自我(バグ)プログラム

構造的不良

我々人類は何百万年、、、この人生ゲームの中で幸福を目指し続けてきたのでしょうか????一体何回、何千回輪廻転生すれば、、、幸福に辿り着けるのでしょうか????もうそろそろ終わりにしたくないですか????では回答しましょう。私の人生ゲーム自体がバグなのです。私=バグでありよって私の人生ゲーム全体がバグなのです。ですからバグを抱えた人生ゲームでは絶対に絶対に幸福にはなれないのです。真の幸福、平和、愛は、、、このバグプログラムの全消去しかありません。つまり我々(バグプログラム)自体が消えて無くならない限り、、真の幸福はあり得ないのです。

では、、、

つまり人類が滅亡しろと??????違います。人類は「私」ではないのです。私は人類じゃなかったという気づきです。つまりかつての私、、、「体=私」の根本的無知が、、この体=私=心を生み出してきました。。この世界が今存在できているのは、、、体であるあなたではなく、、本当のあなたが今こうしてこの世界を生み出しているからに違いありません。あなたはこの体に収まっている微小な存在ではなく、、世界そのものの生みの親です。だから、、あなたが消えれば世界も消えます。そんなあなたは、、、かつての「私」とは全く違うのです。

真実でバグプログラムを完全燃焼させろ!!!

無知な思考、プログラムが複雑に複雑に活動してできた世界がこの世界です。この世界を支える動きは無理な心です。この無知な心は「真実」の前には存在できません。無知プログラムが作り出す世界を支えるのはズバリ無知だからです。では真実を知って、、このプログラムが消えてしまったらどうなるんでしょうか????簡単です。苦しみが消えるんです。世界と同時に苦しみが消えるのです。バグった状態、バギングが消えるのです。バグが消えればバギングもバグっているも消えます。

bugging

stop bugging me

私を困らせるのは辞めて!!!これがストップ バギング ミーです。バギング=困らせること。。。。では困らせるのは誰ですか????誰が困らせているのですか???困らせている張本人が「ME」「私」「EGO」です。このプログラムが「BUG」だから「BUGGING」が起こるのです。我々の人生=BUGGING=困っているです。デフォルトがバグなのですから人生=BUGGINGです。では、、、、どうやってこのバグを解消したらいいのですか???バグとは「誤り」です。「ミス」です。何がミスかを完全自覚すること、、これがバグの根絶です。

では、、、

私というプログラムのバグを解消しましょう。私というプログラムは「鑑賞者」「幸福」「愛」「この意識」の所有者ということになっています。その所有者「私」が「この体」「この心」の所有者でもある、、という完成に至ります。ですがこれが完全にミステイクです。なぜか????前者の「鑑賞者」「幸福」「愛」「この意識」は体の次元には存在しないのです。まさかの体の次元、心の次元には前者は存在しません。なぜならばその所有者は「神」だからです。神はこの体の次元、心の次元には存在できないのです。

私というプログラムは思考ですから、、私とこの体とこの心は同じ次元に存在できます。ですから「私=この体=この心」というプログラムはミスではないのです。バグっていないのです。ですがこの「私」が神の次元の感覚「この意識」「幸福」「愛」「鑑賞者」でもある、、というプログラムは完全なミス、誤り、バグです。この段階でバグります。バギングが起こるのです。困ったが起こります。こうして、、私物語=バギングの完成です。

え?????

つまり悟りとはデバッグです。バグの解体です。プログラム消去です。「ENTER」キーをガツンと押して、、プログラム消去します。その瞬間、、私の私物語が全消去されます。おめでとう御座います。あなたはこのプログラムのハッカーのように、、、プログラムに侵入し、、、バグを強制解除したのです。あなたは世界一のハッカーです。

バグ、バグる、デバッグ

誤り

プログラムにおいて、ミス、誤りがあった場合、、それを直す作業をデバッグと呼びます。ゲームなどで、、、絶対にこれミスだよね、、、っていう展開があるんです。主人公がある穴に入ってしまったら出れなくなって、、最終的に電源を消さなくてはならないような状態などです。製作者はそれを意図しておらず、つまりその展開は都合が悪いということです。これをバグと呼びます。そして困った状態、テンパった状態を「バグった」などと言います。実はこれ「自我」のことです。

