個人の次元、存在の次元

次元の垣根を越える

覚者はいいます、今ここに全体があると、、目の前に輝くダイアモンドのような全体があると、、ですが人間はそれを聞いても全く意味がわかりません、なぜならば生きている次元が違うからです。同じモノを見ているようで全く違うものを見ているのです。偉大な人のことを称する時に見ている次元が違うと表現したりしますがあれは本質を突いています。自分を生きている人と覚者では生きている次元が違うのです。

個人は全体を解釈した世界に生きている

個人はではどこに居るのか???それは全体の次元から分離錯覚し、価値観というフィルターで装飾した世界に居ます。存在から独立分離したと先ずは自身を切り抜いてみせさらにその切り抜かれた自分が存在を切り抜いたん分離世界に住んでいると錯覚した世界に居ます。全体とは別次元に住んでいる状態です。全体の中で夢を見ている状態です。全体の中で寝ている状態です。

熟睡後は存在の残滓が残る

個人の熟睡とは個人が一時的に解消した状態ですから存在の次元に戻ります、ここは平和、歓喜、安堵の世界です。だからこそ熟睡後には個人はなんとも言えない至福感にしばらくの時間過ごすことができるのです。そして意識がしっかりしてくるとまた存在とは違う次元に戻っていきます、空気が薄く、酸欠状態になる次元です。そこは時に楽しくエキサイティングですが安堵の至福感とは全く違う焦燥感が残る世界です。

姿形、性別、年齢、趣味嗜好を気にするのは、、

人間の容姿

人間の容姿を気にすることが悪いことではありません。ですがそこに関心が集中しているならばその人は完全に独立分離した存在であると自身を認識しています。人間をこの物質、思考、感情というモノと完全に同一化しています。だからこそそこに絶対的な価値を置くのです。自分自身がそこに絶対的な価値を置けば周囲との人間関係も同じ価値観の人間を求めます。こうしてそこに価値を置くことこそが正義になっていくのです。

人間の容姿に正義を置く

絶対的価値観の重要素に容姿を置けば、、その価値観が脳内のフィルターになるので、、、周囲を見渡せば容姿が良い人、普通の人、悪い人という分類で世界が見えてきます。その基準で人間を眺めるようになっていきます。これは良いとか悪いとかの話ではありません、そうなっていくということです。容姿が良い人には価値を起き、そうでない人には価値を置かないということが自動反応で起こります。どこを見てその人を判断しているか、、それがその人の価値観であり、本当にそのようにその人には見えています。これが事実です。

価値観の基準が変わっていく

人間の容姿に絶対的な価値を置いて生活していくことに徐々に飽きてきますと次は年収、安定に興味を持つようになります。その視点で人を判断するし、年収、安定を持っている人が本当に魅力的に映るようになっていきます、なぜならば人を見ているのは脳内だからです。スーパースターが格好良く見えるのはその人の脳内でそう写るからです。何度もお伝えするのは人間は誰も真実を見れていません、脳内で価値観に準じた世界をただ眺めています。だからこそ価値観が変わると今まで魅力的に写っていた人が全く魅力的に見えなくなったりします。全部脳が装飾しています。

カフェで聞こえてくる会話が作り話???

個別人間の世界

たった一つのエネルギーが爆発し、、ビッグバンを起こしこの世界を作り出しました。本当の宇宙は我々が見ている世界とは全く異なりたった一つのエネルギーがただ漂っている、、漂流している、渦巻いている、世界です。一個一個独立した存在が集結した世界では確実になく、それはたった一つのエネルギーが爆発を起こした世界が真実だからです。人間がこの世界を独自の視覚、脳で眺めますから人間独自の世界に変化して見えます。これが宇宙の真実、個別人間の世界です。

カフェに行くと聞こえてくる会話

そんな個別錯覚人間がカフェに行けば周囲からはあらゆる会話が聞こえてきます、そしてその「話し声」を聞けば独立した人格を持った分離した存在が思い思いの会話をしていると錯覚します。絶対的にそう見えるし聞こえます。ですがたった一つのエネルギーが爆発してこの世界を漂っているのになぜ完全分離司した人格、個性の人間がそこに居るのか??という話です。事実だけを伝えればそれは錯覚、幻想です。人間の脳がそう見せ、聞こえさせているのです。

