分離のない世界

なんでもないもの

この世界はなんでもないものから現れました。今ここに世界が広がっているように見えますね。そうです。これです。これが今なんでもないものから現れたのです。これは分離していますか???テーブル、カップ、グラスがここには見えます。ですがそれはそういう知覚が現れたのです。その知覚はどこから現れたのか??何でもないものです。

そこが凄い

これの本当の凄さとはなんでもないものから「グラス」「テーブル」「机」という知覚が現れることです。あり得ないことです。なんでもないものからなぜこんな知覚が現れるのでしょうか??私という知覚、彼という知覚、あなたという知覚が何でもないものから現れます。これって奇跡以外にないのです。そしてだから見抜けません。あまりにこの奇跡は完成度が高過ぎて解明不可能なのです。

科学????

科学が発展していきます。科学の発展の様子こそが何でもないものから起こります。科学が凄いのではないんです、それが何でもないものから現れることが凄いのです。IT、AI、何でも起こりますが、、それがなんでもないものから知覚として現れるのです。それが凄いのです。それの原料は何でもないものですから実体はないのです。にも関わらず現れるのです。

奇跡に囲まれて

我々はどう考えても奇跡に囲まれています。何でもないものから「これ」が現れているのです。これは分離がありません。ですがこれは徹底的に分離感満載です。これが凄いのです。我々という感覚も現れこれに囲まれます。この奇跡です。ただ同時にこの奇跡は何のためにあるのか???という疑問がなんでもないものから現れます。これも奇跡なんです。何でもないものからなぜ「この奇跡は何のためにあるのか?」という疑問が起こるのでしょうか???凄過ぎです。

神はこの世界で何を得るのか???

何も得ない

神はこの世界を生み出して何を得ようとしているのでしょうか??何も得ません。神は何も得ることができません。神は最初から完璧であって何かを得るような余白はないのです。神とは完全完璧だから神なのであって何かを得ることができてしまったら神ではないのです。つまり神はこの世界を創造しておいてそこから何も学ばないのです。

では????

では神は何のためにこの世界を作ったんですか??何のためにこの世界とこの私を作ったんですか???意味がわかりません。実は実はこの世界もこの私も作っていません。作れるわけがないのです。なぜならば神は物質でもなんでもないのです。物質でも何でもない神がなぜ物質世界である世界を自分をこの体を作ることが出来るというのでしょうか???不可能です。つまりこの世界もこの私も神は全く作っていません。

だとしたら

だとしたら「これ」は何なんですか???いまここに「これ」が確実にあってだからこうやって会話が起こっています。これは感覚です。感覚だけが起こり続けています。世界とは感覚のことだったのです。それが神の投影としてただ起こり続けます。神の投影はただただ起こらなくてはならないのです。なぜならばそれは神の投影だからです。神の投影がお決まりの何かだったら神は「お決まりの何か」で終わってしまうのです。ですが神は無限です。神は無限だから投影も当然無限です。

この投影

この投影は無限に現れ続けなくてはなりません。ですからここで現れる思考も無限です。神とは無限だという思考も起こりますし、神とは「これ」だという思考も起こります。とにかく何でも起こります。神の真髄に目覚めた思考も起こりますし勘違い半端ない思考も起こるのです。起こらなくてはなりません。ただだから今それがここで起こっています。神は最初から完璧で無限だからこの世界から何かをもなばなくては!!!なんて存在ではないんです。にも関わらずここでは学ばなくては!!という思考は起こります。

私とはまさかのその神です。最初から完全完璧な存在「神」こそが私の本性です。ですから私は何も学ぶ必要がありません。ですがここからは学ばなくてはという思考が起こりますし、学びたいも起こります。ですがその大元は完全完璧な神です。この矛盾に気づいた時、、全てが解放されます。何も学ばなくていいにも関わらず学びたいという思考が起こりそれが知覚され気づかれるのです。そしてその思考は起こらなくてはならないのです。

死とは???