自我

自我とは完全にバグです。バグとは英記で「虫」を意味するようですが、、完全にバグです。なぜか?????間違った=『イコール』を生み出したからです。自我は「神=体=私」というプログラムを生み出したのです。ですが「神=全て=ALL」ですから、、これは完全にミスです。「ALL=BODY」というプログラムは成立しないのです、なぜならば体は世界の中に存在するのであって、、、「体が全て」となれば破綻します。つまり、、、バグった状態が、、人間活動ということです。

デバッグ

では今からデバッグをしましょう。バグを解消しましょう。「存在」「この意識」「生」という感覚は、、=bodyではありません。よって「私=body」はあっても「存在=この意識=至福」を「私=body」と引き離します。そしてここで「ENTER」ボタンを押すことで、、、全プログラムから、、このバグに関するプログラムが消去されます。記憶が消えます。vasana、サンスカーラが消えるのです。

無知に無知

知らないことすら知らない

多くの方は、、無知に無知です。知らないということを知らないのです。真実を私は分かっていないということを知らないのです。仏陀が自分が知らないことを知っているということを知りません。キリストが悟った世界があることがあることを知らないのです。無知に無知な状態、、これはかなり苦しい状態です。地獄の状態とも言えます。仏教ではこれを地獄界、餓鬼畜生界などと言います。重り1000キロを背負っていながら背負っていることに気づいていない状態です。

無知に気づく

自身が無知であることに気づいた時、、、そうか私は1000キロの重りを背負っているのだという自覚が芽生えます。この苦しみは当然でだって1000キロの重りを背負っているのだから。という話です。ですから、、もう苦しみがあることを知っています。自身が苦しみの中にあることは分かっているのです。分かっているけどやめられない、、という状態です。次に、、真実に目覚めるという状態があります。

遂に

最終段階において真実に目覚めるという状態があります。真実とは何か???という気づきが起こるのです。無知に無知から、、無知に既知、が起こり、、無知が消滅し叡智そのものになるのです。これが悟りのプロセス、真我実現です。何千万年のサンサーラの中でこのプロセスが起こります。今あなたがこれに関心が持てているとき、、、真実に目覚める準備が始まっています。

役者

役者とは???

役者とは何ですか????役者とは、、、演じる人間の機能をフル活用して、、、、人格のみを「別人」に変えてしまうことです。上手い役者とは、、その人間の五感機能をそのままに、、人格のみを変えてしまうことです。これを演じると言います。では、、人間とは????人間とは何ですか????人間とは、、、、神が、、神の機能をそのままに、、、「体の中の存在」を演じることです。??????真我が真我の機能をそのままに「人間」の中に収まった「私」をやることです。

厳密に、、、

田村正和が、、田村正和の機能をそのままに「古畑任三郎」という別人格を演じるように、、、神が、、神の機能をそのままに、、、「私」を演じる、、、これが『HUMAN. BEING』です。 実際には、、神は不動ですから、、、「演じる」という動きをしません。神をフル活用するのは、、神ではなく、、「私」というプログラムの方です。プログラムが動きです。だから神は、、頑張って人間やってまっせ!!!!とはなりません。「私」という心の動き、プログラムが、、神を体と同一視し、、、「わ・た・し」という呼称を生み出すのです。全て心の動き、プログラムです。

動きの全て、、

人間活動の全ては、、神の動きではなく、、、心の動きです。現象の全ては心の動きです。だから、、、神は1ミリたりとも動きもせず、、ただ鑑賞者として、、この心の動きの全てを知覚します。現象の全てを知覚します。人間活動という心の動きも何もかも神という鑑賞者が、、知覚するのです。このことが分かってしまうと、、、知覚者「私」は、、、、構造上、、矛盾が生まれ、、、役名に成り下がるのです。古畑任三郎、、になり切って、、、「田村正和」に戻れなくなってしまった状態から、、、家に帰って、、田村正和に戻ります。そうだ、、、俺、、、古畑じゃないや、、、、です。

