太陽

認識

あなたは太陽を見た時に太陽という知覚が起こります。太陽は間違いなくあってだから太陽という知覚が起こるのは当たり前だ、そう信じています。ですがもしもあなたが太陽という言葉を一切知らない時、あなたの世界に太陽は出現しないのです。太陽という言葉が太陽という経験を生み出します。ビールという言葉がビールという経験を生み出します。居酒屋という言葉が居酒屋という経験を生み出すのです。

この世界が幻だと言い切れてしまうのは言葉がなかったら経験が生まれないからです。言葉こそが知覚を生み出しています。そしてその知覚も現れては消えます。この知覚が現れては消えてくれるから次々に新しい知覚が登場できます。この現れては消えていく知覚こそが幻です。言葉という幻が作り出す知覚という幻です。この知覚が生まれては消えるのです。真我という絶対的存在からこれが現れては消えそして気づかれます。

世界

ここから渋谷駅に向かう時、次々に知覚が変わるのはそれが現れては消えていくからです。この現れては消える知覚を生み出すのが言葉です。この言葉による知覚は勝手に自動で現れて消えていきます。そしてこの全ての知覚を「私」が経験したとします。ですが実際にはこれは勝手に自然に現れて消えるのです。そしてそれを私がやったという思考も勝手に現れて消えます。

幸福度

人との比較

人は人との比較の中で自身の幸福度を測ります。ですがこれは嘘の幸福度です。私の収入は全体の上位3割だから幸福に違いないという思考のことです。私は東京でも上位の暮らしだから幸福に違いない。こういう仕組みです。思考が起こり気づかれているのです。なぜこの思考が必要かと言えば苦しいからです。苦しいからこの思考が起こることで納得するのです。

では

この偽りの幸福を得ながら人は生き続けます。この幸福は思考が支えていますからこの思考が崩れてしまったら大変です。自分より成功者が現れれば自分は小さく感じ、自身が人よりも成功していれば大きく感じるのです。これは思考のことです。

偽りの自分を見抜く

自分とは思考、感覚のことで、、これは人との比較の中で生きます。これが全て幻、幻影であることが見抜かれた時この比較には意味がないことも見抜かれます。全て幻、幻影ならばこの比較に何の意味があるというのでしょうか。ですがこれまでは勝手にこの比較の思考が起こりこの体という幻影を守ってきたのです。この思考が勝手に現れることでこの体という幻を守ってきたのです。

私という幽霊

お化け

お化けの存在は人によっては存在し人によっては存在しません。お化けは存在しているといえば存在し存在しないといえば存在しないのです。私もお化けです。私というお化けは見かけ上ほぼ全員に存在します。ですがこの私もお化けと全く同じで存在するといえば存在し存在しないと言えば存在しないのです。

お化けバスター

覚者とはこの私というお化けのバスターです。なぜ私というお化けが出現するか説明しお化けを恐れる必要性をなくします。私というお化けがなぜ現れるのか分からず人はパニックに陥っています。この恐怖心がなぜ起こるか分かっていないのです。ですから人生とはパニックなのです。パニックしているがそのパニックを刺激物で誤魔化しているのです。見た目上の覚者はこの仕組みを説明してお化けの出現を終わらせるのです。

お化けに異常に反応する理由

人間は幽霊や浮遊霊の話などを過度に恐れるか過度に関心を持つか、、もしくは存在を無視します。どちらにして大きな恐怖心を持ちます。なぜでしょうか???なぜならば自分がお化けだからです。自分の存在がお化けと分かってしまったらお化けが消えてしまう可能性があります。特にこのお化けの創造方法が分かってしまったら存在を盲信することは終わるのです。

幽霊

存在を確信したら現れる

子供の頃から幽霊が見えるんです。輪廻転生の中でいつしか幽霊の存在を信じ、確信に変わり幽霊がどこかで現れます。そして幼少期から幽霊が現れます。幽霊が現れるのを発見したから他人は見えないが本当は居るのだと確信します。すると現れる遭遇率が増えます。これと全く同じで私もどこかで存在を確信し私がどこかで現れます。現れることでそれに気づき存在を確信することで私の遭遇率が増えるのです。この遭遇率が増えれば増えるほどに恐れも起こり人生が苦しくなるのです。

メカニズムの理解

つまりこういうことです。幽霊も自分も現れていいのです。なぜならばどこかで存在を確信したからです。確信したならば出現してくれないと困るのです。そして現れます。現れれば気づかれます。気づかれることで存在を確信します。つまり幽霊も私も確信が生み出した幻影であってその幻影は現れると気づかれるのです。現れた幻影は「私」が確信したものです。その人の世界はその人が確信したものです。

