私がグラスを見る
これは物理的に不可能です、ですが心理的には可能です。「絶対である存在」の影であるここで「私」という分離した存在がやはり分離した「グラス」を分離行動として「見る」のは不可能です。物理的にはただ「景色」がある、、これだけです。『この「景色として在る」を「私」という存在は分離行動として分離した「グラス」を見たんだ』という思考が後付けで起こっただけです。そしてその思考は「分離した私」が分離行動として分離した思考を作り出したのではなく、、ただその思考が起こったのです。
分離行動はない
物理的にここでは分離行動は絶対に不可能なのです。だから私が見る、考える、思考する、見つける、、、全部不可能です。ここでこことは分離した「何か」が独自に活動をするのは不可能なのです。なぜならば分離ができないからです。できるのは全体としての動きのみ、、ただそれを思考で切り取って「独自の行動に仕立てる」ことはできます。「あの全体の動きは実は「個」の動きではないか」という思考が起こることはあります。その思考も「個」が独自に思い描くのは不可能であり、自然現象として全体から起こったのです。
全体の活動を
私が見たのだ、、、私が発見したのだ、、私が考えたのだ、、、と分離活動に仕立て上げることが常に常に起こっています。「私」が「グラス」を「見た」。「私」が「悪口」を「言われた」、、、、全く起こっていない事実の中でそのような「切り抜き」が思考として全体からただ起こるのです。それを止めることができる「個人」は当然存在しないため完全に放置です。放置するという分離活動も存在しないためその言葉すらも不適切です。