幻想の世界、作り話が悪いわけではない

幻想の世界は悪い世界だ、神の悪趣味だ、幻想の世界に住む人間は正気の沙汰ではない、、そんなことを言いたいわけではありません。事実としてそれが幻想でありそこを事実として認めると、、、途端に深刻さが消えていきます。全ての会話が全く意味のない、、雑談に聞こえてきます。真剣なビジネスの話をしている周囲すらも面白く感じます。そして人間とは凄い進化、凄い錯覚の世界を築き上げるその脅威に感嘆します。

たった一つのエネルギーがビッグバンを起こす

ビッグバンの大元はたった一つのエネルギー

我々の勘違いが絶対的なのは、、住んでいる世界、この宇宙はたった一つのエネルギーがビッグバンを起こし、、この変幻自在の世界をカタチ作っているという事実です。たった一つのエネルギーが爆発してこれだけの色彩ある世界を構築していますが大元が一つである以上、多に見える世界は絶対に幻想です。そしてあらゆる人格を持った他者も私と何も変わらないという事実があります。なぜならばたった一つのエネルギーが爆発してこのようになっているからです。ですがその事実を口にする人が少ないのは奇妙です。

錯覚の共通認識がこの世界を作る

事実だけを説明すればたった一つのエネルギーが爆発を起こしてこの宇宙ができたのですから、、全部同じエネルギーで形成されています、自分他人などの境界線はおろか、植物、動物、鉱物の間にも境界線などあろうはずがありません。あるとすればそう見ることができるように進化しただけです、人間が。そして苦しむことも、悲しむことも、楽しむこともできるのはこの分離錯覚している世界を人間が分離した存在として生きることができていだけです。事実はどこまで行ってもたった一つのエネルギーしか存在していません。

私の思考もあなたの思考も全く同じエネルギーでできている

思考もビッグバンが弾けて起きていますからこれも全く同じエネルギーの一つです。そのエネルギーが変幻自在にバイブレーションを変えているだけです。ということは私の思考もあなたの思考も全部同じエネルギーです。私の思考、あなたの思考という境界線などあるはずがなく、、自分と他人など存在するわけないのです。たった一つのエネルギーが織りなす究極のアートです。何もかもがアートであってそこから出ることなどできません。

人類は進化の後退ではない

苦しめるというとこまで進化がきた

自分という存在、私という存在、、これらは錯覚ではありますがこの感覚を持てたのは生命の進化です。この私は苦しみ、居心地の悪さを感じ、違和感を感じる苦しい存在ではありますが、、だからこそ全体を再体験するというとんでもない経験をすることができる資格を持っています。これを体験できる植物は存在しません。人間だけが苦しみの先に全体への再統合というビッグプロジェクトを抱えることができるのです。このプロジェクトの最重要事項は個人としての苦しみです。

苦しい、楽しいを超えて

二元のストーリーの中での苦しい、楽しい、、は全部夢の中での一瞬の体験です、楽しいと思っていたら苦しいに変わり、、また楽しいに変わる、、、この安定しない状況こそが「苦しみ」です。だから人間は無理くり安定を作り出すために知恵を集め終身雇用などの制度を作り出したりします、ですがこれが人間の不安感を完全に払拭することなど不可能です。人間がこの夢の中で作り出した制度が人間を幸福にできないことは明らかです。この楽しい、苦しい、面白い、つまらない、、、の二局の世界にいても真の幸福はない、、ここにいかに気づきそこから抜けることに意識がむく時に人は再び全体に戻る準備をします。

二局の世界への諦め

楽しい、苦しい、快適、不快、面白い、つまらない、、、この二局の世界に可能性を感じている限り人間は苦しみからは解放されません。この二局の世界には真の安定は存在せずどこまで行っても不安定です。そうです、この二局の世界にいる限り真の安定、安心、安堵はないことに気づくことこそがこの二局の世界の真の目的です。そしてそれに気付いた生命体「人間」は意識的に全体に戻るという神そのものの行為にたどり着きます。だからこそ人間社会では神という言葉が普通に使われているのです。これは偶然ではありません。

