ノイズ

HUMAN BEING

BEINGにノイズはありません。BEING=存在=この意識、、は静寂です。一方HUMANこの次元はノイズばかりです。心の動きはノイズです。HUMAN BEINGとは完全な静寂の中にノイズが起こっている状態です。ただしこのノイズと静寂は次元が異なる場所で起こっているのでノイズが静寂を汚すことはできません。ただ静寂の上にノイズが起こっているのです。静寂なくしてノイズは起こりませんが、ノイズがなくとも静寂は存在できます。ノイズは静寂に依存します。静寂はノイズに依存しません。

ノイズの原因

HUMANの次元ではノイズが起こりますが、、なぜノイズが起こるのか???それは自我という思考が、、BEING存在を、、、この次元のモノとして同一視し、、体とも同一視してしまうからです。存在を体の次元に同一視し「私」を生み出すのですが、、この私という思考が矛盾を抱えるからノイズが起こります。ノイズの原因はズバリ「私」です。HUMANとBEINGは全く違う次元の存在であり一緒にしてはいけません。ところが「私」とはそれが一緒になった存在として君臨するのです。これは完全なる勘違いでありそこからノイズが起こります。

ノイズを止める

ノイズを止めるにはどうしたらいいか???簡単です。私の嘘を見抜きます。私を自由にさせてはいけません。なぜならば私=バグだからです。完全なエラーです。無知です。HUMANの次元はBEINGの次元の影であり、、HUMANとBEINGは同列では存在していないのです。ですからHUMAN=BEING=私、、という思考は完全に存在し得ず、、よって私とは存在し得ない存在なのです。この事実に目覚めますとノイズが消え静寂だけが残ります。

愛と愛着

違う

愛と愛着は全く違います。愛とは何か???愛とは我々の本性そのものであり、、「状態」です。愛は動きではありません、つまり誰かへの愛という言葉は間違っています。愛は対象に向かう動きではないのです。愛とは我々の本性そのままです。では愛着は何かといえばこの現象世界での心の動きです。対象に向かった心の動きが愛着です。何かを得ることで愛が芽生えることはありません。愛とはこの現象世界の中のモノではないのです。

愛が溢れる

あの人は愛が溢れている人だ、、、という表現はピントがずれています。愛はこの現象世界には存在しないのですから、、人間から溢れてもらっては困るのです。ですが事実としてそう見える人が存在します。心が外側ではなく真我に向かった時、、心が愛そのものを捉えた時、、、現象としてそう見えることが起こるのです。ですが見える愛は愛そのものではなく、、現象です。何度も言いますが愛は動きではありません。幸福も動きではありません。静寂も動きではありません。状態として「在る」のです。

愛が欲しい

もっともっと愛して欲しい、、、愛が欲しい、、これが人間の一側面です。ですが愛は人からもらえるものではありません。愛は取引できません。愛は貯蓄もできません。愛は動きではないので人間間を行ったり来たりできません。では愛はどこに在るのか???愛は、、我々の本性そのままであり、、、今ここにドカンとあります。その愛は一度も失われたことなく今もここに在るのです。そしてその上をあらゆる心が動き回り愛の存在を感じにくくしているだけです。

映画

とんでもない

あなたが今日最高の映画を観たとしましょう。最高に面白い、誰が監督????あの今一番注目を集める監督か!!!!となります。なんという頭の良さ、どうしたらこんな映画作れるのか??????想像を絶するぞ!!!!です。ところが、、、ところが、、、その映画「あなた」が今制作したのです。その映画の制作指揮は心である「あなた」です。え??????どういうこと????何もかも私が知らない世界観を映画で見たんですよ、、、私が作れるわけないじゃないですか!!!!!となりますね。。。。ですが、、あなたです。残念ながら全てそうなっています。

意味不明

もっともっと突っ込んでいきましょう。。この生命、この意識という感覚、、、ここから心が現れ、、、世界に変容するのです。この意識、この生命は唯一のリアルです。そしてその唯一のリアルから、、、心が立ち現れ、、世界を生み出します。もっと突っ込めば、、唯一のリアルであるこの生命、意識から、、、私という思考が立ち現れ、、世界を生み出すのです。唯一のリアルであるこの意識、この生命以外は全て、、、その影です。影だから、、、心という影によって世界がここに立ち現れても何も問題はないのです。

