「我在り」として存在するか、その中の「自分」で居るか

ストーリーの中では自分が出しゃばる

この自分ストーリー、この人生劇場の中に居れば、、周囲はこの「自分」に話しかけてきます。そのため自分はその度に再起動し「自分」を強化します。この体の中の思考、感情を含めた「自分」がこのストーリーの中んではデフォルトですからそれは当然です。ですがこれによって「自分」という存在が錯覚から実在になるわけでは絶対にありません。あくまでこれは錯覚の世界を抜け出さないのです。「自分」という思考が強化されるだけです。

ではこのストーリーの世界から抜け出るには???

ストーリーの世界の中に居る限り「自分」を強化する要因が多くあります。この「自分」がデフォルトのストーリーが延々と続いていきます。ではどうやってこれが錯覚であることに気づくのか???自分というのがいかに錯覚であるかを理解していくことにあります。トリックとはネタバレしていないからトリックであってネタバレしてしまったらトリックはトリックとして成立しないのです。ひたすらにこのネタバレを理解していくほかありません。もしくは事実にのみ向き合っていくこと、事実に向き合い続けることで事実に馴染み、究極の事実が向こから出現します。究極の事実とは本来の自分、エネルギー、大いなる一つです。

自分のメカニズムを理解したら、、もう自分に集中できない

自分とは圧倒的な錯覚がより集まって絶対的なものになっています。錯覚の寄せ集めがこの自分ですからこの錯覚のカラクリを暴き続けていけばいずれはカラクリに引っかかることができなくなります。カラクリとは裏側を知らないから騙されるのであって知ってしまえばそれは不可能です。ということでこの錯覚の仕組みを理解していくことは重要です。

完全が不完全に見える世界

完全は不完全に完全に見せる

完全が完全な理由は我々にこの完全な世界を不完全に完全に見せることができるからです。しかもその不完全さは完璧なほどにその人の観念を映し出します。不完全さが完璧なのです。我々が思う完全とは自我にとって最も都合の良い完全ですが実は脳内の観念を完璧に映し出し人間に不完全で在ると完全に認識させます。つまり完全の意味がまるっきり違うということです。だから自分、自我は完璧を常に追い求めるという皮肉が起こるのです。

不完全であることが完璧に起きる完全さ

何が起きようとどんな悲惨な事件が起きようと、、、脳内の観念によって完璧に分離されているという意味においてこの宇宙は完璧です。完璧に脳内の観念が映し出されているからこそ「自分」は常に不足感を感じることができます。自分=不足感が完璧な方程式で形成されます。そういう意味では全くの例外がない完璧な世界です。それに対し自分が不平不満が起こりますがそれ自体が完璧な反応なのです。

不完全に見えることが完全であることに注目する

今目の前に見える世界の不完全さは完璧です。不完全だからこそ我々は今幻想の世界、分離の世界にいることを証明してくれます。今目の前の世界が完璧ならばもう分離幻想の世界には我々は存在せず解脱しています。自分というエネルギーが解消されています。幻想の世界に住む「自分」が居ないのです。今目の前の世界がどれほど居心地が良いか、違和感がないかは、、分離統合の世界で統合が進んでいる証拠です。世界に全体の気が充満してきているのです。

「我あり」の中に生まれたエゴ

エゴは後天的に生まれた

エゴは最初からあったわけではありません、「我あり」の中で人間という生命体が進化を重ね脳が発達することで「自分」が形成されました。この自分こそがエゴです、自我です。全体からこの体、思考、感情を切り離すエネルギー、言語、プログラムです。このプログラムはエネルギー、パワーですからこの存在を維持しようとします、強化しようとします。そして自動再生機能を持っています。このパワーが強い人を「自我」「エゴ」が強いと表現します。これは良い悪いではありません、これによってその人の自我人生の抑揚が決まります。自我が強ければ苦しみ、酸欠状態、居心地の悪さも大きくなりますからその解消に向けるパワーも大きくなります。

「自我」が弱ければ、、、

自我が弱いということは全体から切り離された力が弱いということですから不快感、欠落感、居心地の悪さも少なくなります。比較的穏やかな人生を歩むことができるでしょう、ですが不快感、不足感が少ないということでこの自我人生を永続させる可能性も高くなります。「全体」が「全体」に気づくきっかけがないからです。とはいえこれも良い悪いはありません。