死とは何でしょうか???死とはこの肉体の消滅です。ですがこの肉体は神の投影に過ぎません。つまり肉体という投影の消滅が死です。投影です。投影が消えることって何か意味があるのでしょうか??意味は全くありません。ですがこの体のあらゆる成長段階、衰退段階、消滅は起こらなくてはならないのです。なぜならばそれこが無限の現れだからです。ですがそれは無限の現れに過ぎないのです。

この体

この体は必ずどこかで消滅します。当然です。ですがこの体は消え去ってもそれに気づく「気づき」は消えません。そして我々とはその気づきです。何も学ぶ必要のない気づきが我々の本性です。ということで今日も明日も明後日もこの体は変化し続けそれが気づかれます。絶対に変わらないこの気づきこそが神であり我々です。思考は常に変化します。感情も常に変化します。この体も常に変化します。変化するものは全て気づきではなく気づきの現れです。神の現れです。それらは全て幻影ですからそれが見抜かれた時解放されます。

何でもないもの

この世界

この世界は何でもないものが現れたものです。なんでもないものから発生するのですから「これ」は100%存在しません。存在しないにも関わらずあらゆるものとして映ります。これが何でもないものがあらゆるものである証拠です。あらゆるものというのはあらゆるものが存在するのではなくそういう感覚が起こるということです。

では

ここにテーブルがあるというのは本当にテーブルが存在するということではなくその知覚がおこたのです。その知覚は物質ではありません。ここにカップが在るというのは本当にカップが実在するのではなくその知覚がなんでもないものから現れたのです。感覚だけがなんでもないものから現れ続けていきます。辛い、苦しい、楽しい、テーブルがある、カップがある、明日ゴルフをしよう、、何でもかんでも起こります。その感覚だけが起こり続けるのです。

世界もない

世界というものが実際に存在するのではなく世界が存在するという感覚が起こります。それだけです。それが何でもないところから現れてきます。私が存在するというのも感覚です。その感覚が何でもないところから現れます。全て感覚です。思考は思考感覚という感覚です。こうやって常に常に感覚が起こり続けていきます。全てから感覚を全て削除したら何もなくなります。それは熟睡状態です。朝目覚めたら何が起こるのか????感覚です。

感覚が消えたら何も残らない

世界があって感覚が起こっているではありません。感覚だけが起こっているのです。ですから感覚が消えたら全て消えて「気づき」という本質だけが残るのです。それが熟睡状態です。そこからあらゆる感覚が起こり今目覚めてそうなっています。ですがこれは世界と私が存在するからこそ起こる感覚のことではなく、、感覚だけが起こっているのです。

世界と私が存在しなかったら感覚も起こらない???

これ大勘違いポイント、ひっかけ問題です。我々はそう学んできたのです。そう両親から学校から教わってきました。ですがそれ嘘です。感覚だけが起こるのです。感覚が消えたら全て消えます。世界が消えるのではありません。そんなものは最初から存在しないのです。世界という感覚、私という感覚がただ何でもないものから起こっていたのです。その感覚が起こらない時ただ「気づき」だけが残ります。その気づきは「神」「絶対」「真我」と呼ばれたりします。

われ在り

在るという感覚

今「在る」という感覚が全くない人はいますか????「在る」という感覚です。間違いなく「在る」という感覚はあるはずです。この感覚がない時は一瞬もありません。そうです。必ずあるのが「在る」という感覚です。この「在る」という感覚はどこから湧いてくのでしょうか???それが根源です。究極の存在から「在る」という感覚が起こるのです。在るという感覚は根源が存在することの最終証明です。

なぜ「在る」という感覚は湧き出るのか???

逆に言えばこの「在る」という感覚が起こらなければ根源はどうやって根源の存在に気づくことが出来るでしょうか??不可能です。本来根源は根源という存在には気づけません。なぜならば根源は根源にだけは気づけないからです。ですが「在る」という感覚には気づきます。つまり「在る」という感覚は根源ではないのです。根源ではないから「在る」に気づくことが出来るのです。根源ではない存在が湧き出る時それは知覚されます。それが「在る」です。

何が現れている????