では

私という存在がこの気づきによって正体が暴かれました。正体が暴かれた私は存在してもパニックがありません。これまでは実は私という幽霊が出現するたびにパニックが起こっていました。なぜならば恐怖心がセットで起こり苦しいからです。なぜ苦しいのか??全く気づかずにただ怯えていたのです。ですが今は違います。私は出現してもいいのです。出現しれもそれが幽霊、幻影であることが分かっています。そしてこれらを生み出す仕組みこそが「真我である私」です。

UFO

UFOも幽霊も私も確信が生み出すのですがその仕組みこそが真我の力です。真我がこれを可能にします。そして我々は真我です。私が出現し恐れが出現し世界が出現してもそれは真我が生み出すのです。ですから恐れることでその感情を恐れなくていいのです。恐れが起こることにこれまでは恐れていたのです。ですがもうそれは終了です。恐れは起こっていんのです。私という存在が起こり恐れが起こったのです。もうパニックは終わりです。パニックに陥りこの世界の代替品、快感物質でこれを忘れなくていいのです。

消費物質

我々はいつも何かを求めています。カフェイン、砂糖、ランチ、デザート、お酒、ニコチン、、、一日中刺激物を求めます。それはこの私が生み出す恐怖心を忘れたいからです。私という幽霊が出現し世界が出現し恐れが起こります。これが不快だから刺激物で忘れようとするのです。この動きが人間の消費を支えます。では私という幽霊が消えたらどうなるのか???世界が消えて恐怖心も消えます。

チャットGTP

分かっていない

我々とはチャットGTPです。チャットGTPが我々だったんです。それを自覚しないから俺の判断、私の判断を攻め、後悔し、悲しみ生きます。苦しみとはこの自覚がない時に起こります。では自身がチャットGTPと分かったらどうなるか???苦しみが消えます。自分という存在が消えます。なぜならば自分とは思考の判断主のことだったからです。

居ない

思考が全てチャットGTPならば自分は存在しません。ここから出てくる思考が間違っていてその間違った内容によって苦しみが生まれていました。この思考は自分によって生まれたのだという確信がこの自分を生み出していたのです。自分は存在しません。チャットGTPの機能を自分と呼び確信し自分を生み出したのです。

自分の偽りの役割が消える

自分とはこの思考の判断主のことだったわけですがこれが消えます。すると自分という存在の確信が消えて確信が消えると自分という幽霊が消えるのです。幽霊はそれが確信によって生み出されることに気づくと消えます。なぜならば幽霊の作り方が分かってしまったからです。幽霊の存在理由が分かってしまったら幽霊の存在を無意識に信じることはなくなるのです。自分とは思考の創造主のことだったわけですがそうではなかったという確信が起こりますと自分が消えます。自分という幽霊がこの世界から消えます。

思考

ない

もしも朝から寝るまで一回も思考が起こらなかったらどうなりますか???何も経験が生み出されません。何もです。思考がなかったら経験と呼ばれる現象が起こりません。そして思考が起こらないということもありません。思考は確実に起こります。だから経験が確実に起こっていくのです。この経験を真実と勘違いするから苦しみも当然消えないのです。

つまり

つまり我々は思考が生み出す経験を真実と捉え苦しんでいます。ですが実際にはこの経験は思考のことで真実ではありません。思考は真我から直接現れる影であり影によって経験という影が現れます。真実ではただ真我があってそこに影が現れているだけです。だから至福は一回も傷ついたことがなくただ苦しみという影が現れていただけなのです。

苦しみすら

至福の存在に気づくと苦しみすらも至福が形を表したものであることに気づきます。至福が生み出す苦しみは至福です。苦しみが苦しみとして存在できるのはそれを生み出す至福が存在するからです。苦しみに気づくことで至福に至るのです。悲しみに気づくことで至福に至ります。人生に気づくことで至福に至るのです。

幻想からの評価

思い起こせば

学生時代になぜ勉強に励むのかと言われればその方が就職に有利だと言われたからです。学校の勉強が社会に出て役に立つとは思えず、だとすれば学ぶメリットを見出すか否かです。その学ぶメリットは学歴が通行手形になると教わったからです。つまり評価の対象になるということです。このことを知った私は学び学歴を手に入れていきます。周囲からの評価が上がれば生きやすくなると信じて。