「自我」が強ければ、、、

自我が強い人は苦しみが大きいのでその解消方法を間違えると苦しい時期が続きます。自我が強い人が自我が弱い人と同じような浮き沈みのない人生を歩もうとすれば居心地の悪さに襲われます。自我が強ければその分、目標を達成するなどの目先の成就、結果を追い求め、、それでは何も満たされないことを悟らなければただ絶望と共に居ることになってしまいます。

絶対から生まれた「我在り」

絶対から「我在り」が出現した

宇宙が出現したその瞬間、「我在り」という感覚が生まれました。宇宙は絶対、無、空からビッグバンを起こして出現したわけですがその時に「我在り」という感覚が生まれました。私たちが今感じているこの「在る」という紛れもない感覚はこの時から永遠にあります。というよりも「自分」以外には時間は存在しないので「我あり」がただ在るだけです。その中に自分が誕生し、時間が生まれました。これは全部錯覚です。

「我あり」の中で神羅万象が動く

我ありの感覚の中で神羅万象が動いていきます。森羅万象は我ありの中で起こります、そして森羅万象は我ありそのものです。そしてそれを生み出したのが絶対、空、無ということになります。覚者とはこの絶対、空、無の存在に気づいてしまった人たちです。我ありの根源、色の根源、神羅万象の根源、ビッグバンの根源です。今私たちの目の前には宇宙現象が広がります、それを支えて居るのが我ありです。我ありの中であらゆる現象が起こり続けています。その中に「自分」が居るが起こり、自分と自分以外が在るという認識が後付けで起こります。

「我あり」は「我あり」に気づく

自分の解消、解脱、解放とは「我あり」がこの感覚は「自分」ではなかったという気づきです。夢の中で主人公は自分そのものではないという気づきが起こるのと同じです。主人公はあくまで夢の登場人物であり自分とは夢そのものであった、、これが「我あり」の「我あり」で在ることの気づきです。自分などそもそもなく「我あり」の中でそれが起こっていただけなのです。ですがそれを仕掛けたのは我ありです、見かけ上。

私は体、思考、感情でもない

移りゆくものが自分であるはずがない

我々はこの体、思考、感情を「私」と決めつけて生きています。決めつけるためには確固たる保証が必要です。何かしらの決定だがなければ本当はそれはできないことです。これが自分であるという決定的保証、これを求めます。それが「我在り」です。間違いなく存在しているというこの感覚、この感覚を「自分」が居るという決定打にしているのです。ですがこれは間違いです、在るという感覚は間違いなく在りますが、、「自分」という感覚は嘘です。全部思考です。

「自分は嘘」だから疲れる

冷静に考えてみれば、、自分自身でただ居るだけならば疲れないはずです、、、そのままだから。でも会社に行っても学校に行っても夜になれば疲れを感じ寝ます、もしくは会社に居る間も疲れを感じています。なぜ疲れるのでしょうか??それは自分という存在が錯覚、嘘だからです。自分という存在は思考が考え出したアイデアです、自分という収縮した思考パワーです。

自分が溶ければいつでも全体

自分という存在は本来ないのでこの全体の中に溶けてしまえば自分は終わります、これが悟り、解放、解脱です。ではどうしたら自分は溶けてなくなるのか???それはこの自分という存在がなぜ今まで存在していたかを見抜くことです。自分を維持するメカニズムに気づくことです。自分を維持するために思考はこの自分が確実であるという思考を絶えず湧かせ続けています。本当を言えばただその思考が湧き続けています。

「我在り」の中で現れては消えていく、、色々

諸行無常とは、、

釈迦は悟りを開き、この世は諸行無常と表現しました。あらゆる現象が変化変遷を遂げていく世界、あらゆる物が現れては消えていきます。ただそれだけ。その中で絶対に消えない感覚「我在り」この感覚だけは絶対に消えません、私たちはこの体、この思考、この感情も絶対なモノだと思っています。ですがよく考えてみてください、この体、思考、感情は一日毎に日々変わっていきます。いやそんなことはない、、「私は在る」という思考は変わらない、、、その通りです。「我在り」これだけは変わらないのです、、、そしてそれは思考ではないのです。「我在り」の中でこの体、思考、感情こそが私だ、、、、この思考が湧き続けているだけです。錯覚という認識が消えないだけです。毎日変化する体、思考、感情を自分とする思考が消えないだけです。