根源しか存在しないはずなのに、一体何が今現れているのでしょうか???根源しか存在しない、にも関わらず根源ではない何かが現れているから「気づかれ」ています。答えを言いましょう。それが「根源の投影」です。根源しか存在しないにも関わらず根源が気づくことができる唯一の存在は根源の影です。根源の影が現れている期間のみ「在る」という感覚が起こるのです。「根源」が「在る」のです。

このことが分かって何になる???

このことを分かるメリットを考えても無駄です。これはメリットがあるから追いかけるのではありません。根源は無限なので当然根源の影は無限を表し、、無限が現れるから「これ」がまさに今存在します。そして「これ」は無限に現れ続けます。この無限の中には「根源とは何か」という思考も当然含まれていますから今それがここで現れているのです。ですからこのことはメリットではなく分かることが含まれているのです。全てが含まれています。その中には根源の疑問も根源の理解も含まれるのです。

釈迦に説法

とは????

釈迦に説法という言葉があります。この言葉、分かり切っている人間に無駄な説明は意味がないということですが釈迦は何を分かりきったのでしょうか?釈迦は全てを分かりきったのです。全てです。ですが釈迦はIT系の知識はないですね???AI のことも数学も知りません。日本語も知りません。なのになぜ釈迦は分かり切ったんでしょうか???なぜ釈迦は分かりきったと断言できるのですか???

概念

科学者が知っているのは概念です。ノーベル賞受賞者も概念を組み合わせて全く新しい概念を積み上げていくのです。釈迦は悟り全てが概念に過ぎないと悟ったのです。何がここで起ころうとも、それを知覚するということは概念です。起こったことは概念なのです。雲が動きたという知覚は概念です。釈迦は目の前で起こる全てが概念に過ぎない、今後あらゆる科学が進化しようともその知覚は概念なのです。

7感

この世界は五感、プラス感情プラス思考感覚の7感覚です。これ以外が存在しません。世界があってその中でこの7感覚が起こると人間は思考します。ですがそれは想像です。それこそが思考感覚です。世界の中に私が存在するという思考感覚が起こったのです。世界も私も存在など全くしません。そういう思考感覚が起こったのです。このことを見かけ上の釈迦は悟ったのです。釈迦とは夢の登場人物であり釈迦も実は存在しません。それも7感覚が生み出す感覚に過ぎないからです。

つまり

誰も存在しません。誰かが存在するという知覚は第7感です。第7感覚が起こったのです。誰も存在しません。、誰かが存在するという思考感覚が起こるのです。釈迦が存在したという知覚が起こります。釈迦は存在しません。それも思考感覚です。この世界も存在しません、それも思考感覚です。私も存在しません。それも思考感覚です。第7感覚です。

それを釈迦が悟ったのか???

釈迦はまさかの自分が存在すらしないことを悟ったのです。これ文章としては成立しません。自分が居ないことを悟ったならば誰が悟ったのか???という話です。つまりこの世界には誰も何も存在しないという事実の気づきが気づきによって起こったのです。もう一度説明します。我々が存在しないことに気づくためには何かが存在していなければなりません。その何かとは「人物」ではないのです。「気づき」という存在がその事実に気づいたのです。

究極の回答

悟りがなぜ究極なのか???それは本当の自分の存在を知ってしまたらそこから疑問はもう起こらなくなります。本当の自分が分かってしまったらまさかのこの世界も誰も彼も存在しないことに気づきます。今までの世界が消えてなくなります。そしてそこにはこの体もこの私も含まれるのです。

そこを目指す

究極の存在は最初は概念です。究極の存在が存在することを先ずは概念で学びます。ですがまだそれは概念に過ぎません。究極の存在は概念では全くないのです。究極の存在は概念を生み出すものです。そしてその概念に気づく存在です。ですが究極の存在が存在することを知るだけでも一変します。それ以外に対する関心が消えます。

感じる、でもない

究極の存在は究極の存在を感じることはできません。究極の存在が感じることができるのは究極の存在以外の存在です。つまり究極の存在は探しても絶対に見つかりません。絶対に見つけることができない存在こそが究極の存在なのです。ではどうしたら自らが究極の存在であることに目覚めることが出来るのか?それは感じる全て(7感覚)が全て究極の存在ではないことに気づくのです。そして究極の存在以外は存在しないのですからそこから気づくのです。

フジテレビ問題を悟りはどう考察するか??

