)内でのプログラム(心)の活動です。だから大元が幸福であることがバレてしまったらこのゲームは終わりです。この事実を知らない期間だけ一生懸命幸福をモニター内で探すことが可能です。

真逆

プログラム(思考)がフル稼働すればするほどに、、苦しみが起こり、、、疲れ果てます。プログラムの稼働が止まれば、、、本体の至福が現れます。真逆です。プログラムは活動以外に幸福を得る方法はない!!!と決めつけ、、稼働を緩めません。今もだから世界中の人々の心は動いています。ですがこの心こそが不幸を生み出す動きであることを知りません。無知(コンピュータの存在を知らない)プログラムの動きこそが不幸なのです。

言葉

分離世界

この世界が最初にあって我々が生まれたのならば、、分離世界が「事実」であってそれを覆すことなど不可能です。ですが真実はそうではなく、、、この世界は最初存在しませんでした。言葉が生まれ、、言葉が分離世界を生み出し、、その後にこの宇宙が誕生したのです。夜見る夢見の状態、あれは、、最初に世界があって我々が生まれるのではありません。私が生まれ同時に分離世界が誕生するのです。この現実と呼ばれる世界もまさにそう、、「私」という分離ブログラムが最初に誕生し、、そこから分離プログラム世界がドカンと誕生するのです。

つまり

つまり言葉こそがこの分離世界の生みの親です。神は言葉なり、言葉は神なりです。この世に言葉が存在しなかったら、、この世界も誕生しません。その言葉で、、「悟り」を開くって構造的に不可能なのは分かりますか???言葉という理解を通じて、、真実が顕になることが不可能なのは分かりますか???言葉こそが分離ゲームを生み出すのですから言葉で現れるものは分離以外にないのです。真我とは絶対であり愛であり、平和である、、という言葉の理解は、、分離の中で起こるのです。

言葉とは何か???

ですから、、、言葉で真実を理解するぞ!!!ではなく、、、言葉とは何か????に迫ります。言葉とはこの分離世界を生み出す神の道具です。こうやって今も我々が分離世界を体現できているのは言葉の力です。そして我々の本質は言葉がこの分離世界を生み出すことを可能にする基盤です。目覚め、夢見、眠りの三つの状態を、、体験できることを可能にする基盤が我々です。その基盤は言葉の世界によって影響を受けるわけがなく、、、だから何も事故が起こらずに日々これらが切り替わるのです。眠って夢を見たら全く覚めることが不可能になった、、にはならないんです。目覚めが起こったら、、眠りに切り替わらない、、が起こらない。。なぜ????なぜならば基盤である真我は、、一切影響を受けないからです。

サンサーラ=欲望

宇宙が終わる

サンサーラとは欲望です。あなたが夢見の状態で、、、絶対にパリに行きたい、なんとしてもパリに行きたい、そう思えばどうなるか????必ず必ずその夢を見ます。パリって最高、これが恋焦がれてきたパリか!!!!です。つまり、、、欲望こそが夢見を生み出し、内容を生み出すのです。この現実という夢も全く同じで、、、絶対に役者になりたいんだ!!!!!という夢を残せば、、そのまま、、それを叶えるために、、、新しい夢(現実)が生み出され、、、それを叶える夢が起こるのです。これをサンサーラ、輪廻転生と呼びます。

なぜ????

ではなぜそのような欲望が生まれるのでしょうか????簡単です、それを達成すれば「幸福」になれるという期待があるからです。この夢が叶うならば、、絶対に幸福になれるよね!!!!という実感があるからその夢を叶える夢(現実)が誕生するのです。

千キロの重り

プンジャジ

プンジャジ曰く、、、我々は日々千キロの重りを頭の上に乗せて生きている、、、です。まさにそう、、、千キロの重り、、これを日々頭の上に乗せなんとか生きます。この毎日を「現実」と呼び、、、リアルと錯覚し、、、生きています。だからタマス(不活発性)が当たり前、、動けなくて当たり前なのです。そして5%がラジャス、活発性です。もしもあなたが行動的ならば、、既に5%です。千キロの重りを抱えながら動くのですからそれだけで快挙です。

つまり

我々がやるべきことは、、、偉業を成し遂げることでもなく、、世界奉仕することでもなく、、、、大金持ちになることでもなく、、、、1000キロの重りを下ろす、、これだけです。。。。。この千キロを重りを下ろせば、、大偉業です。なぜって、、皆、、、この千キロの重りがしんど過ぎて、、、困っているのですから。千キロの扱いに困り果てているのです。

では、、、、

その千キロの重りの下ろし方を伝えます。千キロの重りの下ろし方、、、それは、、真我に目覚めることです。真我を忘れてしまうことで非真我を「リアル」と勘違いし、、、勘違いドラマを心が生み出し続けています。今もこの世界が問題だらけなのは、、勘違いの心が勘違いの世界を生み出し続けているからです。これは勘違いな心が脚本演出をする勘違いドラマです。この脚本ドラマを捨ててしまう、、嘘と見抜く、、これだけです。

そんなこと出来るのか??