「私は在る」の上で全生命活動は行われている

全生命活動は「私は在る」の上で起こる

全生命活動共通の感覚「私は在る」この感覚の上で我々の生命活動は行われています。この感覚がない場所は一切ありません、この「私が在る」が全生命活動の基盤です、、、この基盤から離れれば苦しくなり、この基盤と近ければ平和、歓喜、安堵です。人間はこの「私は在る」の基盤の上で思考活動に入り、、「私は在る」から離れていきます、完全に離れることはできませんが、、そうなると苦しいが湧いてきます。動植物はこの「私は在る」から離れることができません、ですから常に平和の中にいるのです。

「私は在る」の上で思考活動が続く

覚者は悩める迷い人に「何もするな」と提案します。なぜならば何もしなければ「私は在る」しかないからです。ですがこれを多くの人はすることができません、思考し、行動し、、、、どこか満たしてくれる場所を目指すのです。ですがそんな場所は存在しません、「私は在る」が既に土台に在るからです。にも関わらずどこか遠くに満たしてくれる場所、桃源郷が在ると夢見るから我々は夢の中に居ると言われます。覚者はそこを指摘します「今ここに全部ある」と。

「私は在る」はどこにも行かない

我々は最初から最後まで「私は在る」以外の場所に行くことができません、ここがホームです。これ以外の場所で活動は絶対にできないのです。一度たりとも平和、歓喜、安堵というホームから離れたことがないのです。ですがその中で思考は思考します、、これを達成すればこれが叶えばこれさえ手に入れれば、、私は幸せになれる、、と、、そして思考が湧き続け行動が湧き続け慌ただしい生活を続きます。足元には常にホームがあるにも関わらずです。ですがこの人間活動こそを「私は在る」が経験したかったことでもあります。

「私は在る」は思考???

「私は在る」は思考ではない

「私は在る」という感覚、これは生まれてきてから今まで一切途切れることはありません、こも感覚、、この世界に間違いなく「在る」というこの感覚こそが我々をhuman ではなくhuman beingにしている根拠です。何をしていても何を考えていても、、この「在る」という感覚だけは不変です。不変のものが思考であるはずがなく、、「ある」とは神の意識です。そうです、我々はいかに人間活動をやっていても神の「ある」という感覚の中でそれが行われているだけなのです。

「私の在る」と「他人の在る」は同じ

「私は在る」と友人が感じている「私は在る」は別人の在るなんでしょうか、、、、違います同じ人の在るです。そうです神の在るです。世界中80億人の「私は在る」は全部同じ存在が感じているのです。それを神、ワンネス、大いなる一つ、、と呼称します。個人は皆この「私は在る」の存在を深層心理では認識していますからここに戻りたいのです。恐ろしく楽しい時も恐ろしく辛い時もここに戻りたいのです。そして戻ることを「目が覚める」と表現します。

「熟睡時」の感覚は楽しい夢よりも偉大

夜、夢を見る際には皆わかっています、、、楽しい、楽しい、エキサイティングな夢を見るよりも熟睡後の恍惚感の方が間違いなく上であると、、、大金持ちになり、大有名人になり、全てを手に入れた男の夢を見るよりも、、熟睡後の幸福感が上であることを。。これは全員が気付いています。そうです、、この人間人生でいかに楽しく最高で快適な生活をしようとも、、「私はある」の感覚の場所に戻ることの方が偉大であることを皆知っています。だから多くの方が太古の昔から宗教を求め神を求め続けてきたのです。

全力で神を追い求めることで神が隠れる

行動が個人を強化するという矛盾

ある時人はこの苦しみに終止符を打ちたいと神を求めるようになります。世の中に宗教がこれだけ多いのには理由があるのです。多くの方は神を求めます。ですが矛盾するようですがこの神を求めるという行為そのものが「個人」「私」を強化することになり「神」が隠れるという結果になります。なんという皮肉でしょう。ですがこれが事実です。個人は何かを叶えたい時に行動に移します、行動するのは「個人」「私」です。ですが神とはこの「私」という意識が欠落した状態です。私という収縮したエネルギーが解放された状態のことです。

