「自分が居る」という神思考

私は居るよ

今もここには「私が居る」という確固たる感覚がありますが、、その感覚こそが神のアートです。強烈に寂しい時そこには「私」を感じますがそれこそが神の神による神のアートです。孤独、苦しみ、疎外感、分離感、焦燥感、全てが神のアートです。その全ては神が作り出した神の表現です。だからどこを見渡しても「私」は存在せず、、、どこを見渡しても神しか居ません。究極の孤独のど真ん中で、、「私」を探しても神しか出てきません。神しか存在しなと分かった時、、ん???????孤独ってなんだ??????という気づきが起こるのです。

絶望

お金を失い、職を失い、家族を失い、全部を失ったその時湧いてくる感情「絶望」この絶望の感情も神のアートです。「何もかも失った自分」という思考、、、これも神のアートです。全部を失い、、何も残っていない状況、、これも神のアートです。神のアートとは神そのものであり、、、つまり全ては今神です。全部を失った状況、、という神があって、、、、「何もかも失った自分」という神の思考があります。つまり神しかないのです。

全てを手に入れても

全てを手に入れても全てを失っても神しか存在しないのです。。。。。。ん?????????何これ??????状況が変わり続けていると信じてきたけど、、、結局神しか存在してないじゃん!!!神しか存在していないのに俺は何をやっているんだろう????????という思考という神が現れた時、、、、「思考の嵐が止む」という状況「神」が現れます。本当に本当に神しか起こっておらず、、だから分離もなく、、神のみです。

神しか居ない

誰もいない

いまここには神しか居ません、音が聞こえる時、、それが神のアートです、寂しい時それが神のアートです、友人との会話、、それが神のアートです。神が変幻自在に形を変え全体験を形成します。そこには私もあなたも皆無であって全部が神です。「財布忘れた!」という思考という神が現れ、「辛い」という神の感情が現れ、「交番に行く」神の行動が現れます。どこにも私、財布という神とは分離した何かはないのです。

見つかった

その後「見つかった」という神の状況が現れ、「嬉しい」という神の感情が現れ、、「今日は散々な日だったなー」という神の思考が現れます。この全てが神ですから神と神の間には隙間はなく何一つ分離はなく経験には隙間もなく、、神神神神神が続きます。だから時間は存在せず空間も存在しないのです。「時間があるじゃん」「空間があるよね」という神の思考が起こりますがそれも神です。

経験という神

注意深く注意深く観察すれえばここには経験しかありません。見るという経験、味わうという経験、聞くという経験、触れるという経験、香るという経験、思考するという経験、、感じるという経験、、これしか起こっていません。そしてその経験が全て神ならば、、、神神神神神が起こっているだけ、、、、神には分離はありませんから、、、、神しか起こっていないのです。起こるという言葉には分離が含まれますから、、起こるもない、、神しかない、、、、だからここはワンネスです。

ルール

責任を取らなくてはならない

「大人とは自身の行動に責任を取らなくてはならない」このようなルールを持てば、、それは大勘違いですから、、そのルールによっによって苦しみます。「大人とは自身の行動に責任を持たなくてはならない」というルールを支える概念とは「大人は自由意志を行使できそれを緻密にコントーロールできるのだ、だから判断を間違った場合は責任を取ることができる」です。ところが事実では全ては自然現象であってただその行動は起こります、、そしてそ行動は自然現象だって主体である個人は存在しないのです。だからこのルールを支える概念は嘘でありよってこのルールとは嘘の上に乗った「思考」に過ぎないのです。

1000のルール

1000のマイルールを持てばその1000のマイルールによって苦しみ続けます。そのルールを支える概念は間違っており間違った概念の上に乗った「思考」は常に事実の前に打ち落とされていきます。事実に気づくその時まで苦しみは起こり続けるのです。そういう意味ではここは完全完璧な場所です。人間がなぜルールを持つのか????それは人間には自由意志がありその自由意志を縛るためにルールを作るのです。ですが真実では自由意志がないのです。

ワンネスとワンネスの会話

いまここ

いまここでワンネスとワンネスの会話が起こっています、これ以外の会話はありません。個性的な個人同士の会話も実はワンネス同士の会話です。個人が居ないのになぜ会話が起こるのでしょうか????そこには全く意味はないのです、、ここは無限が投影として現れ出る場所などです。無限の存在の顕現は無限の多様性であるのです。嫌味を言う女性が私の目の前に現れでてもそれもワンネスの表現です。そこには「思い込み」を露わにするワンネスの顕現が投影されます。