つまり

究極の面白い映画を今ここで生み出すことができるこの生命、この意識とは神です。この生命、この意識は神なのだから心を通じて世界を生み出してしまうのです。この生命、この意識の偉大さに恐れ慄いてください。この生命この意識の神々しい作品に感服してください。この生命、この意識の深淵さに脱帽してください。あなたは神です。心のあなたはその影です。この意識、この生命が神でありあなたです。そしてそこから現れる全てはその影であり、自我という影を通じて世界が現れるのですが、、それを可能にするのは大元であるこの意識、この生命です。

影を食べようとする猿

もしも

動物園の猿が、、自身の影を食べようともがく姿を見れば、、人間は大笑いしバカにするでしょう。あの猿自分の影を食べようと必死だ、、って。。。自身の体が動くから影の姿が動くことで、、、それを食べようとするのです。影を食べれば空腹が満たされると勘違いし、、、一生懸命に動き回るのです。人間はこれを見て大笑いしますが、、、まさか自分自身も影を追い求めて幸福という空腹を満たそうとしているとは気づきません。

え?????

人間はリアルで世界もリアルで、、、、、この私もリアルで、、この私がこの世界の鑑賞者であり、、、生きる生命の所有者であり、、となった瞬間、、苦しみが生まれます。なぜ????なぜならばそのあなたは確実に鑑賞者でも生命の所有者でもないからです。嘘が生み出された瞬間、、苦しみが起こります。では何が嘘なのか????この生命はリアルです。この観照はリアルです。ですが、、それ以外はその影です。影である私が影であるこの世界の中で幸福になるのは不可能です。なぜならば影は影であって幸福ではないからです。幸福=生命です。つまり、、、、私とは影の中を彷徨う亡霊です。影の中に幸福が落ちていると信じ込む亡霊です。

この生命

この生命を疑うものはいません。この生命を否定できる人はいません。生命を感じていない?????そう言って嘘発見器に全財産ベットできますか???できませんね。この生命、疑いようのない生命が「真のあなた」です。生命を所有する人は存在しません。人は生命そのものの影であり影が生命を所有するというのは嘘です。この生命から、、、思考という影が生まれ、、体も生まれ、世界も生まれます。この生命が、、今影の動きを変幻自在に生み出すのです。この五感も???影が五感となって生み出されています。

だから

だからあなたはもう影を追い求めるのは辞めてください。目の前に世界一のダイアモンドが置かれていても影の変容です。そしてそれを手に入れる体も影の変容です。やったー!!!!!という思考も影の変容です。最高!!!!も影の変容です。そして再び苦しみが起こるのです、影です。この生命こそが幸福そのものであり、、、影を追い求める必要など全くないのです。それに気づいてください。

NOMAN

YES MAN

何を誘われてもNO、どんなチャンスが来てもNO、、どんな提案もどんなことにも『NO』これがNOMANです。信じられないかもしれませんが世界の95%はこのNOMANです。実は実はほぼほぼNOMANです。私は違う????いえいえ、、、、自分がNOMANと気づいていないだけかもしれない。。だって95%はNOMANだからです。このNOMANは檻の中に住みます、不自由です。ですがそれが悪いことではない、、NOMANがNOMANである理由は、、千キロの重りを担いでいるのですから当然です。

では、、、、

NOMANを脱出する方法をお伝えします。NOMANは、、、演技のYESMANになればいいのです。完全な演技、、嘘くさい嘘くさい演技のYESMANになるのです。嘘でいい?????そうです、、全く全く問題ありません。ただ演技の演技のYESMANになればいいのです。なぜならば偽りのYESMANは、、既に檻の外にでているのですから。つまり、、、生粋のNOMANを辞めてしまえば、、既に檻の外です。

檻の外??????

悟りとは自由そのものと言われます。自由そのものが真我だった、、です。偽りのYES MANは偽ることをしている時点で檻の外です。つまり、、、、NOという動き、NOというタマスの動きを監視しなくては、、YESMANにはなれないのです。NOMANを監視する存在がYES MANです。タマスの心を監視する動きがサットヴァです。監視主はサットヴァ=幸福です。だから私は監視された時点で幸福になり、、檻の外で自由に生きるのです。自由とは、、、自分=心が動き回ることではなく「状態」のことです。自由という状態が有るのです。

傷つく私????

????

