1ミリも独自の意図がない

根性の恨み

根性の恨みでもって、、あなたが誰かを恨んでいたとしても、、、そこには独自性、分離性は一切存在しません。自然とその恨みが起こっています。その恨みはこの体が独自に生み出したのではなく、、全体から自然と湧くのです。そして恨んでいる相手もその体から独自にその「裏切り」が起こったのではなく、、自然現象的にその体を通じて起こったのです。だからその体の持ち主を恨むことは科学的に間違っています。

ですが

その相手の身体を通じてその裏ぎり行為が再度起こるか起こらないかは誰にも分かりません。その裏ぎり行為という分離行動は実は存在しておらず全体の表現としてそこから起こったのであって、、また火山噴火のように起こるかもしれない。ですからその行為を受け入れようともまた噴火が起こる可能性があります。ただそれだけです。科学では何でもその体から起こり得るのです。

究極の抽象度

悟りとは究極の抽象度でもって科学的に「ここ」で起こることをただ解説します。そこには一切の分離が許されないので、、独自行動、個人、対象の全ては存在しません。これが科学的事実です。その中であらゆる「概念」が生まれ出しこの分離していない「ここ」で起こることにストーリーを加えていく、、ただこれだけが「起こった」のです。加えるという分離行動も起こりえないので、、これはただ起こります。

そこに気づく

そこに「気づく」が分離行動ではなく全体からただ起こった時、、、科学的不成立な「思考」が全体から起こるということが少なくなっていきます。気づきは個人ではなく「全体」から起こったのであってこれが引き戻されることはありません。そこからは科学的不成立な思考は徐々に徐々に減っていきます。