観念が書き換えられていく

子供が大人に成長する際、あらゆる言葉概念を学んでいきます。世界はこうなっているという概念を学んでいくのです。すると世界はその概念を通じて現れでてくるので、、「やっぱりそうだ!!」という認識が起こっていきます。現れ出るワンネスが概念によって認識され、、「やっぱりそうだ!!」が起こるのです。ですがその概念は勘違いであり、、ただ勘違いを強化します。

やっぱりそうだ!!!!ではない

先ずは概念観念が先にありその通りに現象が認識されます。観念が書き変われば現象も書き変わるのです。だから現れ出る現象を見て「やっぱりそうだ!!!」は事実ではありません。観念通りに現象が認識されたのです。今ここで現れ出る認識とはそのようにさせる観念の存在を露わにします。ただそれだけです、何が今目の前で起ころうともただ観念通りの現れが起こっているのだという事実に戻った時、静寂が起こります。

誰もいない

後悔

あの時あの人にあんなことを言わなければ、、、、、、、こういう後悔ってありますよね。。。ですがですが残念ながら、、、あの人も存在せず言った私も存在しません、、、全ては存在であり存在の中に個別の誰かは100パーセント存在しないのです。ですから個人に見えるあの人と個人に見える私が存在するだけ、以上です。よって傷ついたあの人は存在せず傷つけた私も存在しないのです。そういう出来事が起こったという勘違い、思い込みだけがここに存在するのです。

参った

誰も彼も居ないのならば、、じゃあ私はこれからどうやって人とコミュニケーションを取ればいいんですか????????意味不明なんですけど!!!!!!コミュニケーションガンガン取れますよ、ガンガン取ってください、、、、、ただそこには本当は誰もいないという事実だけがあります。コミュニケーションがガンガン行われますが実際には誰も居ないのです。

居ないにも関わらず

チャットGTP同士を横に置けば無限に会話は続きます。今行われているのはそれです。反射はいつでも起こるのです。そこには誰も居ないにも関わらず反射が起こるのです。そしてそれが今までひたすらに行われてきたのです。そしてこれからも反射が起こり続けます。その中には誰もいないという認識の中で会話という反射が起こり続けるのです。

存在

それしかない

この世界には存在以外が存在しません、私がいるという感覚もこの目の前のコーヒーカップも、何もかもが存在が変異したものです。存在が音になり存在が思考になり存在が味になり存在が感情になるのです。だから存在以外何もないのです。にも関わらず「この私は全体とは全く関係のない分離した存在だ」という思考が起こることでその瞬間に分離感という苦しみ、居心地の悪さが起こるのです。

こうあるべきだ

「人間とはこうあるべきだ」という判断は人間には自由意志があることが大前提にあります。「あいつのあの行動は許容できない」という判断の裏には自由意志に対する責任の追求があるのです。ですが自由意志はないのです。ですから「人間はこう生きるべき」という思考は勘違いがベースにあります。あの花の咲き方は我慢ができない、、という発想を持てばその発想こそがその花を顕現させ苦しみを生み出します。

ルールが消えるまで

この宇宙にはルールがありません。ですがそこにルールを作り上げればそのルールが消え去るまでルールによって苦しむのです。なぜならば本当はルールはなくルールとは完全な勘違いがベースにあるからです。ルールは大誤解であり、、そのルールの宿命はルールの消滅です。よってそのルールが消え去るまでそのルールによって苦しみが起こり続けるのです。

この現象界での経験

原因

ここでは五感+感情+思考という全7感が起こります。音が鳴る時、、、音はそのままに認識されます。ではなぜ音は鳴るのか?????なぜ音が起こったのか????????その現象が生まれた直接原因、要因はなんですか????????原因は「ない」のです。もしくは原因は「無限」に湧きます。ここは空「無限」が鏡に映った現象界です。ここでの現象はただ空から直接起こるのです。ではどうやって?????空は無限だから、、その無限の現れに「原因」がなぜ必要なのでしょうか??????必要はないのです。だってここは無限が作り出した現象の場所です。

音はこういう要因でなくては現れでない??????

音が鳴る要因が必要であってそに要因が限定的であるならば、、、ここは無限が作り出した顕現の場所ではなくなってしまうのです。無限の鏡に映ったこの現象界では無限の現象(音、色、味、触、香、思考、感情)が起こって良いのです、しかも原因はなくとも。

科学

科学はここで起こる現象に裏付けをしようと試みます、するとそこには無限の要因(現象)が現れ出るのです。だってここは無限(空)が現象(色)として現れ出る場所だからです。なぜなぜなぜ「エゴ」は結果にあらゆる要因、原因を探し求めますが、、、その行為、そのエネルギーこそがエゴを維持しようとする動きなのです。