私は、、真の知覚者じゃない

私とは、、、この体の中で、、この世界を、、体を通じて知覚する「絶対的知覚者」と思っています。周囲を見れば全員がほぼそう思っています。ですが絶対的知覚者は、、、神です。だから私は絶対的知覚者ではなく、、、体の名前、人格に過ぎません。幸福は私のものではなく、、、神です。。。。だから、、、私は絶対に絶対に幸福にはなれないのです。こうして私はただの心の動きでしかないと気づかれ、、神が神の座に戻ります。田村正和が田村正和のベッドで我に返って寝るように、、神が神の座に戻るのです。

静寂

それ以外が存在しないそれ

友人と四時間しゃべくり倒して帰ってきて、、ふと孤独に陥ることないですか???これだけ人と関わってきたにも関わらずなぜ、、孤独に陥るのでしょうか???簡単です。我々の本質は言葉ではないからです。言葉によって消し去られてしまう「これ」こそが真の本性です。静寂から言葉が生まれ、静寂から言葉が顕現され、、静寂が妨げられます。だから友人としゃべくり倒している時間は本質が失われている時間です。失われていると言っても静寂で在る真我が消えてなくなるわけではなく、、顕現に意識が集中しています。顕現である言葉に意識が集中するとき、、静寂として「在る」ことを忘れ、、、そこから苦しみが起こるのです。

山に籠る

では山に籠って誰一人存在しない空間で一人で在ることは重要ですか???たとえ誰も存在しない空間で一人ただ在ることが可能であろうとも、、心が右往左往していれば何も変わりはしません。心が落ち着かない時、、、そこには混雑した世界が広がります。真の静寂とは、、音が全くないことを意味するのではなく、全喧騒を生み出す存在としての静寂です。そこに意識を合わせます。

真我を現す言葉??

言葉とは何???

真我とは本来言葉で現れすことは不可能です。言葉は神と呼ばれ、、言葉こそがその現象を生み出します。だから、、、〇〇神と強烈に集中すれば、、それも現れます。言葉自体がビジョンを生み出す神の道具です。で、、、その言葉で真我を現すことはできるのか????言葉を用いた時点でその言葉こそがそのビジョンを生み出してしまうのですから、、、真我は言葉で説明しては本来ダメなわけです。ですが人間は言葉を通じて理解を生み出す動物ですから、、やはり真理も言葉を用いて伝えられてきたわけです。

だがしかし

言葉を用いて理解することに慣れ過ぎている我々は、、、、この言葉が作り出した世界から脱却するときも言葉を用いずにはいられません。本当は言葉が構する世界が「限定」という牢獄を生み出すことから苦しみつづけ、、そこから出たいと願うのです。ところがその脱出すらも言葉という限定牢獄を生み出す力を用いようとします。これは仕方のないことです。

真我教

真我を言葉のみで理解しようとすれば、、それは真我教になります。言葉が生み出す真我というビジョン、感覚ではなく、、、言葉が生み出す背景が真我です。ですから真我を言葉で理解しようとすれば失敗します。言葉はあくまでイメージ、感覚を生み出す道具ですから、、その自覚こそが重要です。真我とは言葉では絶対に説明できないもの、言葉を超えた存在、、言葉の生みの親という自覚こそが重要になります。

悟った「私」

画面の中で

画面の中にはこの世界、この体、この私が確実に存在しています。その私はいつか悟りたいと願うようになります。そして真実に触れていくことである時「悟り」が起こります。その瞬間、、、この私は、、、、完全な偽りであったことが分かります。この私は偽りではあるがこの偽りの私こそが真実の発見に至らせたとことも分かるのです。この「私」という思考、プログラムが発生しなかったら、、真実に目覚めることもありません。だから「私」とは真実発見用プログラムです。

苦しいのが当たり前

スクリーン(真我)上に私というプログラムが立ち上がり、、そこから自我OSが起動して世界が起こります。私というプログラムは、、この体を同一視し、、この全知覚も「私」のものにします。幸福も私の中に在る感覚と見なします。その瞬間、、苦しみが起こるのです。世界というリアルの中をこの小さい体で生き延びる私が生まれるからです。全て思考の産物です。その思考が苦しみという思考を生み出すのです。そこからはこの苦しみを拭い去って、、いつか幸福になるための旅に出ます。

