自分の

現れなければ?

この体から起こる思考、感情に対して「自分の」という思考が起こっているのはそう学んだからです。あなたの思考、あなたの感情だよ、、と学んだからそう成りました。もしもそう学ばなければここから生まれる思考を「自分の」という発想は全くありません。全くその発想がない時思考はただの思考です。感情はただの感情です。つまり「自分の」といのはそれが事実なのではなくそう学んだからそうなったのです、暫定的に。

注意深く観察すれば

この体から湧く思考も感情も勝手に自然に起こります。雨が自然に降るように、光が自然と指すように、この思考も感情も勝手に湧きます。その後に「私の思考」「私の感情」という思考がやはり勝手に湧くのです。その思考も含めて全て勝手に自然に湧く現象です。それは根源である真我から勝手に自然に湧くのです。この事実に徹底的に向き合った時「自分の」という思考も含めて自分のものなどないことがわかります。あえて言えば全て真我の現れです。

真我の現れ

全て真我の現れにも関わらず、しかもそれは観察すれば分かるにも関わらず、、、思考、感情、体を「自分の」というカテゴリーに収めます。これおかしなことです。事実では「自分の」というその思考、感情、体は勝手に湧くのですから。この事実に徹底的に向き合う時「楽」になるのは真実は「楽」なのです。「至福」の上に勘違いの思考が起こった時に合わせて苦しみが起こるだけです。真実はいつも楽です。苦しみは勘違いの思考です。

太陽

自分の??

目の前に太陽が現れています。この太陽を自分の太陽とは思いません。太陽を見たときに自分の太陽だ!という思考が起こりません。ですがこの体を見た時「自分の体だ」という思考が勝手に起こります。そして思考が湧いたとき「自分の思考が湧いた」という思考が起こります。「怒り」の感情が湧いた時、自分の感情が湧いたという思考が起こるのです。このことを人は不思議に思いません。現象は全て中立的に起こります。ですがこの体、思考、感情に関しては「自分の」という概念が起こります。そして太陽が現れても「自分の」という概念が起こらないのです。

結論

結論から言えばこの体もこの思考も感情も勝手に自然に現れる現象です。太陽、風、海、波、光と何も変わりません。ですから「体、思考、感情」に対してだけ「自分の」というカテゴリーが起こるのはおかしなことです。ですがそれも自然に起こりました。その自然に起こるカテゴリーの概念によって「恐れ」が自然に湧いています。もう一度説明します。現れる現象は全て自然に起こります。体、思考、感情に関しては「自分の」という概念が後から自然に起こるのです。これによって恐れが自然に湧くのです。

それやめちゃえば

現実と呼ばれるこの夢では、、そのようなことが今自然に起こっています。で、起こる現象に「自分の」という決まりは全くないのですからそれを辞めてしまえば「恐れ」も自然に湧かなくなります。この夢では見た目上の周囲が「自分の」という概念を持っているためそれが「当たり前」となったのです。ですがそれも含めて夢です。周囲がいかにそうだろうとも「自分の」という決まりは何もないのです。

責任転嫁

他人のせい

責任転嫁という言葉があります。自分の責任を他人のせいにすることです。ですが事実からお伝えすれば責任を取れる個人は存在しません。個人は存在しないのです。個人が存在しないならば誰が責任を取れるのですか??誰も存在しません。誰もです。責任というのは何か損失を作り出してしまいその責任を取るという意味ですが、、何も損失がないのです。夢の中では損失があるかもしれませんが実際には全く損失は存在しないのです。

真我

真我しか存在しません。真我は損なわれません。真我は何も損なうことができません。だから何を誰が責任を負うことができるのでしょうか???真我が損なわれていない以上損なった損失を責任取れません。構造上不可能です。もう一度説明します。真我は損なえないのです。損なえるとしたらその影にそのように見える映像を作るのみです。

つまり

責任を取るも取らないも真我が何一つ損なっていない以上それは意味のないことです。責任とは何か損なったからこそその責任を取ることです。ですが何一つ損なっていないのです、実在は。ですから責任を取るという言葉自体がギャグです。不可能です。この映像の中で誰かが損失を得ることは勿論ありますがそれはそういう映像に過ぎないのです。

平和な心

目指しても無駄

心を静かに、心を静寂に、心を正しく、、、無理です。絶対に無理です。心に意識を向けたところでその心は荒れ狂うだけです。心はより動き回るのです。心を、思考を、、、、辞めた方が良いのです。思考は勝手に湧きます。勝手に湧く思考をコントロールしようとする動きも勝手に起こります。ですがこれを見切った時思考をコントロールしようとは思いません。思考とは荒れていようと狂っていようと、、それが自然に起こることを見切って静寂に入るのです。上流の河川は激しく動きますが、、同時に静寂です。それは川とは激しく動くのが当たり前だからです。川の激流が静寂であることに癒されるのです。思考の激流に癒されるのです。

思考の激流とは何か???