「我在り」がある、だから「私」は居る

この間違いは当たり前に起きます、この「我在り」は絶対で在りこの感覚がなくなることは絶対にありません、いかに苦しい時もいかに楽しい時もこの感覚がなくなった時は絶対にないのです。だからこそ人は勘違いをします、この「我在り」が完璧永続ゆえにこの感覚がこの体に起きていると思うのです。「我あり」はこの体で起きているのだ、、、これで「自分」「私」という大いなる勘違いは絶対的なものになります。「我あり」の思考による乗っ取り、所有です。このトリックを見破れる人はいません。

それでも「我あり」は続く

思考がこの「我あり」を自分のモノにしようと何だろうと「我あり」は全く拒絶をしません、何も変化することなく在り続けます。そしてこれを思考は自分のモノにしていきます、我在りという絶対的感覚とこの体、思考が「自分」なのだと湧き続けます。これで自分劇場、私ストーリーは絶対的なモノになります。「我在り」という絶対的感覚、変わらないこの体、そして湧き続ける思考、感情、、、これぞ「自分」だ、、、です。

目を閉じれば「我在り」が広がる

この幻想ゲームを見抜くのは難しい

目を閉じると「我在り」この感覚だけが続いていきます。そして目を開けると、、視界にはこの体を中心にした世界が広がる、私と私以外の世界、、、完璧にそう見える。だから人は死ぬまでこれを見抜けません。ただ目を閉じれば常にそこには「我在り」だけの世界が広がります。そしてその上で何か音が聞こえたり、人の気配がしたらい、香りがします、、、「我在り」の世界の中にそれがただ起こります。

この幻想の世界に疲れたら

もしもこの幻想の世界に疲れたら、、、目を閉じて「我あり」の世界に入り込みます。自分というこの体を消し去ってしまい「我あり」の世界に入ります。それでも思考は湧いてくるでしょう、それでも感情は湧いてきます、、、それをそのままにしておきます。我在りの世界の中で沸かせておきます、湧いては消えていきます。音が聞こえます、それも消えます。人の気配がします、それも消えます。「我在り」の世界の中でただあらゆる現象が起こっては消えていきます。

「我在り」の世界すらも幻想

本当のことを言えば我ありの世界すらも空、絶対、無からの現れです。そこから我在りという感覚が永遠に続くだけです。我在りはその他の現象とは全く異なるのはそれが永遠で在り永続だからです。そしてその「我在り」という感覚は絶対、空の影、反映です。その存在に入ること、その存在に馴染むこと、、それが真の悟りです。

目覚めとはビッグバンの個人的経験

個人が弾ける

ビッグバンとはたった一つなるエネルギーが弾けこの宇宙全体を構築することです。なぜビッグバンが弾けたか、それは絶対、無、空の投影、存在の再認識です。個人が目覚めるのも同じこと、個人という枠が壊れ全体の再認識が突如として起こることです。小さなビッグバンと言っていいでしょう。再認識とは個人がなくなった時に全体だったという気づきです、神の偉大さ、全体の偉大さの再認識のことになります。ビッグバンとは無、絶対が、絶対のままでは絶対の偉大さに気づけないということ始まりました。

自分の爆発

自分という存在があるからこそあらゆる体験を積むことができます、個人という小っぽけな存在であるからこそこの宇宙の大きさを確認できます。これが全体の全体確認です、全体は全体のままでは全体の大きさを経験できません、そこで個人という小さな存在を作り出し全体の大きさを体験するという試みです。ですがこの個人という存在を維持したままでは居心地の悪さ、退屈感、違和感を解消することはできません、そこで個人の爆発です、、個人が実はいなかったという気づきそれを起こします。すると全体は全体に戻るということを経験するのです。