一昨日長年付き合っていた彼氏の浮気が発覚し別れました。これって傷ついて当たり前ですよね????このことで傷つくことっておかしいですか???いいえ全く全くおかしくはありません。ですが、、ですが、、、、傷つく私は偽りの私、自我の私の方です。本体の私、真我の私は、、、何がっても傷つくことは不可能です。これが真実です。思いっきり傷ついてください、ですが、、その私は自我の私であって本体の私では絶対にないこのことを自覚すれば十分です。

本体の私

本体の私は愛そのものであり、至福そのものであり、、、何かを手に入れたり、何かを手放すことなど不可能です。ですから、、、一度も、、彼氏を手に入れたことなどなく、、だから別れることも不可能なのです。その本体の私が「愛、至福、この意識」として今もここに在るのです。その中であらゆる思考が湧き起こり、、自分劇場が今上映されています。この完全な自覚が起こった時、、、、傷つくことが逆に出来なくなります。名物俳優の巧妙な演技を見せられても「泣けない」という状態です。

渡る世間は鬼ばかり

あの名俳優が名を連ねる連続ドラマを見ても、、、全く泣けない、、、全くドキドキしない、、、これが劇場です。真剣に真剣に入り込もうとしても、、泣けない、、、、これが劇場です。今この自分劇場が延々と流れていることに気づいた時、、、泣けなくなるのです。傷つけなくなるのです。本体の私は悲しいほどに、無敵です。本体の私は、、どんな劇場がここで流れようとも、、、、無傷です。その証拠に、、、長年付き合った恋人と別れても、、、5日間徹夜は出来ない、、つまり、、、、真我にそのドラマは吸収されたのです。本体の吸引力によって自分劇場は吸い込まれ、、勝手に吐き出されまた目覚めるのです。今日もあなたは本体の自分から勝手に吐き出され、、目覚めたのです。あなたの意志など無力です。

不老不死

どこの王様も

全てを手に入れた王様が最後に最後に求めるもの、、それが不老不死です。なぜ????なぜどの王様も最後にそれを手に入れようとするのか????それは、、、不老不死という感覚をどこかで知っているからです。どこかで知っているから、、それが思考として現れ、、、、求めるのです。人類全員が幸福を間違いなく求めるのは、、どこかで幸福を知ってるからです。人類全員が愛を求めるのはどこかで「愛」を知っているからです。

不老不死をどこで知る???

結論から言いましょう、、私が不老不死です。私が幸福です。私が愛です。ですから不老不死、幸福、愛を求める方の「私」は私ではありません。不老不死そのもの、幸福そのもの、愛そのものである「真の私」がそれを求めるわけがないのです。ですからそれを求める私はただの思考です。本当の私の中に現れたただの思考が偽りの私です。「私は絶対に不老不死になりたい」という思考が現れたらそれは偽りの私です。それをただ認めてください。それだけです。

大笑い

世の中は本当に本当に面白いのです。ツッコミどころ満載です。全員が全員幸福を求めているから人間は幸福を求めることが当然だと思っています。ですがなぜ幸福をこうも全員が求めているにも関わらず叶わないのか????90億人全員が求めるということは幸福発見は全員が失敗しているということです。絶対に絶対に失敗に終わるということです。なぜ????なぜならば幸福である私は幸福を求めるはずがなく、、探している方の私は確実に偽りの方の私だからです。探しているという時点で既に見つかるはずがないのです。幸福そのものである私は幸福を探すわけがないのですから。

大金持ち

世界一の大金持ちイーロンマスクが、、「お金がなくてバイトしている」と友人に話をしたら、、そのイーロンマスクは確実に偽物です。そっくりさんです。世界一のイケオジ、、、ベッカムが、、一度もモテたことがない、、と話したらそれは偽者です。そうです、、、不老不死、幸福、愛そのものである「私」は絶対にそれを求めるはずがなく、、求める私は全て偽物です。

どこを探しても

神は見つけられない

あなたが正真正銘の神である理由を教えましょう。正真正銘、疑いの余地なし、100%神である理由を今からお伝えまします。それは、、、神を今まで発見できていないということです。もしもあなたが神ならば、、神を発見してしまったらおかしなことになります。神を発見できていないというこの事実こそが、、あなたが神である証拠なのです。木村拓哉が街で木村拓哉を発見してしまったら、、発見した木村拓哉か、発見された木村拓哉のどちらかが確実に偽物です。あなたが神であるからこそ街で神を見つけることができないのです。