思考の激流は何でしょうか???思考の激流は何でできている???それは真我の影です。真我の影として至福の影として勝手に自然に起こるのです。ですから思考は荒れていていいのです。上流のように荒れているが癒されるのです。思考の激流は良くないという思考が起こった時、、思考に苦しみます。それを止めなくてはならない自分が起こり苦しみます。思考の激流はあっていいのです。

思考も感情も止めなくていい

思考も感情も勝手に起こりますから勝手に放っておけばいいのです。何が起ころうともそれは真我の影です。真我の影をコントロールできる存在は存在しません。だから放っておきます。自分がこれをなんとかしなきゃという思考が起こった途端に苦しみが起こります。これが真実です。何もしなくていいのです。思考や感情が真我の影だと見切られた時その激しさの中に至福、静寂が漂うのです。

夢の仕様

違う

さてこの現実と夢って何が違うのでしょうか?この現実では五感はバリバリあります。夢の中でも五感はバリバリあります。ただ夢の中の五感は現実よりも荒い出現です。この現実の五感の方が緻密な気がします。ですがそれぞれ五感は存在します。思考は全く同じように現れます。感情も全く同じ。空間時間に関してはかなり違いますがそれぞれ存在します。時間の進みが状況によって異なる点は同じです。空間を狭い広いと捉える感覚も状況によって異なる点も同じです。

結論

結論から入ります。この現実と夢は仕様が違う夢です。この現実と呼ばれる夢で消化できなかった思考、感情を違う夢で解消します。この現実と呼ばれる夢で叶えれなかったこと、悔しかったこと、後悔していることを夜の夢で叶えるのです。だから夜の夢はこの現実と呼ばれる夢の二番煎じっぽくなるのです。つまり夢のある状況とない状況がある、、これだけです。完全二択です。

では

この現実と呼ばれる夢、それの解消の夢、、この二種類の夢はなぜ起こるのでしょうか???なぜこの夢は必要なのですか???この夢は真我の鏡に映った姿なのです。神、真我、なんでもいいのですが絶対的存在の前に鏡が現れその鏡に映った映像がこの夢です。ではなぜこの映像は様変わりするし、この私も現れるのか???この無限のドラマ、映画、人間劇場自体が、、神の現れなのです。真我の鏡に映った表現がこの人間劇場です。

人間劇場

真我の鏡に映った姿がここに今まさに現れています。それが現れると太陽、テーブル、PC、私、この体、、という経験が起こります。この経験も真我から現れます。この現れは全て真我の鏡内での現れです。映像に対してあらゆる思考感情が現れますがこれも全て真我の現れです。影です。鏡に映った現れです。この思考、感情も含めて「鏡に映った現れ」なのです。つまり我々が経験してきた全ては「真我の鏡に映った現れ」です。

なぜ???

ではなぜこの意味不明な勘違いの思考が「真我の鏡に映った現れ」として現れる必要があるのか??という疑問が今現れました。これは超超超簡単です。この現れは無限の姿でないといけないからです。思考感情何もかもが無限の姿形でないといけないのです。なぜならば真我自体が無限だからです。嬉しい、悲しい、、しか現れがないとしたらその現れは無限ではなく有限です。ならば真我は「有限」の存在となります。

関心

苦しむ

人は関心がない分野で苦しむことができません。異性に全く関心がないとき異性で苦しむことができません。モテたいと思考して苦しむことができません。学歴に全く興味がなくて学歴に悩むことができません。なぜ早稲田に入れないのだ????と悩むことが不可能です。見た目に全く関心がなくて見た目で悩むことができません。お金に全く関心がなくてお金で悩むことができません。

では

では人は関心で悩んでいるのです。お金に関心があればお金で悩み、異性に関心があれば異性に悩み、安定に関心があれば関心で悩み、政治に関心があれば政治に悩むのです。では何一つ関心がなければ苦しむことが不可能なのか???不可能です。ですが人は必ず自分に関心があるのです、だから自分に苦しむのです。自分には関心があるのです。だから絶対に自分で苦しむのです。

自分に関心がないなんてあり得るか??

あり得ます。なぜならば自分とは本当の自分じゃないからです。これを本当の自分と勘違いしたから苦しんでいるのです。この体を所有する「私」が居ると信じたから「私」に関心が起こり私に苦しむのです。では本当の自分は誰か???本当の自分はこの全てに気づく「気づき」です。この文章の理解に気づく「気づき」です。だからこの体の方の自分は序列を落としましょう。この体の方の自分は究極放っておけばいいんです。この体の方の私は勝手に思考が何とかしますから。

早く寝る

気づきに戻る

調子が悪い時人は早く寝ます。熟睡に入り目覚めると体調が戻ることを知っているからです。なぜ体調が戻るのでしょうか???それは現象を全て消してしまうからです。気づきからの現れを消し去ってしまうことでリセットされます。そしてまたそこから現れが起こるとき体調が戻るのです。我々の本質は気づきだから気づきそのもののみに戻ります。

気づき

気づきは決して損なわれることがありません。気づきは損なわれず加わらず何も変わらずに普遍的に至福です。至福しかない状態に戻ってそこからまた朝を迎えます。朝は現れが気づきから起こりそのまま気づかれます。その時至福が現れに気づくのです。主語が至福に戻っています。至福が思考に気づき至福が感情に気づき至福が、、、に戻ります。

