人生万事塞翁が馬

間違い

人生には様々なことがあるが振り返ってみれば良い悪いという判断は安直にはできない、これがこの言葉の意味です。悟りの観点からすればこれば二元ストーリーの話です。悟りの観点からすればそもそもの良い悪いの判断自体が「人生」を実在と捉えることから始まるのです。人生自体が幻です。

飛躍しすぎ????

このようなメッセージは普段触れることがないでしょう。飛躍しすぎなメッセージかもしれません。多くの方はそんなこと言われたって現実にこの生活はありますから、、、と一歩引いてしまうのです。違います。現実の生活というこの知覚が起こるからこそこれは幻なのです。この請求書、ガス代、電気代、食費、カードの引き落とし、、これを知覚してますよね???だからこれは幻なのです。

本当の自分は本当の自分を知覚できない

真我は真我を知覚できません。真我が知覚できるのは真我ではない存在だけです。だから今知覚できている全ては真我でない存在(幻)なのです。一方真我とは真我以外が存在しない存在ですからそのようなものが存在していたらおかしいわけです。だから知覚できる全ては真我が生み出す幻だというのです。とはいえその幻も真我に含まれます。真我に含まれない存在は存在しないからです。

退屈

なぜ???

退屈とは何でしょうか?退屈とは個人を実在と信じて全てに恐怖し行動を抑制した結果やりたいことを全くできない状況に陥ることです。今やっている先にさらにやりたいことが全くないのです。今の行動が次の好奇心に全く繋がらないのです。今やることが次のやりたいに全く繋がらないのです。こうして退屈に陥ります。

では???

ではどうしたらいいのでしょうか???無理矢理ワクワクすることにチャレンジしますか???不可能でしょう。ワクワクすることにチャレンジしたら退屈じゃなくなることは誰でも知っているんですから。でもできない。ですから出来ない理由を崩壊させないと意味がないのです。では出来ない理由をお伝えしましょう。それはこの体が実在すると信じることです。この体を実在と信じたから恐怖心が芽生え何も出来ないという状況に至るのです。

不可能

ですがこの体を実在ではないなんて信じることはできるでしょうか???そんなことが可能なのでしょうか??それができるのです。自身が本当は誰かに気付けばこの全てが幻であることに気づいてしまいます。本当の自分は気づきであり意識はそこから現れる幻でありその意識をこの体という幻が所有しているという思考が確信された状態が人間業界です。

地獄

地獄とは

地獄的状況、八方塞がり、そういう状況って生きていると生まれます。会社が倒産、家族離散、借金の取り立て、、などなど。ですがこれって人間業界での地獄的状況なのです。人間業界でのみ通用する解釈です。悟り的視点から言いますと「地獄的状況」など存在しません。なぜか????自由意思がないからです。つまりそうのような状況になることが決まっていた、ということです。

マリオ

コンピューターモードのマリオがクッパ、ノコノコ、クリボーに囲まれて危機的状況になります。ですがコンピューターモードです。コンピューターモードのマリオにとって危機的状況は起こってもマリオの責任では全くないのです。プレイヤーが存在しないのですから。

コンピューターモードでも地獄は地獄ですよね?

全自動であろうと借金が莫大にあって会社が倒産し家族が離散したら苦しいですよね?違います。それは不便なだけです。何も無くなってしまって不便なのです。この状況を自分が作ったと信じるから苦しくなるのです。戦後の焼け野原の状況は個人が作りだしていません。その場合悩むということはないのです。そしてもっと究極的な話をすればこれは全て真我の幻影です。幻影に何が起こっても真我には全く関係ないのです。

鏡の中の主体

主体

ここは鏡の中の世界です。この鏡の中の世界に自由にこの世界を動かせる主体は存在できるでしょうか?この世界に自由自在の主体的存在は存在できるでしょうか??不可能です。世界は存在しても全て「大元」の投影です。投影は投影ゆえにただ映し出されるのです。ただ大元の姿が映し出されるのです。

では????

