自分の

現れなければ?

この体から起こる思考、感情に対して「自分の」という思考が起こっているのはそう学んだからです。あなたの思考、あなたの感情だよ、、と学んだからそう成りました。もしもそう学ばなければここから生まれる思考を「自分の」という発想は全くありません。全くその発想がない時思考はただの思考です。感情はただの感情です。つまり「自分の」といのはそれが事実なのではなくそう学んだからそうなったのです、暫定的に。

注意深く観察すれば

この体から湧く思考も感情も勝手に自然に起こります。雨が自然に降るように、光が自然と指すように、この思考も感情も勝手に湧きます。その後に「私の思考」「私の感情」という思考がやはり勝手に湧くのです。その思考も含めて全て勝手に自然に湧く現象です。それは根源である真我から勝手に自然に湧くのです。この事実に徹底的に向き合った時「自分の」という思考も含めて自分のものなどないことがわかります。あえて言えば全て真我の現れです。

真我の現れ

全て真我の現れにも関わらず、しかもそれは観察すれば分かるにも関わらず、、、思考、感情、体を「自分の」というカテゴリーに収めます。これおかしなことです。事実では「自分の」というその思考、感情、体は勝手に湧くのですから。この事実に徹底的に向き合う時「楽」になるのは真実は「楽」なのです。「至福」の上に勘違いの思考が起こった時に合わせて苦しみが起こるだけです。真実はいつも楽です。苦しみは勘違いの思考です。