至福から

朝は至福が主語だったのに、、気づけばこの偽りの自分が主語に変わっています。この状態が苦しみの状態です。至福の上に苦しみの霧が起こるのです。至福の上に悲しみが起こります。至福の上に恐れが起こります。そのことにしっかりと気づくとき至福=気づきが輝くのです。思考はそれでも起こりますがそれは至福の中で気づかれます。苦しみは起こりますがそれは至福の中で起こるのです。

変わらない

変わらないこと

真我とは絶対に変わってはいけないものです。その絶対に変わってはいけないものは我々が生まれて死ぬまでそのままです。それは何ですか???それが真我です。ではその絶対に変わらないものをお伝えします。それが気づきとその現れです。これしか存在しないのです。このことは絶対に変わりません。夜夢を見ます。夢が現れます、その夢が気づかれています。これが絶対的に変わらない真我です。

朝目覚めると

朝目覚めます。景色が広がります。そのことの気づいています。自分が現れます、そのことに気づいています。音がします、そのことに気づいています。これが絶対に変わらないもの、真我です。不変です。ではここから話を詰めます。この現れては消える私も現れの内容に過ぎません。そして本当の私とはこの現れに気づく存在です。

熟睡

熟睡中はこの現れが起こりません。夢も起こらずこの現実と呼ばれる現れもないのです。つまり気づきは何も気づきません。ですが気づき自体が消えたのではありません。ただ現れがなかったのです。そこに夢が現れその夢には私も現れ世界も現れます。目覚めると世界と私が現れます。夢と呼ばれる現れから現実と呼ばれる現れに変化します。そしてそれらは全て気づかれます。

解放

それしかない

解放とは「個人」が解放を起こすのではありません。その個人が実は解放だったのです。個人という概念、感覚こそが解放の中に現れたのです。個人と世界が存在するという感覚、思考こそが解放の中で起こったのです。解放とは解放しかないという意味です。真我という絶対的存在とそこから解放された影の動きしか存在しないという意味です。

ならば

生まれた時からこの状態で死ぬ時もこの状態です。何も変わりはありません。解放の中で起こる経験は常に常に変化していきます。それも何も変わりません。思考の内容、確信の内容、固定観念の内容は常に常に変化します。それも何も変わりません。明日は経験がなかった、これもないのです。

個人

個人が存在するという確信がある時起こり、個人というお化けが現れました。個人という確信が消え失せ個人というお化けも消えます。ですがそれが全て真我の影であるという事実は何も変わりません。何一つ構造に変化はないのです。変化するのは影の内容だけです。生まれて死ぬまでこの影の内容が変わり続けそしてこの事実が明らかになり、明らかになろうとも構造は変わらずにこの体が消え失せるのです。

個人という概念

個人という概念が消えても生きていけるのでしょうか???個人という概念があることは分かっています。ですから個人で呼ばれてもパニックにはなりません。そして個人の存在が幽霊であることを自覚した状態で生活が続きます。思考はこの体を守るために勝手に自然に起こり続けるのです。それも何も変わりません。ただしもう個人という存在が幽霊であることは気づかれています。世界も個人が存在するという錯覚が生み出す幻影であることが分かっています。

幻影

私とはこの全幻影です。私とはこの全幻影の生みの親です。私とはこの幻影を生み出す真我です。気づきです。真我からあらゆる思考、確信、幻影が生まれそのまま真我によって気づかれます。私の人生とは真我が生み出す概念、経験、知覚です。どんな知覚が生み出されようとも全ては気づきによって気づかれます。ですから本当は何も起こっていないのです。これは真我の中で起こる現れと気づきに過ぎないのです。何も損なわず何も加わらずそのままたった一つです。このことに気づいた時、絶対の安心に包まれます。どこにも行かなくていいのです、どこにも行けないのですから。

出現

どこから?

全ての知覚、思考、感情は「気づき」から現れます。現れる源が「気づき」だからこの現れは全て気づかれます。経験の全ては気づきから現れ全て気づかれます。気づかれていない経験は存在しません。私の人生は私の気づきだけが切り抜かれたものではなく「現れた全て」は全て気づかれてきました。ですからこれ以外には何も起こったことはないのです。

つまり

つまり経験という経験に取りこぼしは一切存在せず全ての経験は回収されているのです。気づきは現れた経験を全て回収します。回収できない経験は存在しないのです。つまりこれからもあらゆる経験が出現しますがどれもこれも回収されるのです。富士山に登ったが本来のルートを経験できなかったのが私の後悔だ、、違います。その時のルート以外は存在しなかったのです。ですから完全な経験が回収されたのです。

あの時

あの時あの決断をしていれば今頃は、、、とんでもない、、、あの決断が起こったのはあの決断しか起こらないのです。そしてそれは全て回収されます。起こる決断はそれ以外は起こらない決断です。そしてそれは起こったら全て回収されます。明日起こる決断は全て自然に勝手に起こり全て「回収」されます。ですから安心して起こるがままに任せてください。