つまりこの体は投影です。この体の動きは投影の姿です。この投影を動かすことは不可能です。主体的にこの体を動かすのは不可能です。なぜならば鏡の中は映し出されるしかないからです。だとしたら俺は鏡に映し出される大元では????大元だからこの体を自由に動かしているんじゃん!!!残念ながら違います。大元には思考すら存在しません。

いやいや

大元に思考が無かったら鏡の世界になぜ思考が起こるのですか???大元に確実に思考が存在するから鏡の中で思考が現れるのでは?????その通りです。大元には思考が含まれていますが大元は原液のようなものでここでは思考が現れることが不可能なのです。原液は原液ゆえに原液以外にはなれないのです。つまり鏡の中の全現象は鏡の中でだけ勝手に自然に起こるのみです。どちらにも主体は存在しません。

悟り人

悟って生きるとは?

悟って生きるとは何でしょうか???悟って生きるとは本当の自分は誰かを自覚しながら生きることです。車を運転しながら仕事の電話をする人が居ます。車を運転しているという自覚を持ちながらしっかりと仕事の連絡をします。タクシーの運転手は車を運転しているという自覚を持って人を目的地に運びます。悟って生きるとは「本当の自分を自覚」しながら生きるのです。

多くの人

見た目上の多くの人は「本当の自分は誰か」を自覚しないでただ偽りの自分という感覚を生きています。これは常にパニック状態です。パニックが基本です。なぜならばいつもいつも居心地が悪いからです。こうなったら幸福になれるかも!と妄想を膨らませて生きるか、絶望しながら生きるのです。

どちらも駄目

絶望しながら生きても苦しい、何かに期待しながら生きるのも苦しいのです。どちらも苦しい。では何が正解か???真我を自覚しながら生きることのみ苦しみから解放されます。では真我とは何か???この会話に気づく気づきの存在です。このブログに気づく気づきの存在です。この空気に気づく気づきの存在です。それが真我なのです。皆真我の存在を完全に忘れていたのです。「気づき」という存在が存在しなければ全知覚、全思考、全感情は気づかれないのです。こんな身近に真我は神は仏は存在していたんです。

何もないが何でもある

意味不明

この世界とは何でもないものが何でもある世界です。先ず最初何でもあります。見渡す限りに何でもあります。これは事実です。渋谷駅に行けば何でもあります。人混み、お店、看板、ネオン、、、、ですがこれ全て幻です。幻ですから存在が存在していません。全て空虚です。本当は何も存在していないのです。あらゆるものが存在しているように見え、聞こえ、感じますが実際には存在しません。

ある

でも同時にこの幻、幻影は100パーセント存在すると言い切れます。なぜか???この幻に100%気づいています。それは疑いようがないのです。誰になんと言われようとも言い切れます。この疑いようもない「気づき」この気づきこそが唯一の実在です。この幻影はこの気づきから途切れることなく現れ続けるのです。

気づきの存在に気づくという影

「気づき」には何も起こりません。影では何でも起こります。幻影では何でも起こります。その一つが我々の本質は「気づき」だ!!という思考が起こるということです。突如その思考が湧くのです。この構造を俯瞰する思考が突如起こります。全ての幻影に気づいていることに気づくのです。「気づき」の存在が気づかれるのです。これは人間という幻影が生まれたことでしか起こらない気づきです。

ワンネスとワンネス

喋る

この会話は誰と誰との会話ですか???この会話はワンネスが生み出した幻とワンネスが生み出した幻の会話です。つまりワンネス同士です。私とあなたは紛れもなく幻です。その幻同士の会話です。ですから実は何も起こっていません。会話という幻が起こっています。それも幻です。何も起こっていないのならばでは何が起こっているのでしょうか???

真我の気づき

今ここで幻同士の会話がしっかりと起こっています。それが気づかれています。真我という「気づきの存在」によってこの幻の会話が気づかれているのです。何が起ころうとも全ては幻です。なぜならば唯一の実在はこの「気づき」だけだからです。真我だけだからです。ではこの幻は実在ではないのか????幻として実在なのです。気づきとその影(幻)だけが実在です。この幻を実在と確信した時、その確信は事実ではありません。これが苦しみの原因です。

では今ここで流れている「音楽」は幻想ですか??

