「在る」は一なのか??

二元性の否定

一なるものから、、二が生まれた、二元の世界が生まれた。。二元性を生み出すのは一元である、、、、これが概念が考えることです。心が考えることです。二元性が心が生み出した概念に過ぎないのならば、、真我は一である。これが、、、心が導き出す真我です。ですが真実は、、、二でも一でもなく、、「在る」ですから。「在る」に数は存在しないのです。真我に数は存在しません。1、2、3、4という心の活動を超えた存在が真我です。

主体客体

主体があって対象がある、、、ところがこれが心の活動に過ぎなかった、、という気づきが起こります。その気づきは「真我=1」とは全く関係のないことです。二元の世界、トリニティーの世界が幻だったという発見が起こり、、、それを生み出す存在が「空」「真我」ということです。ですが「空」「真我」という言葉は分離を生み出す道具ですから言葉が「空」「真我」を言い当てることは構造上不可能なのです。分離を生み出す道具で非分離の存在を説明することは矛盾を抱えます。

つまり

心の活動で真我を発見することはあり得ません。心の理解とは、、対象となる世界(心)だけです。心の管轄範囲はこの世界だけなのです。真我は心を超えていますから構造上心が真我を理解することはできません。真我は「心の活動が破壊」された時に残るものです。つまり、、、真我として「在る」ことで、、心を破壊し、破壊しきることです。東大生が一夜漬けで真我実現できないのは、、、真我は理解ではないからです。なぜならば真我の場所は心の守備範囲(世界)を超えています。