フジテレビ問題を目覚め、悟り、非二元的な立場から考察します。この問題は何でしょうか???夢です。夢としてこの問題が起こったのです。幼児にはフジテレビ問題は起こりません。なぜか????この問題を理解できない、知覚できないからです。問題とは知覚が起こすのです。ですからこの問題は事実ではなく夢です。夢としてこのような知覚が起こったのです。

では???

なぜではこの問題が「私」の前に起こったのか??関心があるからです。もしもあなたが全くこの問題に関心がなくかつTVも何も観ないとき、ネットニュースを全く観ない場合、、どうなりますか???何も起こりません。知らないのです、この問題が騒がれていることを。もっと極端に言います。あなたがもしもアフリカ人で日本語を一切知らない時、、この問題はあなたの前に現れることができません。知覚が起こらないからです。関心があるから次々にニュースが現れて知覚が起こるのです。

でも????

電車に乗っていて中吊り広告に乗っていたら?????関心がなくても気づきますよ。。。気づきません。あなたが中居くんという知覚を持っていなければそのニュースは脳に入りません。SMAPの元リーダー中居くんという知覚が起こらなければ中吊り広告は意味なしです。日経新聞を全く読まないような方が日経新聞の中吊りを見てもほぼ知覚が起こらないでしょう。なぜならば書いている内容がわからないからです。

関心がなければ頭にも入らない

あなたは地球の裏側のブラジルで起こった芸能ニュースを何か今知っていますか???間違いなく知らないはずです。なぜならば関心がないからです。関心があるからそのニュースはニュースとして知覚されるのです。つまり関心がない場所では問題は起こりません。これは夢です、夢で問題が起こるのは関心があるからに決まっています。

夜の夢

夜の夢であなたは全く関心がない問題を抱えることはできますか????生態系の細部の細部、ミトコンドリアの細胞分裂問題という問題を夢の中で抱えることは可能でしょうか??不可能です。関心が全くない問題がこの夢で起こることは絶対にありません。東大教授が抱えでる問題があなたの夢で夢化されることはありません。つまりこの現実というのはあなたの関心で生まれたのです。

世界が最初にあって、、、、ではない

世界が最初にあってその中の何かに関心を寄せたからその問題が現れたのではないのです。その問題は関心が生み出した夢です。関心がなくなければその問題も勝手に消えます。もう一度説明します。その問題が登場し続けるには関心が続いていないといけないのです。

フジテレビ問題に戻る

ではフジテレビ問題に戻ります。これはあなたの関心が生み出した問題という夢です。なぜあなたはフジテレビに関心があるのでしょうか???それはあらゆるTV番組をフジテレビを通じて見てきたからです。そのフジテレビの親玉がどんな面しているのか知りたかったのです。だからこの問題があなたの夢に現れたのです。中居くんのプライベートに関心があってフジテレビの親玉に関心があるのです。そしてこの夢が次々に現れたのです。

夢を作り出したのは誰だ????

では誰がこの夢を作ったのですか????間違いなくあなたです。あなたの関心がなかったらこの夢は存在不能ですから。つまりあなたは神なのです。フジテレビ問題を作り出せちゃうような神です。そしてこのフジテレビ問題という夢は神によって今まさに見られています。神が神のためにこの問題を作りました。ですからこの問題で悩んで居る人、苦しんで居る人は皆無です。存在しません、夢以外が。

夢で終わり????

