全ての動きは自我OS活動

真我

真我は動きません、真我は不変です。スマホは動きません、スマホは不変です。スマホをパカっと開けて中を見てください、、何一つ動きはありません。ところがディスプレイを見れば、、、千差万別、多様な動きがディスプレイ内では起こります。だから人間は一日何時間もスマホを見ます。ですがスマホは中身のパーツも含め何一つ動きがないのです。ではなぜディスプレイ内は動くのか???それはOSの動きです。OSが動きディスプレイにあらゆる画像を作るのです。

全て同じ

この世界を生み出す真我も何一つ動きません。動きは全て内部のOS の動きです。そのOSは自我OSです。自我が存在しなければこのOSは動きません。その自我も当然実在しません、これは言語、プログラムです。この自我というプログラムに「電流」(高次の力)が流れた時のみ動きが現れ、、ディスプレイ(世界)が立ち現れるのです。この自我は、、この体を同一視し、、それ前提の世界をここに現します。ですが真我(スマホ)は何も動かずにただこの動きに「気づく」のです。

在る

在るという揺るぎない感覚があります。これが真我、スマホの「在る」です。この「在る」を自我(プログラム)は同一視してそれを体とも同一視し、、体が「在る」という感覚を生み出す、、その私、、、というプログラムを作ったのです。これを前提にあらゆる思考(プログラム)を構築しこの世界を今もなお生み出すのです。「在る」のだから「私」が「在る」のであってならばこの体が私に違いない、、という究極の逆算をしてやったわけです。これが自我のベースです。その自我からあらゆるプログラム(思考)が形成されてこの世界が今ここにドカンと鎮座します。ですが、、そうは言っても結局これに気づくのは真我でありスマホです。

つまり

自我はいかに活動を起こそうとも、、スマホ(真我)の中から出ることもできず、、真我(電源)なしには活動すらできないわけです。「在る」の所有者「自我」は実は「在る」から電流を頂いて生きているというお粗末な詐欺師です。スマホ内に現れた「私」というプログラムがこのディスプレイを見ているのだ、、というお粗末な勘違いです。私というプログラムはこの世界形成になくてはならないわけですが、、それに気づくのは「スマホ」「真我」であって、、完全に嘘なのです。ディスプレイ内の存在がディスプレイに気づくのは構造上不可能という当たり前の事実の前に消し去る運命にあるのが自我です。