いやいや、、、、、事実として会社があるし、家庭もあるし、生活費もかかるし、、、何を言ってんのじゃ????という話ですよね。。。その現実こそが「勘違いの心」が生み出しているのですから、、勘違いが消えれば、、、その世界も消えます。蛇と思っていたら、、ロープだった、、、この気づきは事実としてリアルとして「蛇」を消すのです。勘違いの世界が消えるのです。なんだ!!!!ロープじゃん!!!!、、、なんだ、、リアルな世界だと思っていたら、、、これ真我そのものじゃん!!!になります。

世界が真我に変わる

突然、、、世界が真我に変わります。蛇がロープに変わるように、、、世界なんて存在しなかったんじゃん!!!!に変わります。我々が思っていた世界は、、、事実、、そう思っていただけで、、存在していなかったのです。それが真我の影であり、、実の現れであり(現実)、、、、言葉そのままだったのです。現実って、、唯一無二の実在という意味ではなく、、「実在の現れ」「実在の顕現」に過ぎなかったのです。

じゃあじゃあ

じゃあ、、、じゃあ、、、、その実在はどこにあるの????これが実在の顕現ならば、、、実在はどこ?????「ここ」です。これ、、です。。。「ここ」からまさに今顕現が現れでているではないですか!!!!現れを「実在」がはっきりと今見ていますよね????いままさにここで顕現が現れでている様子を「見て」いませんか?????体が見ているのではないんです、、体が作り出した世界を(顕現)実在として、、今見ているのです。あなた(実在)から溢れるように今顕現が出ています。

つまり

この顕現、、、はあなた(実在)からまさに今生まれ、、、動きます。実在は不動でありびくともしません。だが顕現は、、、常に動き、、止まることを知らない、、、。風は動き、川も動き、経済も動き、、、、、です。それあなた(実在)から湧き出ています。あなた(実在)なしに、、、何一つ顕現は顕現でいられません。顕現が顕現として今現れでていることを可能にしているのは「実在」である「あなた」です。あなた無しに、、、この顕現は存在できないのです。だからあなたが創造者です。あなたがブラフマンです。あなたが真我です。あなたが無限です。あなたが幸福です。あなたが愛です。

サンサーラ

欲望の連続

あなたの体が死に絶えた時、、多くの場合は「後悔」が残ります。もっと貯金しとけば、もっと遊んどけば、もっと親孝行しとけば、、もっと、、もっと、、、、これが残るのです。その後悔と一緒にあなたが死ねば、、、、その後悔を晴らすために新しい粗大な夢が作り出されます。それが来世です。後悔が残るって当たり前じゃん!!!!!後悔ない人生なんてあり得ないでしょ!!!!この想いを引き摺れば、、、当然来世が用意されて、、、現れます。新しい体を伴って新しい現実と呼ばれる夢が現れます。サンサーラ、輪廻転生の生みの親は欲望、未練、後悔です。

では、、、、

どうしたら未練、後悔がない人生を作りだすことができるのか?????この人生を実在と思っているうちは不可能です。この世界を実在と思っているうちは不可能です。なぜならばこの勘違いこそが「未練」「後悔」の根本原因だからです。本当はこうしとけば、、、、幸福になれたのに、、、、、、、、は、、、、間違いなく勘違いなのですが、、その勘違いが暴かれていないから、、、ノコノコとまた体を持って現れるのです。これがサンサーラ、輪廻転生の原因です。

つまり

サンサーラとは、、、幸福の場所を完全に勘違いしているからこそ起こるのです。幸福は残念ですがこの夢、この現実の中には絶対にないのです。ですがそれを知らないから次の人生で幸福をゲットしてやろう!!!!と思うのです。ですが残念ながらこのモニターの世界には幸福は存在できず、、PC本体自体が幸福です。真我とはPC本体のことであり、、モニター上には100%その幸福は存在しません。この勘違いをどこで見抜くかがヴィチャーラ、真我探究に入れるかの鍵です。