そうです。夢だったんです。コメンテーターは騒ぎます、この問題が大きな闇を抱えているぞ!!!と。ですが夢です。そういう夢です。コメンテーターの発言も夢です。ですから彼らの話を真剣に聞いてはいけません。彼らの話は嘘です。なぜならば全部夢なのですから。彼らはこれが夢とは絶対に語りません。つまり嘘をついているのです。そのコメンテーターの話を聞いて「俺はしっかりしなきゃな」という思考が湧いたならば嘘を信じた思考が起こっています。これで苦しみが起こるのです。

最終回答

フジテレビ問題が目の前に起こったのはあなたがそれに関心があるからです。そして知覚が起こり思考が起こるからまた見たいのです。まだまだ見たいのです。ですがこれは夢です。関心が生み出す夢です。そしてこの夢は「私」ではなく神が見ています。神が見て神が生み出しています。あなたはフジテレビ問題自体を生み出してしまうような存在です。そのあなたがなぜフジテレビ問題に関心があるのか分かりますか???その自覚がないからです。こん現実と呼ばれる夢を生み出してしまうような存在であることを忘れてしまっているからこの問題に関心が湧いたのです。

不惑

迷いのない状態

迷いのない状態とは何でしょうか???不動心、、結論からお伝えます。迷いのない状態とはどんな思考が起こってもそのメカニズムに気づくことです。今日目覚めて朝から迷いの思考が次々に起こるとしましょう。それが何か分かっていることです。どんな思考が起こってもそれがどういう仕組みで起こっているかに気づくのです。思考は何でも起こります、ですがそのことに気づかないと湧く思考によって悩むのです。

思考は何でも起こっていい

思考はこの体、この自分を守るために勝手に自然に湧き続けます。それでいいのです。思考とはそのために存在します。ですから思考は放っておいていいのです。そして思考がどんなに騒ごうが大型犬が叫んでいる程度に見ています。観察します。随分と思考が今日は暴れるなあと気づきに入るのです。この気づきは何でしょうか???この気づきは神の気づきです。神が思考の暴れに気づくのです。神だから思考の暴走に気づくのです。

そうか、俺は神だった

思考がどんなに暴れようともその思考に気づくのは神だけです。そして思考が暴れようがその暴れは間違いなく神の投影として暴れるのです。人間である私という思考が起ころうともそれも神の投影です。ここに戻ります。どんな思考も神の投影というのが真実です。神の投影として私という思考が現れては消えていくのです。

思考への関心

思考への関心が消えていきます。思考が何かを分かっていないから困っていたんです。思考をこの私が生み出したエネルギーと捉えていたから勝手に湧いてくる思考に戸惑っていたのです。ですが今思考の嘘が暴かれたのです。思考とは神の投影として勝手に現れる影です。この体を知覚した時に勝手に現れるのが思考です。ですから思考は非コントロール系ロケットです。

思考をエンタメとして楽しむ

思考を勝手に湧いてくる非コントロール系ロケットと気づいたらどうするか???そのロケットを楽しむのです。花火のように楽しめばいいのです。今日はこんなロケットが、こんな花火が打ち上がったなーです。つまりこの体を守るためのこの自分を守るためにいっぱいロケットが花火が打ち上がる様子を楽しみます。

感情もエンタメとして楽しむ

思考がこの自分を守るためならば感情も完全にそうです。感情もこの体、この自分を守るために勝手に湧いてきます。そのことに自覚的になります。多くの方は感情は自分が生み出したと思っています。違います。神の投影として自分を守るために現れるのです。この自分を守るためのこの感情を神として気づきます。神が神の投影に気づくのです。

それでどうなる????

思考や感情こそが「気づき」を「気づき」に至らせるのです。思考が現れてくれたから「気づき」が「気づき」であることを自覚できます。神が神であることを自覚できるのです。つまり思考を通じて神に戻ります。感情を通じて神に戻ります。神が神に戻るには「気づき」という正体に気づかなくてはなりません。思考はそれを気づかせます。

生き急ぐ

なぜ????