知覚できる全ては実在ではありません。実在しないのです。知覚できてしまったものは全て真我の影です。影ですから実在ではないのです。実在は「気づき」だけです。気づきが気づくことができる対象は全て影、幻です。なぜか???それらは現れては消えていきます。なぜ実在が消えることができるのか???それは本当は実在しないからです。

罪と罰

勘違い

罪とは何か???罪深き人間???世の中で良からぬことをしてしまったことを罪と呼びます。ですがこれは大間違いです。違うんです。罪とは「勘違い」のことです。この世界での罪は「世間に対して良かなぬことを個人がすること」ですが全て幻です。それは不可能なんです。世間も個人も存在しないのですから。つまり幻を実在と勘違いすることが「罪」です。

見える全ては幻????

ハッキリとありありと見えまくっていますけど!!!!、、、ですから幻なのです。触りまくれて嗅げまくれて味わいまくれているからこそ「幻」なのです。なぜかって?????認識できる「実在」は存在しないからです。知覚できる「実在」は存在しないのです。だから幻と断言できるのです。砂漠の中に「泉」が見えるからこそ幻なのです。道路の中央に輝く水溜りが見えるからこそ幻なのです。夜空に輝くカーテンが見えるからこそ幻なのです。

では???

では何が真実なのですか???何ならば存在するんです????幻の存在に「気づく」存在です。幻を実在と勘違いする思考に「気づく」存在です。現実だと思っていたけど本当は夢だったという思考に「気づく」存在です。全部の経験、知覚、五感に気づく存在です。それだけがリアルです。それ以外は幻、影です。

これは夢???

現実って夢???

そうです。この現実は100%夢です。なぜそう言い切れるのか???なぜならばあなたは今このブログを「スマホ」で読んでいるという自覚があるはずです。スマホという存在を自覚していますね???ならば100パーセントあなたは夢の中に居るのです。なぜそう言い切れるのか??それはスマホは存在しないからです。スマホという存在は存在しません。スマホの存在の知覚は「記憶」が生み出すのです。

何も存在していない

事実では何も存在していません。夜見る夢において「ハワイ島」に家族で旅行にいったとしましょう。空港から飛行機に乗ってビーチで遊ぶ、夜はホテルでスパ、、、全て全て実際には存在しませんよね。半端ない経験がその夢で起こっても何も存在しないのです。そしてそれはこの現実と呼ばれる夢でも何も変わりません。つまり何も実際には起こっていないのです。経験は次々に起こります。ですが何も存在しないのです。

何のための夢????

分かりました、確かにコレは夢かもしれません。じゃあこの夢って何で存在するんですか????夢なら存在しなくていいじゃないですか????夜見る夢は「私」が存在するから起こっていると思っていました。でも私も夢ならなんのための夢なんですか????真我です。真我のための夢なんです。この夢は真我の影です。真我はこの夢に最初から最後まで「気づき」ます。

真我はなぜ夢を作る????

なぜ真我は神はこの夢を作るのか???生み出すのか???実は真我自体が頑張ってこの夢を生み出しているのではないのです。真我の影は、「無限の存在、真我」の影ですから無限の表現を起こしてしまうのです。神が鏡に映った姿は「無限」として現れてしまうのです。この夢はまさにその一つです。無限の現れがこの夢の正体です。だから何もコントロール出来ず現れ続けるのです。

行為者は居ない

実は

この世界で「行為者は居ない」というメッセージを唱えれば何を言っているのか??と馬鹿にされます。法律が成立しないわけです。行為者が居ないのならば泥棒という行為が見かけ上起こっても逮捕できないのです。それは法治国家破綻です。ですからこのメッセージが日の目を浴びるのはいつになるか分かりません。ですが事実では行為者は存在しません。

では

では何がここでは起こっているのですか???何も起こっていないのです。何も。ところが視覚では様々なことが起こっているように見えます。これが夢です。何も本当は起こってもいないのにハッキリと鮮明に出来事が起こっているように見える、コレが夢、幻の特徴です。これらの出来事は思考が生み出す幻想なのです。思考が存在しなかったらこの夢、幻も全て消えます。

だとして

そうですか。夢ですか、幻ですか。。だとして、、どうすりゃいいんですか???明日から何をしたらいいんですか????夢だとしても幻だとしてもあなたは働くでしょう、残業もするでしょう。なぜそれが分かるのか???自由意志がないからです。自由意志がないから夢と分かったって働くのです。夢と分かっても幻と分かっても働いてしまうというこの事実こそが「自由意志がない」証拠です。