絶対が弾ける

絶対が弾けたのがビッグバンです。絶対は絶対そのものですがそれでは絶対の偉大さを経験できない、、そこでビッグバンが弾け絶対の投影が始まりました。ビッグバンが弾けることでそこにはあらゆる生命現象が起こりそれを気づきの意識が気づきます。絶対の多様性を気づきの意識が認識します。その延長線上が人間です、人間は独自の進化を遂げこのビッグバンが作り出した世界の中にさらに世界を作り出すという発明を起こしました。これによって人間はこの宇宙全体の中にさらに世界を作り出したのです。人間が夢の中の住人と呼ばれる所以です。

自己超越とは自我を完全に無視した境地

自我を無視し続けると自我が死ぬ

男性の多くが坂本龍馬に憧れるのは彼の行動が完全なる自己超越の境地だからです。自分という存在を完璧に忘れていないとあのような行動は取れません。だから男性は一度は坂本龍馬に憧れます。大きな目標、今の自分では絶対に成し遂げられないようなゴールに向かっていきますと「自分」を忘れます。「自分」を覚えていたら大きな目標など達成できるわけがないからです。自分が達成できないゴールに向かうから「自分」を忘れることができるのです。自己超越とはそのような行動のことです。

現在の「自分」の延長線上を目指さない

現在の自分が達成できる可能性があることを目指せば「自分」を忘れることなどできません、目標と自分が密接に繋がっているからです。そうではなく今の「自分」では絶対に達成できないような目標を設定します。すると自分の存在を完璧に忘れてしまいます、自分が消えてなくなります、自我が消えてなくなります。悟りが起こります。全体になってしまいます、全体の一部としてのこの行動が起き始めます。

私の今のゴールは「悟り」をスタンダードにすること

私の今のゴールは悟りを新し時代のスタンダードにすることです。今の私では絶対にできません、ですが今の私でなければ出来る可能性があります。そしてこのブログを書き続けています。今の私ではできない目標だからこそ自己超越に辿り着けます、自分の存在を完全に忘れることができます。自分の存在を忘れると自分が死にます、悟りが開きます、全体が現れます、この体は全体の一部として機能します。

本当の自分は誰か?

本当の自分は自分ではない

私は実は本当の自分ではない、、この事実を知った時に真から楽になりました、、、この何十年間と付き合ってきたこの「自分」が自分ではないと知った時に懐かしさ安堵感が込み上げてきました。やっぱりそうだ、、、これがその時の素直な思いです。やっぱり、、、なぜかは分かりませんがこの個人が生きているという単純な世界ではないことは昔から感じていました。でも個人ではないとしたら一体何なのか???神です。

なぜこれほど生きにくい世の中なのか???

私自身は中学高校と比較的受験勉強を真面目にやってきました、何かしらも目標があった方が気分が楽だし、将来のために準備をしていた方が安心感があったからです。ですが将来に対する不安感は強く、普通に働いて生きていけるのかは常に疑問でした。なぜかは分かりませんが楽しく働いている社会人の姿が全く想像できなかったのです。

案の定

社会人になってみると案の定、恐ろしいほどのストレスを抱え込みました、なぜこれほどまでにストレスを抱えるかは分かりせんが普通じゃないストレスを抱えました。自由を奪われるストレス、将来が決められてしまうストレス、、檻に閉じ込められた感覚を覚えました。そして7年間の会社員生活を終えフリーランスの世界に入りました。すると本当に7年ぶりに呼吸ができている感覚を覚えました、食事を美味しく食べることができました、、生きている喜びが込み上げてきました。今思えば「自分」という檻の中に閉じ込められているだけでも苦しいのにさらに「会社」という檻の中に閉じ込められるストレスが苦しかったのだと思います。

檻から抜ける

会社という檻から抜けることができた「自分」は物理的自由、精神的自由を手に入れたわけですがそれも徐々に慣れていきました、するとこの「自分」という檻を抜け出したいという次の衝動が襲ってきました。会社という檻の次は自分という檻の脱出だ、、、この衝動は止まることがなく、、、今こうしてブログを制作しています。正直自分自身がどの程度「自分」という檻を抜けているのかよく分かりません。ですがこのブログを書きたいという衝動、これは凄まじいものがあります。もしかしたらこのブログを書き終える頃に「自分」という檻を完璧に抜けれるのか?そんな期待をしながら書いています。