全間違い

圧倒的に不幸なのは、、幸福はスクリーン自体のものであり、、画面上には幸福は落ちていません。だから画面上の体が何かを得ることでも、、幸福は何も達成されていないのです。快楽という心の動きを止める刺激に出会った時だけ、、「幸福として在る」瞬間を一瞥しているのです。ですが画面上の「私」が経験したのではなく、、私が不在になった瞬間にそう「在った」だけです。ですが幸福の一瞥を、、、、「私」こそが握りしめ、、幸福をゲットした「私」を思い描くのです。

そして

これだけの幸福をゲットした私なのだから、、悟りすらもゲットできると考えます。そしてこの思考こそが苦しみ1000キロを背負います。ですが最終的にわかることは、、、、「幸福、愛」はスクリーンのことであり、、、画面上には何一つ幸福も愛も落ちてはいなかったというオチです。だから画面上の私が幸福になることも、愛に満たされることも決してないのです。つまり画面上の私が至福に至ることは1000%ありません。私とは何も得ることができない画面上の「アイコン」に過ぎないという悟りこそが真の悟りです。

八方塞がり

どうする????

会社倒産、闘病、投獄、家族離散、、これらが一辺に訪れたら????漫画の世界、映画の世界のような困難が嵐のように訪れたら、、あなたはどうしますか????一生懸命一個一個に向き合いたくても、、向き合う方法も体力もない、、、、です。では結論を言いましょう、、、、、これ、、、リアルではありません。これ実在ではないんです。これ真我の顕現です。あなたはその真我です。あなたからこれらの現象が現れたに過ぎないことが事実です。ですからあなたはこれらの現象によって何一つ害いません。

ですが、、、、

そんなこと言ったって、、この体はリアルに、、、住み場所もない、、、お金もない、、体もおかしい、、、何も救いにはならないですよ!!!!!違います、、この体がどんな困難な状況であろうと、、真のあなたが無傷であることが分かったとき、、、そこの重さがないのです。リアルな私がこの体の中に住んでいると考えてきたから、、深刻な重さ、、1000キロの重りを背負って生きてきたのです。ただですら1000キロの重りを背負ってきたから、、、、八方塞がりと呼ばれる状況で、、苦しいのです。最初から1000キロの重りを手放せば、、八方塞がりと呼ばれる状況はまるで感覚が変わるのです。

二年後10億入る

あなたが今究極の八方塞がりであろうとも、、、二年後10億円臨時収入が入ることが分かっていれば?????八方塞がりはあなたにダメージを与えることはできません。周囲は不思議がります、、なぜこんな状況でヘラヘラしていられるのか、、、、です。ですが、、、、本人だけはお気楽です。まさにこれです、、、、多くの方はこの体の中に私が居て、その私が世界に気づき、、幸福を所有する存在と思っています。だから、、、1000キロの重りを既に背負っているのです。今ここでその1000キロの重りを下ろしたら????八方塞がりは、、お気楽すぎるのです。

サハジャ瞑想

真の瞑想

一般的な瞑想とは、、何かに集中し、、マントラなどを唱え、、、それ以外の思考を完全にシャットアウトすることです。一点に絞り、、、それ以外の思考を消し去っていきます。これ「私」と「対象」という二元世界でのメソッドです。ですが真の瞑想は、、、、それを超えます。真の瞑想は、、、真我として、、ただ、、この真我の影を、、「見る」のです。絶対的鑑賞者として、、ただ、、この世界を見ます。この思考も感情も全て真我の表れ、顕現として見るのです。

ありのままに見る

思考も感情も含んだ全てが、、真我から、、顕現としてただ現れてきます。そのありのままを見ます。真我があって、、そこから現れるこの現象、顕現が起こります。それは「自然」です。現象は自然です。現れた自然は次の瞬間には消え去って新しい現象、自然が起こるのです。サハジャ=自然、、、ありのまま、、ただ見る、、、サハジャ瞑想、、、真の瞑想とは、、真我として、、顕現もありのままに見ることです。そこにはかつての鑑賞者「私」は存在しません。