生き急いでいるように見える人が居ます。なぜそこまで多くのことをやろうとするのか???それは怖いからです。一回の人生でどこまで幸福になれるか????全てやっておかないと取り返しがつかない感覚があるのです。一回の人生ですから。あそこで絶対に後悔したくない、、この感覚が抜けません。後悔だけはしたくないから、、が動機になって生き急ぐのです。

これあなたの等身大です

ところが分かってしまうとズッコケます。この世界こそがあなたの等身大です。世界という知覚もあなたの等身大です。これが私という感覚もあなたの等身大です。全てがあなたの等身大だったのです。この夢のこの現れこそが神というあなたの等身大なのです。だから生き急ごうともその動きもあなたの等身大です。あなたはどこにも行けません。なぜならばここにはあなたの等身大の姿以外が現れようがないからです。

だとしたら

だとしたらこれから私はどうやって生きるのですか????今その思考が等身大の姿として現れたのです。何が起こってもそれは夢の動きです。どんな思考が現れてもそれは夢の動き、等身大の動きです。そのことが分かったときこの動きすらも愛せるようになります。どんな辛い思考も愛せます。だって等身大に映った姿に私じゃないエネルギーは存在しないからです。それがただ起こったのですから。

過去と未来

どこに存在する???

過去と未来はどこに存在するのでしょうか???過去と未来は思考の中に存在します。では存在しないのか????勿論存在しません。これは夢ですから過去、未来という夢は存在します。ですが過去の世界、未来の世界という実在は絶対に絶対に存在しません。今もここには世界すら存在しません。今ここにあるのは夢です。

じゃあ

今もここには夢しか存在しないなら夢しか存在しないのですか????そうです。間違いなくそうです。今ここで過去という夢が現れ未来という夢は現れます。それだけです。じゃあ時間も空間も夢の中にだけ現れている???そうです。それしか現れようがないのです。来週ハワイに行こうというのは何ですか???そのような夢が現れ、来週にハワイに行くという夢が現れるのです。ですがどこに行こうとこれは夢です。

さて

さてこの夢は一体いつ終わるのでしょうか??終わりません。なぜならばこの夢の傍観者は「神」だからです。神が見る夢は神が消滅しないと消えません。ですが神は消滅できません、つまりこの夢は消えないのです。この体が主人公の夢は消えます、どこかで。ですが違う体が主人公になった夢が現れます。神は夢が存在しないと存在できません。なぜならばこの夢は神の等身大の姿です。鏡に映った姿です。神にはこの鏡が内在されていてその鏡につは常に神が映し出されてしまうのです。この夢が不滅なのは神が不滅だからです。

苦しいのはおかしいのか???

苦しみとは???

「苦しみはナチュラルじゃない」という書籍があります。これってどういう意味でしょうか?苦しいって自然にいつも出てきます。これがナチュラルじゃないと言われてしまっても出てきちゃいます。では何か????苦しみはこれを夢だと気づいていない時に出てくる感情です。苦しみは夢を夢と気づけていない時に出てくる感情なのです。

夢を夢と気づいていない???

生まれたばかり時に「これは夢だ」という自覚は100%ありません。ですが同時にこの私と世界が存在するという知覚も存在しません。両方が存在しないのです。ですがここから私という存在、世界という存在が存在するのだという嘘を信じる動いが起こります。嘘です、嘘ですがそれを信じる動きが起こるのです。それに伴い苦しみが生まれます。この苦しみは嘘を信じた時に起こる苦しみです。

どうしよう?????

苦しいからどうしよう???という動きが起こります。この苦しみを解消したいという動きが起こるのです。この動きは嘘を信じた状態で起こります。嘘の上でこの動きが起こります。この動きは大変長い期間続きます。続きに続きいつの間にか、、この苦しみはこの現実世界では解消しないのでは????という絶望が起こります。何を達成したってこの苦しみは消えないじゃないか!!!という怒り、絶望が起こるのです。

そこから

そこから悟りに目覚めていきます。これは現実じゃない????目覚める????非二元????とそこに関心が生まれてきます。そうです。この現実世界をどうにかしようという動きではない動きが起こるのです。これもただ普通に起こります。この起こりをコントロールできる誰かは存在しません。世界への絶望と同時にこの感情が起こり、悟りに目覚めていくのです。

夢?????

絶望しなくてはならないこの世界は何なんだ????ということですがこの世界はあなたが思う世界じゃないんです。この世界は夢です。幻想です。全く違うのです。このことが腹の底から分かってきますと苦しみが勝手に消えていきます。もうあの思考の渦が消えています。かつての思考の渦が消えています。この現実の中に存在するこの自分が何者かにならなくては!!!という思考の策略が消えます。