いやいや

いやいや、、、、私はかつて神を見たという話を何度も聞いています。何度も神の出現の話を聞きますけど。。。。出現したということは、、出現していない時期があるということです。出現したり消えたりする神、神出鬼没の神、、、は神では絶対にないのです。なぜならば神は絶対であって消えることは不可能なのです。さらに言えば、、神が出現する際には神が現れるスペースがあったはずです。神が現れるためのスペースは神以外ということになります。神は「全て」ですから「全て以外のスペース」は存在してはいけないのです。だから出現した神は神ではないのです。

ということで

「これ」が神です。「これ」以外が存在しないという事実こそが「これ」が神である絶対的証拠です。神以外は何も存在しないのです。ならばこの「存在」が神です。非分離のこの存在のみが神です。非分離の中に生まれたこの私は思考です。その思考の鑑賞者が神です。神が今神の映画を見ています。だからここには神以外が存在しないのです。私がこの映画に登場しようとも見ているのは神です。神以外が存在しないのですから。いや違う、、私がこの映画を見ているのであって神ではないと思うことは出来ても私にこの映画を見ることは出来ません。

移ろい行くもの

心とは移ろい行くものです。この世界も移ろい行くものです。この私も移ろい行くものです。眠りの状態で私は消えます、だから私は移ろい行くものです。この移ろい行くものは本当の私では絶対に絶対にありません。なぜならば移ろい行くものは移ろい行くだけに、、儚い存在だからです。儚い存在は、、儚くない存在が存在しなくては現れることも消えることもできないのです。影は影の大元が存在するから影であって、、大元の存在しない影は存在しないのです。

影が変幻自在、出現、消滅を繰り返すことが可能なのは「太陽」という存在が存在するからです。その太陽によって影は変幻自在に出現、消滅を繰り返すのですが、、、太陽は全くそこから影響を受けず、、ただ「在り」ます。太陽の存在抜きに影は存在できません。この世界、この心、この私も全く同じで、、、大元の真我が存在するから現れては消えるを繰り返しているのです。私も熟睡時は存在せず、、目覚めと共に現れることができるのはそのためです。

つまり

つまり移ろい行くものは全て真我の影です。真我が影を今も見ています。真我が今もこの影(視界)を見ています。真我が今もこの影(思考)を見ています。何もかもが真我の影です。至福が今至福の影を見ています。愛が今愛の影を見ています。不変が今不変の影を見ています。無限が今無限の影を見ているのです。非分離が今非分離の影を見ているのです。何もかもが影です。心も影、私も影、世界も影です。影しか見えません。全てが自らの影であることに気づいたら、、分離も、時間も、空間も何もかもが消えてなくなります。夕方、、「蛇だと思ったら影だった」になります。その瞬間蛇が消えます。その瞬間、私も心も、世界も消えます。

二元の世界

在ると思う

「二元の世界」が在るそう思う心を抜きにして、、二元の世界に住むという実感を得ることは可能でしょうか???そう思う心が不在であるならば、、その実感を得ることは出来ますか??不可能です。つまり、、、心抜きにして二元性の世界に住むという実感は得ることができません。二元の世界が存在するしないは別にして、、そう感じる心が不在である時、、その実感は得ることができません。今我々が二元性の世界に住んでいると言い切ることが可能なのは、、そう思う心がただあるからだけに他なりません。

催眠術

もしも「あなたはロバ」であるという催眠術をかけられた場合、、、鏡を見て「嘘だ」と気づくことができなければあなたはロバとして半生を生き抜くことになります。事実がそうでなかろうとも、、ロバとしての人生で、終わります。つまり事実を超えて心がそう決めればそうなるのです。つまり「現実」よりも心が上位なのです。物質現実よりも心が事実を作り上げるのです。

現実があって、、心が続くのではない

夢見の状態があります。私が自由自在に空を飛び回る夢です。。。この夢もしも覚めることがなければ、、、あなたはこれを夢と気づきません。もしも空を飛ぶ夢を見ていて、、、目覚めなければ、、、空を飛ぶというのはあなたにとって真実です。目覚めこそが、、それが夢だったと気づかせるのであり、、それ以外に夢と気づく方法がないのです。

全て心

つまり我々にとっての現実とは「心」です。心のことを「現実」と呼んできたのです。では、、、、「心=現実」は、、、なぜ存在できるのでしょうか???「心=現実」が存在できる理由は何ですか???それは「心=現実」を支える土台があるからです。「心=現実」を支える土台、基盤、根源、、これが真我です。真我という土台が最初にあってその上に、、目覚め、夢見、眠りの三状態が入れ替わり立ち替わり現れるのです。