我々はこの「個人」が何かを達成するよう訓練されてきた

悟りというものがなぜいかに難しいことかと言えば、、、これまで個人がやってきたこと、成し遂げてきたこと、成就してきたこと、努力してきたことと全く逆ベクトルな場所にあるからです。目標を達成した「自分」、周囲から評価を得ることができた「自分」、地道に努力して何かを築いた「自分」この自分というエネルギーが居なくなった状態が「神」意識です。このカラクリに気付ける「自分」こそが神です。

それでも「個人」は神を追い求める

ただしこの「個人」が神を追い求めるのは全くもって自然なことでありそれが間違っているということではありません。それが普通です。個人は常に欠乏感、不足感を抱えて生きていますから、、それをどこかで解消したいと心底では強く願っています。そしてそれが何かを達成することでは成し遂げられないことも実は知っています。そうなるとその解決を神に求めるのは当然のことです。ですが真の理解とはこの当たり前に認識し続けてきた「自分」という存在こそが神を見えなくしていたという気づきです。「自分」という認識エネルギーの消滅が神を顕現させます。

思考は真理を見つけることはできない

思考こそが真理を隠す

これはもう本当にギャグです、何か苦しいことがあった時に思考が必ず湧いてきてこの問題を解決しようとします。これはもう自動反応として起こります、何も問題はありません。ですが多くの方がなぜ苦しんでいるかと言えば真理から離れた人生を生きているからです。それが苦しみを生み出します、そして真理から遠ざけるメソッドこそが思考なのです。これが自分自身であるという思考こそが自分を全体から切り離し、あらゆる単語を記憶することでこの幻想の世界を成立させています。その思考が苦しい時に湧いてきて、、、今回の問題はこうではないか??と囁くのです。借金を作り出す金融業者が借金返済のためにお金をさらに借りて事業をしたらどうか??と嘯く感覚と同じです。

思考が苦しみを生み出し、思考がそれを解決する

思考とはリボ払いを勧めるカード会社と全く同じです。リボ払いを勧めておいて実は返せなくなことを画策しています。思考もこれと全く同じ、思考こそがこの苦しみを湧き出す根源であるにも関わらず苦しい時は必ず出てきて思考を使ってこれを解決しようと呟きます。とんでもないメカニズム、闇金融業者、詐欺師です。ですがこの経験を願っていたのが全体です、全体の確信犯的な思考しようということです。そういう意味では思考は何も悪くないのです。

思考は闇金業者

闇金業者というのは実は借金を全体に返済させません。借金を返済させてしまったら利子を取れなくなります。そこで闇金業者は借金を意図的に返金させないようにして利子を延々と取り続けるということを平気でします。思考もこれと全く同じでこの体を自分であるという認識を思考で作っておいて苦しめ、その解決方法を思考で行おうとします。これによって自分=思考という隠密関係を絶対に壊さないようにするのです。自分に根本解決をさせない、、どこまでもしゃぶり尽くす、、これが思考の罠、闇金業者の罠です。

マインドは目の前のリアリティを隠すのに必死

目の前には常にリアリティがある

目の前には常にリアリティがあります。リアリティはどこか遠くにある桃源郷ではなく、、今ここに広がっています。ですがマインドはこの事実に気づかせないように必死です。今マインド越しに見ているこの世界はリアリティには見えません、なぜならばマインド越しのこの景色は自分にとって間違いなく曇っているからです。ですから私はこれを真の自分、真の世界、望んでいる世界だとは絶対に認めないのです。

そんな曇った世界を私は見て、、、

なんだこの現実は、、しょうもない、、、本当の私が望む現実はどこにあるのか????こうして思考ががっつりと湧いてきます、この思考こそがリアリティを曇らせる張本人です、自分はこの思考と完全に同一化し益々目の前の世界を曇らせていきます。これによって個人は目の前に広がる真実、リアリティに気づかなくなっていくのです。

もっと、もっと、、

私が望む世界はこんなもんじゃない、、もっと違う良い環境が、、もっと違う良いパートナーが、、もと違う良い仕事が、、、、このもっともっとは思考の特徴です。私の目の前に広がる環境を曇らせている張本人が思考です。ですが目の前の現実が曇っているのも事実だから「自分」はまた思考にしがみつき、思考に変化を期待するようになるのです。これが人間を夢遊病者に閉じ込めるメカニズムです。