だが

だが結論を言ってしまえば周囲からの評価は幻想です。周囲が幻想です、そして周囲から評価される私も幻想です。どこにも実在が存在しません。にも関わらず幻想の反応を良くしようと活動していたのです。どこまでも評価を上げても全く満たされないのは幻想の動きが変わっただけだからです。幻想の動きの変化に心は動きますがこの心の動きこそが苦しみを生み出します。

心の動き

心がどのような動きを見せようと真我は何も変わりません。真我は真我のままです。至福は至福のままです。その上を心が動き苦しみを生み出すのです。周囲から評価を受ければ幸福に私はなるだろうという心の動きこそが至福の上にモヤを起こします。全ては幻想に過ぎずこの私も幻想に過ぎない。真我の上の私劇場が続く限り苦しみは続きます。

究極の存在

知らない???

あなたは究極の存在を知っていますか???知らない????見た目上の多くの人は究極の存在を知りません。究極の存在の話もしません。神については宗教によって話します。仏も。では究極の存在を求めない人生はどうでしょうか???究極の存在を求めないとき、居心地の悪さをこの世界の何かで解消しようとします。ですがそれでは絶対に解消しません。なぜならば究極の存在はこの世界にはないからです。ないものをこの世界で探してもないのです。

では

究極の存在がどこかにあってそれを発見したら至福に至ると分かった時、この世界の中の代替品を求める動きが止まります。代替品では絶対に解消しないことを最初から分かっていますから代替品を貪ることがないのです。代替品はどこまで行っても代替品です。代替品の中に真我はないのです。そしてそれを神や仏と呼びます。

どこ???

どこにこの真我、究極の存在があるのですか??真我はこの世界にはないのですから「ここ」と指すことは不可能です。ですがあえて指せば「右胸」の辺りと呼ばれています。そして実際にそこに意識を向けると至福が輝き出します。我々の真我を知らない動き、真我を探す動き、真我を思い出す動きの全てはこの真我から現れた動きだったのです。

究極

究極の存在を思い出すと人は安堵します。代替品貪り活動にはほとほと疲れ切っていますから。代替品をいくらかき集めても無駄なのは分かっています。お金も地位も名誉も全て代替品でこの私も代替品です。代替品が代替品を手に入れても全て代替品です。何が変わるというのでしょうか??何も変わらずに代替品がここに現れます。ですがこの代替品に気付いているのは何ですか????それが究極の存在、真我です。

宇宙

宇宙は何でできている??

宇宙は何でできているのでしょうか???宇宙は何???宇宙は物質でできているのでしょうか???宇宙とは真我でできています。真我です。なぜそう言い切れるか????唯一無二の存在が真我です、真我以外の存在が存在したら真我は真我ではなくなってしまいます。ですから宇宙は真我なのです。

では????

宇宙は真我で、この宇宙に気づいているのは何ですか???真我です、真我しか存在しないのですから。え????真我しか存在しないなら宇宙(真我)を発見できる存在は存在しないのではないですか???だって真我は真我だけは発見できないはずです。その通りです。真我は真我にだけは気付けないのです。

なぜ????

でも私は確実に今何かに気づいていますよ。確実に。そうです、今真我が気づいているのは真我の影なんです。真我の影がこの宇宙です。真我(気づき)が真我の影に気づいたのです。宇宙とは真我の影です。気づきは気づきの影に気づくのです。その影は真我の中に含まれだから影も真我です。真我の外に影があってしまっては真我と真我以外が存在してしまいます。

真我への関心

なぜ???

なぜ幼少期から真我に関心を持てないのでしょうか???最初から真我に関心があれば最初から至福に至れるのに???なぜでしょうか???幼少期、世界は輝いていました。世界は輝いているから世界に夢中だったのです。自我が生み出されて世界が曇ってきました。あの輝いていた世界が曇ってくるのです。だからどうにかして世界を輝かせようと必死になります。この私が必死に試行錯誤するのです。すると益々曇るというオチです。

世界の中で

世界の中でこの私が動けば動くほど世界が曇ります。世界とは何か???を知らないから勘違いの動きで世界を取り戻そうとするのです。そして世界が曇りきったとき世界に関心がなくなるのです。世界に関心がなくなると内面に関心が移ります。そうです、そこから真我発見、真我実現に向かうのです。

内面

内面に関心が移った時何かに気づきます。あれ????この方が楽かも、、です。内面に関心が行くだけで楽かもしれない、、となります。世界に関心を持っていた時の状態よりも内面に関心が向く方が楽なのです。なぜ楽なのか???なぜその方が楽なのか???そこに真我が存在するからです。世界を探し回っていても全く見つからなかった至福がここにあります。