この世界は神が鏡に映った世界です。神が鏡に写りあらゆる現象がこの鏡の中に現れでました。それが顕現、現象、色です。では私はどこにいるのでしょうか????私はこの鏡に映った体という画像の中に居ます、思考として。友人から声を掛けたれたその瞬間「私」が感じられるのですがその感覚こそが鏡に映った現象として現れ出るのです。だからこの「私」という感覚は神ではなく鏡に映った現象の一つです。

コーヒーを飲もう

コーヒーを飲もうとするその思いは誰が起こしたのでしょうか??????厳密に言えば、、誰も起こしていません。神が映った鏡の中で「コーヒーを飲もう」という思考のみが自然現象として起こったのです。では神が起こしたんではないのですか?????いやいやここは鏡の中の世界ですから「意志がない神」の反映に過ぎないのです。神は無意識なのです。神とは「熟睡時の存在」でありその時意織はないですね????そうです、神とば無意識なのです。

仏教ではこれを空と呼び、、この世界は空の反映の世界です。空には意志は存在しませんから「コーヒーを飲もい」はないのです。ですがそれが鏡に映ったこの世界では反映として「コーヒーを飲もう」が起こります。誰でもないものから突然「コーヒーを飲もう」が起こり、、ただ認識されるのです。かつての主人公「私」は思考であってこれも認識される対象に過ぎず、、「コーヒーを飲もう」も同じく認識される対象に過ぎないのです。

構造上

つまり我々とは思考に過ぎず、「コーヒーを飲もう」という思考と全く同種、同レベル、同存在です。神、空の鏡に映った世界で在る「いまここ」には誰も存在せず、ただ現象だけが起こり続けます。ただその現象の中に「俺がやった」「俺の所有物」「俺の人生」という思考だけが起こり続け認識され続けます。

サットサン

何が起こっている?????

サットサンとは見かけ上の覚者が見かけ上の目覚めていない人間と会話をする場所です。その場所では一体何が起こっているのでしょうか??????見かけ上の覚者とは、、左脳から起こる思考が捏造に過ぎないことに気づいた人間のことです。左脳から起こる思考は分離を前提にしていますがその前提が真実ではありません、要は嘘です。そのことを見抜いた人間が、、見抜けていない人間と会話する場所、それがサットサンです。

だがしかし

奇妙なことにその会話は分離が前提の言葉を使って行われます、これは矛盾です、パラドックスです。あなた、私という言葉が使われながら真実の伝授がなされるのです。覚者がどのような言葉を使おうとも何も問題がないのはその言葉が左脳から起こる捏造であることに気づかれています、言葉が指し示す内容の全てが捏造、錯覚、幻想に過ぎないことが気づかれているのです。だから会話は交錯しようとも、成り立たなくとも何も問題はないわけです。

左脳に仕事をさせない?!

開店休業

左脳とは幻想を生み出す道具です、左脳とは全てが分離しているという錯覚を生み出す道具です、左脳とは私という存在を作り出す道具です。一方右脳は全部が一つであることを分かっています、ワンネスしかないことを分かっています。矛盾が起こっています、、左脳で分離を作り出しながら右脳では完全に一つであるという自覚を持ちます。

人間の進化

人間は左脳を発達させて進化してきました。起こる現象を左脳で分離分析しこの体を保持するために進化発展したのです。その目的はこの体の保持です。ん???????幸福じゃないんですか???????幸福幸福、、、みんな幸福を求めて生きていますよ、、人間は!!!!!!残念、、、それ左脳に完全に騙されています。幸福を求めていると思っているようで実は体の保全に全力投入させられているんです。だからお金持ちと結婚したがり、イケメンと結婚したがり、ステータスと結婚したがりますよね??????その先に幸福があると信じて。完全にそれ左脳に騙されてますよ。

こうなったら幸福???

私にパートナーさえいれば、、私に学歴さえあれば、、私にお金さえあれば、、、もっと幸福になれるのに。。。。。。。これ左脳が作り出した幻想、幻影です。その目的はずばり体の保持です。より体が安全に保持されるようにそのような思考が湧くのです。この左脳の働きに気づきます、この左脳の企みに気づきます。左脳の嘘に気づくのです。左脳はこの体の保持のためには平気で嘘をつくのです。

嘘つきの遠吠え

左脳は一日中嘘をつき続けます。でもそのことが分かってしまえば、、、、もう気にしない、、もう構わなくていい、もう信じなくていいのです。放っておけばいいのです、、、一生言ってろ!!状態です。そして段々と気づいていきます、、その嘘の中に「自分」とやらが含まれています。その嘘の中に「私」が含まれています。そうです、、、この絶対領域私とは左脳が作り出した嘘の中に含まれているのです。